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東京レイヴンズ 異符録 俺の京子がメインヒロイン!

作者:織部
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万聖節前夜祭 5

『ただ今たいへん混雑しています。のちほどおかけいただくか、このまましばらくお待ちください。ただ今たいへん混雑しています。のちほどおかけいただくか、このまましばらくお待ちください。ただ今――』 
「どこのコールセンターだよ、まったく……」

 陰陽庁に連絡し、賀茂秋芳という身分を明かしたうえで倉橋京子が百鬼夜行に取り込まれていること、夜明けとともに百鬼夜行は消滅するであろう可能性を説明し、なんなら自分で祓魔する。そう告げようとしたのだが、いっこうにつながらない。
 陰陽庁にメッセージを添えた簡易式を直接打とうとも考えたが、それでは間に合わない。
 京子の乗った霊脈は刻一刻と火界咒渦巻く東京都庁へ押し流されているのだ。
 現場に行って直談判する。
 意を決して禹歩による移動をこころみた秋芳だったが、都内を流れる霊脈は倉橋源司の大元帥法によって海嘯や乱気流さながらの様相をていしており、とてもではないがその流れには乗れない。
 公共の移動手段はのきなみストップしており、道路は交通規制によってグリッドロック状態だった。
 男子寮のある渋谷から都庁のある新宿までは徒歩という原始的な交通手段でもじゅうぶん移動可能だが、それでも一時間近くはかかる。秋芳の軽功をもってすれば二〇分で駆け抜けられるだろう。だが今はそれでも遅すぎる。
 なのでもうひとつの原始的な交通手段である呪術をもちいることにした。秋芳は乗矯術を使って夜空を駆け、新宿へといそぐ。もちろん人目につかぬよう禁感功、穏形は怠らない。さらに人造式を介して京子とのやりとりを続け、むこうの状況の把握につとめる。

「おそいっ! はやく来てなんとかして!」
「おちつけ。君の力をもってすれば龍脈の、霊脈の流れを制することができる。たとえ大元帥法であっても抵抗できる」
「もうやってるわよ、それでもすごい速さで流されちゃうの!」
「だいじょうぶだ、かならず間に合う」
 京子を落ち着かせるために絶え間なく話しかける。
「……真言。マントラというのは文字そのもの、発した言葉自体に力が宿ると言われる」
「はぁ!? なんなのよ急に」
「若い人は知らないかもしれないが『孔雀王』や『天空戦記シュラト』という作品があってだな。それで真言を知った小中学生なんかが、よく修学旅行先の寺院でテンション上がって『オン・アビラ・ウンケン・ソワカ~』とか唱えるんだ」
「…………」
「するとそれを聞きつけた坊さんがすっ飛んできて、『そういう言葉をみだりに口にしてはいけない』とか説教するわけだ」
「…………」
「だが『袈裟は、第三生に得道する先蹤あり』という言葉もある――」

 袈裟は、第三生に得道する先蹤あり。その昔ある遊女がたわむれに袈裟を着てふざけたのだが、袈裟に触れた功徳で来々世に悟りをひらくことができたという。正法眼蔵という仏教書に記された説話だ。

「――この袈裟の部分を真言に置き換えてもいい、たとえ意味もわからずにいたずらに唱えても仏の加護は得られる。少なくとも罰があたるようなことはない。もっともこれは素人レベルの話で、俺たちのような呪術師ならばやはり意味を理解して唱えるべきだが」
「……その話と今の状況と、なにか関係あるわけ?」
「いや、特に関係はない」
「もっと急いで! すぐ来て! はやく来て! 一〇分で来てちょうだいっ、急急如律令(オーダー)!」

 眼下の街灯が途絶え、かわりに広大な緑地が広がる。明治神宮に隣接する代々木公園だ。

「ようし、五分でそっちに行ってやる!」

 地に降りるやその場で奇妙なステップを、呪術的な踏み切りをおこなう。帝式の禹歩だ。
 ここまで近づけば都庁までそれこそ一瞬で移動できる。多少の危険をおかしてもショートカットするべく、荒れ狂う霊脈に身を投じた。
 物体を透過し、霊脈に入る瞬間の独特の感触。水よりもっと濃いなにかの中に沈んでいくようなものだが、水なら自分の体に染みこんでくるような感覚はない。
 そのような感覚のあと、すさまじい衝撃が走り身体が流された。
 さながら竜巻に巻き込まれた木の葉か渦潮に翻弄される小船か。霊気の奔流に五体がバラバラになりそうになる。

「阿!」

 気合いを入れ、素早く精神を統一。全身に気を廻らせ、身心を霊的に浄化、呪的干渉の影響を極力排除する。
 密教にある阿字観という瞑想法の一種だ。
 さらに進行方向へむかって垂直気味の姿勢をとると、身体にかかる抵抗がいくぶんやわらぎ楽になった。
 空気抵抗や水圧があるわけでもないし、地上と同じ物理法則が支配しているわけではないが、ようは気の持ちようだ。
 それにより流される速度が少しは低下した。
 はるか前方に真っ赤な炎が煌めいているのが見える。うつし世への出口であり、その先で火界咒が渦巻いているのだ。あそこまで流されてはいけない。寸前で霊脈から離脱し、地上に出なければ。
 速度の落ちた秋芳の真横を毛むくじゃらの大猿が泣き叫びながら流れ過ぎていく。
 大元帥法に捕われて火界咒へと送られる動的霊災だろう。ドップラー効果で叫び声が妙な音に変わる。だが火界咒へと突っ込む前に、その大猿は突如出現した炎の塊に飲み込まれた。

「ケェェェ――――ッ」

 耳をつんざく怪鳥音。炎の塊かと思われたそれは巨大な鶏だった。その身からは火気があふれ、はるか先で燃え盛る火界咒と同質の呪力をまとっていた。

「……たしか鶏は不動明王の神使(しんし)だったな。火界咒によって生じた即席の使役式ってわけか」

 神使とは神仏の御使いや眷属のことだ。毘沙門天が虎やムカデを、弁財天が蛇を神使にしているのはわりかし有名だが、他にも大国主命は鼠、摩利支天は猪、妙見菩薩は亀、金毘羅大権現は蟹などなど……。多種多様な神使が存在する。
 そして不動明王の神使は鶏だ。青森県黒石市の中野神社など、不動明王を主に祀る寺社では鳥居の前に狛犬の代わりに狛鶏が置かれているという場所も多い。

「ケェェェ――――ッ」

 秋芳のことを異物と判断したのか、炎の巨鶏は鶏冠を逆立てて襲いかかってきた。

「タニヤタ・ウダカダイバナ・エンケイエンケイ・ソワカ!」

 龍策印を結印し水天の真言を唱えると、秋芳の周囲に無数の水の槍が出現し、炎鶏を打ち貫いて、消し祓った。

「なんだか『ミクロの決死圏』みたいだな」

 秋芳は古いSF映画の題名を口にした。人間を極小化する技術が開発された世界が舞台の映画で、小さくなった人間が人体に直接入り、体内から治療をするという内容だ。
 その映画の中で血管を移動中の主人公たちが白血球に襲われるシーンを思い出したのだ。
 霊脈はある意味世界の血管といえなくはない。
 もしこの場に笑狸がいたら『アマラ深界のワープゾーンみたい』というゲームっ子じみた感想が聞けただろう。
 秋芳は火界咒に飲み込まれる寸前で地上への帰還をはたした。





 新宿都庁ビルを中心とした一画は真紅に染まっていた。
 火炎と黒煙がごうごうと音を立てて渦を巻き、気流は上昇し熱風が天を衝く。
 もしこれが本物の炎であったなら、生身の人間ならば一〇分と持たないことだろう。熱気で肺を焼かれるか、燃焼による酸欠で窒息するかだ。
 だが今現在都庁を朱に染めているのは現実の炎ではない。火界咒による、呪術によるかりそめの炎だ。
 霊災のみを燃やし熱すよう、多少の加減はできる。
 都庁のツインタワーにはさまれた空間にぽっかりと空いた穴から無数の動的霊災がわいてくる。それを宮地の生みだした浄化の炎が修祓していた。
 あるときは炎の竜、あるときは八つ首の大蛇、あるときは雄々しい獅子、あるときは猛々しい虎、あるときは山のような巨人、あるときは鳳凰、あるときは無数の軍勢――。
 この世の者とは思えない不動明王の眷属たちが現世に顕現し、魑魅魍魎を焼き払うかのようだった。並の陰陽師ならばその炎そのものに畏怖の念を抱いたであろう。
 これこそが一切の魔軍を焼き尽くし、三千世界を焦土と化すという不動明王の火界咒なのだ。ありとあらゆる災厄や煩悩、魑魅魍魎をただ火でもって焼き払う、至純の呪。
 それが火界咒だ。
 そしてさらに――。

「寅の方向に霊災発見。土気の偏向あり」
「木行弾装填、撃てぇーっ!」

 可動護摩壇ヴリティホーマからの砲撃をまともにくらった霊災はラグが生じる間もなく粉々に砕け散って消滅した。

「霊災修祓確認。やったぞ!」
「実弾てやつはこれほどの威力だったんだな……」
「年に一回の演習で動かすのとはくらべものにならないな!」

 穴から落ちてくる大小無数の動的霊災の大半は真下で修法をおこなう宮地の火界咒で焼き祓われるのだが、そこからこぼれ落ちて逃れたものや、他所から侵入してくる霊災を相手に稼動護摩壇が大活躍していた。
 観察者の見鬼能力を上昇させるヴィルーパークシャシステム搭載。隠形を見破り、対象の五気に応じて相剋効果のある五行砲が撃ち込まれる。さらに梵字の刻まれた破魔の弾丸が装填された機銃が弾幕を張り、霊災をよせつけない。
 それでも弾幕をかいくぐり肉薄してくる霊災もまれにいたが――。
 巨人のふるったドラム缶のような棍棒が可動護摩壇を打ちすえ、壇上の炎を震わす。内部にも衝撃が伝わったが、わずかに揺れたのみ。
 インパクトの瞬間、可動護摩壇の装甲に梵字が浮かび上がり、打撃のほとんどを吸収・無効化してしまった。なにからも害されず、どのような難からもまぬがれるという摩利支天をあらわす種字梵字だ。

「さすがヴリティホーマだ、なんともないぜ!」

 決死の覚悟で一矢報いた巨人であったが、至近距離からの機銃掃射で全身を穿たれ、ラグをまき散らしながら消滅した。
 一発で四〇人分の給食費をまかなえる値段のする砲弾を惜しげもなく撃ちまくる車両がある一方、極力発砲せず、竜を模した衝角や巨大な外輪で動的霊災を踏みつぶしてまわる車両も存在した。
 といっても国民の血税を浪費することをためらったわけではない。操縦者の嗜虐趣味のためだった。

「ひゃっはー! 霊災がゴミのようだ」
「逃げるやつは霊災だ、逃げないやつは訓練された霊災だ。相手が霊災なら人間じゃないんだ。やっちまえ!」
「圧倒的じゃないか、おれたち陰陽師は」

 逃げ惑う霊災たちにパラボナアンテナ型の照射機から五芒星をかたどった光が放たれ、その動きを止めた。不動金縛り効果のあるペンタグラムメーサー光線だ。機銃掃射にさらされ、たちまちラグまみれになる。
 この場に姿をあらわした霊災は一体残らず修祓されている。
 五行砲で粉みじんになるもの、機銃により蜂の巣にされるもの、衝角に貫かれるもの、外輪に押し潰されるもの、護摩壇からの火炎放射に焼かれるもの――。
 血肉が飛ぶわけでも臓物がまかれるわけでもない、死骸も残らない。ただラグが生じて次の瞬間消え去るのみ。
 劫火の渦巻く中で掃討戦が繰り広げられる。その様はまるで戦場だった。血の臭いがまったくしない、異様な戦場。
 太平洋戦争末期、土御門夜光は軍部の要請で呪術兵器と呼べる軍用式を何種類か開発したという。オイルと鋼鉄の血肉によって構成され、物理的な攻撃に強い耐性を持ち、口から吐く糸で対象の霊気を奪取する装甲鬼兵『土蜘蛛』などがその代表で、これらは敗戦後GHQの命令でほとんど破棄させられたが、八王子にある陰陽庁管轄の倉庫に研究資料という名目で何体か保管されている。
 いわば呪術によって造られた戦車だが、この可動護摩壇も対霊災用に特化した〝戦車〟と呼ぶべき代物だった。

「ひどいな、こりゃ……」
 目の前の惨劇を見て秋芳は独語した。
 惨劇。そう、惨劇だ。
 霊災の修祓にもかかわらず、ついつい惨劇などと言う言葉が浮かんでしまうのは感傷的すぎるだろうか? だがあまりにも一方的な力による蹂躙、それも生身の人間ではなく機械をとおしておこなわれるそれは残酷のひとことにつきた。
 まして今夜は人造式を通して京子の率いるやけに人間的な霊災に接している。
 彼らに対して同情の念を抱き、助けたいという思いすら湧いた。
 もともと修祓というのは均衡をくずして瘴気となった霊気を本来の姿に戻す儀式であり、迅速かつ効果的だからと、このようなやり方はいかがなものか。
 そもそも技も術も魂も宿らない鉄の塊での修祓など邪道――。実際は操縦するのに技術が必要だし、生身の人間が込めた呪力で動いているので魂が宿っていると言えなくはないのだが、思わずそのような考えが秋芳の頭に浮かんだ。

「……現場の連中にわけを話して通してもらおうと思っていたが、そういう雰囲気じゃないな。こりゃあ下手に姿を見せたら霊災とまちがえられて即座に攻撃されかねないぞ。しょうがない、宮地室長に直接かけあうか……」

 しかし修法儀式に没頭している呪術師に声がとどくだろうか? 儀式中の呪術師というのはそれに没頭して外界とまったくコンタクトとれない状態になっていることが多い。
 最悪力づくで火界咒を阻止することになるかもしれない。
 穏形を駆使して都庁内に潜入した。

 都民広場という名前がついた半円形階段状のスペースを通って第一本庁舎のホールにたどり着く。
 都庁の中は外とはうって変わって静然としていた。
 行き先は三十三階。ニュースによればツインタワーにはさまれた場所で宮地室長が火界咒をおこなっているはずだ。
 階上へ行くエレベーターを探そうと一歩踏み出したとたん、呪的トラップが発動。ホール内を呪力がつつみ、秋芳の身を覆い隠した。暗灰色の濃霧が立ち込めたかのように視界が悪くなる。
 遁甲術の八門法陣。
 儀式にかかりきりになる術者の身を護るための結界だろう。秋芳は即座に術式を視た。表で猛威をふるう火界咒と同じ霊気を帯びていた。つまり宮地の術によるものだ。

「……かなり即席で用意したみたいだな、これなら力業でも突破できる。……宮地室長。あんがい火炎系統
以外の術は苦手だったりしてな」
『秋芳君っ、もう五分どころか一〇分は経ったわよ! 目の前にすっごい大きな火が燃えてるの、はやくどうにかして!』
「今、一階だ。すぐに上がる」
『はやくはやく、はやくして! 来るっ来るっ、もう来ちゃうっ』

 かなり切羽詰まった声色だ。

「……今の科白、なんかエロいな」
『こんな時にふざけてると、あとでぶっとばすわよッ!!』
「京子、いざとなったらありったけの水行術をぶつけるんだ。如来眼の、自分の力を信じろ。霊脈は大地の力、地球そのものの力を借りることができる。当代最高と最強の陰陽師が相手でもおくれはとらない」
『んもう、他人事だからって気軽に言ってくれるわね~』
「どんな難局にあっても悲観しない。いつだったかそう決めただろ」

 以前、たがいの家に家訓はあるのかという話をしたことがあった。賀茂にも倉橋にも特に決まった戒めや教えもなかったので、二人はたがいの家の新家訓をたわむれにいくつか作ってみたのだ。
 お年寄りには優しくする。自分より弱い者をいじめない。出されたご飯は残さず食べる――。といったあたりさわりのないものから、礼を欠く者に礼はいらない。恩は二倍にして返せ、怨みは一〇倍にして返せ。人を褒めるときは大きな声で、悪口を言うときにはもっと大きな声で。初対面の人を呼び捨てにするやつは動物の仲間だから返事をする必要はない。反撃という語句はあっても逃走という語句はない――。
 などという少々攻撃的で意地の悪いものなど考案したものだ。
 それら新家訓の一つに、どんな難局にあっても悲観しない。というのがあった。

「京子、君は絶対に傷つかない。だいじょうぶだ」
『せめて〝君は絶対に俺が守る〟くらいのこと言って、次の瞬間に駆けつけて欲しいものね』
「守られるだけのお姫様がお望みかい?」
『まさか、あたしはそんな前時代的な女子じゃないわ。むしろあたしがみんなを守る!』
「その意気だ」
『あたしがみんなを守るから、あたしくらい秋芳君が守ってよ』
「とうぜんだ、君が死ぬときは俺が死ぬ時だからな」

 禁陣則不能迷、疾く! 陣を禁ずればすなわち迷うことあたわず。秋芳は八門法陣を強引に禁じて突破した。

「今から合流するまでのあいだ、一分経過するたびに君のお願いを一つ聞く」
『え! ほんとう!?』
「ほんとうだ。だからもう少し持ってろ」
『そういうことならあと一時間は粘ってやるわ。まず秋芳君が知っていて、あたしがまだ知らない呪術を全部教えてちょうだい、出し惜しみはなしよ。あとサラド・ニソワーズが食べたい。それと今度遊園地に連れてって。それに高くなくてもいいからアクセサリーとか買ってくれたらうれしいな』
「おいおい、まだ一分も経ってないだろ」
 
 あらためて一歩を踏み出した秋芳だったが、危険な気配を察して大きく飛びのいた。
 秋芳がいた場所に紅蓮の火柱があがり、床のタイルを弾き飛ばし、天井を焼き焦がす。巻きおこった熱風が肌を突き刺す。火界咒による遠隔攻撃だ。
 熱を察知してアラームが鳴ると同時にスプリンクラーが作動し、散水――。
 はしなかった。ノズルから放たれたのは水ではなく火炎、炎の飛沫があちらこちらで撒かれ、フロアー内を紅く染めあげる。

「なんじゃあこりゃあ!? ――オン・ヒラヒラ・ケン・ヒラケンノウ・ソワカ!」

 即座に印を結び火難除けの神である秋葉権現の真言を唱えて耐火につとめる。

「結界を力づくで破壊したことで新たな防御措置が作動したのか……」
『ちょっと秋芳君だいじょうぶ?』
「無問題」

 秋芳は一瞬にして火炎地獄の様相となったフロアーを駆け抜けて、エレベーターを目指して駆けた。





「さぁ、そうと決まればがんばらないとね」

 京子は決意を込めて操舵輪をにぎりしめ、前方に広がる霊穴を見すえる。赤々とした炎が燃えているのがわかった。
 穴の先はうつし世。出てすぐのところで火界咒が展開されているのだ。
 面舵いっぱい。船首が右をむき、霊脈の激流に逆らう。
 船。そう、船だ。京子は船を操縦していた。
 霊脈の中、いったいどこからこのような船を見つけたかというと、京子自身の意識からにほかならない。
 霊脈に流され、翻弄された京子は大海で溺れかけたかのような錯覚をおぼえた。
 この流れから逃れるにはどうしたら良いか? とっさに浮かんだのは船であった。流れに逆らい波濤にあらがう船をイメージし、霊力をふりしぼったところ、ほとばしる霊力が船の形をとったのだ。
 この世ならざる陰態じみた場所ならではの摩訶不思議か、京子の如来眼のなせる業か、とにかく裸一貫で流されるよりかは船の上のほうが心強い。
 京子が率いていた動的霊災たちも必死になって船にしがみつき、乗船した。百体を超えていた彼らも大半は流され、半数以下となっていた。
 そのうちの一体、夜の十二時以降に食事をさせたり、水をかけてはいけないような外見の生物が京子になにかをさし出した。
 ゼリービーンズのようだ。

「あら、くれるの?」
「もきゅー」

 船を出して乗せてくれたお礼のつもりだろうか。いたずらをされないかわりにさしだされた戦利品を、お菓子をくれるそうだ。

「ふふ、ありがとう」

 口にふくむと焦げたアスファルトのような風味が口内に満ちた。

「…………」

 眉間にしわをよせ、顔を歪ませる。
 肩に止まったカラスがなんの反応もしめさないのは秋芳本体のほうに意識を集中すべく自動操縦に切り替わっているからで、もし今の京子の表情を見たら、『君はしかめっ面もかわいいな。施夷光のようだ』などと軽口を叩いていただろう。施夷光というのは別名を西施という中国四大美人の一人で、彼女には胸が痛む持病があり、よく眉間にしわをよせて苦しんでいたそうだが、そのような姿すら艶めかしく美しいと評判だったそうだ。
 倉橋京子は一度口にふくんで咀嚼した物を吐き出すような不調法者ではない。なんとか飲み込んだ。
すると別の霊災たちもわらわらと集まり、それぞれが手にしたゼリービーンズをさし出す。自分たちも感謝の念を伝えようというのだ。

「……ねぇ、あんたたちのそれ。なんのお菓子よ?」

 ブードゥー教の秘術で動いてそうな人形が紅白縦縞のパッケージをかかげる。とても有名な魔法使いの物語に出てくる、百種類の味が楽しめるお菓子であった。

「みんなの気持ちだけありがたく受け取っておくわ。――全員配置につきなさいっ、揺れるわよ!」





 炎渦巻く広大なフロアーを一気に駆け抜けて、エレベーターホールへとたどり着く。

「エレベーターに乗ってる時に今みたく火炎を喰らったらえらいことになるが、階段で三十三階まで上がるのもなぁ」

 ふところに手を忍ばせ一枚の札をなでる。札には火迺要慎(ひのようじん)の文字が書かれていた。火伏せ・防火にきわめて高い霊験のある愛宕神社の火伏札だ。一般に売られている乙種護符ではない。正真正銘本物の呪力が宿った呪具、甲種護符だ。宮地が火界咒をおこなっていると聞いて、万が一にそなえて身につけてきたのだ。
 札に込められた力を解き放てばどんな炎からも数分間は守られるはずだ。インフォメーションによると一階から四十五階にある展望室まで直通ならば五十五秒でつくという。三十三階までならもっと早い。
 だが火災報知機が作動した影響か、どのエレベーターも停止していた。
 すると一台のエレベーターが地下から上がって来るのを表示ランプが示した。いそいでボタンを押すと、ちょうど扉が開き中からふんぞり返った老人があらわれた。左右に部下らしき黒服の男を従え、制服姿の警備員の姿も見えた。

「どこのどいつだ、こんなところでエレベーターを止めるようなやつは」

 老人は居丈高な口調で忌々しげにうなった。
 扉の前にいる秋芳を見て警備員が舌打ちしてにらみつける。

「なんだね君は、これは要人専用のVIPエレベーターだよ。政治家様や議員先生とか、そういう偉い方たちだけが利用できるんだ。こちらにおわす方は天下の東京都知事、猪鹿蝶太郎様であらせられるぞ、頭が高い。ひかえおろう!」
 この尊大な老人は外国人とカラスと漫画が大嫌いなことで有名な東京都知事だった。
 なんでも国民に対して不透明な霊災修祓の現場がどうなっているのかを知るために、決死の覚悟で視察に来たというのだという。おおやけの地図には明記されていない地下駐車場にある職員用の通路から都庁ビルに入ったそうだ。
 次の都知事選挙でも再選を果たすべく、存在感を誇示するための安っぽいパフォーマンスであろう。
 今この建物内には呪的トラップが数多くしかけられています。危険ですので引き返してください。親切心からそんなことを言おうとした秋芳を先制して蝶太郎はこう言い放った。

「身分をわきまえろ。これは君みたいな青二才が利用していいエレベーターじゃない。どうしても乗りたければ私くらいの身分になってからにするのだな。もっとも何十年かかるかわからんが」

 おごり高ぶって人を見下すことで有名な都知事で、問題発言の多い人だ。過去にも『漫画の好きな人は人生行き止まり』や『漫画はアホにでも読めるから規制してあたりまえ。悪い漫画を撲滅すれば良い漫画が残る』などの発言をして批判されたことがある。
 冗談ではない。下世話で猥雑、不道徳。そういったエログロナンセンスの部分もふくめて、日本のコミック業界を支える力になっているのだ。
 お上から『清く正しい漫画だけを描きなさい』などと言われたら、業界全体が萎縮してしまうことだろう。
 この老いた都知事はすべての漫画家。いや、創作を愛する者全員にとって共通の敵と呼べる。
 それにしても今の言葉は国民の税金によって養われている者の科白ではない。秋芳の瞋恚に火をつけるにはじゅうぶんな暴言であった。

「俺は東京都民で納税者だ、つまりあんたのご主人様だぞ。そんなこともわからんのか、この無礼者!
 税金で養ってもらっているくせになに様のつもりだ、使用人は使用人らしく階段を使って上がり下りしてろ!」

 秋芳の怒号は不可視の鞭と化して、権力を笠に着た狗どもを打ちすえた。

「き、きさま、無位無官の民間人のぶんざいで猪鹿閣下になんという口を!」

 暴力団員か政治家の番犬以外の職にはつけそうにない黒服の一人が秋芳のえりをつかもうと手をのばす。だが逆に手首をつかまれ、次の瞬間宙を舞うことになった。顔面から地面に落ち、鼻っ柱と前歯をへし折られ、血の跡を残して悶絶する。これは小手投げ。あるいは小手返しと呼ばれる投げ技だ。

「このやろう!」

 残った黒服が拳を振るうが、腕をそえるようにして軽く受け流された。一瞬交差状態になった腕と腕。黒服が反応するよりも早く秋芳の肘が跳ねあがり、あごを打ち上げると、黒服は口から血泡を吹き出し、白目をむいて卒倒した。骨法の掌握と呼ばれる技法に近い技だった。

「ひぃぃ……」

 残った都知事と警備員が青ざめ、あとずさる。

「さっさと引き返せ。ただし階段を使ってな」
「は、はいっ、ただちに帰りますとも」

 暴力、財力、権力……。この三つの中でどれが一番強いかをあえて選ぶとするなら、やはり暴力だろう。どんな金持ちも権力者も殴れば死ぬからだ。だから純粋な暴力がもっとも強い。札束や葵の御紋などでは格闘家の拳脚は防げない。ゆえに権力者は純然たる暴力をもっとも恐れる。都知事と警備員はすごすごと退散した。

「まったく、いらん時を使わせやがって……」

 エレベーターに乗り込み、三十三階を目指す。

『ダイヤモンドは結婚指輪にとっておくとして、なにがいいかしら……』
「宝石をおねだりするつもりか? ……まぁ、いいか。お守りがわりに一つプレゼントしよう」
『やったぁ☆』
「縁起をかついで誕生石がいいかな」
『あたしの誕生日は八月一六日よ』
「ならペリドットだな」

 ペリドット。オリーブのような明るい緑色をした宝石で、生命力や希望、発展などを象徴する。パワーストーンとしては闇を消し去り、邪悪なものを追い払う退魔の力と精神を安定させる効能があるとされる。
 古代ローマ人はその石が夜になっても輝きが遜色しないことからイブニングエメラルドと呼んでいた。また中世のヨーロッパでは教会の装飾などによくもちいられた。

「カットされた宝石というのは神秘形である三角形のあつまりだ、だからそれだけで魔力があると西洋では考えられている」

 三角というのは創造の基本、出発点とされ、あらゆる物事の誕生という意味合いから新しい展開や開運、発展などのパワーを持つといわれる。
 いくつもの小さな面が幾何学的に組み合わされるようカッティングされた宝石は護符そのものだ。

『そう言われると、宝石って五芒星や六芒星がぎっしりつまってるように見えるわね』

 そんなやりとりをしているうちに三十三階に到達した。表へ出たとたん、熱と光と火焔が豪雨のようにふりそそぎ、着ている服から焦げるような臭いが立ち込める。
 身体が焼ける。秋芳は即座に火伏札の力を開放し、炎熱を防いだ。
 劫火が吹き荒れ、爆風が渦巻く中、不動明王の姿がそこにあった。
 不動明王。あるいは不動威怒明王、不動使者や無動尊とも。
 降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王ら五大明王の筆頭であり、大日如来が人々の悪心を調伏するため憤怒の姿で顕現したと姿だという。迦樓羅炎(かるらえん)と呼ばれる火焔の光背を背負っているが、これは不動明王が火焔の中に身を置いて自らを火焔そのものにすることにより、あらゆる煩悩を焼き尽くすということをしめしている。
 右手に智剣、左手に羂索(けんさく)を持っており、右手の剣で貪・瞋・癡ら三毒の悪障を断ち、左手の索であらゆる衆生を引きよせて正道に導くという。
 そのような凄まじきものがいた――。ように見えた。
 そこにいたのは尊格ではなく一人の人間。袈裟を着た法衣姿の中年男が一心不乱に火界咒を唱えている。宮地磐夫だ。
 宮地の身体から立ち昇る怒涛のごとき霊気が、不動明王の姿を観せたのだ。
 秋芳は声をかけることも忘れ、思わずその姿に見入ってしまった。
 その時、頭上に空いた霊脈に通じる穴から一体の動的霊災がこぼれ落ちる。白い剛毛におおわれた双頭の巨人だ。かなり強力な個体なのであろう、宮地の火界咒に焼かれて全身にラグをはしらせているが、まだ強い気をはなっていた。巨人は二つの口から憤怒の雄叫びをあげ、巨大な拳を宮地目がけて振り降ろした。
 叩き潰される。秋芳の危惧はしかし杞憂に終わった。宮地はその身を炎と化して攻撃を無効化し、そのまま黄金色の爆炎となり巨人を蒸発させた。
 火炎同化。このようなことができる呪術師がこの世に何人いるだろう、宮地が不動明王の申し子と呼ばれるのはたんに火炎術に秀でているからではない。彼は不動明王さながらに己を炎と化すことができるからなのだ。
 これはもはや人の身で成せる業ではない……。
 宮地の力の一端を垣間見た秋芳は猛火の中にいるにもかかわらず、全身に寒気が走り、冷や汗が浮かぶのを感じた。このような脅威を感じたのは久しぶりだ。
 修行時代。夜の鞍馬山で魔王尊に出くわした時や、牛頭天王とうっかり遭遇した時以来かもしれない。
 だが感じたのはあくまでも脅威であって恐怖ではない。秋芳は恐れることなく猛火の轟音に負けじと声を張り上げた。

「俺は陰陽塾塾生の賀茂秋芳だっ、百鬼夜行に倉橋長官のご息女が取り込まれている。このままでは火界咒に巻き込まれてしまうから、ただちに修法を止めてくれ。穴からあふれる霊災は俺が封印する」
「――ノウマク・サラバ・タタギャテイビャク・サラバ・ボッケイビャク・サラバタタラタ・センダ・マカロシャダ・ケン・ギャキギャキ・サラバ・ビギナン・ウンタラタ・カンマン――」

 声は宮地の耳にはとどかなかった。聞こえてはいるはずだが、一意専心に火界咒を唱える宮地に外界からの声はとどかない。霊穴が閉じるまで、とりこんだ霊災をすべて吐き出して倉橋源司が大元帥法を終わらすまでは死ぬまで、いや、死んでも火界咒を唱え続ける。それほどの気迫が伝わってくる。
 炎の大海から虎や獅子や鶏の姿を象った式神たちがあらわれ、秋芳に牙をむける。この場に侵入した異物は一切合切排除しようというのだ。

「タニヤタ・ウダカダイバナ・エンケイエンケイ・ソワカ!」

 火伏札だけでは守りきれない。秋芳は水天法を駆使して群がる火炎式を打ち払おうとしたが、それも容易ではなかった。先ほど霊脈の中で遭遇した炎鶏よりもはるかに強い。
 瑞々しい呪力が水の壁になり槍になり、火界咒に抵抗するのだが、熱気はいよいよ耐えがたいものになり、焦げる寸前の服から白い湯気が立つ。
 宮地と秋芳。彼我の霊力自体は大差ない。むしろ秋芳のほうが高いくらいなのだが、宮地の霊力はひとたび火炎の姿になるや凄まじい威力と精度を発揮するのだ。
 彼は炎に愛されていた。

(これが現実の火なら木行か金行の術で酸素をなくすなり、二酸化炭素を充満させて消火できるんだが、呪術の火じゃなぁ……)

 風は木気か金気のいずれかに属する。それゆえ大気を変容させる術はたいてい木行か金行の術をもちいる。
 霊穴から慣れ親しんだ霊気が近づいて来るのを感じた。京子だ。
 もうすぐ近くにまで来ている。火界咒に焼かれぬよう、渾身の力で呪術を行使しようとしている気配が人造式を通してわかった。
 先ほど述べたように、如来眼に目覚めた京子は高い霊力を持っている。十二神将相手でも立ち向かえると秋芳は本気で思っていた。だがいざ宮地の力を目の前にした今、秋芳はその考えを改めざるをえなかった。
 京子を危険な目にさらすわけにはいかない。
 なんとしても火界咒を止めなければ。

(公務執行妨害になっちまうがしかたない、ちょっと横槍を入れさせてもらうぜ、宮地さん。どうせ今晩だけで家宅侵入罪だの器物破損罪だの騒乱罪だのやらかしたんだ。毒を喰らわば皿までだ)

 精神を統一し、おのれがあつかえる最大レベルの水行術を発動させる。
 水剋火。宮地の呪力がどれだけ強くても五行相剋の理を完全に無視することはできない。やはり火には水だ。

「玉帝有勅、豪雨海嘯神勅、形状雲霧、上列九星、此水不是非凡水、北方黒帝黒竜王水、急急如律令!」

 陰陽道について書かれた金烏玉兎集の中に中国の盤古神話や仏教の教義をもとに宇宙開闢の巨人神である盤牛王(盤古)から十干・十二支といった暦の構成要素が展開していくという創世神話が書かれている。この中に五行を司る神として五竜帝王という存在が書かれている。盤牛王は五人の妻にそれぞれ青帝青竜王、赤帝赤竜王、白帝白竜王、黒帝黒竜王、黄帝黄竜王を生ませ、その五竜帝王の各々が十干・十二支といった王子をもうけたと物語っている。
 秋芳はその中でも水行を司る黒帝黒竜王の力を顕現させた。





 火界咒につつまれ炎上する都庁ビルの足元で霊災狩りをしていた陰陽師たちは自分たちの上方に突如として出現した巨大な霊気の塊を察知し、狩りの手を休めて上空を見上げた。

「おい、あれを見ろ……」

 そのような言葉が異口同音に広がる。真っ赤な炎の中で黒々と光り輝く長大な生物の姿を確認した。

「ありゃあ、なんだ!?」
「りゅ、竜だ!」
「そうだ、竜だ!」
「あれは倶利伽羅竜王じゃないか? さすが宮地室長だ。倶利伽羅竜王まで顕現させるだなんて!」

 倶利伽羅竜王とは不動明王が右手に持つ智剣にからまる炎が神格化した姿であり、不動明王の化身のひとつともされた。
 彼らは秋芳の召喚した黒帝黒竜王の姿を倶利伽羅竜王だと錯覚したのだ。
だが、あの竜。それにしても水気が強いんじゃないか?
 だれかがそんな疑問を口にしようとした瞬間、漆黒の竜は巨躯をくねらせ、空中に大海を生じさせた。
 急速に気化した水が水蒸気爆発を引き起こす。都庁のツインタワーは消し飛んだ。地上に炎と瓦礫が雨あられと降りそそぐ。
 下界にいた人間たちはヴリティホーマに搭乗していればこそ無事ですんだ。さらにいかなる余波か、周囲数百メートルにも火や水の砲弾が飛び散り、高層ビル群の中央部をぶち抜き、ガラスとコンクリートが飛散する崩壊の嵐が吹き荒れる。
 陰陽庁の迅速な避難勧告と霊災慣れした都民のフットワークがなければ、多くの人命が失われる大惨事となっていただろう。
 この大規模な破壊をもって、のちに万魔の大祓えと称される今宵の狂乱劇は幕を閉じた。朝日が昇り、陽光に照らされたすべての霊災が自然に消え去る――。





 うつし世とかくり世。二つの世界の狭間を流れる霊脈の一つを秋芳と京子が手をとり合ってゆるゆると流れていた。京子が乗っていた船もなければ、ついさっきまで周りでひしめいていた動的霊災たちはもういない。日の出とともにかき消えてしまったからだ。秋芳の予想はあたっていた。
 大元帥法も終了したらしく、霊脈は正常な流れにもどっている。さらに霊災も存在しないからか、清冽な気が満ちていた。
 当初のような闇一色でもなければ、火界咒の影響を受けていた時のような真紅にも染まっていない。ときおり幾筋もの白い光が逆方向に流れていき、それとすれ違う時にどこかの光景を垣間見ることがあった。
 桜の花が満開の寺院であったり、ヒマワリが咲き誇る野原であったり、紅葉がちらつく山深い沢であったり、雪がしんしんと降る街中であったり、雨に濡れた雑踏であったりと、時期も場所もさまざまだった。
 土地に刻まれた記憶か、人々の想いか、そのようなものが流れている。
 ここはそのような場所だった。

「ずいぶんと深くまで飛ばされたなぁ、ここはもう禹歩で潜れるような領域じゃないぞ」

 各地を巡った百鬼夜行は異界とうつし世の移動をくり返すたびに内部に霊的エネルギーをため込んでいた。その状態で陰陽師たちから霊的な攻撃をなんども受け、さらに大元帥法による影響と朝と夜が混じり合う非常に不安定なところに火界咒と黒帝黒竜王の衝突によって生じた甚大なエネルギーもくわわり、秋芳と京子は霊脈のかなり深部まで飛ばされた。いや、あの場から脱出するため、意図的に深くまで潜ったといえる。
 仮に大元帥法が生きていたとしても、その力に捕われないくらい深い深い場所に。

「……あたしたち、なんであんなにはしゃいじゃってたのかしら」

 昨夜のことをふりかえる、いささかやりすぎた。

「酔っていたんだろうな、ハロウィンの空気。いや、霊気に」
「楽しかったわ、あの子たち。急に消えちゃったけどどこに行ったのかしら?」

 京子もまた今夜の、いや昨夜の動的霊災たちに感情移入しているようだ。彼女が都庁でおこなわれた可動護摩壇による強引な修祓を目にすることがなくて良かった。秋芳は心底そう思った。感受性豊かで自己犠牲をともなう優しさの持ち主である京子が、ハロウィン酔いの状態であの光景を見たら、どうなっていたか?
 霊災たちを助けようと、陰陽師の一団に立ち向かっていたかもしれない。

(だがそれも、おもしろそうだな)

 まだまだハロウィンっ気が抜けていないのか、京子と二人して暴れ回る様を想像して愉快な気分になった。

「あいつらは帰った。いや、還ったんだろう。もとの場所というかもとの状態に、ハロウィンという特別な夜が終わることで霊気のバランスが持ち直して瘴気じゃなくなったのさ」
「来年もまた来るのかしら?」
「おそらくな。その時はきちんと祭ってやろう」

 昨夜のような狂乱にならぬよう、人と人ならざる存在の間に軋轢が生じないよう、儀式が必要だ。
また光の筋が走った。神輿をかついだ若い衆、どこかの祭りの様子だ。

「これ、おもしろいわね。頭に映像が直接流れてくるみたい」
「おもしろいけど、ここにあんまり長居すると浦島太郎になりかねない。早く地上にもどろう」

 異界とうつし世では時間の流れが異なる場合が多々ある。こちらでの数時間がむこうでは数十年。なんてこともありうるのだ。

「そっか。おじいちゃんになった夏目君なんて見たくないし、そうしましょう」
 京子が念じるとたゆたっていたような動きから一変、二人は一方方向にむかってぐんぐんと進みだした。
 この場での主導権は霊脈の操作に長けた京子にあった。もし京子がいなければ秋芳は永遠に霊脈をさまようか、どこか別の時代の別の場所。あるいはまったくの異世界に飛ばされてしまったかもしれない。
 その時、ひときわ大きな光の筋が流れ、二人の脳裏に別々の光景を見せた。




 
 幼い女の子が始めておとずれた親戚の家。大きな屋敷の大きな庭で思うぞんぶん遊びまくった。
 そして気がついた時にリボンをなくしていた。
 ただのリボンではない。祖母からもらった大切な、お気に入りのリボンだ。
 泣きべそをかきながら必死になってリボンを探す少女。

(あ、あれ。あたしだ――)

 京子は何年も前の記憶を映像として視た。
 リボンはどこにあるのか、探し回るうちに迷子になった。さきほどまで我が物顔で駆けまわっていた庭は、またたく間に見知らぬ異境と化す。
 背の高い庭木が地面に影を落とし、少女の、倉橋京子の心にまで影を作る。
(あの時は心細かったわ……)

 茂みの奥で泣きじゃくっていた時、一人の少年が声をかえてきた。
 元気溌溂とした、いかにも腕白そうな少年が。

(え? あれ、夏目君――?)

 京子の記憶にある少年の姿と、たった今流れてくる映像に映る少年の姿はまったく異なるものだった。
(あの子は、だれ?)

 あの時は、たしか……。より深く深く記憶を探る。
 より深く、深く、深く、思い出す――。
 
 土御門の家に自分と同い年の少年がいる。そのことは親から聞かされて事前に知ってはいた。しかしその子に会いたいなどとは特には思わなかった。
 土御門家はもはや過去の存在。ぼつらくした日陰者。親類たちがそのような陰口を叩きつつも、本当は自分たちが格下だということを意識していた。幼いながらも利発で勘の鋭い京子にはそのことがよくわかった。それゆえ京子も土御門という家に不穏な感情を抱くようになっていた。倉橋家にとって目の上のこぶ、いまいましい親戚、いやな家だという印象を。
 そのような家の子がいたら、倉橋家のおひいさまとしてちやほやされる自分も格下にされてしまう。特別な存在ではなくなる。そのような気がしてならない。だから表むきは強がりつつも内心ではおだやかでいられなかった。
 だからその日、始めて連れて行かれた土御門の古い屋敷で、その子が風邪をひいて臥せっていると聞かされた時はむしろ安堵した。
 緊張の糸がゆるみ、もはや怖いものなしと意気揚々と庭に出て屋敷内の大きな庭をたった一人でぞんぶんに堪能した。鯉の泳ぐ池はドラゴンの棲む湖、松の木は魔女がいる塔、自分はそんな国のお姫様なのだ。
 子どもならではの空想遊び。そして気がついた時には髪に結わいたリボンをなくしていた。
 どこを探しても見つからず、泣きじゃくる京子の前に突然あらわれた自分と同い年くらいの少年。
 泣いてるの?
 京子の姿を見ておどろいたようにたずねたその声には素朴な優しさがあふれ、重く沈んでいた京子の心をふんわりと持ち上げてしまった。
 涙をはらい、泣いてなんかいないと怒ったように返事をする京子に少年はびっくりしてでも、と言いよどんだが、京子は泣いてなんかいないとかたくなに主張する。その剣幕に少年は口を閉ざし、ほうけたように立ちつくす、
 その様子を見て京子は完全に立ち直った。そして今こそ倉橋京子は土御門なんかに負けないぞ。とこ の子にしっかりとわからせようとした。

「あなた、ここの子ね?」
「え? ちがうよ?」
「うそ。土御門でしょ」
「ああ、うん。まあね。でも……」

 なにか言いかける少年を制して京子は自分がなに者かを知らしめ、なにを望んでいるかを声高に主張した。あたしは倉橋、あたしはあなたの親戚、あたしはここにお呼ばれされて来た、つまりあたしは大事なお客様、その大事なお客様がこの庭でリボンを落としてしまった。大事なお客様に対してこの家の子であるあなたはどうしてくれるの?

「……おまえ、そんなにかわいいのに、中身は男みたいだな」

 ハッとした、不意打ちだった、無防備だった。『かわいい』まわりから飽きるほど言われてきたなんの変哲もないその言葉が、そのたったひと言が京子の胸を怒りと恥ずかしさで満たした。
 心中の混乱を必死に制し、動揺を隠す。

「それで、どうしてくれるのよっ」
「いいよ。じゃあ一緒にさがそう」
「え? ほんとに?」
「うん、ほんと」
「ほんとのほんとにさがしてくれるの?」
「ほんとのほんとのほんとだよ」

 お日様に照らされたひまわりのような笑顔で少年は肯定した。最初に『泣いてるの?』とたずねた時と同じ、朴訥な優しさを浮かべて。
 それから少女と少年はともにリボンをさがした。なくしたリボンをさがす間、少年は京子に色々と話しかけ、京子はそれに答えた。最初はつっけんどんだった京子だが、そのうち緊張もほぐれ、うちとけてきて、笑い声をあげるようになった。
 ふと、土御門の子は風邪で臥せっていたのではと疑問がわいたが、目の前の元気な少年を見ていると、そんなことはどうでもよくなった。
 京子はあくまでお姫様として振る舞い、少年はそれにいやな顔をせずつき合ってくれた。ときには京子のツンと澄ました態度をからかいもしたが、不思議なことにそれに対して腹が立つようなことはなかった。それどころか、わざと怒ったふりをするのが楽しかった。

「ほんとに男みたいだな」
「まぁ、なんて失礼な。ふけい罪で百叩きよ!」
「ほら、そこの石、あぶないよ」
「わかってるわ、あの石はこわい狐の化けたせっしょう石なの」

 ごっこ遊びの続き。ふたりでするごっこ遊びはとても楽しかった。どんどん少年に惹きつけられ、時間がまたたく間にすぎていった。
 日が落ちて庭が夕日に染まるころまで探しまわったが、結局リボンは見つからなかった。
どうしてくれるのかとつめよる京子に、少年はこまりつつも、ちゃんと探しておくと約束した。

「ほんとに? ほんとに探しておいてくれる?」
「うん、がんばってみる」
「わかったわ、だったらゆるしてあげる。でも――」

 少年に近寄り上目づかいで人差し指を立てて念を押す。

「いい? 忘れないでよ? 約束なんだからね?」
「うん、うん!」

 精一杯真剣な顔をして何度もうなづく少年を見ていると、京子は胸がいっぱいになった。次に会ったら、少年からリボンを受け取ったら、その場で髪を結いで見せてあげよう。もっともっとかわいいところを、いっぱいいっぱい見せてあげる。そうして『男みたい』だなんて、もう、絶対に言わせないんだから――。
 京子はそう心に誓って、少年とわかれた。わかれたあとで少年の名前を聞いていなかったことに気づく。
 帰ったらお祖母様に聞いてみなくちゃ。
 そして、あとになって祖母から聞いた名前を京子は大切に胸に刻んだ。それからずっと忘れることなく。
 それから何年もあとに会った時に、すぐ彼だとわかった。ひと目見た瞬間に鼓動が激しくなり、気の高ぶりを抑えることができなかった。
 端麗な容姿、艶やかで女性のような黒髪、気高く峻厳な霊気――。
 それが土御門夏目。

(うそ、ちがう……? あの時、土御門家で会った男の子は――)

 朴訥で優しそうな顔立ちに明るい茶髪、柔らかい陽光をはなつ太陽のような男の子。
 京子の知る夏目とはまるで印象が異なる。ではあの男の子はだれなのだろう? 土御門家に縁のある子であるのは確かだが……。

(春虎?)

 土御門春虎。京子と同じく陰陽塾に通う彼もまた土御門につらなる家に生まれた者だ。
 たった今脳裏を走った映像に出てきた、あらためて掘り起こした記憶にある少年の姿は、春虎に近かった。春虎を幼くしたら、あのような容姿の男の子になるのでは――。

(……ううん、そんなこと、もういい。もうどうでもいい)

 あれはたしかに初恋だった。
 あの男の子に恋をした。
 あの男の子が好きだった。
 だがそれはもう過去のこと。たった今、好きな人は一人しかいない。
 そして未来永劫、その人のことを好きでいる。
 京子は思い出にひたるのをやめ、霊脈の操作に専念した。まっすぐに前を見すえ、つないだ手をにぎりしめる。絶対に離さないように。どんなことがあっても絶対に離さないように、この人のそばにいるように――。

 リノリウムの床にクレゾールの臭い、青白い蛍光灯が照らすうす暗い部屋。
 棚には大きめのビーカーが陳列され、中身はというと頭が二つある胎児の死体や頭蓋骨が変形した人の頭部、スイカよりも大きな脳髄、蠢動する臓器のようなもの……。そのような物であふれている。

(……まるで実験奇形学の研究室だな)

 実験奇形学とは、自然発生する率の極めて少ない奇形症例を実験動物に人為的に発現させてその病態を調べるというものだ。
 気の弱い者が見たら卒倒してしまいそうな数々に囲まれた中で、白衣を着た初老の男に中年男がなにかを必死にうったえていた。

「――人工的――最高――受精――煉丹――複製――」

 内容はよく聞き取れない。だがなんとなく不吉な、ひどく冒涜的なことを言っているような気がする。
 理知的だが酷薄そうな顔に浮かんだ冷笑、薄いレンズの銀縁眼鏡。まるで昔の特撮番組に出てくるマッドサイエンティストみたいだな。秋芳は白衣の男にそんな感想をいだいた。
そして中年男のほうは小役人じみた卑屈さと、破落戸めいた粗野な感じが表情から滲み出ている。
 知っている。
 秋芳はこの男を知っていた。父だ。十年ほど前に他界した父親、連広只(むらじひろただ)だ。
 秋芳の知っている父の姿より若干若いが、まちがえようがない。たしかにこの男は自分の父親だった。

「――お貸しくだされば――賀茂と韓国連(からくにのむらじ)の秘術で――」

 なにを言っているのか、ところどころしか聞き取れない。まるで夢を観ていると実感しているのに、夢の内容を変えられない時のようなもどかしさをおぼえる。
 白衣の男がなにかを言って席を立ち、部屋の奥へと進む。広只がその後に続く。
 別室はずいぶんと奥行きのある部屋だった。機械の生み出す振動音にまじって気泡のはじけるような水音や、動物の鳴き声のような、人のすすり泣く声のような、不気味な物音がひびく。だが暗いため全容は見えない。

「雰囲気を出すためさ」

 白衣の男が笑いながら広只に言ったような気がした。
 長細い水槽の前で足を止める。ずいぶんと大きな水槽だ。
 操作盤をいじると水槽内を下から照らす明かりがつき、内部があきらかになる。液体の満たされた水槽内にひとりの少女が浮かんでいた。

「能力は――と遜色ないんだけど寿命がね、いや稼動時間といったほうがいいかな。肉体年齢とは関係ないんだ、だからもっと上に設定できるよ。容姿だって変えられる、――好みにね」
「……さすがはプロフェッサーです、このように見事な反魂鬼をお創りなられるとは」
「おいおい、反魂鬼だなんて、そんな古臭い呼び方はよしてくれ。せめてオーソドックスに人造人間とかホムンクルス。あるいはバイオロイドとか言ってくれよ。ぼくの作品は西行の創ったできそこないとはデキがちがうんだからね」

 西行法師。出家前の姓名は佐藤義清。歌人として有名なこの僧侶には奇妙な伝説がある。
彼は山中での修行中に人恋しくなり、鬼が人の骨を集めて人間を創るという話を思い出し、自身もそれをこころみた。
 人骨を集めて見事に人を復元することには成功したが、術が不完全であったためか、できた人は生気に欠け、意味不明のことを言うだけで、とても話し相手になどにはならなかった。
 西行はその人を高野山の奥深くに捨て置いてしまったという。なんとも無責任な話だ。今でもその人は高野山の奥深くをさまよい歩いているのかもしれない。
 先ほどにくらべ会話の内容はかなり聞きやすくなった。それにしてもこの白衣を着た初老の男、年齢のわりにはずいぶんと軽い口調で話す。

(この白衣の男、どこかで見たおぼえがあるぞ。……プロフェッサー? まさか、大連寺至道!?)

 今から一年ほど前の三月、東京で上巳の大祓と呼ばれる霊災テロがあった。そのテロの首謀者はこともあろうに霊災を祓うべき陰陽師。それも十二神将の一人、導師(プロフェッサー)の異名を持つ大連寺至道だったのだ。
 彼はそのさい、みずからに高レベルの霊的存在を降ろそうとして失敗し、命を落としたとされる。
 事件発生直後はニュース番組などでなんども至道の生前の姿を映した映像や画像を流していた。秋芳はそれらを見ていたので、大連寺至道の顔はおぼえていた。

(このビジョンは架空のものなんかじゃない、おそらく過去のできごとを映している。なんの悪だくみ
をしているのやら……)

「異授卵丹の術を工夫してできた子宮を使い、このような母体を苗床にすれば最高の逸品が創れます」

 異授卵丹。その名には聞き覚えがあった。巫蠱の術の一種で、ある生き物を殺したあと、その死骸を特別な方法で精製して煮込み、丹薬を作る。これが異授卵丹だ。
 この丹薬を飲まされた者は性別を問わず即座に卵を孕むこととなる。早ければ九日、遅くて九年にかけて母体内で成長して産まれ出る。メスならば通常の産道からだが、オスの場合は腹が裂かれることになる。
 この卵からは丹の原料になった生き物と卵を孕んだ生き物、双方の特徴を持った生物が生まれるという。本来は卵生ではない生物も孕ませることが可能だ。たとえば人間でもかまわない。
 外道外法の業である。
 そのような邪な術をもちいて作られた子宮とはいかなるものか。

「当代最高の陰陽師の子種を神童の中で精製するのです。さぞかし優れたモノが創れましょう」

 この二人がどのような算段をしているのか、なんとなくわかった。
 人と人とを不自然に混ぜ合わせ、化外の存在を生ませようとしているのだ。
忌々しい、吐き気がする。
 胸の奥から激しい怒りと憎しみが湧き起こった。いや、それだけではない。
 恐怖だ。
 秋芳はこの光景に恐怖を感じた。
 なぜ自分はこのようなものを見るのか? このやりとりは自分に深く関係することなのか? だとしたらどのように関わるのか、もしや――。
 鼓動が高まり、息も荒くなる。百鬼の群れにかこまれ、呪詛の刃にさらされようと呼吸一つ乱さない賀茂秋芳が、恐れ、慄いている。
 するとつないだ手から暖かい気が流れ込んできた。
 京子の気だ。
 京子から清浄な気が流れ込んで来る。秋芳の心中を荒らしていたどす黒い感情はそれに洗い流され、消え去った。

「ねぇ、秋芳君。さっきのお願いの話なんだけど、あたしリボンが欲しい」
「……うん? あ、ああ。いいぞ。なんでも買ってやる、どんなのが、何色がいい?」
「秋芳君が決めて。秋芳君の選んだリボンが欲しいの」
「そうか、どんなのがいいかな……」

 霊層が薄くなる。もう少しで地上へ出られるだろう――。





 陰陽庁。
 深夜。丸一日机にむかって事後処理業務をこなしていた倉橋源司が軽くシャワーを浴びて(これには斎戒沐浴という呪術的な意味があった)長官室に戻り、ふたたび仕事を再開する。
 書類にペンを走らせる微弱な音がしばらく響く。巌のような源司の表情がかすかにゆるんだ瞬間、室内の空気にわずかな動きがあった。

「うれしそうだねぇ、倉橋」

 応接用のソファのあるあたりから若い男の声がした。だが姿は見えない。いつぞやの姿なき者とは別の声。陰陽庁の長官室というのは透明人間の憩いの場ではないのだが。

「ま、実際うれしいよね。けがの功名、瓢箪から駒ってとこかな」
「……ずいぶん若々しい声をしているな」
「声だけじゃなく身体も若くなる予定だよ、姫君に合わせてね。今すぐお見せしたいところだけど、あいにくとまだ『成って』いないんだ」
「ならおとなしくしていたほうが良いんじゃないか」
「そうなんだけど私もうれしくてね、ついつい顔を見せに来ちゃったわけ」

 姿なき者の科白ではない。

「見えない顔を見せに、わざわざ長官室の結界を突破して来たのか」
「あはは、言わない言わない。それよりもさ、今回みたいな霊災なら大歓迎だよね。来年あたりもう一回こないかな」

 都内どころかその近郊にまで被害のおよんだ大規模な霊災。だが人的被害はほとんどなかった。大騒ぎする動的霊災から逃れるさいに転倒等で負傷した者や、たちの悪いいたずらの被害に遭った者は多数存在したが、死亡者数はゼロ。新宿など都庁を中心に多くのビルが倒壊したにも関わらず、避難が済んでいたおかげで人命が失われるようなことはなかった。
 壊れた建物の再建により富を得る者も多数いよう。小規模の破壊を治す再生活動により経済が潤う例は多々ある。
 なによりよろこばしいことは世間の陰陽師に対するイメージアップだった。
 霊災による社会的混乱。それを一人の死者も出さずに鎮静化させたことにより(実際はほうっておいても夜明けとともに消滅したのだが)陰陽師の重要性・重大性を広く世間に認知させ、世論を陰陽法の改正に賛成するように誘導できる。
 メディアでは都庁でおこなわれた可動護摩壇による修祓活動が繰り返し流され、陰陽師の雄姿が喧伝されていた。
 彼らを肯定する声は若者を中心に大きく広がっていた。
「呪術ってかっこいい!」「やっぱり陰陽術って必要だよな」「呪術はもっと幅広い分野でも利用するべきだと思います」「悪い人たちに怖いことされたけど、魔女みたいな格好をした陰陽師の人に助けてもらいました」「陰陽予算削減? じょうだんじゃない、もっと増やすべきだ。可動護摩壇の数も増やすべき。あと彼ら陰陽師の給料もね」「陰陽法改正賛成! 反対するやつは●●人か非国民」などなど……。
 もともと都内を中心に霊災が多発するようになったのは陰陽師である土御門夜光のおこないが原因で、それを処理するのは陰陽師に課せられた当然の責務であり、ことさら持ち上げるのはいかがなものか。というような意見に対しては「ならおまえが霊災に巻き込まれても陰陽師に助けを求めるなよな」
「いつまで過去のこと引きずってんだよ」などという言葉があびせられた。
 陰陽庁が陰陽法を定めたのは今から半世紀以上も前になる。霊災の対応に追われていた当時の陰陽師たちは霊災修祓をより効率良くするため陰陽寮の大規模な改革をおこなった。そして一般社会とのつながりの希薄な呪術界そのものを公の社会機構に取り込むことにしたのだが、その第一歩が呪術および呪術者への法の適用、規制だった。
 これはかつては軍属であり、そして日本の深い闇を引きずる呪術界に法の光をあて、明らかにすることを意味していた。そのようにして成立されたのが半世紀経った今もなお呪術界を規制し、統制している陰陽法だ。
 この法律の基本理念は『霊災の修祓』に特化しており、その目的のために呪術というあいまいで繊細なものを強引に定義させ縛り上げたものがこんにちの陰陽法といえる。
 そのため現在の陰陽師の活躍の場は社会全体のごく一部に限られてしまい、多くの呪術師たちはその境遇に不満をいだいていた。戦後、あらたな陰陽師像の確立には成功したものの、やはり呪術界そのものは他の業界からは隔絶されている。
 このように閉鎖的な状況の打破は陰陽庁の願いであり、近年国会で通過が見込まれる
 陰陽法改正案のおもな目的は陰陽師の職域の拡大、さらなる社会進出。陰陽庁の権限の強化、予算の増加で、さらには陰陽『省』への昇格もふくまれていた。
 そのためには世論の、人々の支持が必要不可欠であり、今回のようなアクシデントは不謹慎だが大歓迎なのだ。

「それで思ったんだけど、例の計画。あれ、修正したらどうかな? 『人』ではなく『霊災』にしたほうが良いかもよ。今さらだけど、呪術師がなんかしでかしたら、絶対ほかの呪術師への風当たりが強くなるよね 」
「いや、彼らには決起してもらう。我々の創る新しい世でくすぶられたままでもこまるからな。それに――」
「それに?」
「呪術の〝恐怖〟と、呪術師の〝脅威〟を世に知らしめることも必要だ。あとあと妙な考えをする輩が生まれぬよう、呪術師を制するのは呪術師のみ。だということを大衆に刻み込ませる必要がある」
「飴と鞭ってわけかい? おっかないねぇ。……ところで」
「うん?」
「この部屋さ、最近妙な人が出入りしているみたいだけど、だれ?」
「今は知る必要はない」
「つれないねぇ、長いつき合いなのにさ」
「そちらにも私に知られたくない秘密の十や二十くらいあるだろう。おたがい様だ」
「へぇ、じゃあ『知られたくない』秘密なんだね」
「そうだ。知った者を生かしてはおけない、そんなたぐいのな」
「おお、怖い! 機密事項に抵触する前に退散することにしよう」
 
 そうだ。たしかに自分は彼に、倉橋源司に秘密にしていることがある。
 それを知られれば自分はただではすむまい。そのくらい大きな、そしてとびきりたちの悪い秘密が。
 あれから自分の研究に没頭して失念していたが、あの子は今ごろどうしているだろう? もし計算通り高い霊力を持って生まれてきたのなら、次は鈴鹿と交配させてみようかな。  
あはは、おもしろいや。どんどん強い仔が生まれるぞ――。 
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