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3部分:第三章


第三章

「これか」
「そうだよ。どうかな」
「ドライカレーにカレールーか」
 もう一度そのカレーを見て言う。
「また変わってるな」
「卵をかけるとさらに美味しいよ」
 小坂はまた彼に言ってきた。
「それはどうかな」
「いや、それはいい」
 右手で拒む動作をしてそれは断る。
「卵をつけたら贅沢だ」
「贅沢なんだ」
「今阪急は塗炭の苦しみを味わっているからな」
 それが理由だという。何だかよくわからない理由だ。
「だから。止めておくさ」
「阪急担当だからじゃないよね」
「当然だ。この場合はな」
 そう答えたうえでまた言うのだった。
「西本さんが苦しんでおられる時にそんな贅沢はできるか」
「最近じゃ卵は贅沢じゃないんじゃ?」
 それまで贅沢なものとされてきた卵は次第に普通の品になってきていた時代である。これはバナナも同じで日本が豊かになってきた証拠とされていた。
「それでもだよ。卵は止めておく」
「そうなんだ」
「ああ。まあこれはいるがな」
 ソースを取った。それをカレーにかける。
「カレーにはやっぱりこれだな」
「そうだね。醤油はちょっとね」
「俺はこっちの方がいい」
 醤油もあるが二人共それは手に取らない。あくまでソースであった。
「それで阪急な」
「最近本田君阪急ファンになったんだって?」
「西本さんがおられるからだよ」
 彼のコメントはこうであった。
「だからな。阪急に乗り換えたんだ」
「そうだったんだ」
「しかしなあ。阪急なあ」
 食べながらぼやく。カレーの味はあまり感じていない。ぼやけばそれも当然だった。
「灰色ブレーブスって言われるだけはあるな」
「ユニフォームの色がそうだしね」
「関西の球団は全部あれだ」
 少し忌々しげな言葉になっていた。
「何処もオーナーの道楽だからな」
「オーナーの道楽ねえ」
「佐伯さんも小林さんも川勝さんも」
 それぞれ近鉄、阪急、南海のオーナーだった。それと共にそれぞれのグループの総帥でもあり関西財界に大きな影響力を持っていた。特に近鉄のオーナーであった佐伯の力と人徳はよく知られていた。
「道楽でやってるんだよ」
「あとはグループの宣伝かな」
「それも大きいけれどな」
 わかりやすく言えばグループの看板である。
「それはいいとして。強ければな」
「南海以外はぱっとしないね」
「特に近鉄な」
 当時の近鉄の弱さは伝説だった。正真正銘の万年最下位のチームだった。なおこの時はつい最近までバファローズですらなかった。パールズといった。
「あの弱さはな」
「今の阪急はその近鉄より弱いと」
「その通りだよ。何であんなに弱いんだ」
 言っても仕方ないことを愚痴る。愚痴りながらカレーを口の中へかき込んでいく。気付いた時にはもう皿には米の一粒もなかった。
「おかわり」
「あいよ」
 皿をカウンターの向こうの親父に差し出しておかわりだった。スプーンはコップの中に放り込んでいる。
 すぐにそのおかわりが来てそれをまたかき込む。かき込みながら言う。
「それでもな。弱いのは今のうちだけだ」
「今にってことかな」
「ああ。俺は阪急担当だ」
 それを出してきた。彼の誇りでもある。
「だからキャンプも取材に行ったがな」
「どうだったの?」
「凄いぜ」
 小坂に顔を向けて不敵な笑みを浮かべてみせた。
「あれは絶対に強くなるな」
「そんなに凄いんだ」
「いつか阪急はパリーグの王者になる」
 断言だった。
「西本さんの手でな」
「じゃあ巨人とシリーズで戦うのかな」
 小坂の食べ方は穏やかだった。本田のそれとは完全に正反対である。
「やっぱり」
「そうだな。その時巨人の黄金時代は終わる」
 またしても断言だった。その断言には絶対の自信がある。
「そして阪急が球界の盟主になるんだ」
「ふうん」
「御前には悪いがな」
「ああ、別にいいよ」
 親友の言葉を笑って受け止める。
「栄枯盛衰だからね」
「何だ、物分りがいいな」
「そういう巨人ファンだっているよ」
 微笑んで彼に答える。
「巨人ファンってのは宗教じゃないし」
「いや、あれは宗教だろ」
 自分のことは棚に上げての言葉だった。
「巨人が絶対の正義だっていうあの考えはな」
「まあそういう人もいるね」
「長嶋が何だっていうんだ」 
 またこの発言だった。
「西本さんも立教だぞ。長嶋だけじゃないんだよ」
「それと大沢さんも杉浦さんもだよね」
「ああ、そうだ」
 また断言だった。
「立教だけでも結構いるんだがな」
「長嶋さんはまた特別みたいになってるね」
「面白くない」
 二杯目のカレーも殆どなくなっていた。食べるのが相当に速い。
「巨人巨人ってな。巨人の何がいいんだ」
「じゃあ阪急とのシリーズは」
「決まってるだろ。阪急が絶対に勝つ」
 これまた確信だった。己の予想が外れるとは全く考えてはいない。
「その時はな」
「じゃああれかな」
 小坂はそれを聞いてぽつりと語るのだった。
「その時は僕と本田君で」
「対決だな。負けないぜ」
 本田もニヤリと笑って言葉を返す。
「我が阪急はな」
「いや、君と僕の記事の対決のことだったんだけれど」
「それは正直あれだろ?」
 急に言葉が穏やかなものになる。それまでの暑苦しいまでのアグレッシブさが消えた。
「どっちかの勝ち負けによって大きく左右されるさ」
「そんなものかな」
「そんなものなんだよ」
 またしても強引な論理のもって行き方だった。
「だからだ。阪急が勝てば」
「君の記事が勝つってわけだね」
「そういうことだ。じゃあその時を心から楽しみにしているな」
「僕もね」
 小坂はまだ食べていた。その中での話だった。話をしながら食べ店を後にする。この時阪急はまだほんの弱小球団に過ぎなかった。しかしそれから僅か四年後の昭和四十二年。事件が起こった。
「やった・・・・・・」
 本田は泣いていた。目の前の光景を見て。
 阪急ブレーブスが見事初優勝を果たしたのだ。西本の身体が宙に舞う。彼はそれを見つつ泣いていた。泣いているのは彼だけではなかった。
「ホンマや、ホンマに勝ったんや」
「西本さん、やってくれたで」
 ファン達も泣いていた。そして小林オーナーも。彼は涙をボロボロと零しながらネット越しに西本と握手をしていた。まさに感動の場面だった。
 その感動の中に本田もいたのだ。彼もまた号泣していた。そしてその号泣をそのまま。己の記事に書きその喜びと感動を伝えたのだ。
 
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