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蒼き夢の果てに

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第6章 流されて異界
  第138話 反魂封じ

 
前書き
 第138話を更新します。

 次回更新は、
 4月6日。 『蒼き夢の果てに』第139話。
 タイトルは、『失明』です。

 

 
 遠くから聞こえて居た犬神たちの声も既に途絶え、周囲には冬の夜に相応しい静寂が広がっていた。
 その世界の中心。……比喩的表現でもなければ、自分が居る場所こそが世界の中心である的な誇大妄想の産物でもない、本当の意味での中心。

 無機質な夜と言う属性に支配される事もなく、科学と言う大量に造り出され、大量に消費され続ける無個性な明かりではない、主に宗教儀礼に使用される四つのかがり火により照らし出された空間。
 光と闇。異界への扉と化した池から立ち昇る虚無は、その呼び名に相応しい黒き闇を世界にもたらし、かがり火の赤い光が作り出す空間自体を丸ごと押し潰すかのように、氷空にたゆたう……。

 ………………。
 ……いや、これは違う。このかがり火が作り出す明かりすらもまた、本来の闇を切り開く浄化の炎とは違う気配を発している。
 そう……本来、神聖であるべき神籬(ひもろぎ)の内は昏き闇に沈み――

 しかし――

「――な、何故、何も起こらない?」

 アイツ――あのにやけた男は人間の生け贄が集まらなくても、お前らに一定数以上の犬神が倒されればアラハバキ召喚に十分な怨は得られる、と言っていたんだぞ!

 まるで闇が燃え盛るかのようなかがり火。その呪いに満ちた神域の中心で、犬神使いの青年の狂気の叫びが木霊する。
 但し……。
 但し、その中に、隠しきれない違和感を孕みながら……。

「だから、最初から言ってある。今回の蛇神召喚は絶対に成功しない、とな」

 オマエ、人の忠告は素直に聞くべきやと思うぞ。俺は悪意や嫌がらせの為に言っていたんやない。経験上から知り得た事実をありのまま伝えていただけ、なんやから。

 この周囲を包みつつある違和感――確かにかなり曖昧な感覚。まるで、何か巨大な生物の胎の中に呑み込まれたかのような……非常に不快な気配を、この犬神使いが感じないのなら、それはそれでコチラに取って好都合。そう考え、出来るだけ呆れた、……と言う雰囲気を作り出すようにしながらネタバレを口にする俺。
 但し、今の状態は非常に危険。かなり危ういバランスの上に成り立っている平穏だと思う。
 確かに、この地ではアラハバキの召喚は叶わないでしょう。それに、他の高位……神話や物語などで語り継がれて来た邪神や悪鬼の類の召喚や顕現も難しい、とも思います。当然、ハルヒを贄に差し出していないので、クトゥルフ系の邪神も不可能です。

 但し、犬神やこの目の前で、現在の状況が信じられないと言う顔で俺たちの事を見つめている三下。それに、ハルケギニアの事件の際に現われたジャガーの戦士などの一山幾らの連中なら……万。いや、もしかすると十万単位でも現界させる事が出来るかも知れない。それぐらい危険な状態となっているのは確実。
 もし、この状態で何か小さな切っ掛けがひとつでも発生すれば、おそらく百鬼夜行。闇と迷信が支配していた時代の夜が再現される事となるでしょう。
 もし、そのような状況に陥ったとすれば、その百鬼夜行を足場にして、更なる危険な神の顕現が起きるかも知れない。

 出来るだけ自然な雰囲気でこの目の前の犬神使いを封じてから、周囲の大掃除を行わないと、このままでは地脈自体が穢れて仕舞う可能性が非常に高い。
 これから先に為さなければならない仕事の多さに逃げ出したい気分の俺。確かに、ハルケギニアに居た時のように自分ですべてを為さなければならない訳ではないけど、それでも、ここまで深く事件に関わって終った以上、事後処理は他人に丸投げ、と言う訳にも行かない。

 地脈とはこの地方だけで閉じている物ではない。世界各地、何処にでも繋がっている物なので、この場所で発生した穢れが何処で悪影響を及ぼすのか見当が付かない。
 もし、そう成ってからの穢れ払いの手間を考えると……。コレはどう考えても水晶宮だけで行えるとも思えないので、結局、他の組織の手も借りる必要が出て来て……。
 ハルヒの時ドコロの騒ぎではない巨大な借りと言う物を、アチコチの組織や国家、個人に作って仕舞う事となる。

 バン! 刀印を結び、大きく腕を振る俺。その瞬間、清涼な気が世界を切り裂く。

「この地の地名や、オマエが狙っていた家の名字を、オマエさんは、ちゃんと調べてからアラハバキ召喚の儀式を開始したか?」

 一歩、二歩と前に進みながら、そう尋ねる俺。その口調、及び雰囲気はそれまでと同じ、少し呆れた雰囲気を維持したまま。
 そう、どう考えても今、何らかの術を行使して居るとは思えない様子で……。

「高坂だろう。その程度の事は知っている」

 現在の異常な状況に気付く事もなく、更に、高坂と言う文字に籠められた呪に気付く事もない。かなりぶっきらぼうな口調が、今の精神状態を示しているかのような犬神使いの青年。
 成るほど……。
 結論。コイツは術や魔法に関しては完全な素人。その素人に真面な知識を付けてやる事もなく、ただ望む能力のみを与えたのが這い寄る混沌と言う事か。

 ウン! 再び刀印にて斬り裂かれる悪しき気。

「元々の名前。黄泉坂(こうさか)は、どう考えても黄泉平坂(よもつひらさか)黄泉(よみ)自体を連想させる地名や名字だった」

 その為に、前世のオマエは黄泉に封じられた邪神を解き放とうとしてこの地に入り、当時の黄泉坂の当主を巻き込んだ。
 おそらく、弓月さんの御先祖様は、その方面ではかなり名前の知られた人物だったのでしょう。もしかすると、ヤツの元々の主人。平将門や良門に何らかの関わりが有った人物の可能性もあると思います。
 しかし、最終的には、その黄泉坂の人間に討たれる事により、ヤツの野望は潰えて仕舞った。

 タラク! 夜の静寂に俺の声が響き、刀印が悪意を斬る。

「当然、黄泉坂の人間はこう考える。この地名や名字のままでは、何時までも俺たちの家はオマエのような狂人に狙われ続ける事となる、と言う風にな」

 そこで自らの名前を変え、地名を変えた。不都合のない名前。妙な呪いのない一般的な名前。読みは同じ。しかし、その意味はまったく違う名字や地名……高坂に。
 そう、高坂。この文字を分解すると、高、土、反の文字に分ける事が出来る。
 ……それはつまり、

「いと高きモノ土に返る。反魂を防ぐ呪が籠められた名前。そう言う事だ」

 反魂封じの地名を持つ街で、それも最後の生け贄に選んだのがその高坂の名字を持つ家。こんな素人臭い術が成功する訳がない。

 キリク! 一歩進む毎に。一画を斬り裂く毎に高まって行く霊圧。臨界に近い勢いで生成される龍気が武神忍と言う器では納められず、漏れ出す龍気に活性化した小さき精霊たちが、流星の如き輝く尾を引きながら俺を中心とした半径三メートルの球を舞う。
 おそらく一般人に過ぎない、この犬神使いにも今の精霊の輝きは見えているはず。それぐらい強い輝きを今は示しているはず。

 もし、この大規模召喚術を別の街で行ったのなら、この企ては成功した可能性は非常に高かったと思われる。当然、その事件に俺が巻き込まれて居たのなら、その時はこんな余裕を持った戦いを行う事は出来なかったでしょう。
 但し、現実にはそうは成らなかった。
 既に四画まで打ち込んだ呪。残りは二手。ただ、その術が完全に起動する前に、神籬……アラハバキの聖域を乱す必要がある。

「平安の世より千年以上。それだけの長い間、人々の口からこの地名が、名字が呼ばれる度に、反魂封じの呪が刻まれる。それだけ多くの人々の思いを、術の修業もせず、ただ邪神に能力を貰っただけの貴様に覆せる訳がない」

 アク! 最後の一画が刀印に因って空に刻まれた瞬間、俺の目の前に光の線で描き出された五芒星――晴明桔梗が浮かび上がる。
 大きさは俺の身長ぐらい。ちょうど、人間が両手、両足を広げた程度の大きさ。

「俺は――」

 犬神使いの青年の声。それまでと違い、かなり抑揚に欠けた声に現在のヤツの感情が簡単に分かろうと言う物。
 そして――

「神に選ばれた英雄としての俺の怨みが、そんなちっぽけな人間どもの言葉程度に阻止されったって言うのか!」

 貴様は!
 冥府の底から響き渡るような魂の絶叫! 吹き上がるどす黒い感情は、これまでの落ち着いた雰囲気が演技であった事が簡単に見て取れる。
 そう、それは最早瘴気と言うべきレベルにまで高められた呪い。ヤツ自身が前世を無念の内に終わらせ、その後、千年の長きに渡って封じ続けられて来た怨み。更に、その間ずっと影響を受け続けて来たアラハバキの呪いの大きさがこの瞬間に理解出来た。
 しかし……。
 成るほど。矢張り、コイツも自らの事を神に選ばれた英雄だと思い込んで居たのか。もっとも俺の意見を言わせて貰うのならば、そんな物に――誰だか分からない相手に選ばれる事などに価値はないと思う。
 所詮、便利に動く駒として利用され、必要がなくなれば簡単に処分される。
 神に取って、人間の中から選んだ英雄などその程度の代物。

 例えそう言う扱いであったとしても、成りたがる連中は後から後から現われるのだから、神と呼ばれる連中に取ってやり易い世界だと言う事なのでしょう。
 ――くだらない話だ。

 ヤツ……犬神使いが立つのは神籬の中心。彼我の距離は未だ十メートルあまり。その叫びを発した後、手にした野太刀を下段に構え、風を切る速度で急速接近を開始!
 真正面からの突撃。ただひたすら、目の前の敵を斬り裂くと言う強い意志!
 しかし、遅い!

 澄んだ弦音――鳴弦が響く! 邪まなるモノを穿つ神道の秘奥義は、何もない空間に波紋が広がるかのような形で一瞬の抵抗を示した後に、神域を司る注連縄(しめなわ)を貫き――
 その瞬間、犬神使いの青年を護って居た邪悪な神籬が消滅!

 体内に渦巻く力を誘導。元々、霊的な馬鹿力を発動させるのは得意としている俺。供給過剰と成って居る龍気に向かう先を示してやる事ぐらい訳はない!
 裂帛の気合いと共に刀印にて空を斬る。
 刹那! 虚空に描き出された晴明桔梗が放たれ――

 元々ヤツが持って居た人間離れした身体能力と、怒りに因る限界突破。昨夜の犬神使いの青年の動きから考えても、この場は五割の能力増加で一瞬の内に彼我の距離がゼロに。
 通常の刀と比べると、非常に大きな間合いを持つ野太刀。その反則気味の間合いに俺を捉えた瞬間!
 走る勢いと、ヤツ本来の膂力。更に、大きくバックスイングを取る事により発生した威力に、元々野太刀の持って居た重量を加えた横薙ぎの一閃。
 踏み込んだ左脚が大地に悲鳴を上げさせ、振り抜こうとする野太刀が巻き起こす衝撃波が扇型に広がる!
 銀がかがり火の紅い光を反射し、虚空に優美な弧を描く長刀。おそらく、人界……表の世界トップレベルの剣の達人であったとしても、この一太刀を躱す事はおろか、受ける事さえ出来ず両断されていたであろう。

 しかし!

「な! 何?」

 何の捻りもなく突っ込んで来た犬神使いの青年を正面から迎え撃つ晴明桔梗。巨大な円が発する光と、暴風と化した横殴りの一撃が正面から衝突!
 一瞬、暗闇に包まれたこの空間に、数百のカメラに因るフラッシュが一斉に焚かれたかのような強烈な光が発生。

 眩い光輝により、完全に視力を奪われる時間。
 その僅かな余韻が消え視力が回復した時、その場に存在して居たのは――

「お、俺を殺すのか?」

 完全に起動した晴明桔梗が強い光輝を放つ。五芒星の頂点に頭部、両手、両足を拘束され、宙に浮かぶ犬神使いの青年。その姿は昨夜、道路の真ん中で蔦に絡め取られた時と同じ。
 しかし、この姿になっても尚、その程度の問いしか出て来ないのか。

 これほど死の穢れに塗れた魂を、仙人への道を辿る存在が輪廻に還す訳がない。その程度の事も知らない素人が、あれほどの術を行使していた、……と言う事にかなり苦い物を噛みしめたような気分になる俺。
 但し、それを表面に表わす訳には行かない。

「心配するな。殺す訳はない」

 穏やかな口調でそう諭すように告げる俺。それに、俺は昨夜から一度もコイツの事を殺すなどとは言った覚えがない。
 まして、ウカツに殺せる訳がない。

 この事件の裏には這い寄る混沌が居る。こんな反魂封じの呪が籠められている地では、生半可な方法で冥府からの召喚が成功しない事は、アイツならば最初から分かって居たはず。
 それはつまり、這い寄る混沌の側からみると初めから決まりきった結果しか訪れる事のない、面白くない展開の物語だ、……と言う事になる。

 この状況から推測すると、もう一山、何かが準備されている可能性がある、と言う事。
 例えばこの犬神使いが絶望した瞬間。その千年を超える呪いに満ちた感情が発生させる暗い情念を糧にして、この地に施されている反魂封じを破る。
 その可能性は十分にあると思う。

 そう考えた正にその瞬間。
 長く尾を引く……まるで狼のような遠吠えが響いた。
 いや、それはひとつではない。遠くから、近くから。物悲しい、哀愁に満ちた叫び――

 一瞬、かなり強い瞳で、囚われの身となった犬神使いを見つめる俺。
 その強い視線に、ひっ、と言う息を呑み込むような短い悲鳴と、自分は何もしていないと主張するかのように、固定され、動かし難くなった首を必死になって左右に強く振る犬神使い。その動きや、今現在のコイツが発して居る雰囲気から考えるのなら、これは真実。どう考えても嘘を吐いているとは考えられない。

 それに……。

 確かに、この状況でコイツに何かが出来るとも思えない。何故ならば、今回は日本の神道式の術を多用する予定で禊を行い、今、ヤツ自身を拘束している術式も急場で組み上げた物などではなく、最初から準備してあった物。
 この五芒星に封じられた状態で術など行使出来る訳……少なくとも、術に関しては初心者のこの犬神使いに出来るとは思えない。

 そう結論付ける俺。その間も続く――
 怨みに、恨みに染まった犬たちの遠吠え。怨、恨、穏。
 ひとつひとつは取るに足りない小さな呪い。しかし、その僅かな呪力の籠った叫びが集まり、響き――
 終に、世界が変質した。

 最初から深く立ち込めていた濃い霧……いや、闇自体は変わらず。しかし、その闇が凄まじい速度でうねり、重なり、巨大な闇の集合体と変じた。
 世界が深い闇に沈み、辺りの景観を黒く霞ませる。

 マズイ!
 目の前の犬神使いよりも強力な異界を引き寄せる能力者が居た。確かに、ヤツ……名づけざられし者の事を失念していた訳ではないが……。
 俺を異界送りにしたり、各種邪神を召喚したり。今までのヤツの行動から推測すると、ヤツに取って次元の壁を破る事は呼吸をするより容易い事らしい。まして、神話的な裏付けのないこの事件の首謀者の犬神使いに出来る事は、幾ら下駄を履かせたとしても高が知れている。……が、しかし、ヤツならば千年以上、この地に住んで来た人々が積み上げて来た呪であろうとも物ともせずに、アラハバキを召喚して見せるかも知れない。
 それだけの神話的なバックボーンを、あの茫洋とした青年は有している。
 但し、アイツ……名づけざられし者に関して対処して置くのはそもそも不可能。

 ヤツはありとあらゆる時間、あらゆる世界の隣に居る存在。これはつまり、自らが望む場所へと確実に顕われる事が出来る、……と言う事。
 ましてヤツに与えられた属性は、本来の名づけざられし者(ハスター)などではなく、門にして鍵(ヨグ=ソトース)。ここまで高い異界への親和性を手に入れた地で異界への門を開く事など児戯にも等しいだろう。

 暗雲が占める氷空は光を失ってから久しく、必要以上に冷たい大気と猛烈な風が吹く世界は、名づけざられし者が召喚の儀式を行うに相応しい状況。

 先ずは目の前の犬神使いを完全に封印する。アラハバキに対処するのはそれからだ。
 そう考え、握った宝石……トルコ石に龍気を籠める俺。

 その時……何処かから聞こえる遠吠えが、低く尾を引いた瞬間、炎が乱れた。
 神籬の四隅に置かれたかがり火。それまでは奥羽山脈から、そして、俺が起こした大元帥明王法により発生した風に煽られ、時折、くべられた薪から紅蓮の火の粉が舞う、このような夜に行われる神事には当たり前のように存在しているかがり火。
 しかし、その瞬間。何の前触れもなく、一際高く……まるで、その瞬間に生命を得たかのように氷空高く炎が立ち上がり――
 それがまるで人の如き影を作り上げ――俺たちを睥睨した。

「やぁ、皆さん。お元気そうで何よりです」
「悪霊封珠、(ライ)!」

 炎の人型が現われると同時に術式起動用の最後の龍気を籠められる封印用のターコイズ。そして、ヤツが言葉を発するとほぼ同時に最後の点穴を穿つ俺。
 瞬間、完全起動した晴明桔梗が――

 その直後、僅か数十秒の間に世界に起きた出来事。

 猛烈な光。炎の触手。闇と虚無。重度の熱傷。爆発、爆発、爆発!
 そして、精霊の守りだけでは殺し切れなかった最後の熱風が蒼の髪の毛を打った。
 但し、俺に取っては心地良い風。この程度なら、生命に害はない。



「あんた、何を考えているのよ!」

 そして、かなり怒った。しかし、その中に強い安堵の色を籠めた彼女の言葉。
 そう、この短い瞬間に起きた出来事は――



 既に自らの体感時間を人類のソレから神の領域へと高めていた俺。
 刀印を結び、点穴を打ち込んだ瞬間、それまで待機状態であった術式が完全起動。既に供給過剰状態となっている龍気をドンドンと消費しながら、空中に次々と魔法陣が浮かんでは集束して行く。
 術式の複数同時展開。今の俺に為せる限界の術。
 そして、その俺の行に対応するかのように一段と光輝を増して行く晴明桔梗に呼応して、左手に構えるターコイズもまた蒼白い光を発し始めた。

 大丈夫、未だ間に合う!

 しかし!
 まるで闇自体が燃え上がるかのように存在していた人影。本体は何処か別の場所に居ながら送り込まれた這い寄る混沌の分霊(わけみたま)――炎の巨人からおぞましいまでの瘴気が発生。
 赤い、朱い、紅い火の粉が踊る。
 立ち昇り、拡大して行く瘴気。すべての光を遮るその姿は、人間が持つ根源的な恐怖を呼び覚ますに相応しいシルエット。その禍々しき気配が、晴明桔梗、そして何より俺自身が発して居る精霊光に匹敵するほどの勢いを得た次の瞬間――

 ぐしゃり、と音を発するかのように潰れた。
 まるで肥大した挙句、自らの重さに耐えかねるかのようにゆっくりと……。

 ……いや、違う。これは潰れたのではない!
 数十、数百の細長い物体。炎で形成された蛇、もしくはある種の頭足類が持つ触手じみた物体へと分化!

 対してこちらは、未だ封印は完了せず。俺の周囲を護る精霊光を完全に取り囲むように、炎の人型が転じた触手モドキが――
 ――すべての生きとし生ける物を冒涜する動きを繰り返しながら、まるで潮の流れの中をゆっくりと泳いでいるかの如き雰囲気で……。しかし、現実には物凄い勢いで俺を護る精霊光と接触。

 光に触れた瞬間、それまで以上に強烈な光が発生。その光が俺の視力を奪い、双方の気配が消滅。

 次々と。次々と消えて行く精霊光。その光が消えた空間に存在するモノはなし。ただ、昏き空間……虚無のみが存在するだけ。精霊も、そして悪しき気配もすべて消え去っている。

 しかし――

 しかし、拮抗は一瞬。徐々に勢いを増す炎の触手。上空から。地を奔るように。そして、まるで大地の底から湧き出すかのように、次々と俺の周囲を埋めて行く炎の触手群。
 一時的に虚無へと塗り変えられた空間に炎の触手がすべり、ぬめり、嘗め尽くして行く。

 マズイ! このままでは例え、犬神使いの封印に成功したとしても……。

 既に肉眼としての視力は奪われ、気配と見鬼の才でしか周囲を把握する術を持たなくなりながらも、そう考える俺。その瞬間にも猛烈な(霊気)を放っていた晴明桔梗と、それに呼応していたターコイズの光が徐々に力を失って行く。空中に浮かんでいた魔法陣は既に虚無へと呑み込まれ――
 確かに一瞬前まで目前に存在していた犬神使いの青年の気配は消えている。
 封印は間に合った。しかし……。
 このままでは何れ俺自身が虚無に呑み込まれて仕舞う!

 既に、俺を中心に一メートルほどの空間を死守しているに過ぎない絶望的な状況。現実に封印に要した時間は三十秒と掛かっていないはず。
 しかし、その三十秒が致命的な遅れと成りかねない!
 複数の術式の同時起動。諦める訳には行かない。帰ってからハルヒに挨拶に行かねばならない。
 そして何より、有希との約束を果たす為には、絶対に彼女の元に帰り着かなければならない!

 更に加速の強化。時間とは心で感じる物ではなく、身体が感じる物。心の持ちようによって、体感時間が変わるのがその際たる例。ならば、生命の危機的状況である今ならば、更なる加速もまた可能となるはず!

 防壁の術式に、その防壁の強化の術式を重ね、それを次々と立ち上げ続ける俺。想いを力に、約束を糧にしながら、易き道へと流れそうになる心を震わせ続ける!
 諦めなければ道はある。俺は今、一人ではない!
 そう、ラグドリアン湖で共工の毒のブレスを防いだ際に、タバサと共同で為した術式を今は一人で再現して居たのだ。
 同時に、周囲に清涼なる空気の作成と、異常なまでに高まった温度を人間が活動出来るレベルにまで冷却する術式の起動。

 最早、物理学的に何が起きて居るのかさっぱり分からない状態。そもそも、俺の纏う精霊光とヤツ……這い寄る混沌の分霊を構成していた炎とが反応した結果、猛烈な光子を発生させる科学的な根拠が謎。考えられる仮説は、ヤツと俺が次元を挟んだ表裏一体の存在である可能性がある。この程度。
 次々と印を結ぶ手が熱を帯びる。但し、これは気力が充実しているから、などと言う呑気な状態ではない。普段ならば、少々高速で印を結んだとしても大気との摩擦など起きはしない。何故ならば、その程度の熱や摩擦など、俺の精霊の守りでペイ出来るから。
 しかし、現状は精霊の守りをすべて炎の触手対策に振り分けている状態。まして、周囲は炎で囲まれて居る以上、元々、俺の存在する空間は、異常な高熱に晒されているのだ。

 つまり、折角周囲の熱を下げる術式を起動させても、術を高速で、更に複数立ち上げ続けて居る以上、大気との摩擦から発生する熱を下げ続ける事は不可能だ、と言う事。

 一秒を百に。刹那を千に切り分けながら、術の行使を続ける俺。両手に関しては重度の熱傷。既に痛みを伝えて来ている神経をカット。
 但し、それがどうした! 生きていさえすれば、腕の一本や二本どうにでもなる!

 奥歯を噛みしめ、血液さえも沸騰し兼ねない熱に耐え、更に供給する龍気の量を増加させた。刹那、処理能力を超えた脳が悲鳴を上げる! しかし、それも無視!
 心臓が負荷に耐えかねて跳ねまわり、自らの意志で無理矢理に動かし続けている非常に危険な状態。果てしない絶望と言う名の深い穴の縁に、腕一本で辛うじてぶら下がっているかのような気分。
 炎の蛇に精霊の守りが喰われる度に複雑な幾何学模様が浮かび上がり、僅かに虚無を押し返す。そう、この幾何学模様……魔法陣を構成するその蒼白き線一本一本が、この絶望的状況への反抗。このすべての線が消えた時が、俺が膝を屈する時。

 その刹那。防御の一角が破れた!
 空中からうねり、のたくる触手の束が接近して来る。本来、神聖なはずの聖域を照らし、暖める炎から今、俺が感じているのは、何故か暗いネガティブなイメージ。肉――タンパク質や脂肪が焦げる嫌な臭い。
 事、ここに至っては最早、術に因る周囲の熱の低下も間に合わない!

 高速で印を結び、思考は複数の術式の同時起動を行いながらも、刹那の時間、呆然としてその触手群を見鬼で捉えて仕舞う俺。
 既に肉眼は役に立たず。これほどの熱。更に発生し続ける光子の影響は流石に大き過ぎた。

 万事休――いや、未だだ!
 死中に活を求める! 本当の意味の限界と言う物は、その人間が感じた限界の更に向こう側にあるはず!
 周囲に巡らせた結界の半径を更に狭め、より強固に、分厚くした結界で対応。
 続けて周囲を取り巻く炎の触手が放つ光、及び、対消滅らしき現象により発生する大量の光子。……つまり、光りにより作り出された自らの影たちに別々の印を結ばせる事により、思考のみで唱え続けて来た術の強化!

 更に!

「バン、ウン、タラク、キリク、アク」

 攻撃は最大の防御! 一時的に空気の生成を止め、その部分を攻撃へと転用!

「悪霊退散。禮!」

 描く五芒星は小さく、精霊の輝きも弱い。更に重度の熱傷により右腕の動き自体が鈍い。しかし、委細構わず、その中心に刀印を突き立てる俺。
 刹那!

 猛烈な光輝が発生! 同時に身体に感じる爆音、爆音、そして、高く響く弦音。



「あんた、何を考えているのよ!」

 あんたはいちいち危なっかしいのよ! 馬鹿なの? 死にたいの?
 俺の頭の上で小学生女子の甲高い声が。そして、彼女の声に重なるように鳴弦の澄んだ音色が次々に放たれる!
 周囲を覆っていた炎の触手の気配は既になく、氷空は霧とも、闇とも付かない物質に覆われながらも、それでも空気を作り出し続けなければ息が出来なくなる、などと言う状況ではなくなっていた。

 何時の間にか……。おそらく、迫り来る炎の触手から解放された瞬間に膝を突いて仕舞った俺。
 自らの目の前で柳眉を逆立てて、と言う表現が一番しっくりと来る、燃え盛る炎の如き雰囲気で捲し立てるさつきが存在する。そう、現在の俺は、瞳では視る事の出来ない部分で今のさつきを強く感じている。この感覚はハルケギニアの崇拝される者と同じ。見た目は小学生。しかし、その内側に巨大な炎の精気を感じる。
 もっとも、今宵のコイツの俺に対する態度は、どう見ても年長者の異性に対する態度とは思えないのですが……。

「そんなモン、決まっている――」

 あの犬神使いを今、この場で封印しなかったら、良門の魄まで失う事となって仕舞う。

 ありがとう、助かったよ。そう、前置きした上で、呼吸を整えるようにゆっくりとそう告げる俺。尚、殊更ゆっくりと話した理由は、別にさつきの怒気に鼻白んだ訳などではなく、そうしなければ絶えず襲って来る悪心を押さえる事が出来なかったから。更に、色々な理由から頭を上げる事は出来ず、左手に握り締めたままと成って居たターコイズのみを彼女の前に差し出す。
 当然、両腕とも既に動かす事は出来ない。今、腕を持ち上げたのは筋力などではなく、重力を操る生来の能力。
 出来る事なら、操り人形のような不自然な動きになっていない事を祈りながら。

 そう。生命を保った状態で助け出された物の、未だ視力は回復せず。故に、顔を上げて直接、さつきの顔を確認してから話す事が出来なかった。……そう言う事。但し、五感の内、もっとも情報量の多い視覚を一時的とは言え失った事により、肌から、その他の器官から気を感じる能力は、普段よりもずっと鋭敏と成って居る事が分かる。
 そして……。
 そして、未だすべてが終わった訳ではない事も当然、分かっている。しかし、想像以上に先ほどの戦いでダメージを受けた事は間違いない。

「ちょっと、何よ、この手は!」

 重度の熱傷で最早、手としての役には立たない手を見るなり、更にさつきの怒りが爆発。しかし、そんな事を言われても、手ぐらいの犠牲で済めば御の字。
 実際、身体すべてが消し炭に成って居たとしても不思議ではない状況でしたから。

 あの猛烈な光が発生していた現象が、対消滅と言われる現象だったのならば。

「大丈夫や。既に血液は手の先までは流れていない。神経もカットしている」

 さつきが両腕を斬り落としてくれたなら、その辺りに植えている木から、一時的に手を再生して戦闘を続ける事は出来るから問題ない。
 最早、常軌を逸している、としか言い様のない言葉を、淡々と続ける俺。少なくとも真っ当な人間ならば、この言葉は出て来ないでしょう。
 但し、俺自身は別に腕を失うのはこれが初めてと言う訳ではない。確かに視力が回復しない場合、多少の影響はある。例えば遠近感などが多少は曖昧となるなど。しかし、それでも()()だ。大勢に……これから先に予測される戦闘に大きな影響はない。
 ……と思う。

 大体、仙人と言うのはそう言う存在。ハルケギニアに召喚され、湖の乙女と再会してからの俺は、それ以前の俺とはかなり違う存在へと変化しつつあるのも事実。
 更に、タバサと血の盟約を結んだ事により、俺には吸血鬼の回復力が多少、付与されている。

 先ほどの攻撃でも、俺の息の根を完全に止めるには僅かに届かなかった、……と言う事なのでしょう。

「あんた、そんなに死に急ぎたいって言うの?」

 その手じゃもう今夜は何もしなくて良いわよ。
 それまでの激高した雰囲気から一変。まるで姉が弟を諭すように、普段の彼女からは考えられないような優しい声音で話し掛けて来るさつき。一瞬、俺の左手に触れようと自らの手を差し出し掛けて、しかし、それは流石に躊躇われたのか直接触れて来る事はなかった。
 ……おそらく、俺の想像以上に熱傷が酷い状態なのでしょう。しかしそれは、俺に対しては無用の気遣い。

「そんな訳はないやろうが」

 確かに悪心は続いている。妙に息苦しい感覚。ついでに非常に大きな脱力感。それに、これが決定的な心臓の鼓動の異常。
 仙術の基本は身体の理解と支配。それは当然、不随意筋である心臓にも及ぶ。つまり、大抵の仙術を行使出来る道士や仙人は、自らの心臓を自在に操る事が出来る、と言う事。
 そのはずの俺の心臓が、現状、自らの意志で完全に制御出来ない状態。無理矢理に口から息を吸い込み、気を抜けば止まろうとする心臓や肺を強制的に動かし続けている今の状況は異常事態だ、と言わざるを得ない。

 しかし……。

「少なくとも俺は生き残って、犬神使いの封印にも成功して、今ここにいる」

 これ以上の結果が何か必要か?
 敢えて今の体調の事は無視をして、逆にさつきに対して問い掛ける俺。

 そう。今の俺の状態は普通の人間……ドコロか、心臓が動いて血液を送り出して生きている真っ当な生命体なら、とっくの昔に死亡していても不思議ではない状態だと言う事。
 おそらく想定以上に被害を受けて仕舞った筋肉から大量のカリウムが血液内に流出。それが心臓に悪影響を及ぼしているのでしょう。

 但し、それがどうした。俺は未だ死んではいない。心は折れてはいない。
 未だファイティングポーズを取る事を止めてはいない。こんな人間に対して、後ろで黙って見て居ろ、と諭したとしても、聞く訳がない。

 特殊な呼吸法と、大地から、自然から直接気を取り入れる事で表面から見て、分かり易い形で受けた傷に関しては徐々に回復しているのは間違いない。それに、未だ有希に施されたドーピングは効果を発揮。その結果、普段よりも大きい龍気を生成中。
 問題は、あの猛烈な勢いで発生していた光子が何らかの放射線を含んで居た場合に、その時に受けた可能性のある細胞へのダメージの回復は、今、この場では難しい――

「おやおや、あの程度の相手を守る為に、其処まで被害を受けて仕舞われましたか」

 
 

 
後書き
 おかしいな。楽勝……ここまでの戦闘シーンは一話で解決するはずだったのだけど。
 まぁ、今まで事件を起こした当事者を封印出来なかった反省を踏まえてこの作戦に臨んでいるはずだから、この展開は問題ない。
 ここは予定通り。
 問題は這い寄る混沌の一顕現に過ぎないヤツに、これほどの術が行使可能か、と言う点ぐらいですか。

 それでは次回タイトルは『失明』です。
 
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