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至誠一貫

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第一部
第六章 ~交州牧篇~
  八十四 ~復活、青竜刀~

 翌朝。
「おはようございます、歳さま」
「あ、おはようございます」
 執務室に、桜花(士燮)と愛里(徐庶)が待っていた。
「おはよう。桜花がこの時分から顔を見せるとは、珍しいではないか」
「はい。ご報告したい事がありまして」
「聞こう」
 私が席に着くと、桜花は話し始めた。
「各郡の戸籍再調査を行っている事、ご存じかと思います」
「うむ」
「その結果をまとめていたのですが、気がかりな事が」
「……お前が態々報告に参る事だ。重大な事のようだな」
「はい。歳さまが交州に入られて以降、人口が増加傾向にあるのですが……ここのところ、それが急増していまして」
 桜花の表情は硬いままだ。
 急増と一言で片付けるには、あまりにも尋常ならざる事態という事か。
「だが、更なる発展の為には人手は足りぬであろう?」
「仰せの通りです。ただ、この交州では、徒に人口が増えるのは好ましいとは言えません」
「…………」
「最大の理由は、食糧にあります。この交州は耕作適地に乏しく、生産量を一気に増やす事は困難なのです」
 その言葉に、愛里が大きく頷いた。
「歳三さんもご存じかと思いますが、交州はもともと人口が少なく、未開の土地がたくさんあります」
「そう聞かされている」
「それに、桜花さんが上手く治めていたとは言っても、異民族の出入りがあった為、耕地そのものが荒れがちな場所が少なくありません」
「……うむ」
「徐々に開梱も進めていますし、収穫高も上がっていくでしょう。ただ、このままの勢いで人が増えるとなると」
「追いつかぬ、か」
「……はい」
「流民が増えた原因は?」
「いくつか考えられます。私見ですが、宜しいでしょうか?」
「勿論だ。お前は軍師としても一流、そうであろう?」
 愛里は文官に徹してはいるが、その才は朱里や稟らに見劣りするものではない。
 今後、軍師として働いて貰う場面も増えるやも知れぬ。
 当人はその意味であまり表には出ようとせぬが、その辺りは臨機応変で構わぬ筈。
 それに、軍師は戦場でしか働き得ぬ、などという事はない。
 ……ふっ、私も些か頭が柔らかになったか。
「……では、申し上げます。一つは、歳三さんと桜花さんの治政に拠るところが大かと」
「私の治政がどうかはともかく、歳さまが赴任されて以降、治安は格段に良くなりました。戦火に怯える事なく暮らせる事、この時勢ではなかなかに望めない事ですから」
「無論、冀州での成果がそのまま、私達の評価に繋がっている事もあるでしょう。それから、先ほども申し上げましたが……食糧事情が一番の要因でしょう」
 確かに、庶人や兵を飢えさせる事のないよう、細心の注意は払ってきたつもりだ。
 遠い戦国の世、英雄と呼ばれる人物は数多いたが、彼らに共通していたのは『食』。
 十分な食糧を確保でき、その生産の礎となる土地を得る事、これなくして覇権など得られる筈もなかった。
 土地があれば兵を養え、民も逃散する事なく留まる。
 結果、より大きな力を手にするようになり、その名を轟かせる事となる。
 ……一面でしかないであろうが、人とはそうしたものと考えている。
 そう考えると、私もまた名を上げる結果となってしまっているのだが。
「既に朝廷の権威は失墜しています。庶人が頼るのはありもしない権威を振るおうとする者ではありません。力があり、そして食を得られる土地を守り通せる人物です」
「桜花、私がそうだと?」
「ええ」
「だが、それならば劉表や睡蓮(孫堅)らもそうだと言えるぞ」
「ふふ、でははっきり申し上げましょうか。孫堅様は確かに武に優れ、英雄の気質は備えています。……ですが、揚州牧となって日も浅く、その実効範囲は呉郡を中心とした東部の一部に過ぎません」
「残念ながら、それ以外の郡は未だ、孫堅さんに従わない太守や豪族も少なくないとか。それだけ、揚州は治めにくい土地柄ですから」
 と、愛里。
「それから荊州ですが、劉表様は荊州そのものはしっかりと掌握していました。少なくとも、最近までは」
「……今は違うと申すか?」
「そう見ています。現に、紫苑は劉表を見限り、歳さまの許にいるではありませんか。遠からず、荊州は内部崩壊を起こすと見ています」
「ふむ」
「益州は言うまでもありませんね。劉焉様が亡くなり、今は混乱の最中。不安に駆られた庶人が、逃散するのは必然でしょう」
「もうおわかりでしょうが、流民は周囲のあらゆる州から入ってきているんです。……調査が追いつかない程の勢いで、ですが」
 二人程の者が、深刻な顔をするのもやむを得ぬ事態という事か。
 だが、流民が入ってくる事を阻止するのは難しかろう。
 力尽くで押し止めれば、それは悪評を招くのみ。
 ……それこそ、宦官共に私を糾弾する口実を与えかねない。
「それにしても桜花」
「はい」
「なかなか、他者への評価は辛辣なのだな。私に手厳しかったのも当然という訳か」
「歳さま、私はそういう性分です。……それに、過ぎた事を蒸し返さないで下さい」
 あまり表情を変える事のない桜花だが、珍しく拗ねたような顔をした。
 それを見た愛里、思わず噴き出す。
「ぷっ! 桜花さんも、そんな顔をするんですね」
「愛里。わ、私だって木石じゃないのですよ!」
「す、すみません。でも、私や彩さんが本気で怒った事も忘れないで下さいね?」
「……そうでしたね。でも、私はその人となりを見定めるまでは、そうそう心を許すつもりはないですけどね」
「二人とも、その辺にしておけ。話が横道に逸れている」
「……コホン。失礼しました」
「すみません、私まで。ところで歳三さん。孫堅さんが城下に来られているとか」
「昨日会った。城内に案内しようとしたのだが、内密の話という事でな」
 私は、睡蓮から聞かされた事を、二人にも全て話した。
 真名を預かり、共に励む仲間に隠し立てをするつもりはないし、その必要もあるまい。
 無論、他の者達にも話しておかねばならぬ内容だが、各々にも務めがある。
 頃合を見て、個々に話すより他になさそうだ。
「なるほど。確かにあまり他言出来る内容ではないですね」
「……ただ、その為だけに態々、という気もしますが」
「何か、他に目的があると言うのだな?」
 愛里と桜花、顔を見合わせてから頷いた。
「ならば、問い質せば良かろう。腹に一物、というのは性に合わぬ奴だ」
「そうですね。……とりあえず、今日の落款を片付けましょうか」
 愛里の合図で、文官らが書簡の山を抱えて入ってきた。
「では、私も自分の仕事に戻ります」
 剣を振るっている方が気は楽だが、さりとて放り捨てる訳にもいかぬからな。
 励んで、少しでも早く終わらせるとするか。

 夕刻。
「かーっ、やっぱ美味え!」
「あら、孫堅様もお気に召しているのですね?」
「あー、堅ぇ。俺の事は睡蓮でいいからよ、な?」
「はっはっは、相変わらず豪儀ですな。ささ、もう一献」
 歓迎の酒宴、案の定この三名が大いに盛り上がっている。
「暫くぶりだな、飛燕」
「ええ、彩(張コウ)も元気そうで何よりです」
 そして、此方では旧交を温め合っているようだな。
「疾風(徐晃)。他国の間者は全て排除出来ているのだな?」
「はい。明命殿にも手伝っていただきました、これでも防諜が不完全というならお手上げです」
 明命もまた、睡蓮の身辺警護を兼ねて交州に来ていた。
 姿は見せぬが、城外を疾風の手の者と共に警戒しているらしい。
「では歳三殿。私も警戒に戻ります」
 そう言い残し、疾風は姿を消した。
 これで、心置きなく話せる状態になった。
 ……が。
「おお、いい呑みっぷりだな! 紫苑」
「いえいえ、睡蓮様こそ流石ですわ」
「このメンマも召し上がって下され。私の秘蔵ですぞ」
 本当に、酒を呑みに来ただけではないのか、と言われても反論出来ぬのではないか?
「飛燕、良いか?」
「あ、歳三様。どうぞ」
「殿。私は外しましょうか?」
 気を利かせようとして、彩が腰を浮かせる。
「いや、構わぬ。……睡蓮があの調子なのでな、飛燕に話を聞きたい」
「はい。あれでは仕方ありませんものね」
「全く。お前も殿のところに来れば良かったのだ。孫堅殿が英雄である事は認めるが、あれでは」
 端正な顔を顰める彩。
「そう言うな。睡蓮様はああ見えて、一癖も二癖もある揚州の豪族達を束ねているのだ」
「それはわかるが……しかしな」
「ふふっ。まぁ、あの彩が心底惚れる御方を前にしては、仕方ないな」
「ああ、私は殿をお慕い申し上げているぞ。主君として仰ぐのに、これ以上は望めまい」
「それだけではないだろう?……おっと、失礼しました。歳三様」
 根が真面目な飛燕も、親友の前ではこのような素顔を見せるのか。
 人というもの、そう容易くは全てを推し量れぬな。
「お聞きになりたいのは、態々州牧たる御方が自ら訪ねて来た理由……そうですね?」
「そうだ。昨夜の話と、酒が呑みたいが故に、というだけではあるまい?」
「その通りです。歳三様もご承知の通り、睡蓮様は懸命に揚州の庶人が安心して暮らせるよう研鑽を重ねておられます」
「うむ。庶人を蔑ろにしてのさばれるような時勢ではない以上、至極当然であるな」
「ただ、揚州も黄巾党の乱以降、土地が荒れ果てています。……いえ、それは揚州に留まりませんが」
 飛燕は、ふうと息を吐く。
「今のところ、飢餓にまで発展する様子はありませんが……建て直しが進むにつれ、食糧生産が課題となっています」
 程度の差はあるが、我らと事情は同じという事か。
「待て、飛燕。確かに孫堅殿には以前食糧を援助して貰った恩はあるが。それを返せ、という事か?」
「違うわよ、彩。先だっての山越の一件、あれで睡蓮様は貸し借りなしと仰せだから」
「なら、何故食糧の話になるのだ?」
「だから、話は最後まで聞きなさいって。歳三様は魏郡時代より、農作について様々な新しい試みを取り入れていると伺っています」
「うむ。たまたま持ち合わせた知識を、皆に実践して貰っているに過ぎぬが」
「ふふ、またご謙遜ですね。……その一部でも、ご教示願えないかと」
「なるほど。農作技術移転を、という訳か」
「はい。無論、兵を養うという面もありますが……。睡蓮様も、揚州の庶人が飢えに苦しむ姿を見たくないとお考えなのです」
 庶人の為、と言われれば断る理由はない。
「だが、一つわからぬ事がある」
「何でしょう?」
「農業というもの、全てを極秘裏に行うのは不可能だ。こうして態々頼まずとも、睡蓮ならば入手する事は出来るのではないか?」
「そうでしょうね。ですが、睡蓮様は歳三様相手にそれはしたくない、と」
「真っ直ぐな睡蓮らしいな」
「ええ。それに、将来の息子相手を出し抜くような真似をしたら娘達に恨まれる、とも仰せでしたが」
「……随分と殿にご執心なのだな、孫堅殿は」
 彩は、不機嫌さを隠さずに言った。
「殿は、どうお考えなのですか?」
「私には、そんな望みはない。睡蓮が勝手に申しているだけであろう」
「しかし、あの押しの強さでは!」
「落ち着け、彩」
「いいえ。だいたい、孫堅殿だけではありますまい。曹操殿に袁紹殿、馬騰殿。殿に並々ならぬ興味をお持ちの方々は、枚挙に暇がありませぬ」
 珍しく、彩が泥酔しているようだ。
 飛燕との再会で、酒が進んだのであろうが……。
「そもそも、殿も悪いのですぞ。その気がないのなら、はっきりと拒絶すべきです」
「そこまで節操なしのつもりはないのだが」
「いえ、十分過ぎる程殿は甘い。いいえ、甘過ぎます」
 ずい、と彩が身を乗り出した。
 酒香を多分に含んだ吐息が、熱を帯びている。
 他の者も、何事かと此方を見ているようだ。
「彩、失礼」
 と、飛燕が声をかけた刹那。
 彩が卓上に突っ伏した。
 ……手刀を首筋に浴びせたか。
 一歩誤れば危険な行為らしいが、何の躊躇いも見せぬとは、な。
「全く、彩がここまで酔うとは」
「手慣れたものだな」
「ふふ、長い付き合いですから。部屋に運んでしまいましょう、どちらでしょうか?」
「仮にもお前は客人、そのような事はせずとも良い」
「そうですよ。ご主人様、お任せ下さい」
 愛紗がやって来て、彩を背負った。
「大丈夫か?」
「お気遣いなく。鍛錬でご覧いただいた通り、もう痛みもありませんから」
「そうか」
「……ですから、そ、その……」
 と、顔を赤らめながら上目遣いで私を見る。
「いいだろう」
「ありがとうございます。では、連れて参ります」
 足取りも軽く、愛紗は立ち去る。
 あの様子では、本復と見て良いな。
「本当に慕われているのですね、歳三様は」
「運が良かったのであろうな。私一人では、今こうして生きながらえている事は能わぬであろう」
「運も実力のうちと申します。運が良いだけでは、人はついて行きませんよ?」
「……そんなものか。それよりも飛燕、農業について知りたくば、明日愛里に申すが良い。私から話しておこう」
「ありがとうございます」
「睡蓮があの調子では、お前に言っておいた方が確かであろう」
「はは、そうですね」
 陽気な酒だ、悪い訳ではないが……些か、羽目を外し過ぎではある。
 尤も、咎めたところで改まるとも思わぬが。
 ……と、睡蓮と視線が合った。
 が、睡蓮は不敵に笑みを浮かべると、再び酒杯を傾けた。
「どうやら、孫堅さんは他にも何か狙いがありそうですねー」
「ただ、少なくとも歳三様に不利益をもたらす事でないのだけは確かですね」
 酔った風情もない軍師二人が、私の両側に腰掛けた。
「ほう。何故わかる?」
「まず、孫堅殿はそのような腹芸を得意とされる方ではありません。無論、強かな面もありますが」
「見方によっては、ああして騒ぐ事で耳目を集めて、注意を逸らすという場合もあり得ますがねー」
「……お前達。私が微塵もその可能性を考えていない事を承知の上で話しているな?」
「当然です。その程度弁えられずに、歳三様の軍師は務まりませんから」
「勿論、お兄さんが風や疾風ちゃんの手配りに気付いている事も織り込み済みなのですよ」
「ならば、睡蓮の今一つの意図、何と見る?」
「そうですねー。例えば、太史慈さんと二人がかりでお兄さんを襲うとか」
「風。冗談にならない事を口にするのは感心しませんよ?」
「むー。なら稟ちゃんは、孫堅さん達にお兄さんが食べられちゃってもいいと言うのですかー?」
「そうではありません。ただ、何らかの動きがある事だけは確かです。目を離さぬ方が良いでしょう」
 何時にも増して、稟の口調は冷静そのものだ。
「今日の稟ちゃんはつまらないのです」
「つまらなくて結構ですよ、風。今の私には、何も恐れる物がないのですから」
 ……理由はわからぬが、とにかく自信に溢れている事だけは確かだな。
 頼もしいに越した事はないのだが、さて。


「ご覧下さい、ご主人様」
「確かに癒えたと見て良いな、傷跡もわからぬ程だ」
 臥所で、愛紗が腕を見てくれとせがんできた。
 快癒している事を、どうしても私に確かめさせたいらしい。
「多少筋肉は落ちてしまいましたが、それは鍛え直せばどうとでもなります」
「あの動きでか?」
「ええ。鈴々の矛を受けるのに、やや手の痺れがありました。以前にはなかった事です」
「……ふむ」
「ですが、戦場で後れを取るような事はありませぬ。ご安心を」
「そうか。心強い事だ」
「……ご主人様。ん……」
 鼻孔を、愛紗の香りがくすぐる。
 軽く口づけすると、愛紗の眼が潤み始めた。
「武人として剣を手にできない事が何より無念でした。……ですが、今は一人の女として」
「何も言うな」
「……はい」
 愛紗は微笑むと、身体を預けてきた。
 この軽い身体の何処に、あれだけの力が秘められているのであろう。
 無論、それは星も彩も疾風にも言える事だが。
「……ご主人様」
 不意に、愛紗が腕に力を込める。
「何だ?」
「他の女の事など、今はお考え下さいますな」
「……何故、そう思う?」
「女の勘ですよ。それ以上でもそれ以下でもありませぬ」
 ふっ、何とも恐ろしい事だな。
「わかった。……来い」
「はいっ!」
 愛紗の温もりが、柔らかく私を包み始めた。
 今はただ、それに身を委ねるとしよう。 
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