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或る短かな後日談

作者:石竹
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彼女達の結末
  二 衝動

 瓦礫の音。瓦礫の音。続き、響き渡る巨大な足音。音の無い世界に遠く響き反響する暴力的な音の連なりは、その巨体。並のアンデッドとは比べ物にならない、そのアンデッドが――アンデッド達が転がした。
 私たちの身長では、その巨体の膝にさえ届かない。それほどに巨大な体、姿。筋張り、歪に長い腕と脚。抉られた様に細く、肉を削ぎ落とされたような腹。奇妙なマスクを被ったそれは、私の記憶。僅かに残り、そして、未だ、浮かび上がる事無く不鮮明な記憶の中にも存在していて。

「……ゴライアス」

 彼女が腕の中で呟く。記憶の中のそれと殆ど変わらない形状。私が生きていた頃には――文明が壊れてしまう前には。肉の重機として他のアンデッドよりも広く活用された存在……そして。それはそのまま、兵器として転用出来て。その巨体に似合わず、如何なる状況であっても姿を見せ得る存在。人の生活に最も近い場所にあったアンデッドであるが故に。だから。
 交戦する可能性は高いとして。その巨大な兵士に対する情報は、過去の私にも植え付けられて――

「っ!?」

 脚の進む先、其処にあった瓦礫に脚を取られる。獣の足、頑強な脚は、傷を負いこそしないものの、危うく。腕の中のリティと共に、その場で転がりそうになる。

「マト!? どうしたの!」
「大、丈夫。ごめん。このまま走る」

 再び、地を蹴る。
 私の記憶。私の記憶。否応無しに引きずり出されるその情報は、私の背後、図体に似合わず機敏に、その長い足で私たちへと追いすがる巨人……ゴライアスに関するもので。
 強化された筋肉。腕に仕込まれた棘。リーチの長さ。被るマスクの意味。見た目の屈強さとは裏腹、取り外し、換装を容易とするための、脆い肉体……

 対峙したときに有用な知識。敵のその構造。何故、そんなものを。私は彼女と同じく軍人だったのか、違う。違う。違う。

 足が、上手く動かせない。揺れる視界、止まる足。体が震え、身が強張る。

 私が持つ知識は。それを知った時の私は。教え込まれた時の私は。


 確かに、獣の、足があった――


「――あ、あああッ、あああああああッ!」


 頭が割れるように痛む。胸が張り裂けそうに痛む。リティに何か呼びかけられるも、遠く、遠く、その声さえも、私の頭を掻き乱すように反響して。
 違う。違う。違う。私の見た景色は、記憶、けれど、それは、違うのだと。信じようと声を上げ、地面を踏みしめようとして。人の足ではない歪な脚。その脚に伝わる感触は。自分の足ではないのだ。造物主が縫い付けた脚だ。違和感に満ちる筈だ。アンデッドの知識を皮切りに、断片的に鮮明に、切り替わり流れるように映り浮かび上がる記憶の群れ。男の姿が有る、女の姿が有る、白衣の姿が有る、兵士の姿が有る。

 そして。リティの姿が有る。アリスの姿も有る。朧に掠れ映し出された幾つもの断片、その一端に映りこんだ、私と共に目覚めた姿と、そう、変わらず。けれど。
 私の記憶に有るその脚は。違う。元の私の足じゃない。これじゃない、違う、違う、違う。

 培養槽の中で浮かんだ。私の本当の姿は――

「違う、違う、違う、これじゃない、これじゃない!」

 走ることは疎か、立っていることさえ出来ず。彼女の体を()(かか)えたまま、その場に倒れ伏し。舞い上がる埃、体の重みを全て、地面に預けて。それでも。
 頭の痛みが。胸の痛みが止まない。体の中に巣食う蟲、肉蛇達がもがき蠢き、私の皮膚の下、肉の下を這い回り。いや。
 脚が。私の足が。そうで、あるならば。この、蟲も。肉蛇も。また、記憶の中のその時には、既に、既に……

「――ト、――マト! どうしたの、マト、マト……!」

 私の手から抜け出した彼女が私へとむけて呼びかける。そんな声を聞きながらも、体の中の熱が失われていくのを感じて。頭を割り、中を掻き回すような痛みは、まだ止まず。けれど、胸のうちに。溢れて渦を巻いた熱は、何処か。抜け落ちるように失せていって。

「……リティ」

 血塗れの腕。知らず知らずの内に抱きしめた自身、抱えると共に傷つけた頭部、僅かに埋まっていたらしい爪、けれど。傷はもう無くて。あるのは纏わり付いた赤だけ。再生する体、異形、変異。自分が、何処までも怪物であること。

 それを。それを、理解して。

「リティ……リティは、憶えてる? あの病院で目覚める前の……こう、なる前の。私のこと」

 彼女は。私の言葉に。彼女は、疑問を浮かべるばかりで。言葉を紡ぐことは。彼女のその、綺麗な声、綺麗な声で。

 紡ぐことは。無くて。


「……ごめん。もう……大丈夫」


 地に。手のひらを着く。

「待って、マト、どうしたの……全然、大丈夫になんか……」

 埃塗れの体を起こし、頭を振る。流れた血、粘菌が、髪を伝ってはたはたと飛ぶ。地面や瓦礫に、赤く小さな染みを付ける。
 私は。自分のいた場所を思い出してしまった。私は。自分がどうやって生まれたのかを思い出してしまった。

 思い描いていた大切な記憶、人間としての、少女としての。そんな、明るい思い出なんてものは。私は、初めから。何一つとして持っていなかったのだと。大切な人との過去は、硝子一枚のそれよりもずっと遠く隔たれた……憐れみの対象。見下ろされるだけ、触れ合うことなどない関係で。

「……倒さないと」

 迫り来る巨人へと目をやる。それは、もう、すぐ其処。その、怪物の腕がいつ、振り上げられ、振り下ろされるかも知れず。三体の巨人。人工的に映し出された夕暮れの空に三つの影。ゆらゆらと揺れるように移動する重心と近付く足。その巨人を市街地で相手取るのは危険だと知るも、場所を移す猶予などなく。それに。
 今の私は、何故か。酷い、飢えを感じていて。それは、体を突き動かし。向かい来る敵へ、今すぐにでも飛び掛りそう。


 腹部に。手を掛ける。鉤爪の切っ先を当て、息を吐く。

「マト……何を、思い出したの。ねえ」

 爪を腹部を滑らせるにつれ、液体が頬を伝っていく。押し寄せる衝動に身を任せ、心を抑え殺していく。

「……ごめん……リティ。ごめん。後で、後できっと、話すから」

 本当は、分からない。話せるかなんて、分からない。会話を断ち切るためだけの言葉、本心を隠すための言葉。
 彼女が大切であることは決して変わらず。共に在りたいことは変わらず。けれど。

 けれど、今は。胸の中に満ちるもの。抱いてしまった思いを……抱いてしまった、私を――



 ――私を。見ないで、欲しかった。




◇◇◇◇◇◇




 黒く蠢きのたうつそれは蛇に似た。無数の蟲、繋がれた体、開いた口は赤く。長い長い茎の先に鮮明な色の花弁だけを乗せたようなその姿は、彼女と行動を共にしてきた中、一度たりとも自ら進んで解き放とうとはしなかったそれ。狂気に犯され、心を嬲られ、我を忘れたそのときにだけ。心を結んだ……少なくとも。私はそう。きっと、彼女もそうだろう。そんな私の声すら届かない、その時にだけ、半ば無意識の内に解き放っていた異形の証。

 彼女の嫌ったその姿を。言葉を交わすことが出来るだけの理性が残っている、今。彼女は自分の意思で、私へと見せて。彼女の目で、見て。

「マト」

 歩みだす彼女に。呟き投げた言葉は、届き。私の呼びかけに、彼女は。小さく頭を振って応えた。

「……大丈夫。きっと……負けないから。リティも、気をつけて」
「でも……っ……」

 このままで。良いはずがない。彼女を放っておいて、良いはずがない。でも。
 言葉が。言葉が。見つからない。見つからなくて。

「……分かっ、た。マトも……マトも」

 気をつけて、と。やっと、紡いだ、紡いだ言葉。掛けるべきそれとは異なる言葉さえも置き去りに。死肉の巨人へ、駆け出して。

「……ごめんね、マト。私がもっとしっかりしていれば、あなたに……こんな思いをさせなくて、済んだかもしれないのに」

 銃を構える。狙いを定めて、引き金。乗せた指、震えそうになる指を諌めて。


 息を吸う。必要の無い呼吸。気持ちを落ち着かせるためだけの行為。
 今の戦い。この戦いに集中する。一刻も早く終わらせること。それだけを考えて。


 巨体の胸へと銃弾を放つ。鳴り響いた轟音を皮切りに、巨人たちへと駆け出していたマトが跳躍する。私の撃ち出した銃弾が先頭の巨人の胸を穿ち、巨大な肋骨、その中央に穴を空け。衝撃に揺れたその体、よろめく体……突き出した膝に。跳躍したマトが足を着き、蹴り、私の与えた損傷へと向けてまた、跳ぶ。溢れ出した赤い粘菌を体に受けながらも私の付けた傷へと腕を振り上げ、夕日を受けて煌いた爪を振り下ろし、貫き、切り裂いていく。

 巨体にとっては。胸を穿たれ、腹を引き裂かれようとも、活動を停止するには及ばない傷。僅かに動きを鈍らせるに留まり。深追いをする事無く飛び退いたマト、その体を追って前傾姿勢になりながら、粘菌塗れの巨人が追って。振り上げられて下ろされた腕、掻い潜り、姿勢を落とした巨人の頭に、再び銃弾を叩き込む。
 ゴライアスの頭を包む奇妙なマスク、鳥類の頭にも似たその覆面を焼き焦がして。落ちたマスク、覗いた頭部は、爆ぜ。首を失っても尚動く姿、夕日を背に黒く塗りつぶされ不恰好な……いや。この場で、今、一番不恰好なのは。

 大切な姉妹のことを。何も思い出せず。彼女の胸の内を、理解できない、私で。

「ああ、ああああああああッ!」

 彼女の叫び声が街に響く。ゴライアスの腕が落ち、足が捥げ、見た目のそれよりも脆い体が崩れていく。そして、響き渡るマトの声……獣にも似た声。威嚇のそれ、自身を奮い立たせるそれではない。それは、慟哭。血の涙を流し、牙を覗かせ、腹から這い出し蠢く肉蛇を死肉へと向けて嗾け貪るその行為に対する慟哭。食らい、食らい、傷を癒し。私にはない力。アンデッドとしても異端、死肉と粘菌を口に含み飲み干すたびに自身の血肉へと変える力。
 それを振るう、彼女の姿が。余りに、余りに痛ましくて。

「マト……マトっ……」

 涙が零れる。零れる涙を拭う暇も無く、飛び退き。三体の巨体、崩れて地に落ちもがく一体、残るは二つ。その内の一体が伸ばした腕が、私が蹴ったアスファルトを抉る。金属片の埋め込まれた腕、怪物の手の中で潰され、零れ落ちた黒い破片。マトは、もう一体の巨人を相手取り。分断され、いつ気が触れてもおかしくない彼女へと声を送ろうと、左耳に備えた装置に指を掛けるも、追い迫る巨人。それから逃れることを強いられ、反撃を強いられ。自身の身を守ることで手一杯の有様で。
 廃ビルを殴りつける長い腕。破砕音と共に飛び散り、落下する瓦礫、鉄筋、砕けた硝子。呼吸が必要であったならば咳き込んで居ただろう塵煙の中、凶器の雨と共に、歪に長いその足を以って私の行く手を阻む巨体。避けれど、逃げれど、その手の上。距離を取る事さえ儘ならず。苦し紛れに銃を構えて。
 引き金を引き、腹を打ち抜き。零れ落ちる綿を横目に、苦しむように振り抜かれた横薙ぎの一撃を身を屈め躱す。湿った音、肉の落ちる音。何処までも何処までも残酷で、只、只管に暴力的な光景。見慣れた筈の光景なのに。慣れた筈の世界なのに。

 震えが。震えが、止まらない。迫り来る巨体への恐怖か。自分が壊されることへの恐怖か。彼女が壊されることへの恐怖か。壊すことへの恐怖か。
 それさえも分からない。只、只、体に走る震え、胸の奥に突き立つ痛み。構えようとする銃身は私の体と同じく揺らぎ。強張った体、狙いをつけることさえ儘ならず。このまま、引き金を引いたところで――


「――マト……」


 唐突に、湧き上がる思いは。目の前のそれから目を逸らすように満ちた思いは。この、恐怖に塗れた世界、振り上げられた巨腕、一瞬の後に起こるであろう惨劇。それを、予期しても、尚。浮かび上がる彼女の顔、声、姿、動作、笑み、温もり、心臓の鼓動。彼女に触れたい。彼女と触れ合いたいと。
 彼女の元へと駆けつけたい。彼女の視界の中に在りたい。彼女の傍らに在り続けたい。自分と彼女を引き裂かんとする悪意に対する恐怖を前に。湧き上がり波打ったマトに対する過剰なまでの感情。恐怖に塗り潰されそうな私の心を浸し侵し包み込んだそれは、正気のそれとは異なった。

 狂気のそれ。只、只、彼女に対する思いだけに塗り潰されたこの心は、心地良いと感じるほどに甘い思いに満ち満ちて。今なら。

 今なら。恐怖を忘れて。震えることさえ忘れて。転がされた賽の出目を変えるように。書き連ねられた物語、望まないシナリオを書き換えるように。在らぬ方向を向いた銃口を巨人の肩へと引き戻し、引き金。乗せた指を、激しく昂ぶる胸の内とは裏腹に、静かに。一片の躊躇さえなく強く引いて。

 千切れ落ちる巨大な腕。肩、胸、抉り、穿ち。バランスを崩し、残る片腕を地に着いた巨影と、粉塵。舞い上がる中で。

 彼女へと。左耳の装置を起動し、私の声を指向性を持ったそれへと変換する。向けるのは、今も、粉塵の向こう、死肉の向こうで戦う、彼女で。

「ねえ、マト。私の声、聞こえてる?」

 返事は無く。聞こえるのは切り裂く音、潰す音。砕く音、引き千切る音。私の投げ掛ける声は、一方的に語りかけるだけのそれ。対話と言えるのかも怪しい。私が、只。思いを伝えるためだけの。

「マト。マト。この戦いが終わったら、昔のあなたについて、聞かせて。私も、全部話すから……ねえ、マト。どんな過去であっても構わない。私は、あなたのことを、もっと深く知りたいの。出来る限りを共有したい。だって、私は――」

 迫る。巨大な手の平。棘となって反り立つ無数の金属片、スパイクを備えた、歪な腕。


「――私は。あなたのことが、大好きなんだから」


 子供っぽい言葉。自分でも嗤ってしまうほど拙く。けれど、心からの言葉を紡ぎ。紡ぐと共に、肉が爆ぜる。言葉と共に向けた銃口、死を齎す巨大なその手に小さな死の手を以って対峙し、その中央を打ち抜いて。
 肉が舞う。血が降り注ぐ。弾け飛んだ赤色の肉片、水滴は、灰色の世界に色を挿して。

 また。私と彼女の間に立つ、その巨体を。私の撃ち貫いた巨体を。黒い蛇、煌いた刃。音、音、音の濁流と共に食らい、切り裂き、崩し、壊し、そして、踏み越え。


 彼女が、来る。黒い髪。光を受けて輝いた瞳。両手の爪に、獣足、尾。私の。最も大切なひとが。

「……リティ」

 マトが。死肉を掻き分け、悪意を散らし。彼女が、私の前に立って。

「マト……」

 頬が綻ぶ。互い、互いに血塗れで。酷い有様。けど。

 沈む直前の夕日。対峙した死肉が動きを止めた後の静けさ。私と彼女だけの世界。穏やかささえ感じる程の。

「マト」

 私は。巨体を踏み越え、目の前に立つ彼女。血に染まっても尚黒い。彼女の姿、姿へと。

「マト。私は」
「私は」

 声を、投げる。私へと。彼女は、言葉を断ち切り。彼女の言葉を、投げかけて。

「私は……きっと。生きてた頃も。今の……アンデッドとしての、この姿と。同じ、姿をしていたみたい」

 紡ごうとしていた。言葉を、飲み込む。彼女の姿は逆光。黒塗りの姿。瞳が輝き。輝く、形は。
 酷く不安そうな。酷く、悲しそうな。そんな、目で。私の目を。真っ直ぐに見つめ返していて。それでも。

「全部、話す。聞いて、いてほしい」

 私の願いを聞き届け。口を、開いて。

「……培養槽の中で生まれたんだ。水槽の中で生きていたんだ。実験室の外……壊れる前のこの世界なんて、元から知らなかった」

 言葉を聞く。彼女の過去を聞く。知る。私の思い出せていない、彼女の過去を。

「私は、人間なんて、ものじゃなかった。生きていた頃から、私は。只の、兵器だった。アンデッドだった。それより前の記憶なんて、無い。大好きだって、言ってくれたよね。でも、リティは昔、そんな私を、憐れむように見ていたよ。ねえ」


 ――リティは、今も、と。


 言葉を。今度は、私が。私が、断ち切る。銃を放り。真っ赤な血と灰色の肉の絨毯を踏み。駆け。

 彼女の体を。勢いもそのままに抱き締める。抱きしめるだけではない。だけでは、駄目なのだ。
 伝えなければならない。私の思いは。今の思いは。過去の私が抱いた憐れみでは……過去の私が抱いたそれではないのだと。


 目を瞑る。降ろした目蓋が溜まった涙を押し流し、私の頬に線を引く。引いた涙のその線に、冷たい風が当たり撫ぜ。

「リ――」

 口を付ける。僅かに首を傾けて。首を、頬を、出来る限り、優しく。けれど、衝動に駆られるまま強く抱き。彼女の唇へと、自分のそれを押し当てる。


 その唇は。只々、柔らかく。そして、酷く冷たくて。


 閉じた目蓋の向こうで彼女は、どんな顔をしているだろう。どんな思いを抱いているだろう。私を嫌うかも知れない。突き放すかもしれない。
 強引な口付け。何の許しさえもなく押し付けた感情。けれど、私は。伝えなければならなかった。伝える、言葉を知らなかった。だから。

 間違っているかもしれない行為を、その是非さえも知れないまま。

 零れ続ける涙が勢いを増す。拒絶されるのが恐ろしく。そして何よりも、彼女を。私の身勝手なこの行為で、傷つけてしまったかもしれないことが。思いを窺い知れない事が、酷く、酷く、恐ろしくて。

 唇を。抱き締めていた腕を緩め、重なっていた体を離す。
 離しながら。目を。閉じたままだった、目を。開こうと――






 ――開こうとした、その時だった。強く。離そうとした体。腰に、背に、手を回され、そのまま。強く、強く、抱き寄せられて。

 唇が重なる。再び。柔らかな、柔らかな唇同士が触れ合って。

 目を見開く。見れば、彼女は。目を閉じて。何処か。安堵したように、静かに。血の赤ではなく、透明な、澄んだ涙を流しながら。私の体を抱き寄せ、抱き締め、口付けを交わす、彼女の姿が――とても、綺麗な。彼女の姿が、其処にあって。

 私の目から、また、涙が零れだす。頬が濡れ、力が抜け。抱き重ねた体、触れ合わせた唇。此処で、彼女と共に居る。その、安堵が心を満たして。


 彼女に倣い、彼女を抱き締め。二人、唇を重ね続け。



 私は、そのまま。そっと、目蓋を。瞳を、閉じた。




 
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