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機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-

作者:桃豚(21)
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62話

 湯気が、立っている。
 降り注ぐ液体の感覚を肌に感じながら、クレイ・ハイデガーは正体のない漠とした表情で、シャワーを眺めていた。
 作られたばかりの施設だ。綺麗な設備に、念入りに掃除されているため、穴の一つ一つまで汚れが無い。
 水がタイルを叩く。肌の上を温い液体が伝っていき、指の先から滴り落ちていく。
 目に勢いの良いシャワーの噴水が入るのがなんだか痛くて、視線を下げた。嫌なものが目に入って、クレイは水浸しの髪を右手で乱暴に掻き上げ、今度は顔に水が当たらないように目一杯顔を上げた。手のひらには抜けた茶色の髪がぐったりと萎えていた。
 壁に寄りかかる。プラスチックの冷たくも暑くもない無機的な感触を背に、クレイは床に座り込んだ。
 謝罪とは、不正な出来事に際して発生する行為である。
 己は不正を行ったのだ。であれば何故、自分は躊躇っているのだろう。己が理知的な人間であれば、己が赦されるかどうかなどどうでもいい問題ではないか。
 膝が折り曲がった足に温い水が降りかかる。
 簡単なことだ。クレイ・ハイデガーは理知的でないと考えれば論理的であろう。ただ、クレイは己の格率に己の情念を据え置いているに過ぎないのである。
 クレイは、ゆっくりと立ち上がった。立ち上がる途上に湯を止め、鏡を見やった。水に塗れ、鼻先ほどまで伸びた前髪がべったりと張り付いていた。もう一度、前髪をかき上げた。
 そんなに嫌なのか、と鏡の中にいる男に問うた。鏡の中の男は14歳の子どものように顔を顰め、首を横に振った。
 脳髄が脈打つように跳ね、思考を弾き飛ばそうとする。その抵抗を抑え込み、だが待てと無理やり思考を続けていく。
 何故、嫌なのだろう。熱して赤くなった鉄の棒を首元から脊髄にねじ込んでいく。苦痛に顔を歪めた鏡の中の男は、一文字に口を噤んでしまった。ぶるぶると唇を動かすが、どうやら彼は言いたくないらしい。
 そうか、と肯く。言いたくないのだ、(じぶん)は。その理由は自分でもよくわかる。ぶちぶちと音を立てて脳みそが出血を起こしていくが、無視しよう。
 否定を口に出しかけた鏡の中の男が吃る。くだらないことと切り捨て、クレイはシャワールームのカーテンを開けた。
 広々とした―――収容人数的には妥当な広さだろう―――更衣室でさっさと服を着て髪を乾かす。フライトジャケットを羽織り、顔を上げる。鏡に映った己の顔は、ぼやけてよくわからなかった。
 支給品の時計を一瞥する。簡素で堅実、そんな見た目のそれの針は既に消灯時間を過ぎている。
 今から彼女の部屋に行くのは、おかしい。そもそも消灯時間を過ぎているのだから―――。いや、こういう時には善は急げ、なのだろうか。だが寝ているのを起こすのも悪いような。
 頭の表層で些末なことを考えている。コアに触れないように、わざとそうしている―――。
 足が重い。身体が怠い。視床下部から出てきたどろっとした何かが、身体を気怠くさせている。液化した鉛が末端で冷え固まっているようだ―――。
 途中壁に寄りかかり息をつく。壁に触れれば、痺れた手の感覚はあまりよくわからなかった。
 よたよたと階段を上がり、自室へ。
 ドアの前に立つ。灰色で新品のドアだ―――。
 何故か、一気に脱力した。安堵―――ほっとした、といっていい。心身の弛緩が毛細血管までぎっちりと詰まった鉛を溶解させ、液体が流れ始めた四肢の末端は痛いくらいだった。
 明日だ、明日の朝、彼女のもとに行こう。頭の中からふと出てきた考えにずきりと身体のどこかが痛み、呻きながらもタッチパネルに触れる。
 瞬間、ロックがかかっていなかったドアは嫌に素早く開いた。
 心臓が跳ねた。咽喉が窮屈に軋み、眩暈が視神経を突き抜けて前頭葉をずぶりと突き刺す。
 誰かいる。
 誰が居る?
 爪が手のひらの肉を引きちぎるぐらいに握りしめ、全ての想念を突っぱねた。恐ろしかった。
 誰もいないことだって、ある。最近はよくロックをかけるのを忘れてしまうことが多いと、誰かも言っていた。
 恐る恐る部屋に入る。入口付近の壁に埋め込まれたタッチパネルに手を触れると、LEDの光が部屋中の闇を隅々まで駆逐していった。
 目がくらんだのは明反応だけのせいではなかった。
 床には黒々した軍靴が脱ぎ散らかっていた。紐をしっちゃかめっちゃかに緩み、左足の重々しい軍靴が身を横たえていた。机の上には、開いたままの分厚く紙が黄ばんだ本が広がっていた。
 その他には、目立ったものは存在しなかった。ただ、ベッドの上に何かが寝転がっていた。
 白光を受け銀色を反射させた小さな塊。SDUを着たまま、すやすやと寝息を立てる彼女は、律儀にジャケットのファスナーをぴったりと閉めていた。
「エレア―――」
 思わず名前を口にする。安堵と緊張がぐちゃぐちゃに混ざり合い、クレイは所在なく足踏みした。
 頭がごちゃごちゃする。どうして彼女がここに居る。いや、おかしくはないのだが。
 心臓が早計を鳴らす。何を考えればいいのかがわからない―――鼻孔の奥にじっとりとたまる彼女の重さを伴った甘い匂いがそのまま嗅覚神経を這いまわって頭にでも広がっていくようで―――。
 くぅくぅと寝息を立てる少女。抱っこしようと思えば腕の中にすっぽり収まってしまいそうなほどに小さい。
 息を飲む。肉、という言葉が頭に浮かび、眉間に幾条かの皺を寄せて目を瞑った。
 咽喉が焼ける。頭に渦を巻いた幾多のしこりが脳血管につまり、血管が瘤を作って白い血をぶちまけそうになる―――。
 背を向けていた彼女が寝返りを打つ。
 彼女の白いかんばせがこちらを向いた。いつも通りの彼女の表情に眩暈を覚え、視線を彷徨わせたクレイは、彼女の手に目を止めた。
 赤い糸だ。輪っかを作ったその糸は半端にエレアの指に巻き付いて、熱射を避けて陰で休む蛇のようにぐにゃぐにゃとベッドの上に横たわっていた。
 何に使う糸なのか―――そんな逡巡をしているうちに、明かりに起こされた少女は唸り声を上げてゆっくりと身体を起こした。
 蝋のような白い顔に、2つだけ赤い光が灯る。志向性の無いその無邪気な瞳に、クレイのやつれた顔の輪郭が描かれた。
「あ、おはよう……こんばんは?」
 頓着のない、彼女の無邪気な笑みがぱっと花咲く。そのあまりにも明るい笑みに微かに、ほっとしている。安堵を覚えていることに、歯ぎしりした。
 だが、それを顔には出さずに、こんばんはだね、と顔を緩ませた。
 ちょっとだけの、間。まじまじと穴のあくほどにクレイの顔を見つめたエレアは、どこか気まり悪そうな照れ笑いを浮かべた。
「なんか、久しぶりな気がするね。こうして2人でいるの」
 咽喉が震える。
「あぁ、そういえばそうだね」
 なんとか声を出す。
 エレアとこうして2人で会話をするのは、確かに懐かしさを感じる。まるでずっと昔の出来事のようで―――そもそも、2人で会話をしなくなったのは、エレアに何かあった時からだ。見る限り、エレアにはその禍根は残っていないらしい。
 良かった、と思う。エレアはやっぱり、こうして笑顔で居てくれる方が善い。
 そう、いつでもエレアは屈託なく無邪気だった。いつでも、クレイという人物に向ける彼女の姿は純度が高かった。
 それが心苦しい。彼女の純に対して、自分の存在はあまりにも不純物を含んで曇った鉄でしかなかった。
 骨が軋むくらいに手を握る―――。
「それは?」
「あ、これ?」
 ひょいとエレアが片手を上げる。重力に従い、だらりと糸が垂れる。そのピンク色の糸は、中指と薬指に引っかかっている。
 薬指にぴったりはまった金属の環が、電灯を受けてちらと光った。
 エレアは得意げにその糸を両手に持つと、くるくると糸を操る。
 覚束ない手取り。覚えたばかりなのだろう、眉を顰め、むー、と口を一文字にしては崩し、また繰り返す。
 10分ほどの外時間だっただろうか―――クレイは思わずその過程を網膜に刻んでいた。
 複雑に絡まる糸。一見、それはぐちゃぐちゃに、無秩序に形作られていく。
「できたぁ!」
 勢いよく立ち上がり、完成品を高々と掲げる。
 左手で糸を摘まむようにして、右手を基盤として。高く―――というほどでもないが、一本の糸でしかなかったものが、構造を伴って複雑に秩序だったそれに、思わず放心した。
 何故かは、わからない。過程を思い出せば、言うほど複雑な工程を踏んでいるわけではないのだ。多分、今同じことをやれと言われても似たようなものを作り得る。
 だが、その複雑に絡まり合いながらも体系的に秩序だった存在は確かな重さを持っていた。視神経を伝ったイメージは、確かな実像となってその存在者が脳の視覚野に投影する―――。
「とうきょうたわー」
 会心の笑みだ。
 トウキョウタワー―――大分前に日本に在った電波塔だったか。建築から数十年、老朽化から解体されて久しい。日本のこの世には存在しないが。とかく、これは東京タワーを模したものなのだろう。
「凄いね」素直に感嘆した。
「モニカに教わったんだー」
 えへへ、と頬を緩ませると、作った塔をすぐに解体してしまう。
 ぐしゃ、と潰される―――その光景が、何故かとても綺麗だった。
 なんとなく抱いた感情に奇妙な揺籃の感覚を覚える。頭の中で生じたその『ズレ』がどこかで引っかかる―――それを振り払うように「モニカさんが?」とクレイは声を出した。
 サナリィから出向している少女。素直そうな彼女が、無心で今の糸繰をしている―――なるほど似合っていると思ったのは、気のせいではないだろう―――。
「ね、クレイ」
 彼女の声が耳朶に触れた。撫でるようなその感触に、クレイはたじろぎながら、なに、と応えた。
 彼女の笑みは、丸かった。角が取れて、当たっても柔らかく抱きかかえてくれるような、そんなアルカイックスマイル。阿弥陀如来のような、どこか底抜けでありながら触れられそうな、笑み。
 知らない、と思った。こんな笑みは知らない。
 嘘。
 知っている、のだ。己の過去経験の中で、確かにクレイはこの笑みに出会っている―――。
「散歩、しようよ」
 彼女は、そんな言葉を口にした。 
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