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機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-

作者:桃豚(21)
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54話

 人間の分化した感覚とは、実は完璧に分化しきっているわけではないと言われている。
 共感覚者、というのは実はその実証データなのかもしれない。目で音を聞き、舌で物を見る。耳で匂いを嗅ぎ、鼻で触れ、肌で味わう。あるいは目で音を聞きものを見て匂いを嗅ぎ触れ味を知るような、全ての感覚が混然一体となった場合もあろう。
 エレア・フランドールは、まさに今混沌と化した感覚知覚のもとに生きていた。それによって強化された彼女の能力は確かに『サイコ・インテグラル』の想定される性能の1つだ。人為的に全共感覚状態を発生させることで、本来的なニュータイプ能力の増強あるいはニュータイプでない人間を擬似的にニュータイプの能力を付与する―――だが、それはサイコ・インテグラルの性能の1側面でしかなかった。
 未来時間へと、絶対空無へと先駆し、過去を反復する。あらゆる時間を統合し、世界を解体し、その地平に広がる己の環世界へと大地へと超越した彼女存在は、だから眼前の敵とは異なる敵の攻撃を、時間と身体感覚の境界線が融解した始原なるそれ、つまりはその全一的感覚の中で正確に捉えていた。
                    ※
 漆黒の《ゼータプラス》へと無数の光軸が殺到する。その光の柱の中へ、蒼い燐光をゆらめかせた敵は跡形も無く飲み込まれていった。
(隊長!)
 ディスプレイが立ち上がる。プルート・シュティルナーの困惑した顔がウィンドウに投影されていた。《ドーベン・ウルフ》と《ザクⅢ》の長距離からの狙撃―――第4世代機の名に相応しいその大火力が、あの黒い《ゼータプラス》を葬ったのだ。
 撃墜した―――幾許か、苦いものが臓腑からせり上がってくる。
 作戦の目標はあくまで「あれ」の撃破ではなかったのだ。仕方ないとはいえ、失敗であることに変わりはない。
 いや、今は安堵を覚えることにするべきだろう。あの恐ろしい敵を前に、最悪撃墜しても良いという許可はとってある―――。
 プルートの怯えたような声が耳朶を打つ。
 マクスウェルは、その光景に息を飲んだ。
 常闇に揺らめく蒼い炎。それを護るように青白い光が幾何学的な模様を描く―――。
 4基のフィンファンネルを起点として展開されたビームバリアー。まさに聖域だった。それより先は何人も触れることが許されぬ絶対領域の中で、悠然と佇む《ゼータプラス》。蒼き熾火を迸らせ、燃え盛る刃を携えた異形が冷然とマクスウェルを睥睨する。可変したならば主翼の役目を果たすバインダーは、それこそ天使が翼を畳んでいるようにも見えた。あるいは、天使が神の使命を帯び、まさに人間に神罰を加えんと静かに佇む―――そのように、《ゼータプラス》が黒い宇宙に漂っていた。
 悲鳴にも似たプルートの絶叫と共に《ドーベン・ウルフ》がその腹のビーム砲から吐き出す。《ドーベン・ウルフ》が持ちうる最大火力たるその光柱がファンネルの作り出した聖域に直撃。一瞬の拮抗の後、《ゼータプラス》が飛び出す瞬間にメガ粒子の濁流が下界を食い破る。
 立て続けに襲い掛かるインコムの光軸が《ゼータプラス》のシールドを撃ちぬく。シールドというよりほとんどビームマシンガンのための兵装ユニットだったそれは、インコムの小出力のビームにも耐えられずに小爆発を起こした。インコムのビームそのままは《ゼータプラス》の肩の装甲を炙り、白熱化したガンダリウムが傷口のようにめくれ上がらせ、血飛沫を散らした。
 前後不覚に堕ちていくように、《ゼータプラス》が黒い宇宙に漂う。
 ―――本来それは絶好の攻撃の機会の筈だったが、マクスウェルはその瞬間に理解した。
 今、してはならぬことをしたのだ。
 その感情は、まるで大人の叱咤に怯える幼子のようなそんな臆病な感情。絶対なる存在に対し、追放の民が心に刻み込んだ畏怖。触れてはならぬものに触れてしまった、有限なる存在者の根源的怯え―――。
 ゆっくりと顔をもたげた《ゼータプラス》が、超感情的などす黒い瞳を《ドーベン・ウルフ》へと向けた。
                       ※
 灰色の《ゼータプラス》が、裂帛の気合いと共にメガ粒子で形成される光刃を打ち下ろす。残光を引いたビームサーベルの剣戟を右手に保持させたビームライフルのバヨネットで受け止める。閃光が炸裂し、視神経に鋭角が穿孔する―――。
 幾多の戦場を駆け抜けた己の肉体はその眩さにもなれている。朝起きて欠伸をするのと同じくらい平然と視神経はその光を事務的に処理し、秒ほどの思考もなく左手に保持したサーベルの一撃を叩き込む意思を漲らせ、エイリィは心の内で舌打ちした。
 《ゼータプラス》が頭部の機関砲を迸らせ《リゲルグ》の頭を狙う。無理やり《ゼータプラス》の腰目掛けて蹴りを入れ、あわや回避できたのは、エイリィのその乏しいなりの素養と卓絶したパイロットセンスの為せる一瞬の判断だった。
 その彼女のステータスは、未だ彼女の肉体に安堵を赦さなかった。機体をのけぞらせながらも左腕のシールドと一体化した2連装のビームマシンガンの照準を目ざとく重ね、間髪入れずにメガ粒子弾を叩き込む攻撃行動を素早く察知し、その敵の小賢しさに舌を巻く。《リゲルグ》の肩をビームが擦過し、ディスプレイに被弾警告が出るのを無視し、サーベルグリップの収納と共に腰から引き抜いたシュツルム・ファウストの弾頭の照準を《ゼータプラス》に合わせる。
 ジ・エンドには程遠い。この敵は躱す。だが、この至近でのシュツルム・ファウストの爆破を無傷でやり過ごせる道理はない―――一瞬の隙でもいい。確かに手強い敵だが、何も撃破する必要はないのだ。四肢の一部でも切り落とせばこちらに優位が傾く。既に遠くになってしまったマクスウェルの姿を確認する余裕すらなく、あの敵と矛を交えているマクスウェルと早く合流せねばという小さな焦りを意識した、その刹那。
 エイリィの肌をざわざわと何かが舐めた。全身を蛞蝓が這いまわり、不躾な他者が己の存在を無理やり犯してくるような異様な不快感。身体中の毛孔が喘ぐように開き、悲鳴をあげた汗腺が嘔吐するように冷たい汗を吐き出す。
 ―――あぁこのプレッシャーも彼女は感じているのだろう。弱くて強いあの子、あの子のところに行かなければ。悪寒に駆られながら、エイリィは、《ゼータプラス》が逆袈裟に掬い上げるようにビームサーベルを振る挙動から、咄嗟に世界から判断を切り出した。
 差し迫る《ゼータプラス》の青白い光の刃を、エイリィは躱さなかった。弧を描いた粒子束はそのまま《リゲルグ》の左腕を肩口から切り裂き、オールビューモニターの左側面をビーム光が埋めつくす。
焼けるような錯覚すら感じながらも、身を竦ませることすらしなかったエイリィは《ゼータプラス》が剣を振りぬくと同時に、スラスターを逆噴射させた。飛びのくように後退しながら、己の愛機の引きちぎられた腕目掛けてアサルトライフルにアンダーバレル式に装備された榴弾の砲撃を撃ち込んだ。
 巨大なブースターユニットでもある《リゲルグ》の肩は未だに大量の推進剤を鱈腹抱えている。榴弾が肩に直撃し、膨れた爆発が推進剤に誘爆。そのまま左腕に握ったままの榴弾にも誘爆し、MSの一部分のそれとは思えないほどの閃光が膨れ上がった。
 恒星が誕生したかのような赤黒い炎が球の形をとる。堅牢な構造物であるMSすらも屠るほどの爆発だった。
 この不意打ちならばあるいは。そんなエイリィの思考は、その2秒後に裏切られた。
 赫赫とした火球の中から飛び出す灰色の《ゼータプラス》。傷一つなく、ぎらつく真紅の瞳がエイリィを睨みつけた。
「―――あ、これアカン奴だ」
 スラスターを迸らせ、灰色の《ゼータプラス》が痛い程に青いビームサーベルを発振させた。
 ※
 プルシリーズと呼ばれる一連の計画の中で生み出されながらもパイロットの能力として欠落のあった『彼女たち』は、十数人の姉妹たちとは異なった任務に就かされることとなった。だが、ニュータイプとしての能力は高水準に達する。達するが故に、彼女はあの敵の発する“圧”を感じ取っていた。
 さわさわと吹いた風がプルートの頬を撫でる。真空の宇宙空間に風が吹く道理はない。ましてヘルメットを被っている、生体維持機能によってコクピットに満ちた空気が撫でつけたというのでもない。
物理的作用を伴った時間が津波のようにプルートに押し寄せ、彼女の目鼻口肛門膣身体中の孔からどろどろと流れ込んでくる。
 犯されている。圧倒的な原初的全一存在がプルート・シュティルナーという分離してしまった存在を統合(インテグレイト)するように、プルートの存在をどろどろに溶かしていく。
 流れ込んだ半液体がプルートの内臓を食い荒らし、脳みその皺ひとつひとつに沁み込んでいく。己が己であるという感覚を刷り取られ、自分が空っぽになっていく―――。
 誰かの声が遠くで聞こえる。自分の名前を呼ぶ、誰かの声。だが、この押し寄せる濁流の中であまりにちっぽけな小石に過ぎなかった。
 全身を強張らせ、ヘルメットを脱ぎ捨てたプルートは引き絞った弓さながらに身体をのけ反らせ、目をあらん限りに剥いた。
 蒼い。宇宙が限りなく蒼い。まるで深海の中にいるようだった。そして海底に沈殿する腐肉の汚泥。そのように淀んだ時間に埋もれ、己という存在が腐敗していく―――。
 もはや哀願とすら呼べるほどに慟哭を迸らせ、容赦なく己の身体内に闖入してくるその存在を拒絶するために雷と化した思念がインコムへと殺到し―――慄然とした。
 インコムの本質はファンネルのそれと変わらない。違いは予めサンプリングされプリセットされた感応波に呼応し、システムが駆動するというだけ。改良されたインコムは、ファンネルのそれに比べれば子どもの遊びでしかないが、それでも彼女の手足となって忠実に従っていたのだ。
 それが、動かない。いくら彼女の思念が針を向け、動いてと命令しても、ねっとりした時間に絡めとられたインコムは動こうとすらしない―――。
 ―――あなたはだれ?
 耳元でまるで舐めるように囁く声。ぎょっとして声の方に目をやれば、蝋人形のような冷たい肌の女の幻影が微笑を浮かべていた。
 微笑と言うにはあまりに非人間的で、かといって冷笑と言うほど冷たくもない。死蝋のように顔をこわばらせ、半目に薄く開いた瞳が己の脳みその中まで子宮の中まで見透かしてくるような、鋭利で柔らかい嫣然とした笑み―――。
 ―――わたしにあてたあなたはだあれ?
 知っている声、でも知らない声。あの子の声、そして、自分の声―――。
 冷血なアルカイックスマイルに固着した死蝋の幻影がプルートの正面に回り、その無機的なまでに白い腕がバイザーを潜り抜け、プルートの頬を撫でる。逃げるようにシートに身体を押し付け、操縦桿から手を離したプルートは脱ぎ捨てたヘルメットをその幻影目掛け、10歳の女の子のような動作で投げつけた。幻影はそれを避けようともせず、ヘルメットはその幻影の身体を突き抜けていく。空っぽのヘルメットは全天周囲モニターに当たり、こつんと音を鳴らした。
 あの子の顔だった。知らない女の顔にもなった。別な顔にもなった。だが次の瞬間、その蝋人形のような超物質的存在の顔は確かにプルート・シュティルナーの輪郭を描き、薄く開いた蒼く紅い瞳に己の姿が映っていた。     
 ロゴスが砕けた。がらがらと硝子が砕けるような音とともに、頭の中で拉げた脳みそから白濁した液が溢れ、頭蓋の中を満たしていく―――。
「やめろ―――私を―――あたしを混乱させるなぁ!」
 捩じ切れんばかりに身体を捩らせ、少女の精神は発狂した。 
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