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機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-

作者:桃豚(21)
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16話

 女の買い物に付き合わされるのは疲れるんだよなぁ。
 そう語っていたのは攸人だったか、あるいはヴィルケイか。士官学校時代の同期だったかもしれないし、あるいは存在価値が疑わしいバラエティ番組だったかもしれないし、厚顔無恥に己が意見を嘯くだけの無能なニュースキャスターがニュース番組の合間に語った言葉だったかもしれない。あるいは―――。
 ―――とにかく、女の子と一緒に歩くというのは良いことばかりではないというのは、世界に遍在する人類でも男性性が有する共通認識らしい。クレイは、そんな普遍の価値観を贅沢な悩みだと思っていた。女の子のちょっとの我儘の一つや二つ、いや三つや四つも受け入れられないで弱音を吐くのは驕慢甚だしいと鼻息を荒くしたものである。モテない男の僻み根性だという異論は断固却下の姿勢を堅持していた―――が。
 ぎゅうぎゅう詰めというほどでもないが、それなりに人も多い。そんな様相のファストフード店内にあって、クレイは溜息混じりに半円になったハンバーガーを頬張る。
「そしたらさーそいつなにしたと思う!? いきなりこっちの頭撫でてきたんだよ! 信じらんないよねー、頭撫でれば惚れるとでも思ってんのかしら」
 その瞬間を思い返したのか、顔を青くしながら怒り心頭といった風のアヤネが声を張り上げる。そんなアヤネに大仰に顔を顰めながら話をするのはジゼルだった。
 ジゼルの《ガンダムMk-Ⅴ》もオーバーホールされるために休暇、ということもあってアヤネの買い物に付き合うこととなったのが昨日のことである。
 そもそも、荷物持ちの役割だとしても、アヤネと二人きりで街を歩くというのも、よくよく考えてみればクレイの人生天地開闢以来のイベントではないか。素直に嬉々としたものを―――そしていくばくかの情けなさを―――感じたが、同時に問題も浮上する。元々女っ気皆無なクレイには、いざ女の子と二人っきりになって満足に会話できる自信がなかった。恥ずかしいから、というのではなく、会話のネタがないのだ。そう考えれば、アヤネの話し相手にジゼルがいるのは大助かりだった。この際、ジゼルが増えたことで運ばねばならなくなった荷物量に関しては目を背けて余りあると思うことにした。
「ねー、どう思う?」
 隣に座るアヤネがクレイに話を振る。ぎゅっと顰めた眉からして、話は先ほどの続きのようだ。
 クレイも差し障りのない返答をする。他人を侮蔑することはあまりしたくないが、余計な一言はその場の空気を殺すとクレイは重々承知していた。生真面目を美徳とするクレイが素の反応を返せば、合コンなどでは沈黙が元気よく「こんにちは」するのを、身をもって経験している。
 はたしてクレイの返答に満足したらしいアヤネは大きな声でクレイに賛同の意を表明すると、再びジゼルとの会話に華を咲かせた。
 肺に溜まった温い空気を横隔膜が押し出す。小さく洩らした溜息に、アヤネとジゼルが気づいた様子はない。
 こういう空気感は嫌いじゃない―――が、苦手だった。アヤネやジゼルだけでなく、世の中の多数者を閉める『普通』の人たちの騒がしさ。それらが煩わしい、などと思春期の少年少女のような瑞々しい反骨心からではなく、単に自分がその場に馴染めないという、周りから排斥されている感触。
 重ねて言うが、それが不愉快とか嫌いなのではない。ただ、疎外に対する微かな寂しさを感じるだけだ。
 ちらつく男の影。苦労という言葉を知らず、さりとて人並みの努力で常人を凌駕していく男。それであって、己が素質を衒うこともしない姿をして傑物。
 口内に滲む苦い液体の感触を紛らわすように、1/4サイズになったハンバーガーを口に押し込む。水分でべちゃべちゃになったパンと、碌に肉汁も含まないパサパサのパテの味は値段相応のチープさだ。
 パンくずのついた指を払いながら紙コップに満たされたメロンソーダを流し込み、トレーの上に置く―――ついで、椅子の下に置かれた荷物の量を一瞥して、少し身震いした。
 取り立てて周りより煩いわけではないが、ひっきりなしに会話する彼女たちに膨大な荷物の量。思わず閉口したクレイは、贅沢な悩みという考えは変えないが、いささか検討の余地があるな、と思った。それでも、ホットパンツから延びるアヤネの綺麗な生のおみ足が眺められるんだったら全然苦じゃないな、と本気で思うあたりに、クレイ・ハイデガーは実は単純な思考回路をしているという証明だった。
 特にすることもなく、メロンソーダのコップを呷り―――。
「そういやあの部隊にやたら紗夜にお熱な奴がいるけどさぁ」
 山盛りになったハンバーガーの中から一つ取り出し、剥きはじめたジゼルが思い出したように言う。
 少し口にして、飲むのをやめた。
 コップを呷ったまま眉間に皺を寄せ、隣と前に座る2人の視線を把握した。
 今2人の会話の矛先は自分に向いているのではあるまいな―――。そんな嫌な予感は、
「クレイってやっぱりむっつりなの?」
「は? なんですか?」
 的中していたが、予想していたのとは違っていた。
「いやーだって紗夜は普通だけどエレアのこと好きなんでしょ?」
 違っていたが、より質が悪かった。
 全身がむず痒くなる。好き、というただの一言が脳内細胞をひたひたと浸透し、視床下部を麻痺させる。
「な、何を根拠に……」
「顔赤くしてムキになるあたり図星だよねー」
「ねー」
 頬杖をついたアヤネが野卑な笑みを浮かべる。なおのこと顔を赤くしながら口を噤んだ。こうしてからかわれては顔を赤くして、その様をなおからかわれるという一連の流れは今日一日で、片手で収まりきらないほどには経験した。かわいい~、などと横から頬をつつかれるというのは侮辱なのかご褒美なのか…わざとらしく顔を険しくし、冷却(メロン)(ソーダ)を飲み干した。
「あれだけ意識してたらねぇ…丸わかりだと思うケド」
 2口ほどでハンバーガーを平らげ、照り焼きソースをナプキンで拭ったジゼルも意味深な笑みの視線をくれた。
 あの夜より数日、それまでと違い平時からエレアも仕事に出るようになった。なるべく平静を装うようにしたつもりだったが―――わかりやすい質、とクレイを評した攸人の言葉の幻が耳朶に触れる。
だが―――と思う。
 好き、Like、Love、Lieben……。
 頭で思い浮かぶ好意の言葉、そしてその好意に付属してしかるべきな感情。当然、エレアに対してのクレイの心持ちを好意と捉えるならば、それらの感情があって然るべきなのだ。それはユダヤかキリストか、あるいはイスラームか、それともその他アニミズムの神々が定めるまでもなく、人類必定の原初根源の意思である。そこに疑いを挟む余地は欠片ほどしかない。
 言い換えれば、欠片ほどは余地がある。
「ま、あれでエレアちゃんも気が付いてないっぽいけど」
「えーそうなの?」
 クレイの思案を遮ったのは、朗らかなジゼルの声だ。
 すかさずもう1つハンバーガーを口に放り込んだジゼルが悩ましげに眉を寄せた。
「あの子鈍そうで鋭いんだけど、鈍いことにはとことん鈍いから」
「ふーん」
 人の恋愛の話でこうも話ができるものか―――感嘆していいのやら呆れるべきなのやら。まだ動悸の収まらない心臓を深呼吸で鎮め、そして不愉快な根源への探求を頭から押しのけるためにも、クレイももう1つのハンバーガーへと手を伸ばし―――。
「あ、コラ!」
 ―――その速さは音速を超え神速。
 弧を描きながら圧倒的な速さでもって振り下ろされた握りこぶしは玄翁もかくやといった威力だった。音にすればごり゛ゅ゛、とでも形容しよう異様な音とともにクレイの左手の甲がぐしゃりと潰れる。ハンバーガーを綺麗に避けての鮮やかな一撃は称賛に―――。
「って痛ったー!?」
「人の食べ物を取ろうとした罪は重いんだゾ」
 むすっと口をへの字に曲げるジゼル。
「いや、それクレイのでしょ……」
「えっ」
 先ほどのまでの表情はどこへやら。声を失ったジゼルがトレーの上をまじまじと見つめる。
 ジゼルの手前にはトレー一杯に積まれたハンバーガーと紙屑の山。ジゼルのその攻撃は小高い山を超え、今まさに己がハンバーガーを取らんとしていたクレイの手の甲を捻じ伏せていた。
「あんた本当食い意地張るよね」
「うぅ……ごめん……」
「いや良いですよ」
 委縮するジゼルに引きつった笑みを浮かべる。
 わかってくれるならそれでいい。わざわざ些末なことで声を荒げる必要もない。
「しっかしあんたよく食べる癖に全然太らないよねぇ」
 溜息交じりに一言。きょとんと小首を傾げてハンバーガーを頬張るジゼルを見るアヤネの視線は羨望だ。
「栄養が全部胸にでもいってるわけ?」
「んー? どうだろ、最近また紗夜が大きくなったって言ってたなぁ」
 大食漢に対する冗談のテンプレに対し、大真面目に応える金髪の女。え、と掠れた声を上げたアヤネががっくりと肩を落とす。
 十分にアヤネもデカいだろ、とは思うのだが。タンクトップとシャツに封じ込められて狭そうにしているアヤネの胸を一瞥し―――何故か疚しさを感じ、すぐ目を反らした。
「―――あ、そっかぁ。胸か」
 不意に、天啓得たとばかりにアヤネが目を見開く。
「クレイってやっぱおっぱいおっきい方が好きなの?」
「え、なになに?」
「いや、だから。紗夜とエレアがどう違うのかなーと思ってさ」
 逡巡―――おお! とまたも天啓を受けるジゼルが手のひらをぽん、と打つ。
「ねーやっぱりそうなの? クレイもちゃんと男の子なわけ?」
 淫を含んだ意味深の視線とともにアヤネが腕を組む。むぎゅ、と変形した対の丘が目に飛び込む。
 からかおうという腹積もりか―――既に顔を赤くしながらも冷静に戦況を分析したクレイは、大仰に咳払いをした。
「まずもって話の次元が違いますね」
 腕組みし、朗朗となるべく堂々と語る。思いがけぬ反応にアヤネもジゼルも虚を突かれているらしい。
「そもそも女の子の胸の何が良いかというのはそもそも大きさなどでは決してないんですよ。その存在論レベルで胸は語られるべきでして―――」
 散々語りつくした後、2人から「キモい」の一言で一蹴されることをクレイは知りもしなかった。
                     ※
 ―――同時刻。
「グラム各機、ポイントE2通過」
(グラムリードより小隊各機、兵器使用自由。手早く狩れ)
(了解―――レギンレイヴ、攻勢接(エンゲージ)(オフェンシヴ))
 演習とは言え、戦闘指揮所の空気は張りつめたものだ。矢継ぎ早に入る通信を処理していくオペレーターの背に一瞥もくれることなく、モニカ・アッカーソンはモニターを食い入るように見た。
 戦域想定は市街地。砲撃もなければ遊びと言っていい戦域想定は、重力下戦闘に慣れていないMS試験小隊『グラム』、そして『レギンレイヴ』のコールサインで呼ばれる彼女にしてみれば肩慣らしといったところなのだろうが―――。
 スラスターのブーストで突風の如く市街を抜けていく4機のMS。増加装甲を施したRGM-89D《ジェガン》3機は特殊部隊が着々と敵施設に浸透していくがごとく、チェックポイントをクリアしていく。
 練達の技量。一介のエンジニアでしかないモニカでさえ、その丁寧かつ堅実な《ジェガン》の操縦に目を見張る。なるほど試験小隊という名の誉れに、素人が疑問を抱く余地はないように見える…のだが。
 4機1個小隊という部隊編成の奇異さもあるが、何より堅実に、人の意思が宿っているとは思えないほどに機械の如く精妙に駆動する《ジェガン》とは別な1機が、モニカの視線を捕まえる。
 隠密こそ是とでも言うかのように黒々とした迷彩に反し、白亜の体躯に鮮烈なる真紅のラインのカラーリングは、その挙動も相まって我こそは音に聞こえし無双の英傑と憚らないように見えた。背中から突き出た2本の突起に、機体のスタイリングは《ジェガン》とは明らかに異なる。
 ARX-014《シルヴァ・バレト》。鋭角な瞳を二つ宿した威容は、《ジェガン》の慎重な浸透に対し、驚くほど大胆に市街を突っ切っていく。
(レギンレイヴ、第3次目標の撃破確認)
(グラムリード了解。小隊各機、400まで前進)
 だからといって、グラムの隊長は諌めることもなく、まずレギンレイヴに先んじて侵攻。危険性無しの確認の後に、敷かれたレッド・カーペットを猪突していくレギンレイヴを今度はカバーするように追従していく。
 ―――まるでレギンレイヴが単機でやり合うための露払いをしているようだった。
「鮮やかな手並みね」
 聞こえた声は雅の一言。基地施設にあって、その声はあまりにも不釣りあいでありながら、むしろその不一致は自分たちに原因があると思わせるほど悠然とした声でもあった。
「ねぇ、アッカーソン女史?」
 一瞥だけくれる女―――マーサ・ビスト・カーバインの老獪な視線がモニカを射竦める。
 鋭い視線、気品を漂わせる体躯。壮年に相応の容貌は、むしろ女帝としての風格を存分に感じさせる。ただ居るだけで、戦闘指揮所に緊張感が漂っているようだった。
「…些か奇妙な部隊編成と連携のように思われますが」
 拘泥はない。マーサに一瞥もくれず、資料を抱く力を強めた。
「そう難しい話ではないわ。ただ『幻獣』たちをどう調教してやればいいか…幻想種たる一角獣と獅子を従えるのは一筋縄ではいかない―――といったところかしら」
 お茶のついでの些細な戯れ―――そんな軽やかさでマーサが口にした言葉にモニカは息を飲む。
 敢えて、『月の女帝』たるマーサに楯突く者がこの地にあるとは思えない。この戦闘指揮所に関しても、洗浄は隅々まで行き届いていることは間違いないハズだ。だとしても、あえて口にする必要はない。
 ―――溜息を吐いた。
「今回の件は感謝しています…しかし、わざわざ貴女が直接赴くとは思いませんでした」
 肩の力を抜く。高々17の小娘風情で、この女帝と張り合おうとするだけ胃に余計な負荷をかけるだけだ。
 マーサの浮かべた笑みは、普段の他者を圧する妖艶の笑みとは異なる。人懐っこいとはまではいかないが、娘か孫にでも向けるような静かな笑みだ。
「幻獣の担い手を直に見てみたくなった―――ではダメかしら?」
「―――それだけ、ですか?」
 そうよ、と一言だけ頷く。
「意外?」
 驚きと心外を孕んだモニカの顔が可笑しかったのか、気品という名の威圧を発する顔を破顔させる。
「己で為さなければならない問題は己が手で決着をつける。それが上に立つ人間の存在様式というもの―――必要な労を惜しむのは二流のやり口よ」
 覚えておきなさい。そう、マーサのエメラルドの瞳が語っていた。
 挑戦、あるいは睥睨。どちらともとれない視線に身を強張らせていると、マーサの秘書らしい女性が背後からマーサに声をかけた。
 年齢は30ほどであろうか。タイトなスーツに鋭いサングラスを装備した姿は、マーサの隣に仕える者として個性を剥奪されて尚有能さを感じさせる様子だった―――モニカが悟った有能さ、とはすなわちデスクワークにおいての有能さだが、この秘書官はその実5秒もあればベテランの歩兵を素手で殺害しうる技量を持っているということは、軍人でもなければ武の心得があるわけでもないモニカには知る術はない。
 サングラスの奥の見えない瞳がアイコンタクトを求める。長躯のマーサに対して尚背の高い秘書官に対し、マーサが少しだけ身体を傾けた。
 内密な話―――火急の用なのか、あるいは聞かれたくはないがさほど重要ではないからあえてこういう場で話しているのか。どちらにせよビスト財団の裏話だと思うと関わりたい話ではない。
「―――そう、原石(スタイン)が」
 そんなマーサの声が聞こえた気がしたが、モニカは聞こえなかったことにした。
 モニカが前方のモニターに視線を投げる。
(レギンレイヴ、第5次目標撃破)
「コマンドポスト、目標の全撃破を確認。状況終了」
 モニターの中、サーベルを目的もなく発振させたままの《シルヴァ・バレト》に隊長機の《ジェガン》が接触回線で何か通信しているらしい様は―――。
                  ※
 ずしりと重い感触。両手をふさぐほどの荷物だが、流石に軍人として鍛え上げられたクレイは重さという点では気にはしない。士官学校ではそれこそ計60kgを優に上回る装備で3日間の密林行軍もこなした身として、この程度の苦は問題ではない。問題ではないのだが、何分量の多さがつらい。
 5階立てほどのショッピングモールにおいて上下階へ移動する手段はエレベーターかエスカレーターの二択。荷物の量から言って、エレベーターの使用は他客の迷惑になりかねないからパス。必然エスカレーターになるのだが、エスカレーターは往々にして細い。幅約1mを使用するクレイの現状では、どちらにせよキツいを通り越して限界許容量だ。横になれば幅の問題はクリアできるが、クレイだけでエスカレーターを占領していることに代わりはない。平日のショッピングモールに慌ててエスカレーターを降りる人もそうはいないが、2階まで降りるにあたって出会った稀有な客に対しては荷物を全力で持ち上げて通路可能なスペースを確保していた。
「―――ちょっと買いすぎたかな」
 2階に降りたアヤネは、《FAZZ》さながらの重装備になったクレイを見て少し申し訳なさそうにしていた。
 と、言いながらも洋服売り場である2階で足を止めたあたりまだ買い込む腹積もりらしい。別な店であれほど買ったのになぁ、と自分の腕にぶら下がる店のロゴ入りのビニール袋を恐々と見ながらも―――これもまたファッションという趣味のあり方なのか、とも思い直した。
 殊にファッションなどに興味もない、精々がダサくない程度の服着てればいいやぐらいの思考でしかないクレイにはその真髄を理解することはできないが、要するにハイ・ローミックス構想的なものだと思えばわかりやすい。先ほどまでアヤネやジゼルが買っていた一着数万から数十万まで手が届こうかという服=お洒落、という短絡思考では可愛らしい服装を成立させることは不可能。あえて庶民感覚の値段の服もまた必要、ということなのだろう。現代戦争は1人の英雄だけでは勝てないのと同じ理屈―――と、一応クレイは理解した。
 案外ファッションも奥深い趣味なのかもしれない。今まで気にも留めなかっただけに、思いがけない世界の存在に一人唸っていたクレイは、ふとアヤネとジゼルが自分の前にいないことに気づいた。さっさと服を見に行ってしまったらしい。溜息ひとつ、エスカレーター付近に敷設された木製のベンチに腰を下ろした。
 女に聡い優男(ロメオ)の言葉を思い出す。その応答に、確かにな、という言葉を選ぶのも今日何度目か―――己が贅沢な悩みに対し、今もって『贅沢』という点は譲っていない己がフェミニズムに苦笑いする。貧乏人はいつまでたっても吝嗇の気が抜けないということか。荷物の山を地面におろし、すっくと立ち上がったクレイは、尻のポケットに差していた黒皮の長財布を取り出し、エスカレーターを挟んで反対側に設置された自動販売機に寄った。
 エスカレーターの乗り口付近は曇りガラスで囲われており、買い物に際して労した客が軽く休憩をとれるようになっている。現に自販機前に横たわるレトロなベンチには、高級官僚の家族らしい品のありそうな夫人が静かに座っていた。
 自動販売機に硬貨を入れる前に、はて何を飲もうかとデジタル表示の自販機を流し見―――一画に目が留まる。
 例の緑茶だ―――が、その脇に別な新商品が並んでいた。今度の意欲作はなんと…わざわざトラップ塗れの敵陣に正面から吶喊する阿呆はおるまい。即座に見なかったことにした。
 クレイの目に映るのは、魔物が写った緑茶。
 迷いもなく、例の緑茶の塊を内包した紙パックのボタンを押す。金を得た喜びに悶えるように身を揺すった自販機が鈍い音を鳴らし、取り出し口に契約品を吐き出した。
 わかりやすい奴―――うるさいな、と頭を振る。憮然としているのか、それともにやけているのか。たぶんにやけを憮然で打ち消しているのだろう、と客観的に自己評価を下した。
 そりゃモテないわけだ。
 ええい、とストローを紙パックに突き刺し、口を付けるや中身を啜った。
 さっさとベンチに戻らねば。相変わらず理解しがたい味を嗜みつつ、ジャケットのポケットに手を突っ込み、身を翻し―――。
 ……声が、聞こえた。見知った声、ここ数年を汚辱と超克に駆り立てた男の声。
 なんだ、あいつも休みだったか。その時クレイが抱いた感想は、なにも波風立つものではなかった。それも当然、聞こえた声は知己の仲。反目し合い、鎬を削った間柄であったのも、かつてという過去副詞を伴ったうえでしか語られないことだ。
 曇りガラスの向こうから聞こえた声の主は、ちょうどその向こうを通っていくようだ。誰かと喋っているらしい。相手の声は小さくて聞こえないようだ。
 相手がいるのか―――一声かけるぐらいは大したことはないか。
 ちょうどクレイが知己と認める数少ない人物、神裂攸人の後ろ姿が曇りガラスの端に見えかかり、よぉといつもの調子で声をかけようとし―――。
 声は声以前の息か何かになり、ひゅーひゅーと咽喉を鳴らした。
 間違いない。攸人なのは間違いない。後姿でも違えるハズなどない。いつもクレイは彼の後塵のみを拝したから。その背を、その才気をいつも羨望と尊敬と屈辱でもって眺めていたから。そしてその背に追いすがらんとしていたから。
 攸人の隣。矮躯に臀部まで届く工芸品じみた銀の頭髪は、毛先で可愛らしい黒のリボンで縛られ、犬の尾のように揺れていた。
 攸人を向くエレアの顔は―――。
 あぁそうか。またか。
 胸に凝った何かがごっそり崩れていくような感覚。いや違うか―――崩れなどではない。ただ覆いを取っていたものが明らかになっただけか。
 いつものことだ。ここまで、いつも通りなのだ。
 いや――いつもより短かった、か。
 緑茶を一口。クレイ・ハイデガーは、ただいつもの表情で()の背を見送る。
 舌の上に生温い苦味が広がった。 
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