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真・恋姫†無双 劉ヨウ伝

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第154話 孫堅参上

 荊州長沙郡臨湘県――
 臨湘県は長沙郡太守の治所である。臨湘の城の主である孫堅は執務室の椅子に腰掛け机の上に足を乗せ酒をあおっていた。

「くぅ――生き返る!」

 孫堅は酒瓶を唇から離すと歓喜の声を上げた。彼女はもう一度徳利に口をつけ豪快に喉を鳴らしながら酒をあおると右手で口元を拭った。
 孫堅が酒盛りを始めて四刻(一時間)位が過ぎようとしていた。彼女の頬は酒の酔いでほんのり赤く染まり上機嫌に鼻歌を歌いだした。彼女が酒盛りに興じているのは主だった者達が城にいないからだ。孫権、甘寧は言うに及ばず南陽郡にいる。孫策は彼女の名代で山賊討伐へ、黄蓋は諸用で零陵郡に出向いていた。誰もいないことをいいことに彼女は羽目を外し秘蔵の酒に手をつけていた。

「やっぱり、美味しいね。雪蓮と祭がいたんじゃ、あっという間に空になってしまうよ」

 孫堅はほくそ笑み徳利をゆっくり眺めていた。孫堅はしばし素朴な土色の徳利の表面を観賞し、再び酒を飲もうと徳利を口元に近づけた。

「文台様、一大事ですぞ!」

 孫堅が酒を飲むを邪魔するように黄蓋が乱暴に扉を開け部屋に入ってきた。孫堅は慌てて徳利を自分の後ろに隠した。

「祭、どうしたんだい!?」

 孫堅は慌てた様子で祭に聞く。黄蓋は部屋に漂う酒の香りに気づいたのか鼻をひくひくさせ匂いを嗅いでいた。

「この匂いは酒ですな。何とも良い匂いじゃ」

 黄蓋は鼻で酒の香りを堪能する。孫堅は黄蓋の様子に顔に冷や汗をかき出していた。

「酒の話なんでどうでもいい。祭、そんなに慌ててどうしたんだい?」

 孫堅は強い調子で黄蓋に言った。黄蓋は孫堅の動揺ぶりに不信感を抱いたのかジト目で孫堅のことを見た。

「私は何もやましいことはしてないぞ!」
「わしはまだ何もいっていませんぞ?」

 黄蓋の指摘に孫堅は鼻歌を歌い視線を逸らした。黄蓋は孫堅の態度に嘆息した。

「酷いですな。どうせ自分だけ美味い酒を飲んでいたのでございましょう。家臣が有益な情報を手に入れ急いで戻ったかと思えば」

 黄蓋は目頭を抑え泣く仕草をすると、孫堅はバツが悪そうに沈黙した。

「分かった。分かった。後で祭にも分けてやるから、さっさとその有益な情報というのを教えな」

 孫堅は黄蓋にぶっきらぼうに言った。黄蓋は孫堅の言葉に笑みを浮かべた。

「文台様、蔡瑁討伐の檄文が出回っている様子です」

 孫堅は一瞬で酔が冷めたか如く両目を見開いた。

「蔡瑁討伐だって!? 檄文を書いた者は誰だい?」
「わしも真偽はわかりませんが、『車騎将軍』と零陵の民が申しておりました」
「車騎将軍!? 随分大物だね。零陵郡というと、太守は韓嵩。劉表の配下か。何でまた韓嵩のところになんか」

 孫堅は「車騎将軍」と単語に敏感に反応した。劉表の側近とはいえ荊州の一豪族に過ぎない蔡瑁に車騎将軍自ら討伐の檄文を出すことに違和感を感じたのだろう。その証拠に孫堅も半信半疑の様子で思い悩んでいた。

「祭、その話は劉表が偽情報を流して私達を嵌めようとしているんじゃないのか?」

 孫堅は黄蓋の話を胡散臭く思っているようだ。黄蓋も孫堅に言われ微妙な表情に変わった。

「仰るとおり怪しいです。ですが、この檄文は韓嵩だけでなく荊州各地の太守と豪族に届けられていると噂になっているのです」
「噂は零陵郡内でだろ? 韓嵩の小細工じゃないのかい」

 孫堅の言葉に黄蓋は頭を振った。

「ここ臨湘では市中に広まっている様子はありませんが長沙郡にも噂は伝わっています」
「それは長沙郡と零陵郡が隣だからだろ」

 孫堅は黄蓋に気のない返事をした。

「噂なら問題ならよいのですがどうも気になって。文台様の元には檄文は届いていないのですか?」
「届いていない。この私を差し置いて韓嵩に檄文を送ることがあれば私そいつを殺してしまいそうだ」

 孫堅は指を鳴らしながら不気味な笑い声をあげた。

「文台様、落ち着いてくだされ。しかし、泉陵(零陵郡の治所)では兵達が慌しくしておりました。蔡瑁討伐の檄文と関係あるやもしれません」

 黄蓋は深刻そうな表情だった。

「祭、他に何かあるか?」

 孫堅は黄蓋の懸念が気になったのか質問した。

「泉陵の民達が車騎将軍の使者を名乗る一団が南陽から零陵に遣ってきた言っておりました」

 突然、孫堅は瞳を険しくした。

「その裏は取れているのか?」
「裏は取れておりません。しかし、韓嵩の元を訪れた一団はこの辺りでは見慣れぬ牙門旗を掲げ統率のとれた兵達を引き連れていたそうです。零陵の民で見た者がかなりおりました」
「見慣れぬ牙門旗」

 孫堅は黄蓋の説明を聞く腕組をして虚空を睨んでいた。

「牙門旗は白地に『満』と書かれていたそうです」
「白地に『満』」

 孫堅は黄蓋の言葉を反復し独り言を言った。

「この辺りの部将でないことは確かだな。そうなると何故私の元に檄文が来ないのか?」

 孫堅は虚空を眺めたまま独り言を言う。

「腑に落ちませんな。いの一番に蔡瑁と対立する文台様の元に檄文を届けそうなものですが」
「檄文を書いた主が車騎将軍なら私なんて知らないかもしれんがな」

 孫堅は苛ついた様子で黄蓋に言った。黄蓋は孫堅の勘に触ったと思ったか押し黙った。

「文台様、あまりお気になさいますな」
「気にしてなどいない!」

 孫堅は声を荒らげた。彼女は自らの才覚のみで立身し今の地位についた。しかし、出世すればするほどに他者の妬みによる非道中傷が独り歩きする。史実でも孫堅の子である孫策、孫権は出自故に呉の支配で苦労した。彼女は心の隅にある負い目から正宗へ劣等感を感じたのかもしれない。

「文台様、どうされますか?」

 孫堅は黄蓋の問いかけに返事せず沈黙していた。

「南陽郡へ行く」

 孫堅は短く答えた。先程の怒りは消えていたが、不機嫌そうだった。

「ここで悩んだところで何も変わらない。直接、南陽郡に出向き真偽を明らかにする」
「南陽郡なら蓮華殿が現在滞在しているはず。わざわざ文台様が出向かずとも蓮華殿と連絡を取ればよろしいではありませんか? 虚報であった場合、無駄足になりますぞ」
「無駄足だろうと構わないさ。南陽郡へは機会があれば出向こうと思っていた。袁公路の治世に興味があるからね」

 孫堅はもう機嫌を直したのか表情に笑みが見られた。黄蓋も孫堅の様子にほっとしているようだ。

「一度、蓮華殿と連絡を取りましょう」

 黄蓋は孫堅が南陽郡に向かうことに賛成していないようだ。彼女の態度に孫堅は憮然とした。

「何故、私が南陽郡に行くのに反対するんだい」
「別に反対ではありません。ただ」

 黄蓋は言葉に窮し孫堅を見た。彼女の表情から理由はあるが孫堅には面と向かって言いづらいことなのだろう。

「そうだ。祭も一緒に着いて来ないかい?」

 孫堅は黄蓋の心中はお見通しなのか満面の笑顔で黄蓋を誘った。

「よいのですか!?」

 黄蓋は孫堅の誘いに満面の笑顔になる。

「南陽郡に行ったら美味しいお酒を探さないとね」
「そうですな」

 黄蓋と孫堅は意気揚々として酒の話に花を咲かせていた。

「しかし、留守番は誰に任せましょうか?」

 黄蓋は神妙な顔で孫堅に聞いた。彼女が先程孫堅に言おうとして躊躇したことはこのことなのだろう。もし、彼女が留守になれば、孫堅がやるべき政務の代行を黄蓋が代わってやることになるからだ。

「雪蓮でいいだろ。あの子夕方には戻ってくるはずだから。さっとと準備をして城を立とう。祭、兵は五十位で十分だろ。後のことは南陽郡についてから考えればいいさ」
「文台様、策殿への書き置きお願いしますぞ」

 黄蓋に言われ孫堅は机の箸においている竹巻を取り筆を走らせた。

「これでよし! 祭、さっさと行くぞ!」

 孫堅は快活に笑いながら行った。彼女と黄蓋の様子は旅行にでも出向く雰囲気だった。

「母上。祭。聞いているんですけど」

 どこからともなく彼女の娘・孫策の静かな声が聞こえてきた。孫堅は肩を堅くして周囲を見渡した。黄蓋も彼女と同じように見渡す。二人の視線は執務室の入り口で止まった。そこには顔を伏せて立つ孫策がいた。

「雪蓮、そんなとこに居たのか。びっくりさせるんじゃない」

 孫堅は何事もなかったように孫策に声をかけた。

「おお! 策殿、どうされたのじゃ。今日は山賊討伐で夕方帰る予定ではなかったですかな?」

 黄蓋はぎこちない笑顔で孫策に声をかけた。
 孫策は二人の態度に頬をひくつかせる。

「自分達だけ南陽郡に遊び行くのずるいじゃない!」
「遊びとは失敬だな。私達は蔡瑁討伐の檄文の真偽を探りに南陽郡に向かうのだ。留守を頼むぞ!」

 孫堅は大きい胸を強調するかのように胸を張り、威厳ある態度で孫策に指示を出すと執務室を後にしようとした。祭は苦笑いをしつつ、右手で詫びる仕草をしながら孫堅の後を追おうとした。

「ちょっと待て――!」

 孫策は怒鳴りながら孫堅の首元を掴んだ。

「母親に何て口の聞き方するんだい! 雪蓮、さっさと離せ!」

 孫堅は孫策に首元を捕まれながらも孫策に抗議した。

「蔡瑁討伐の檄文って。街で噂になっているやつでしょ」
「街で? もう城下でも噂になっているのかい?」

 先ほどまで暴れていた孫堅は孫策の拘束を乱暴に振りほどくと真剣な顔で孫策に質問した。

「城下というか。韓当のお店で噂になっていたわね。あの酒場は流れの行商人がよく利用しているから」
「流れ者の間で噂になっているということは眉唾ものの話という訳でもないな。あいつらは情報の嗅覚だけは鋭いから。やはり一度南陽郡に出向いたほうがいいな。しかし、もし噂が真実なら私に檄文が届いていないのが府に落ちない」
「つい忘れたんじゃない」

 孫策は気にした様子もなく孫堅に言った。

「つい忘れるなんてあるわけないだろ!」

 孫堅は孫策の言葉に苛立っていた。

「故意に檄文を送るのを避けたのやもしれませんな」

 黄蓋の言葉に孫堅はこめかみに青筋を立てた。

「それって母上が車騎将軍に嫌われているとか?」

 孫策は腹を抱えながら笑い声を上げていた。

「車騎将軍ともあろう者が、こんな陰険な扱いをするのかい!」

 孫堅は怒りを隠さずに愚痴った。

「文台様、そう決まった訳ではないですぞ」
「そうだね」

 孫堅は釈然としない様子だったが気持ちを落ち着かせていた。

「しかし、檄文の件気になるね」

 孫堅は当初は物見遊山で南陽郡に向かう気持ちと蔡瑁討伐の檄文の真偽を確かめる気持ちが半々のようだったが、今では後者が彼女の心中を占めているように見えた。

「ところで雪蓮。随分早い帰りだね」

 孫堅は孫策を見つめ突然何か気づいたように話題を変えた。

「山賊が手ごたえ無さ過ぎて、予定より早く帰ってきたの。それで一杯引っ掛けに酒場に寄ったら、たまたま南陽郡から来た行商人が話しているのを聞いて、内容に驚いて急いで帰ってきたわけ」

 孫策は孫堅と黄蓋に自慢気に言った。

「行商人達は他に何か言っていたか?」
「車騎将軍は蔡瑁の刺客の襲撃を受けたらしいんだけど、彼が目にも留まらない弓捌きで襲撃者を討ち取ったって言っていたけ。その行商人は間近で見ていたらしくて、その時のことを身振り手振りで興奮しながら話していたわね。私、車騎将軍の印象は太ったおっさんみたいな印象だったんだけど違ったのね」

 孫策は正宗のことを知らないこともあり車騎将軍の先入観で正宗の印象を捉えていたのだろう。当時、後漢末期ともなると大将軍や車騎将軍の官職は皇帝の外戚の定位置のようになり、生粋の武官の印象は低くなっていた。

「策殿、流石に口が過ぎますぞ。しかし車騎将軍は弓の使い手であられるのですか」

 黄蓋は孫策の毒舌に苦笑した。彼女は弓の使い手として正宗に興味を持ったように見えた。

「車騎将軍は男なのかい?」
「そうみたいね。行商人の話よると雅な出で立ちの男だったて言っていたわね。でも滅法腕は立つと言っていたわね。どの程度の腕かわからないけど雑兵に遅れを取ることはないんじゃないのかな」

 孫策は酒場で聞いたことを思い出すように喋っていた。ふと孫策の動きが止まる。

「そうそう! 車騎将軍の襲撃者の名前聞いて驚いたわ! 誰だと思う? 誰だと思う?」

 孫策は悪戯を思いついた子供のような表情で孫堅に言った。

「私が知るわけないだろ。勿体ぶらずに教えな」

 孫堅は孫策は憮然としていた。

「どうしようかな~」

 孫堅の様子を面白そうに孫策は見ていた。

「策殿、誰なのですか? 教えてくだされ」

 黄蓋は話の続きを聞きたいのか孫策に頼んだ。

「しょうがないわね。聞いて驚かないでね。襲撃者の名は劉表配下の黄忠」

 孫堅と黄蓋は目を丸くし、次の瞬間大笑いした。

「何で笑うのよ!」

 孫策は二人の反応に気分を害したのか憮然としていた。

「劉表配下の黄忠が車騎将軍を殺そうとするなどありえないですぞ。空から槍が降るようなものじゃ」

 黄蓋は腹を抱えて大笑いしていた。

「黄忠が車騎将軍の命を狙う理由が何処にある?」

 孫堅は黄蓋の言葉に同調し孫策の話を一笑に伏した。

「私もはじめ信じられなかったけど。いくら黄忠でも蔡瑁に娘を人質に取られれば仕方ないんじゃないのかな」

 孫策の言葉に二人とも笑うのを止めた。

「蔡瑁はそんな下種なことをしたのかい?」

 孫堅は孫策の話に反応し、険しい表情に変わる。孫策は彼女に頷き肯定の返事をした。

「あの陰険な女ならやりそうなことですな」

 黄蓋は蔡瑁のことを思い出すような仕草をした後、何度も頷きながら言った。孫堅も黄蓋の意見に同意なのか頷いていた。孫堅と黄蓋の様子から彼女達の間でも蔡瑁の評判はよくないことが窺える。

「黄忠は車騎将軍に処刑されたのかい?」

 孫堅は気分悪そうに孫策に聞いた。黄蓋も何も言わず沈黙した。人質を取られたとはいえ朝廷の重臣である車騎将軍を殺そうとしたのだ。処刑が妥当といえた。二人も頭では理解しているが黄忠の境遇に同情しているのだろう。そして、黄忠の娘のことも。

「ねえねえ。黄忠の娘はどうなったと思う? 知りたくない?」

 孫策は両目を爛々と輝かせて二人を見ていた。孫堅と黄蓋は怒り孫策のことを睨みつけた。孫策は二人の反応に動揺した。

「えっ!? 二人ともどうしたの? そんな怖い目で見ないでよ」

 孫策は目の前の二人の剣幕に引いて乾いた笑いをした。

「何がどうしただ! 私はお前をそんな薄情な娘に育てた覚えは無い!」

 孫堅は孫策を罵倒した。

「策殿がこんな冷血漢だったとは悲しいですぞ!」

 黄蓋も孫堅同様に孫策を非難した。孫策は二人の態度に呆けていた。

「二人とも勘違いしていない? 黄忠も彼女の娘も無罪放免なんだけど」

 二人とも孫策の話に言葉を失っていた。

「馬鹿な!?」

 しばらく沈黙が続いたが黄蓋が驚きの声を上げた。

「私もね。黄忠が死罪を免れるなんてありえないと思ったんだけど。車騎将軍自ら兵を率いて黄忠の娘を救い出し黄忠の罪も許したそうよ」

 今度は孫堅と黄蓋はきょとんした顔で孫策の話を聞いていた。

「でも黄忠の方は無条件に無罪放免じゃなくて蔡瑁討伐に従軍することが条件らしい。それでも破格の処遇よね」

 孫策は嬉しそうに言っていた。

「黄忠は脅されて車騎将軍の命を狙ったとはいえ。よく車騎将軍は黄忠を許したな」

 孫堅は正宗の判断が理解できずにいた。彼女が正宗の立場なら迷わず黄忠を殺したからだろう。ただ、彼女の感覚は特別とはいえない。黄忠の行為を考えれば情状酌量を酌もうと親娘共々公開処刑になるのが一般的だったからだ。正宗の処断は寛大といえた。

「文台様、難しいことは考えずともよいではありませんか? 黄忠とその娘が恩赦を受けたことを喜びましょう。黄忠は敵とはいえなかなかの人物。車騎将軍は黄忠を見て殺すのが惜しいと思ったのでしょう」

 黄蓋は気持ちのよい笑い声を上げて孫堅に言った。

「それにしても車騎将軍の対応があまりに迅速すぎないか?」
「何が?」

 孫策は孫堅の意図が分からず聞き返した。

「いくら黄忠が人質を取られていることを告白したとしても、それからでは人質を取り戻すのに間に合うかどうか? まるで襲撃者が黄忠と見抜き、人質のこともある程度把握していたようにしか思えないぞ」
「まさか車騎将軍が黄忠の娘を誘拐して自作自演したとか?」

 孫策も孫堅の説明を受け真剣に顔になる。黄蓋も神妙な表情だ。

「そうまで言わない。だいたい、そんな回りくどいことをやる利が車騎将軍にないだろう。黄忠と娘を処刑して晒した方がよい見せしめとなる。荊州の太守と豪族もこぞって車騎将軍の元に馳せ参じるはずだ」

 孫堅は孫策の考えを否定した。

「車騎将軍は襲撃者を黄忠に目星をつけ、彼女の身辺を洗った。その結果、彼女が人質を取られていることを知り、彼女が襲撃者と知りながらも敢えて襲撃を受けたってこと? まさか~!」

 孫策は「冗談言わないでよ」という表情で孫堅に言った。

「危険な真似を犯してでも黄忠を救おうとしたということですか? 車騎将軍にとって黄忠は初対面のはず。そんな相手にそこまで骨を折るなどありえるのでしょうか?」

 黄蓋は孫堅の話に半信半疑だった。

「ありえないよな。私の思い過ごしか」

 孫堅は恥ずかしそうに笑いながら言った。

「そうそう。そんな奇天烈な話より、車騎将軍が黄忠の容姿を気に入り体を要求したというほうが余程信じるわよ」

 孫策は笑いながら言った。

「仮にそうだったとしても車騎将軍が事前に知っていたことになるがな。黄忠を取り押さえてから人質を探していては人質は手遅れになるはずだ」

 孫堅は孫策に茶化され腹が立ったのか半目になり言った。

「黄忠の弓の腕は確かだ。腕に覚えのある武人でも虚を突かれればあの世行きだ。娘を救うことを条件に体を要求するような者にそんな危険を冒す度胸があるとは思えないぞ」

 孫堅は続けて孫策を小馬鹿にするように言った。

「まあ、そうよね」

 孫策も孫堅の話に納得はしていない様子だったが、自分の話はもっと説得力がないと感じているようだった。

「文台様、策殿。車騎将軍はどんな人物でもいいではございませんか。それより南陽郡に出向きましょう」
「そうだな」

 孫堅は思い出したように手を叩き部屋の出口に向かった。

「母上、ちょっと待って!」

 孫策は孫堅を止めた。

「まだ何かあるのかい。私は忙しいんだ」
「私だけ留守番なの?」

 孫策は半泣き状態で孫堅の服の裾を掴んだ。孫堅は彼女の手を振り払おうと彼女の手を服から剥がそうとしたが、彼女は必死に裾を掴み離そうとしなかった。孫堅は苛立ち孫策を睨んだ。

「他に誰がいる?」
「ありえない! これ苛めでしょ。娘が可愛くないの?」

 孫策は切れ気味に孫堅に文句を言った。

「娘が可愛くない母親がいるわけないだろ。可愛い娘だからこの城に留守番させて危険から守ってあげるんじゃないかい」

 孫堅は菩薩のような優しい微笑みを浮かべつつ、孫策の手を解こうとした。しかし、孫策は孫堅の服の裾をがっちり掴んで離そうしなかった。

「私、今日は山賊討伐に行っていたんですけど」

 孫策は非難めいた視線を孫堅に向けた。

「ああ五月蝿い! 分かった。分かったよ。好きにしな。でも困ったね。誰を留守番にするかね」

 孫策にごねられ孫堅は折れたが、今度は留守を誰に任すかで困っているようだ。

「小蓮でいいんじゃない。あの子遊びに出かけているみたいだし」

 孫策は人ごとのように笑顔で言った。

「小蓮では留守番は無理ではないですかな」

 黄蓋が孫策の提案に懸念を示した。

「じゃあ、祭が留守番すればいいんじゃない」
「何でわしが! 策殿が留守番すればいいじゃろ」
「何で私なのよ!」

 孫策と黄蓋は留守番の話で揉めはじめた。

「静かにおし!」

 孫堅は一括して黄蓋と孫策を黙らせた。二人は彼女に視線を向ける。

「ここは小蓮に任せようと思う。可愛い子には旅をさせよというじゃないか」
「本気なのですか? わしは小蓮が面倒事を起こさないかと心配なのですが」

 黄蓋が孫尚香に留守番を任せることが不安なようだ。彼女の様子から以前にも孫尚香に留守番を任せ面倒なことになったかもしれない。

「じゃあ、祭は留守番だな」
「そうね。祭は留守番お願い」

 孫堅と孫策は口を揃えて祭に言った。

「なんでわしが留守番なのです!」

 黄蓋は孫堅と孫策に抗議した。しかし、二人とも彼女の意見に耳を貸す様子がないことを感じ取ったのか観念したように「小蓮に任せましょう」と小さい声で言った。

「よし、これで決まった。兵と武器と兵糧の準備は二人に任せたぞ!」

 三人は各々の担当を割り振り執務室を出て行ったが、黄蓋だけは不安気な様子だった。



 南陽郡宛城――
 孫堅一行は川を船で上り南郡、江夏郡、南陽郡へと二週間ほどの工程で宛城に到着した。彼女達は兵五十名を連れ大通りを進んでいた。

「祭、蓮華はどこの宿に滞在しているか知っているかい?」

 宛てどもなく歩く孫堅は横にいる黄蓋に声を掛けた。

「そういえば海陵酒家という店に世話になると便りがありましたな。便りは一ヶ月前ですから、海陵酒家という店にいるかどうかわかりませんが」

 黄蓋は孫堅に自信なさ気に言った。

「それで十分だろ。とりあえず海陵酒家という店に行くか」

 孫堅は笑いながら黄蓋に返事し、街の人に話を聞きながら海陵酒家を探したが中々見つからなかった。孫堅一行は途方に暮れながらも、まだ足を踏み入れていない下町にまで足を運び海陵酒家の情報を求め聞き込みをはじめた。明らかに余所者である孫堅一行に下町の者達は不信の視線を向けていたが、人の良さそうな老婆が彼女達に声を掛けてきた。

「あんた達何か用かね?」

「ご老体、助かった」

 老婆に声を掛けられた孫堅は笑顔で振り向いた。老婆は貧しい身なりではあったが善人そうな雰囲気を放っていた。孫堅も彼女の雰囲気に安心して表情が自然と優しい表情になっていた。

「いや~。皆、私達を不審がって答えてくれなくてな」
「そんな物騒な連中を連れていたら、ここらの者は不信がるだろうさ」

 老婆は孫堅にぶっきらぼうにに言った。孫堅は兵士達に視線を向けると老婆に苦笑いを浮かべた。

「脅すつもりはなかったのだがな」
「別にいいさ。海陵酒家を探しているんだろ?」

 老婆は孫堅の弁明などどうでもいいという態度で本題を切り出してきた。

「ご老体、『海陵酒家』を知っているのか?」
「知っているも何も。もう店を閉めてしまったけどな。何でも車騎将軍の直臣に取り立てられたらしくてな。この前会ったら身なりもしっかりして、立派になったもんだよ」

 老婆は呂岱が士官したことを我が事のように喜んでいる様子だった。その話を聞いた孫堅と孫策と黄蓋は顔を見合わせ驚いていた。

「『海陵酒家』の店主は車騎将軍に士官したのか!?」
「そうだよ」

 老婆は淡々と言った。

「『海陵酒家』で女が二人出入りしていなかったか? 名は孫仲謀と甘興覇というのだが」

 二人の名を聞き、老婆は孫堅のことを面食らったように見つめた。

「あんた。貴方様は孫文台様ですか?」

 老婆は突然に孫堅に対する口調を敬語に変えた。彼女は孫堅のことを怯えた表情で見ていた。

「ご老体、落ち着いてくれ。私は何もしないさ」

 孫堅は怯える老婆に近づき落ち着かせようとしたが、老婆は後ずさりした。傍目から見ると老婆を脅す悪徳兵士達の構図だった。

「落ち着いて。おばあちゃん。母上は怖そうだけど怖くないから」

 孫堅を怖がる老婆の警戒を解こう孫策が笑顔で老婆に近づいた。孫堅は孫策の言葉に眉を上げ苛ついた表情を浮かべる。それに老婆は反応した。

「ひぃぃ。近づかないでおくれ!」

 老婆は孫堅達のことを恐れ更に後ずさった。孫堅達は困り果てていたが、孫権のことを知っているかもしれない老婆を逃がす訳にもいかず詰め寄った。

「そこで何をしている!」

 孫堅達を怒鳴る男の声が聞こえた。彼女達が振り向くと老婆は急いで声の方に逃げていった。声の主は正宗だった。彼は老婆を後ろに隠し、孫堅達を不審感に満ちた目で見ていた。彼は士大夫が一般的に着ている服装だったが、その服装とは似合わない豪壮な双天戟を右肩で支えるように軽々と持っていた。

「劉将軍!? こ、こいつらが私を脅したんです!」

 老婆は動揺した様子で正宗に訴えかけた。正宗の孫堅達を見る目が冷徹なものに代わった。それだけで辺りの温度が一段下がる感じがした。正宗の放つただならぬ気配に孫堅達は直ぐに正宗が只者でないと感じ取った様子だ。

「ちょって待て! ご老体、私は何もしていないではないか? 劉将軍と申されたか? 私はご老体に何もしてはいない。怪しい者でもない!」

 孫堅は正宗に慌てて弁明した。彼女も南陽郡について早々に面倒を起こしたいとは思っていないのだろう。

「では何をしていたというのだ?」

 正宗は詰問するように孫堅に言った。

「私は宛城にいる娘を探している。老婆には娘の居場所を教えてもらおうとしていただけだ。決して脅してなどいない。私は長沙郡太守・孫文台。貴殿の名をお聞かせ願えないか?」

 孫堅は堂々と名乗った。彼女は正宗に敬意を払う口調だった。老婆が正宗のことを「劉将軍」と呼んでいたので少なくとも官職のあるものと考えたのだろう。また、蔡瑁討伐の檄文の件もあり、正宗のことを車騎将軍配下の将軍と考えた可能性がある。
 孫堅の名乗りを聞いた正宗はあからさまに嫌そうな表情に変わった。孫堅達は正宗の表情の変化に気づくが何も言わず、正宗の反応を待っていた。正宗はしばし沈黙していたが観念したように口を開く。

「余は劉正礼。車騎将軍にして冀州牧、爵位は清河王である」

 正宗は威厳に満ちた態度で孫堅に口上を述べた。孫堅達は目を丸くして彼のことを見つめていたが突然笑いだした。

「こんな下町に供も連れずに車騎将軍ともあろう者が来るわけがないだろ。若造、冗談はやめておくれ」
「本当よね。私達を田舎者と思って騙そうというつもりだろうけどそうはいかないわよ」
「坊主、悪い冗談はよすのじゃ」

 孫堅達は正宗を馬鹿にするように言った。彼女の態度に正宗は無表情で沈黙していた。双天戟を握る彼の手に力が篭もるのがわかる。

「罰当たりがっ! この方は正真正銘車騎将軍様だ。太守様の兄なんじゃぞ」

 老婆は正宗の後から孫堅のことをなじった。彼女は先程までと一転して孫堅に対して強きだった。正宗がいるので安心しきっているのが孫堅達にもわかった。それは彼女達の目の前にいる男がかなりの腕前であることを意味していた。

「おばあさん、ここは私に任せて逃げてくれ」
「おまいさんだけ残して逃げるなんて」

 老婆は正宗一人を孫堅達の元に置いて行くのが気が引けるようだった。彼女の中では孫堅は恐怖の対象なのだろう。正宗が強いと分かっていても、孫堅と互角に渡り合えるとは限らないと考えているのかもしれない。彼女から正宗のことを心配していることが見て取れた。

「心配しなくても大丈夫。この私がこんな野蛮な連中に遅れを取るわけないだろ」

 正宗は優しく微笑み老婆に逃げるように諭した。老婆は逃げる間も時々正宗の方を向いていた。

「若造、折角の情報源をどうしてくれるんだ!」

 孫堅は正宗の口ぶりが気に入らなかったのか、先程までと違い凄い剣幕で猛り狂い正宗に怒鳴った。正宗は孫堅の態度に少しも動じなかった。

「お前等に用はない。さっさと失せろ! 今なら勘弁してやる」

 正宗は孫堅の態度に不快感を覚えたのか吐き捨てるように言った。

「私が孫文台と知ってなお、そんな舐めた口を聞くのかい?」

 孫堅は悪ガキを躾けるつもりのような態度で正宗を見た。正宗は孫堅の言葉を聞き鼻で笑った。

「舐めた口を聞いたらどうなるというのだ?」

 正宗は孫堅を小馬鹿にするように挑戦的な目つきで見つめた。その様子を見て孫策は右手を額にため息をついた。

「坊主、悪いことは言わん。文台様に詫びるんじゃ。今謝れば私の口添えしてやる」

 黄蓋は正宗を気遣うように言ったが、正宗は大笑いした。その様子に孫策と黄蓋は顔を見合わせ呆れていた。

「若造、躾の時間だ!」

 孫堅はそう言うと南海覇王を抜き放ち襲い掛かってきた。正宗は一気に間合いを詰め、孫堅の近くまで移動していた。その速さに孫堅だけでなく、孫策と黄蓋も目を見開き驚いていた。正宗は素早く双天戟を深く構え突っ込んで来る孫堅に向けて激しい連続突きを繰り出した。孫堅は正宗の反撃を予想していなかったのか、苦しい表情で必死に双天戟の激しい突きを捌いていくが耐え切れず後方に下がった。彼女の横腹にどす黒い血の色が滲んでいた。そして、南海覇王を握る手は小刻みに震えていた。正宗の放つ連撃を立て続けに捌いて彼女の手は一時的に痺れているだろう。

「逃すか」

 正宗は底冷えする声で喋ると孫堅に向けて殺気を放つ。その瞬間、後方に逃げる孫堅との間合いを詰めようと正宗は襲い掛かる。孫堅は正宗の戟から逃げ切れないと悟ったのか、正宗との間合いを詰め南海覇王を振り上げると正宗に斬撃を浴びせた。しかし、正宗は双天戟を棒切れのように軽々と起こし、ぎりぎりのところで孫堅の斬撃を全て防ぎきった。孫堅は舌打ちをし距離を取ろうと再度後方に飛んだ。

「孫文台、私に小細工など効かんぞ。私を殺る気ならここを狙わんとな」

 正宗は口角を上げ、自らの首の右側を右手で軽く叩く。彼の余裕に満ちた様子に孫堅は苦々しい様子だった。

「若造、勝負はこれからだ!」

 孫堅は自分の娘と同じ位の年端の男に一方的な実力差を見せつけられたことが余程の悔しいのだろう。彼女は脇腹の痛みを堪え額に汗をかきながら正宗を睨みつけた。

「弱い弱い孫長沙郡太守殿とお呼びすればよろしいかな?」

 正宗は孫堅をなじるように薄い笑みを浮かべ双天戟を構えた。孫堅は正宗の言葉に両目を血走らせた。

「若造が!」

 孫堅は江東の虎の異名に相応しい威圧感を辺りに撒き散らし正宗に襲いかかる。彼女の表情から正宗への手加減は微塵も感じられなかった。目の前の獲物を狩る虎がそこにいた。しかし、正宗は微塵も動揺することなく、孫堅との間合いを詰め攻撃を繰り出す。
 正宗の激しい双天戟による連撃に阻まれ、孫堅は正宗に一太刀を浴びせることもできずにいた。彼女の獲物は剣である以上、戟を操る正宗との間合いの差が決定的である。特に正宗と孫堅の実力差があればあるほど、この間合の差は孫堅にとって歩が悪くなる。孫堅も正宗との実力差を実感したのか、彼女の表情に焦りの色が見えはじめていた。
 正宗と孫堅の激しい戦闘を孫策と黄蓋は固唾を飲んで見ていた。孫堅配下の兵士達も圧される孫堅の姿に動揺している様子だった。

「なんなのあいつ」

 孫策は正宗の圧倒的な武技に動揺しているようだ。それは黄蓋も同様だった。

「あの坊主何者なんじゃ。文台様が手球に取られている。信じられん」

 孫堅配下の兵士達に至ってはどうすればいいのか浮足だっていた。



 その後、正宗と孫堅は何十合も撃ちあった。正宗の圧倒的な蹂躙で孫堅は肩で息をする状態だった。対して正宗は息を少しも乱していなかった。

「どうした。歳を取り過ぎると体力が落ちるのか? そろそろ引退してはどうだ?」

 正宗は陰険な笑みを浮かべ孫堅に言った。孫堅は正宗の言葉を聞き額に青筋を立てるも叫ぶ気力もないのか、正宗のことを苦々しく見ていた。

「若造、好きにさせていればいい気になりやがって!」

 正宗の安い挑発に乗って孫堅は南海覇王を横に構え正宗の一刀を浴びせようと襲いかかる。既に孫堅の瞬発力は正宗との攻防で落ちているため動きに切れがない。正宗の目から感情が消え殺意だけを孫堅に向けていた。その様は狼がいたぶった獲物に止めを刺さそうとする姿に見えた。孫策は厳しい表情に変わり黄蓋を見た。

「祭、あの男に矢を放って動きを封じて! その間に母上を止めるから」

 このまま孫堅が正宗に斬りかかったら孫堅が徒では済まないと孫策は察したのか黄蓋に命令した。

「何を言っておる!? そんな真似ができるか! これは一対一の勝負。それに水をさせるわけがなかろう」

 黄蓋は孫策の命令に文句を言い命令を拒否した。

「何いってんのよ! あの男は母上を殺す気よ。あの男の途中から母上に殺気を放っているわ。本気で殺る気なのよ」
「それはそうじゃろ。文台様も坊主に殺気を放っておる。殺気を放たれれば相手も殺気を放つじゃろ。それにこれは一対一の勝負じゃぞ。横槍など無粋。怪我はするかもしれんが流石に殺しはせんじゃろ」

 黄蓋は孫策の話など聞く耳がないようだった。

「ああ! 何でもいいから、あの男に弓を射なさいよ!」

 孫策は黄蓋を急かした。

「分かった。怪我をさせように気をつけて射つぞ」

 黄蓋は孫策に急かされ渋々と弓に矢を番え正宗に照準を合わせた。

「坊主、許せよ。この程度であれば避けれるじゃろう」

 黄蓋は申し訳なさそうに正宗に向けた弓を射った。しかし、その弓は正宗に届くことなく途中で落下した。

「祭、何してんのよ!」

 孫策は正宗の目の前で墜落する矢を見て黄蓋に怒鳴った。

「策殿、何者かに撃ち落とされたんじゃ! 誰だ?」

 黄蓋は周囲を見渡そうとするが、孫策が黄蓋に次の矢を放つように急かした。しかし、黄蓋は邪魔してきた人物を探すのが先だと言い合いになっていた。

「貴様等! 正宗様に何をしている!」
「あなた達正宗様に何をする気ですか!」

 孫策と黄蓋が言い争っていると二人の女の怒声が聞こえた。孫策と黄蓋が振り向くとそこには泉と黄忠と孫権がいた。泉に至っては頭に血が昇り過ぎて、孫策達を殺そうと槍を構えていたが必死に黄忠が宥めていた。

「蓮華!?」
「蓮華殿!?」

 孫策と黄蓋は孫権を見て素っ頓狂な声を出した。だが、直ぐに正宗と孫堅の方を向いた。自ずと残りの三人も視線を正宗と孫堅に向けた。それを見た孫権は慌てて正宗と孫堅に駆け寄っていく。
 孫堅は正宗の攻撃に苦しめられていた。体中に小さい裂傷ができ血が滲んでいる。正宗の攻撃を全て避けきれずに負った傷だろう。動きの鈍った孫堅に対して正宗は緩急を付け不規則な双天戟による連続突きを孫堅に浴びせ更に追い込んでいた。孫堅は既に満身創痍の状態だった。

「先程までの威勢はどうした? 貴様は年老いた武器を持たない者にしか偉そうにできないのか?」
「忌々しい若造だね! 何度も言っているだろうが! 私は脅迫なんかしていない! あの婆が勝手に私のことを怖がったんだろうが!」

 孫堅は自棄糞気味に正宗に叫んだ。

「この私に襲い掛かってきたお前の台詞など信用できんな」

 正宗は孫堅に言うと双天戟を構えた。先程と違い正宗の放つ気が変化した。先程までは灼熱の炎のような攻撃な気だったが、今は辺りから音が聞こえなくなったような錯覚を受けるような気に変質していた。孫堅は本能的に正宗の変化を感じ取ったのか表情が緊張しているように見えた。

「孫文台がこんな危険な女であったとはな。後顧の憂いとなる前に、ここで終わりしてやる。お前を始末したら娘の孫伯府も始末してやる」
「清河王、お待ちください!」

 正宗と孫堅の間に孫権が割り込んできた。

「蓮華!?」

 孫堅は孫権を確認すると驚いた様子だった。それに対して正宗は邪魔をされたことに不機嫌な様子だった。

「孫仲謀、そこをどけ! この私に無礼の限りを働いた孫文台を成敗してやる」

 正宗は孫権に怒鳴った。

「お気をお鎮めください! 母の無礼はお詫びいたします」

 孫権は正宗に頭を下げた。しかし、正宗は気が収まらないのか孫堅を睨みつけていた。
 孫堅は正宗と孫権のやりとりを見て、正宗が車騎将軍であると気づいたようだ。彼女はバツが悪そうに正宗を見たが、このままではまずいと彼女は思ったのだろう。彼女はそそくさと立ち上がり正宗の面前にふらつく足取りで進み出ると片膝を折り拱手した。

「孫文台、どういうつもだ?」
「車騎将軍と知らず数々の非礼お許しください」

 孫堅の拱手する姿は先程までの印象とは違った。軍人畑が長いこともあり、整然とした身のこなしだった。正宗は憮然とした表情で拱手する孫堅を見た。

「母は清河王は御顔を知りません。知らぬとはいえ許される罪ではございません。ですが、どうか清河王。寛大なご処置をいただきたく存じます」

 孫権は正宗に両膝を着き正宗に必死に嘆願した。正宗は舌打ちをし孫堅に向けた双天戟の矛を下げた。孫権は安堵した表情を浮かべていた。
 正宗が矛を渋々収めたのは自らにも非があると感じたからだろう。孫堅が正宗と指摘したことは間違っていない。しかし、それを差し引いても孫堅が正宗に剣を向けたことは許されることではない。

「孫文台、お前の非礼を許すことはできんな。お前はどう償うつもりだ?」

 正宗は先程の武人然とした雰囲気から一転して政治家の顔をしていた。孫堅も正宗の言葉の真意を理解して顔を伏せ拱手した。

「私は太守でございますが、武人にございます。私に戦場にて汚名を注ぐ機会をいただく存じます」
「戦場だと? 甘興覇はもうお前のところに着いていたのか? 随分と早いな。長沙まで二週間はかかるであろう」

 正宗は孫堅のことを訝しんでいた。孫堅は「えっ?」とたじろいだ表情を浮かべていた。

「一週間前に思春が長沙郡に清河王から文を母上に届けに向かったのだけど?」

 孫権は孫堅の様子に気づき、それとなく孫堅に声を掛けた。正宗は急に孫堅を不審げな目つきで見た。

「車騎将軍からの文確かに受け取っております。この孫文台、是非に蔡瑁討伐に参加したく存じます」

 孫堅は顔を伏せ正宗に拱手して蔡瑁討伐に加勢する旨を表明した。しかし、正宗は孫堅に対して不信感は消えていないようだった。

「清河王、母はこう申しております。きっと清河王のために励み戦功を上げましょう」

 孫権は孫堅の様子が少し変と感じたのか、わざとらしい笑顔で正宗に話しかけてきた。正宗は孫権をしばし凝視していた。

「ところで甘興覇はどこだ? 甘興覇がお前達の元に文を届けているなら、甘興覇も同行しているのではないか?」

 孫権と孫堅は正宗の言葉に体を固くした。孫権は視線を孫堅に向けるが、孫堅は拱手したまま沈黙していた。

「甘興覇はどうしたのだ?」

 正宗は再度甘寧のことを聞いた。

「家臣甘興覇は車騎将軍の文を届けるために昼夜休みなく長沙郡にたどり着きました。精も根も尽き果て、現在は長沙郡にて少し休みをとり兵を引き連れ遅れて南陽郡に到着する段取りとなっております」

 孫堅は正宗に聞かれしばし沈黙を保ったが、徐ろに口を開き淀みなく正宗に説明した。孫権は彼女の説明に安堵している様子だった。甘寧が蔡瑁の手の者に拘束されたと考えたのか。それともうまい具合に取り繕うことができたと考えたのか。

「そうか。甘興覇の働き殊勝だ。あの者へは少し辛くあたってしまったが実直な者のようだ。次に会ったら褒美をやることにしよう」

 正宗は孫堅の説明を聞き、孫堅へ訝しむ表情を解いた。しかし、正宗は孫堅に観察すような視線を送っていた。

「清河王のお言葉。思春が聞けば喜ぶと思います」

 孫権は正宗の言葉に素直に感激している様子だった。孫権と甘寧に対する正宗の接し方は少し刺のある感じだっただけに、正宗の変化は孫権には新鮮に感じられたのだろう。

「私は帰る。泉、紫苑帰るぞ。孫仲謀、そなたは積もる話があるだろう。孫文台の世話をしてやるといい」

 正宗は孫権と孫堅を交互に視線を向けると立ち去ちさろうとした。正宗は黄忠のことを真名で呼んでいた。黄忠もここに駆けつけた時に正宗のことを真名で呼んでいた。既に互いに真名を交換したのだろう。

「正宗様、この無礼な女を放置されるのですか!?」

 泉は黄蓋を指さす。指された黄蓋は気まずい表情をしていた。黄蓋は自分が正宗に矢を放とうしたことを糾弾されると思っているようだ。

「もういい。興が冷めた。そなた次は首が飛ぶことになるぞ」

 正宗は黄蓋を一瞥すると去っていった。泉は正宗が黄蓋に忠告をしたことで一応納得したのか、黄蓋を睨みつけて去っていった。
 紫苑は孫堅と孫策と黄蓋に目礼を一度すると正宗と泉の後を追うように去っていった。

「ねえ。あれって黄忠じゃない」
「そうじゃな」
「黄忠とあのお、いや車騎将軍のやり取りを見ていると黄忠は車騎将軍の家臣になったのかしら?」
「詳しくはわかりませんがそう見えましたな」

 孫策と黄蓋は正宗達が去っていた先を見つめながら言葉を交わしていた。

「お前達! 何をボサッとしているんだい。手を貸してくれ」

 孫権に支えながら孫堅がゆっくりと歩いてきた。孫堅の足取りは力がなかった。正宗に受けた傷が堪えているのだろう。

「母上! 大丈夫!」

 孫策は慌てて孫堅に駆け寄った。

「遅いよ」

 孫堅は非難めいた視線を孫策に向けた。

「ご無事で何よりです」

 黄蓋は悪気がなかったが孫堅は皮肉に聞こえたのかふてくされてた表情になった。

「母上、本当にご無事でよかったです。何で清河王と戦ったのです。私がこなかったら死んでいたかもしれないじゃありませんか!」

 孫権は孫堅のことを厳しく怒った。彼女は母である孫堅のことが心配だったのだろう。今頃になって涙目になっていた。その表情を見て孫堅はバツが悪そうな様子だった。

「蓮華、悪かった。次は気をつける」

 孫堅は気落ちした表情で孫権に素直に謝った。孫権は自分の涙を懐からだした布で拭いた。

「ねぇ。蓮華がどうして車騎将軍と知り合いなわけ?」
「おお。大いに気になりますな」

 孫策と黄蓋は孫権に正宗との関係を聞いてきた。孫堅も興味を持ったのか孫権に視線を向けた。視線の集まる孫権は三人に詳細を説明するのだった。

「ふうぅ~ん。そういうことがあったのね」

 孫堅と孫策と黄蓋はしみじみと孫権の話を聞いていた。

「いやはや。車騎将軍があれほど強かったとは驚きですな」
「何なんだい。あの強さはおかしいだろ!」

 孫堅は逆ギレ気味に正宗のことを愚痴った。

「母上、でも困ったわね。思春のことどうしようか?」

 孫策は孫堅に言った。

「母上、もしかして思春から文を受け取ったて嘘なの?」

 孫権は孫堅のことを剣呑な表情で見た。孫堅は罰が悪そうに頷く。

「どうしてそんな嘘をついたの?」
「仕方ないじゃないか。あそこで知らないなんて言える空気じゃなかっただろ」

 孫堅の言葉を聞き、孫権はため息をついた。

「臨湘の城には誰がいるの?」

 孫権の質問に皆黙っていた。

「もしかして小蓮?」

 孫堅達は孫権に頷き肯定の返事をした。

「小蓮だけをどうして置いてきたの!」
「臨湘の城だから心配はないよ」

 孫堅は孫権をなだめるように言った。

「私はそういうことを言っているんじゃないわ。あの子一人留守させたら何をするかわからないじゃない」
「直ぐに思春に伝令を送るから心配ないだろ。一週間前というなら思春とはすれ違ったんだろうさ。一週間後には思春と連絡が取れるから兵を引き連れてこさせればいい」

 孫堅は孫権に説明した。

「私が心配なのは小蓮が思春の所持している文を読み、冒険と称して南郡襄陽県に向かうんじゃないかってことよ」

 孫権は心配そうに言った。

「孫権は心配し過ぎ。小蓮は目立つじゃない。あんな大きい白い虎に乗って行動するんだから人目をつくから直ぐ居場所はわかるじゃない。それに心配しなくてもそうそう遠くに行きはしないわよ」

 孫策はあっけらかんと孫権に言った。

「私、長沙郡に一度戻るわ」
「およし。今から帰るとまた行き違いになるかもしれないだろ」

 孫堅は孫権を止めた。

「でも」

 孫権は不安げな表情で孫堅を見た。

「分かったよ。祭、兵を預けるから小蓮の様子を見てきてくれ。心配ないと思うが何かあれば早馬で知らせてくれ」

 孫堅は困った表情を浮かべた後、黄蓋に長沙郡に戻るように頼んだ。黄蓋は「仕方ありませんな」と一言いうと拱手し「畏まりました」と言った。

「祭、長沙郡へは明日でいい。今日は十分に休んで明日向かってくれ」
「今晩は酒はお預けですね」

 黄蓋は残念そうな表情をした。

「祭、ごめんなさいね」
「蓮華殿が謝ることはないですぞ。小蓮を一人長沙に置いてきた私達が悪いのです」

 孫権が黄蓋に謝ると黄蓋は慌てて言った。 
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