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真・恋姫†無双 劉ヨウ伝

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第155話 蒯越

 正宗は孫堅とのいざこざを起こした場を後にして家路に着いていた。彼の後を泉と紫苑が着いてきていた。
 二人とも正宗の後を黙って着いてきていたが人気のない場所に差し掛かった時に徐ろに紫苑が口を開いた。

「正宗様、何故あのような仕儀になられたのですか?」

 紫苑が前を進む正宗に声をかけた。紫苑の表情は少し正宗に抗議している様子だった。その様子を泉は不満気な目つきで黙って見ていた。

「何のことだ」

 正宗は紫苑の言葉をはぐらかした。

「孫文台のことでございます。市井の者が慌てて政庁に駆け込んで参りました」

 紫苑は正宗の言葉に臆することなく、彼女が正宗に聞きたいことを質問した。正宗は紫苑の態度に不快感を示すことなく暫し沈黙し歩き続けた。紫苑は正宗が喋り出すのを沈黙して見ていた。

「仕掛けてきたのは孫文台だ。私も些か好戦的で出過ぎたことは否めない」

 正宗は前方を見ながら進み反省の言葉を口にした。その後、正宗は歩きながら二人に孫堅と揉めた仔細を詳しく話した。

 正宗の話を聞き終わると、紫苑は正宗のことを困った表情で見つめていた。しかし、彼女は正宗に何も言うことはなかった。
 正宗に非はないと言えないが、それ以上に孫堅の正宗への非礼は度を超えていたからだ。正宗は自らの素性を堂々と名乗っているにも関わらず、それを孫堅は嘘つき呼ばわりして嘲笑した。孫堅は正宗の士大夫としての面子を潰したのだ。殺さても文句は言えない状況だ。
 この時代の士大夫は面子が重要になる。情報の伝達がとかく遅く、その手段も未発達な時代。情報は人の口伝てに広がっていく。口伝てだけに時には妙な尾ひれがつき事実がねじ曲げられて伝わることもある。
 この風評のせいで一般の士大夫は出世に響くことすらある。
 この時代は正宗の前世のようにハローワークなどない。郡太守は人材を欲しいと思った時、人物批評家の人物評や世間で流れる風評を拠り所にする。それを元に良い人物に声を駆けて採用するのだ。もしくは地元の豪族(有力者)の紹介による縁故採用になる。仮に優秀な人材でも悪い噂が流れた在野の士大夫に万が一にも郡太守が声をかかることはない。
 この話は一件雇用者側の話に聞こえるが一概にそうは言い切れない。正宗のように知名度の高い人物になると悪い噂のせいで、その噂を信じた士大夫が正宗の噂を鵜呑みにし士官を避ける可能性が高い。
 たかが噂だが情報源が少ない時代には貴重な情報源なのだ。また、火のない所に煙は立たないとも言う。危うきに近寄らずと考えるのが人の情と言うものだ。稀有な有能な人材であればあるほど知恵が回るから、先々を読み悪い噂の主君に士官することを避けようとするはず。その代表例は荊州の士大夫にもいる。その人物の名は龐徳公。彼女は襄陽の名士である。劉表から度重なる士官の誘いを受けるも無視し続け、劉表は業を煮やし自ら彼女の元を訪ねる。その時、彼女は劉表に言った。彼女は故事にある英雄の子孫の悲惨な末路を語りだしたのだ。暗に「お前に士官したら私の子孫は死ぬ。だからお前に士官しない」と告げていた。劉表は龐徳公の言葉に打ちのめされ渋々帰っていた。しかし、これは龐徳公だから出きたことだと言える。龐徳公以外が劉表にこんなことを言ったら劉表に殺されていただろう。

「正宗様、孫文台の非は責められるべきものです。しかし、蔡徳珪との決戦の前に孫文台と要らぬ争いはいかがかと思います。もう少し穏便に済ます手立ては無かったのでしょうか?」
「公衆の面前で嘲笑されて、引き下がれば私は物笑いの種だぞ。噂はどこから広まるとも限らない」

 正宗は紫苑を振り向き厳しい視線を向けた。

「正宗様の仰る通りです。紫苑殿、こんなことは言いたくはないです。ですが敢えて言わせてもらいます。あなたはご自分が大罪人であったという自覚がないのではないか? 正宗様は紫苑殿が肩身が狭くないようにと清河国の郎官である中郎将に任じられた身ですぞ。朝廷の官職ではないが、王の側近たる中郎将の地位は安くはない。正宗様が孫文台のような粗忽者に侮辱され悔しくはないのか? あなたは正宗様のお優しさに甘え過ぎてはいないか?」

 泉は紫苑の言動が気に入らない様子だ。

「泉様、私は正宗様には感謝しております。感謝していればこそ苦言も言わせてもらいます」

 紫苑は泉を毅然とした態度で見た。

「紫苑、お前の言い分は理解している。孫文台の兵士達は精強と聞く。その兵士達の中には元々夜盗上がりの者達が多いともな」
「正宗様、孫文台の軍は粗暴にございますが精強にございます。劉景升様も幾度と無く辛酸を舐めさせられました。また、孫文台は即決即断の性格。軍律を乱す者は速やかに処断し秩序を維持している名将にございます」

 正宗が孫堅の軍に良い感情を抱いていないと感じ取った紫苑は孫堅軍の説明をした。正宗は紫苑の説明を黙って聞いていた。

「紫苑、口が過ぎたようだ。許して欲しい」

 正宗は紫苑を見て謝った。紫苑は正宗の態度に笑顔を返した。

「そのお言葉を返す相手は私ではございません」
「そうだな」

 正宗は軽く笑うと視線を空に向けた。空が橙色に染まっていた。

「私が孫文台に謝っては荊州の豪族達に示しがつかない。紫苑、妙案はないか?」
「正宗様の元にこれから豪族が詣でましょう。折を見て酒宴を開いてはいかがでしょうか?」
「酒宴か」

 正宗は感慨深そうに頷いた。

「分かった。折を見て酒宴を開くとしよう。その時、孫文台に一献とらそう」
「それがようございます。孫文台も正宗様に感激するかと存じます」

 紫苑は正宗の考えを変化させたことを喜んでいた。彼女は孫堅が正宗に恨みを抱き、今後禍根となる自体を避けたかったのだろう。
 孫堅には荊州刺史・王叡殺害の前科がある。王叡殺害は武陵太守・曹寅にそそのかされたとはいえ、孫堅は王叡に個人的な恨みを抱いていた。
 孫堅の王叡に対する恨みは王叡が孫堅を見下していたからである。その理由は孫堅の若かりし頃にまで遡る。
 孫堅はお世辞にも良い生まれではない。生まれつき剛気な性格であった孫堅は軽侠(無頼の強盗)にて名を馳せる。彼女は軽侠ではあったが優れた武芸の腕と並外れた胆力を買われ地方の下級役人に抜擢される。しかし、彼女は役人になっても軽侠から水を洗うことはなかった。その軽侠稼業で蓄えた財で徐々に兵を養い軍閥を編成していった。
 その後、長沙郡の太守になってからも周辺の郡境を越えるという太守の禁を犯し山賊・夜盗を襲撃しては彼らが蓄えた財を強奪し横領した。そして彼女に従属することを誓った山賊達を兵士に組み込みより軍を肥大化させていった。孫堅が劉表や名士層に嫌われる所以がここにあった。また、市井の者達も孫堅を恐れるのも無理からぬものがあった。
 正宗は荊州の民と違う点で孫家を嫌っていたが紫苑がそのことを知る訳もなく、正宗が孫堅の風聞を聞きつけ孫堅を嫌っていると勘違いしているように見えた。泉は正宗から孫家を嫌う理由を告白されているので正宗がおいそれと考えを翻すものだろうかという表情だった。
 紫苑は正宗が孫堅に対して態度を軟化したことで問題が大きくならずに済みそうだと思っているのか安堵していた。

 正宗達三人は屋敷に着くと別れた。紫苑は娘の璃々に手料理を作る約束をしていると言い、そそくさと正宗と泉を残して去っていた。正宗と泉は紫苑の後姿を見送ると踵を返し正宗の部屋の方に向かっていった。

「正宗様、孫文台を本当にお許しになられるおつもりなのですか?」

 泉は周囲を気にしながら正宗に囁いた。

「許すしかないだろう。私の面子と私の兵の命を天秤にかけるまでもない。蔡瑁を殺すのに私の兵士を無駄に死なせる訳にはいかない」

 正宗は視線を少し落とし泉に答えた。泉は正宗の言葉に何も言わなかった。

「孫文台が粗暴な者であることは承知していたこと。私もまだまだ若いということだ」
「孫文台の非礼を考えれば致し方無いと思います。特に正宗様を弓で狙った女は万死に値します」

 泉は正宗を擁護するように言った。

「私は孫堅と孫策の存在が気がかりでならない」

 正宗は深刻そうな物憂げな表情を浮かべた。

「美羽様のことでございますか?」

 正宗は軽く頷いた。

「美羽に孫堅と孫策を御することが出来ると思うか?」
「分かりません。しかし、美羽様は民の負担を慮り過ぎて兵を養うことを最小限に留めているように見受けられます。今後のことを考えれば在野の信用たる剛の者を武官として招く必要があるかと」

 泉は神妙な表情で正宗に忌憚なく意見を述べた。

「その通り。しかし、美羽は武官は信用の足る者でないと士官させる気がないと申していた。虎狼であろうと首輪をつけ使える間は使えばいいのだ。牙を向ける素振りを見せれば始末すればいい。信の置ける者などそう多く居るものではないだからな」

 正宗は困っている様子だった。

「正宗様にお心辺りはございませんか?」
「心当たりか。荊州は劉景升の施策も相まり文官候補は多いが武官候補は際立った者が少ない」

 正宗は歩くを中断して考えだしたが武官に心当たりがあるのか泉に視線を向けた。

「南陽郡の隣郡、章陵郡に魏文長という剛の武侠がいるはずだ。この者は恩義には報いる気性の持ち主と聞く。美羽が厚く遇せば命をかけ美羽のために働くだろう」

 正宗は魏延の名を出した。三国志演義では裏切り者の代名詞で反骨の相を持つ者と言われるが、史実では劉備に強い忠誠心も持っていた。陳寿も魏延は蜀に謀反を起こす気がなかっただろうと正史で語っている。ただ、原作知識を知る正宗は魏延の猪武者振りを懸念しているのか渋い表情をしていた。

「魏文長ですか。その者は些か難のある人物なのでしょうか?」

 正宗の表情を読んで泉が尋ねた。

「私の知る歴史の魏文長であれば名将の器だ。しかし、この世界の魏文長は微妙だろう。この私の元で将として経験を積ませれば、名将としての目が出るかもしれない。そうすれば美羽の将として活躍する日も来よう」

 正宗は微妙な言い回しで魏延を評した。彼の口ぶりからすると彼の手で魏延を鍛え上げようという気持ちなのだろう。

「分かりました。私が魏文長を探して参ります」
「頼みたいところだが私が魏文長を直々に誘いたい。魏文長の居場所を特定しておいてくれ。武侠の身の上だ。章陵郡を探せば情報は入るだろう。その前に龐子魚と司馬徳操に会いにいく」

 正宗は最後に龐徳公と司馬徽の名を出した。

「魏文長わかりました。それと龐子魚様と司馬徳操様ですか。荊州の名士でございますね。二人を士官させることが叶えば我らの陣営の力となりましょう」



「正宗様、目通りを求める者が参っております」

 朱里が慌てて走ってきた。正宗は泉との会話を切るとこちらにかけてくる朱里に視線を向けた。

「誰が私を訪ねてきたのだ?」

 正宗は朱里が自分の元に到着すると朱里に尋ねた。

「蒯異度にございます」
「劉景升の片腕である蒯異度が私の元に来たということは劉景升の意を汲んできたということか?」
「確証はございませんが可能性は高いです。ただ、蒯異度の引きつれてきた兵は七千と荊州軍の規模から考えれば少ないかと思います」

 朱里は正宗の質問に素早書く回答すると自分の考えを述べた。

「蒯異度の面会の理由は聞いているか?」
「檄文に従い参上したと申しております」

 正宗は朱里の言葉にしばし考え込んだ後口を開く。

「そう言われては会わない訳にはいかない。謁見するので部屋に通しておけ」

 正宗が朱里に言うと彼女は拱手して去っていった。

「正宗様、朱里様に代理していただけばよろしかったのでは?」
「引き連れた兵が少ないのが気になってな。劉景升の意を汲んでいるなら七千の兵は少なすぎる。とはいえ劉景升は蒯異度の動きは承知しているはず」
「では劉荊州牧の意を組んでいる可能性があるのではありませんか?」
「その可能性はあるだろうが堂々と劉景升の影をちらつかせる愚を蒯異度ならしない。そんな真似をすれば劉景升が供出した兵の少なさから、私への恭順の意に疑念に有りと私が因縁を付けることは容易に想像つくはずだ」

 正宗は泉を見て答えた。泉は正宗の説明を受けて納得したように何度も頷いた。

「正宗様、蒯異度はどのような人物なのですか?」
「蒯異度は劉景升の片腕と言える人材で荊州一の英才と呼ばれる人物だ」
「それほどの人材ですか?」
「蒯異度は私の家臣に欲しい人材だが、荊州でこそ最も才を活かすことができるだろう。美羽の家臣に是非に迎えたいと思っている。そのためには劉景升の存在が目障りと思わぬか?」

 正宗は視線を泉に向けた。

「劉荊州牧を暗殺されるのでございますか?」

 泉は正宗に近づき周囲を窺いつつ小さい声で囁いた。正宗は頭を振った。

「劉景升は使い道がある。直ぐに始末する必要はない。ただし、劉景升はこの後必ず扱いに困る人材ではある。同じ劉氏であることを笠に増長されては敵わんからな」
「劉荊州牧はいずれ始末するということでございますね」
「まずは劉景升の出方次第であろうな。蔡徳珪を始末した後、劉景升は荊州牧に据え置くが時期を見て荊州刺史に降格させるつもりだ」
「武力と財力を削ぐのでございますね」

 泉は笑みを浮かべ正宗に尋ねた。正宗は軽く頷いた。

「泉、蒯異度に会いにいくとするか。私は服装を整える。泉、お前も郎中令に相応しい礼服に着替えて来るのだ。面倒臭いが蒯異度に会うなら致し方無い」

 泉は正宗に対して拱手し頭を下げると自室に向かって去っていった。正宗は泉が去るのを確認すると自らも自室に向けて歩き出した。正宗が王に相応しい出で立ちに着替えた頃、着衣を整えた泉が正宗の部屋にやってきた。その後、二人は蒯越に謁見するために屋敷の応接室に向かった。



 正宗と泉が応接室に入室すると蒯越が正宗の玉座を正面にして平伏し待っていった。朱里は正宗の入出を確認すると拱手して出迎えた。正宗は背中越しに蒯越を確認すると自らの玉座に向けって歩き出した。その後を泉がついてくる。泉は銀槍を持ったままである。蒯越を武官の鎧に身を包んだままだが腰に剣を帯びていない。

「蒯治中従事、清河王がご着座されました。面を上げられよ」

 正宗が玉座に座り、その少し斜め右に泉が警護役として立つ。それを朱里が確認すると彼女は蒯越に言った。

「車騎将軍、此度は謁見の機会を賜り恐悦至極にございます。私は車騎将軍の発せられた檄文に感銘し、兵を引き連れ馳せ参じた次第にございます」

 蒯越は顔を伏せたまま上半身を上げると拱手し正宗に対して挨拶した。そしてゆっくりと顔を上げた。

「蒯治中従事、荊州一の英才に会うことができ嬉しく思うぞ」
「勿体なきお言葉にございます」

 蒯越は正宗に礼を述べた。

「蒯治中従事、お前は劉荊州牧の属官。荊州牧に許しは得たのか?」

 正宗は神妙な表情で蒯越に尋ねた。

「劉荊州牧に許しは得ておりません。此度は私の義心に従い、車騎将軍の元に馳せ参じました」

 蒯越は予想通りの返答をしてきた。しかし、七千の兵を動かす以上、劉表が無視する訳がない。劉表が黙認したことは分かりきっている。だが正宗は蒯越に問いただすことはなかった。

「蒯治中従事、劉荊州牧への許しを得ずに私の元に参っては現在の役職を免じられても文句は言えんぞ。それに劉荊州牧に申し訳ない」

 正宗は杞憂の表情を浮かべ蒯越を見た。

「車騎将軍、覚悟は出きております。私は車騎将軍にこの身をお預けする所存にございます。七千の兵は私の子飼いの兵にございますれば、劉荊州牧とは一切関わりございません。どうぞお好きにお使いください」

 蒯越は間髪入れず正宗に言った。

「そこ迄言われては蒯治中従事の気持ちを無碍にできんな。しかし、劉荊州牧の属官であるお前を手足のように使うのは外聞が悪い」

 正宗はわざとらしく困ったような表情を浮かべ蒯越に言った。

「車騎将軍、折り入ってお話したい議がございます。お人払いをお願いできませんでしょうか?」

 蒯越は拱手をしたまま伏せた顔を上げた。

「人払いですか?」

 朱里が難色を示した。正宗の封土である清河国の国相である彼女はこの場で泉と同じく側近中の側近と言えた。その自分と泉に席を外せというのはおかしいと思ったのだろう。

「諸葛国相と満郎中令には誠に申し訳ございませんが車騎将軍のみにお伝えしたいのです」

 正宗は両目を細め蒯越を見た。彼は劉表の意を正宗に伝えにきたと思ったのだろう。彼は劉表の使者を悉く遠ざけてきた。蒯越の取った方法なら正宗は否が応でも会うしかない。

「私にしか話せないことだと? この場で申してみよ。両名は私の側近中の側近、この場で話したことは外部に漏れないことを誓おう」

 正宗は人払いを許すつもりはなかったのか、この場で話すように促した。

「そうでございますか。ではお話させていただきます」

 蒯越は正宗の命令に素直に従った。その態度に正宗は意外そうな表情だった。

「劉荊州牧からいただいた役職は辞職いたします」
「役職を辞職する?」

 正宗は困惑した表情で蒯越に言った。朱里と泉も同様の表情だった。

「車騎将軍、劉荊州牧と蔡徳珪の情報、それ以外にも荊州の情報は全て献上させていただきます」

 蒯越は神妙な表情で正宗を見つめた。

「劉荊州牧を裏切るつもりか?」
「裏切る? 私は裏切っておりません。私は劉景升様が荊州牧であられたからお仕えしたのでございます。ですが、劉景升様は朝廷に召還され、このままでは荊州牧の地位を失うことは必定。次の荊州の主となられる方の元に参上することは当然のことでございます」

 蒯越は笑みを浮かべ正宗を見た。朱里と泉は蒯越の言葉に唖然としていたが、正宗だけは彼女のことを沈黙したまま見ていた。

「車騎将軍、私の真名は伊斗香。これよりは真名でお呼びください」

 蒯越は拱手し正宗に頭を下げた。彼女の言葉と行動から、彼女が正宗に従属する意思があることは理解できた。
 ただし、朱里と泉は蒯越の行動に戸惑っている様子だ。

「劉荊州牧と蔡徳珪。お前にとって二人はそれほどに軽いのか? 荊州支配のために共に力を合わせた中ではないのか?」

 正宗は蒯越に質問した。

「上司のために力を尽くすは官吏の本分でございます」

 蒯越は正宗に事も無げに言った。

「では正宗様が荊州の主ではなければどうするおつもりですか?」

 朱里が蒯越に質問した。蒯越は朱里に視線を向けた。

「仮定の話をしても意味が無いのではありませんか? 劉景升様が荊州牧の地位を守ることができたとしても、その地位は車騎将軍が与えた者にございます。真の主が車騎将軍である以上、劉景升様にお仕えする意味がありません」

 蒯越は微笑み事も無げに朱里に答えると正宗の方を向いた。正宗は自分を見る蒯越を沈黙したまま見つめた。

「車騎将軍、私は不要にございますか?」
「蒯異度。いや伊斗香。お前は私に士官する気があるのか?」
「車騎将軍、当然のことでございます」
「蒯異度、私が荊州の主の地位を失えばはお前は私を裏切るか?」
「裏切るかは車騎将軍次第にございます。己の保身のために自ら破滅する愚を行うことなき君主であられれば、私が車騎将軍を裏切る理由がございません」

 伊斗香は正宗を見つめた。正宗は彼女の視線を逸らすことなく見つめた。

「伊斗香、私のために働け。私の真名は正宗。お前に預けた」

 朱里と泉は正宗の判断に異議を唱えなかった。泉は少し納得できない様子だったが、朱里は納得している様子だった。泉は伊斗香の変わり身の早さに納得できないのだろう。自分が正宗を裏切るなんて考えたことはないからだ。ただ、伊斗香は「己の保身のために自ら破滅する愚を行うことなき君主」と話した。この意味を泉も理解したからこそ伊斗香の行動に一定の理解を示したのだろう。

「正宗様、畏まりました」

 伊斗香は正宗に拱手し深々と頭を下げた。

「正宗様、私が知り得る情報を全てお話させていただきます」

 伊斗香はそう言うと劉表と蔡瑁の最近の情報、それに荊州の最新の情勢を全て話した。その情報は朱里も掴んでいない情報が含まれていた。伊斗香が荊州で根を張り時間をかけて構築した情報網の凄さを物語っていた。

「劉荊州牧は私と同じ存念ということか」

 正宗は伊斗香の説明を聞き終えると徐ろに言った。

「正宗様、蔡一族は恭順の意を示そうと根切り(一族根絶やし)にすべきにございます」

 伊斗香は正宗に意見した。

「正宗様、蒯異度殿の意見に私も賛成です」

 朱里も伊斗香の意見に賛成なのか同意を示してきた。

「伊斗香、理由を教えてくれるか?」
「蔡一族の存在が荊州で大きくなったことが原因です。蔡一族は劉景升様の縁戚になることで、その地位を更に向上させました。そのせいで荊州において蔡一族の意見は重きものとなっております。蔡徳珪を殺すことで地位は凋落はしますが、強い影響力は温存されることと存じます。それは正宗様の荊州支配を邪魔することに繋がります」

 伊斗香は正宗に説明した。それを正宗は気乗りしない表情で黙って聞いていた。

「根切りということは幼子もいるのではないか?」
「正宗様、幼子とはいえ蔡一族。成長すれば禍根となりましょう。それに劉景升様の力を完全に削ぐ御積りならば、ここで蔡一族を根切りするが正解にございます」

 正宗は伊斗香の話を聞きながら哀しさを湛えた双眸で遠くを見つめた。

「正宗様、幼子を手に掛けることを受け入れることができない気持ちは重々承知しております。ですが、その犠牲で多くの者の命が救われることも事実です。ここで見逃し反乱を招く事態に陥れば更に犠牲が出ることになります」

 朱里は正宗を説得した。正宗は瞑目してただ朱里の話を聞いていた。

「朱里様、正宗様には考える時間が必要であると思います」

 泉は朱里に意見した。

「いいえ、泉さん。これは今直ぐに決めるべきことです。彼らが投降する前に兵を動かし、蔡徳珪を攻める前に蔡一族を滅ぼします」

 朱里は泉の意見を突っぱねると蔡一族を討伐すべきと意見した。

「朱里、栄奈はいつ宛城に到着する?」

 正宗は神妙な表情で朱里を見つめた。朱里は正宗の言葉を聞き、正宗が蔡一族討伐を覚悟したことを理解した。

「二三日で宛城に到着すると思います」
「朱里、栄奈に南郡と南陽郡の郡境に着陣するように伝令を出せ。着陣場所は朱里と伊斗香で検討してくれ」

 正宗の指示に朱里と伊斗香は拱手し去っていった。二人が部屋を去ると泉は正宗の方を向いた。

「正宗様、本当によろしかったのですか?」
「私が荊州を支配しようとすれば蔡一族を放置はできない。こうなることは分かっていた」

 正宗は瞑目し自分を納得させるように泉に言った。

「納得されていないのではありませんか?」

 泉は正宗の様子を心配しているようだった。

「納得はできん。だが、そうする以外に無ければ私は決断するしかない」

 正宗は辛そうな表情で虚空を見た。その様子を泉も心痛な面持ちで見つめていた。 
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