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真・恋姫†無双 劉ヨウ伝

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第152話 劉表動く

――襄陽郡宜城県

 荊州牧の政庁に朝廷の使者・荀爽が来訪していた。現在、劉表は下座にて荀爽と相対していた。荀爽は恭しく漆塗りの箱から劉弁の勅を記した封がされた絹地を取り出した。
 彼女は両手で持つ勅に恭しく一度礼をした後、絹地に施された封を開いていく。劉表は拱手したまま顔を伏せ神妙にしていた。

「劉荊州牧、皇帝陛下のお言葉を伝える」

 劉表は拱手し顔を伏せたままの状態で両膝を折った。彼女は動じている様子はなく整然としていた。

「劉荊州牧、卿の義妹である蔡徳珪が清河王を暗殺せんと凶行に走ったこと既に明白。実行犯に蔡徳珪の実妹もいたことは蔡一族が積極的に清河王襲撃に関与した動かぬ証拠。朝廷は蔡一族の凶行に卿が関与している可能性があると見て直々に詮議を行うことを決定した。卿は速やかに都に上洛するべし」

 荀爽は朗々と劉表に勅の内容を読み上げると、勅の内容が劉表に見えるように向けた。

「使者殿、此度の不始末謝罪のしようがございません。この劉景升謹んで召還の命に従わせていただきます」

 劉表は拱手したまま勅に従う旨を告げた。

「劉荊州牧、使者として勅を伝える役目は済みました。どうぞ、上座に」

 荀爽は劉表に言うと上座から降り下座に移動した。劉表は荀爽に言葉をかけられてもしばらく上座に移動しようとしなかった。
 しかし、荀爽が彼女の側に近づくとゆっくりと立ち上がり重い足取りで上座にある玉座に腰をかけた。荀爽は劉表が玉座に座るのを目で追った。

「劉荊州牧、王司徒は苦渋の決断であなたを召還する選択をお取りいたしました」
「王司徒をお恨みする気は毛頭ございません。義妹を討伐されるのですね?」

 劉表は荀爽を見て淡々と言った。荀爽は彼女の問いかけに沈黙してしまった。これを劉表は肯定の返事と受け取ったのだろう。表情を暗くした。

「荀侍中、二つほど頼みを聞いてもらえないだろうか?」

 劉表は荀爽のことを「使者殿」でなく「荀侍中」と呼んだ。これは劉表の個人的な願いなのだろう。

「内容によります。劉荊州牧、頼みとは何でしょうか?」

 劉表は荀爽に促され願いの内容を話した。

 一つ、荊州を立つのを一週間待ってほしい。
 一つ、劉車騎将軍に会う機会を設けて欲しい。

 荀爽は二つ目の願いを聞くと表情を曇らせた。

「一つ目はこの私の裁量でどうにかできます。ですが、二つ目は難しいかと」
「そうか。今更、義妹の行いを知らなかったなどと通用しないことは分かっている。一度、劉車騎将軍にお会いし話がしたいだけだ。何かしようとは思っていない」

 劉表は荀爽の言葉を聞き落胆した表情を浮かべるも、荀爽に正宗と会いたい理由を吐露した。荀爽は困った表情を浮かべていた。劉表は荀爽に正宗との仲介を期待していることが分かったからだろう。

「劉車騎将軍は荊州南陽郡の宛城にご滞在のはずです。劉荊州牧が直に訪ねられればよろしいかと」

 荀爽は劉表に無難な受け答えをした。劉表は荀爽の答えに苦笑した。正宗が劉表を自分を襲撃した一件に関与していると思っていたら劉表に会うはずが無い。

「劉車騎将軍には使者を何度も送ったがいないの一点張りでお会いできずにいる。劉車騎将軍は二度目の襲撃以来、袁太守の屋敷に籠もったまま姿を現さないそうだ。これでは忍んで宛城に赴いても会えないであろうな」

 劉表は荀爽に自嘲しながら答えた。荀爽は言葉にこそ出さなかったが、彼女の表情は「ご愁傷様です」と語っていた。

「残念ながら私は劉車騎将軍と伝手がございません」

 荀爽は劉表の頼みをやんわりと断った。

「劉車騎将軍の奥方の側近は荀文若殿と聞き及んでいる。荀侍中のご親類では?」

 荀爽の断わられると劉表は桂花の名前を持ち出した。

「荀文若ですか。確かに私の姪でございます。劉荊州牧が姪の名を知っているとは驚きでございます」

 荀爽は疲れた表情で劉表の問いに答えた。

「朝廷の重臣の関係者のことは一通り知っておくことにしています」

 劉表は口に笑みを浮かべて答えた。

「私が荀文若の伯母とはいえ、劉車騎将軍の面会の場を設けるように頼むのは無理が過ぎます」
「劉車騎将軍と面会が叶うなら、面会の条件がいかようなものでも飲もう」
「いかような条件でもございますか?」
「流石に何でもとはいかぬが面会に関係する条件であれば全て飲もう。警護を付けず単身で来いというなら単身で出向く」

 劉表は発言を少し訂正したが正宗の出す面会の条件を全面的に飲む用意があるようだった。荀爽は劉表の態度にこれ以上頼みを断るのは無理と悟った。

「劉荊州牧、結果はあまり期待しないでください」

 劉表は荀爽の言葉を聞くと笑みを浮かべていた。

「聞いて貰えるか。この恩は生涯忘れぬぞ」
「劉荊州牧、劉車騎将軍との面会の件ですがお約束はできません」
「分かっている。力を貸して貰えるだけで感謝している」

 劉表の様子から彼女が八方塞がりの状態に陥っていたことが窺えた。

「荀侍中、荊州に滞在される間は劉景升が不便を感じることが無きようにさせていただく」
「いいえ。過分の計らいは無用にございます」
「荀侍中は清廉な方のようだな。荀侍中が使者で本当に良かった。そのような人物に会えたことは私にとって僥倖といえよう」

 劉表は荀爽を褒めたが、当の本人である荀爽は拱手して返事をするのみだった。荀爽も劉表の頼みを聞いたが、劉表のことを完全に信じていないのだろう。劉表も荀爽の様子から何かを感じとったのか時折観察するような視線を送っていた。
 劉表と面会を終えた荀爽は休息を取ることなく直ぐに南陽郡宛城に向かった。

 荀爽が去ると劉表は一人玉座に座したままだった。しばらくすると一人の女が入ってきた。服装は文官であったが武人を思わせる雰囲気は放っていた。劉表は女を視線で捉えるだけで何も喋らない。

飛鳥(あすか)様、朝廷からの使者は何と?」
「都へ召還命令が下った。私には劉車騎将軍の暗殺未遂の嫌疑がかかっている」
「何と!? 飛鳥様が何故に上洛しないといけないのです。静陽(せいよう)殿の乱心が元凶ではございませんか?」
伊斗香(いとか)、静陽だけでなく倫陽(りんよう)までも関わっている。この期に及んで知らなかったと言った所でどうもならん」

 劉表は厳しい視線を女に向けた。彼女は蒯越(かいえつ)。劉表の側近であり荊州北部統治の一翼を担っていた。

「大人しく上洛するしかないのでしょうか? おめおめと上洛して飛鳥様の身に何かあれば一大事です」

 蒯越は劉表が上洛することに賛成していない様子だった。

「では上洛を拒めというのか? 私に死ねと言っているようなものだぞ」
「上洛する前に劉車騎将軍に繋ぎをとり、飛鳥様が潔白であることを納得していただかないと」
「そんなこと分かっている。荀侍中に劉車騎将軍に会う段取りを整えて貰えるように頼んだ」
「使者殿にそのようなことを頼まれたのですか?」

 蒯越は驚いている様子だった。中央の官吏に借りを作り弱みを握られるのではと危惧している様子だった。

「仕方あるまい! 背に腹は変えれなかったのだ。劉車騎将軍は私を警戒して屋敷に籠もっている。紫苑め。あの女は保身のために私のあらぬ嘘を劉車騎将軍に吹き込んでいるのではあるまいな」

 劉表は眉間に皺を寄せて愚痴りだした。

「紫苑がそのような真似をするはずがありません」
「では何故に紫苑は劉車騎将軍の臣下になったのだ?」
「彼女は静陽殿に劉車騎将軍襲撃の実行犯に仕立て上げられたのですよ。推測ですが紫苑は劉車騎将軍に臣下になることを条件に助命されたのでしょう。私達がそれを責めるなどできましょうか?」
「伊斗香、いちいち言わずとも理解している。だが、旧主である私の頼みを聞き届けてくれてもよかろう。劉車騎将軍に一言伝えてくれるだけで済む話ではないか?」

 劉表は恨みがましい視線を蒯越に向けた。

「紫苑とて立場が不安定なだけに必死に居場所を作ろうとしているだけと思います」

 蒯越は黄忠を擁護していた。劉表は蒯越の言葉を聞き沈黙した。彼女も黄忠に負い目を感じているように見えた。彼女が知らなかったとはいえ、黄忠は娘を人質にされ義妹に脅迫され正宗を襲撃するしかなかった。黄忠に合わせる顔がないというのが本音なのだろう。だが、苦境にある劉表としては正宗の臣下になった黄忠は藁をも掴むような存在と言えたことは確かだ。

「伊斗香、ところで静陽は未だ来ないのか?」

 劉表は鋭い目つきで蒯越を見た。蒯越は頭を左右に振った。

「静陽は何を考えているのだ? この私を破滅に追いやる気なのか?」

 劉表の表情は冷静だったが、裏腹に彼女の声は苛立ちを露わにしていた。

「静陽殿が何を考えているかわかりません。襄陽では農民を徴兵しているようです。周囲の県からも怪しげな連中をかき集めているようです」
「静陽は戦の準備をしているのか。伊斗香、荊州水軍の指揮権を静陽から剥奪しておけ」
「それは難しいかと」

 蒯越は難しい表情で劉表に答えた。

「何故だ?」
「荊州水軍の半数は静陽殿の息がかかっています。元々、蔡一族の水軍を母体にしていますから仕方ないともいえます。荊州水軍の指揮権を静陽殿から公式に剥奪すれば牽制とはなるかと思います」
「面倒だがしないよりましであろう。荊州水軍の指揮権を静陽から剥奪することを本人に通達し、兵達にも周知しておけ」
「荊州水軍が割れる可能性があります」
「孫文台への備えを失う可能性があるのは痛いがやるしかあるまい」

 劉表は苦い表情をするも蒯越に命じた。蒯越は劉表の意思が固いことを理解すると何も言わずに拱手した。

秋佳(しゅうか)はどうしますか? 襄陽にいる秋佳が宜城に戻りたいと文を寄越しております」
「秋佳は静陽に監視を付けられているはず。襄陽城から逃げようとすれば追手を放たれ拘束されるだけだ」
「それを分かっているから文をわざわざ寄越しているのでしょう」
「秋佳は詰めが甘い。文を寄越している者は信用のおけるものなのか?」

 蒯越は劉表の問に沈黙した。蒯越の反応を見た劉表は張允の置かれている状態を理解したようだった。劉表は興味を失ったように右肘を玉座の欄干に置き、右手で自らの右頬を支えながら虚空を見つめていた。

「このままだと秋佳は死ぬかもしれません。仮にも姪ではございませんか。このまま見捨てては寝覚めが悪いかと」
「その姪は何故に静陽が劉車騎将軍を襲撃したことを私に報告しなかったのだ」

 劉表は冷徹な雰囲気を放つ瞳で蒯越を見た。

「報告できなかったのではありませんか? 静陽殿の監視がついていれば妙な真似はできないでしょう」
「監視がついたのはつい最近と思うが。静陽は秋佳のことなど子供としか思っていない。劉車騎将軍を最初に襲撃した時点で私に報告をしに宜城に向かったとて叔母に小遣いをせびりに行ったとしか思わなかっただろう」

 劉表の張允評に蒯越は苦笑いを浮かべていた。劉表は蒯越から視線を移しまた虚空を見つめていた。

「伊斗香、お前の言うことはもっともだな。このまま見捨てては寝覚めが悪い」
「迎えを送りますか?」
「迎えをやるだけやってみろ。秋佳が大した情報を持っているとも思えんしな。案外、簡単に連れ帰ることができるかもしれん」

 劉表は考え込むと口を開いた。

「飛鳥様が秋佳に役目を与え襄陽から出ていけるように命令書を書けば大丈夫ではないでしょうか?」
「そんなことはしなくていい。静陽に余計な警戒をされるだけだ。秋佳を迎えに来たと伝えればいい。水軍の指揮権の剥奪の話は秋佳を取り戻してからにしろ」
「わかりました。そのようにいたします」

 蒯越は劉表の指図に従い拱手し、部屋から出て行こうとした。

「待て」

 劉表は蒯越に凛とした声で制止させた。蒯越は劉表の方を振り向く。

「迎えの兵にはもし秋佳を連れ出せそうにない場合、宜城に戻らず劉車騎将軍の元に向かえと伝えておけ」
「何故、劉車騎将軍の元に。どうせ門前払いになるだけでけでは?」

 劉表の言葉に蒯越は訝しんでいた。

「荀侍中が南陽郡宛城に向かっている。今から早馬を出し私からの文をお預けする。『私の姪が愚妹の元から逃亡しようとしています。私の方で姪を助けだせない場合は代わりにお助けくださいませんか?』とな」
「罠と思われるのではありませんか? わざわざ敵陣に深く入る愚を犯すなどありえないでしょう。劉車騎将軍に何の利益があるのです?」
「利益はないであろうな。だが、私が静陽と距離を置きたいと思っていることは伝わるだろう」
「逆に謀略と取られる可能性があります。ここは余計なことをせず荀侍中の返事を待ってはいかがでしょうか?」
「そうだな。余計なことをすべきでないな」

 劉表は蒯越の進言を聞き黙考すると蒯越の考えに従った。

「飛鳥様、ご心配は杞憂です。静陽殿にとって秋佳は義理とはいえ姪ではございませんか。こちらから迎えを出せば姪が宜城に帰ることを止めるとは思えません」
「静陽は劉車騎将軍と戦をするつもりでいるのだぞ。襄陽の内情を知る秋佳をおめおめと城の外に出すものか? 劉車騎将軍に秋佳が拘束されれば最低でも先導役として使われると思われるだろう」
「まるで私達が静陽殿の敵のような申しようではありませんか?」
「違うのか?」

 劉表は蒯越の発言に拍子抜けしたような様子だった。

「私達は静陽殿と距離を置いています。それは仕方のないことです」
「それが答えだ。私達が及び腰であるのを向こうも承知しているだろう。逆に静陽が兵を集めていることも私達は承知済み。襄陽と宜城は近いのだから互いの状況はある程度わかる。静陽は私達を警戒しているかもしれん。その証拠に静陽に宜城に来て説明しろと言っているが一向に来る気配がない。敵ではないが味方でもないといったところであろう」
「静陽殿は宜城に近づこうともしませんね」

 劉表の指摘に蒯越は表情を曇らせた。

「いずれ静陽は兵を引き連れて宜城を訪れ、なし崩し的に私達を劉車騎将軍との戦に巻き込もうという腹であろう。静陽は野戦が苦手だ。劉車騎将軍と戦をするにはお前の力を必要になる。必ずお前を抱き込みくるはずだ」

 劉表は目を細め蒯越に見た。蒯越は表情を固くしていた。

「静陽殿の揉め事に巻き込まれる気は毛頭ありません!」

 蒯越は劉表に必死に否定した。蒯越も蔡瑁の計画には関わりたくない様子だった。

「戦など馬鹿気ている。私の元に勅が降りているということは静陽に討伐令が出ているはずだ。討伐する軍は官軍になる。それと戦えば朝敵になるぞ」

 劉表の語る「朝敵」という言葉に反応するように蒯越の表情が更に曇った。蔡瑁の立場が絶望的であることを今更ながら理解したのだろう。

「飛鳥様、私が兵を率いて静陽殿を拘束いたしましょうか? さすれば劉車騎将軍と面会の機会を得ることが叶うかと」
「そして、劉車騎将軍に静陽の助命を求めるか?」
「はい」

 蒯越は真剣だった。

「可能性はあるだろうが助命のための対価は高くつくであろうな。だが肝心の静陽が劉車騎将軍に命乞いをするかだな」

 劉表は蒯越に聞き取れない声で「無理だろうな」と独白した。

「私が静陽殿を拘束すれば時間は稼げるはずです。その間に劉車騎将軍と交渉をすればよいのです」
「何を交渉するつもりだ。静陽が生きている限り劉車騎将軍の命を狙うぞ。劉車騎将軍が荊州をされば、袁太守が標的になろうだろうな。次はないぞ。今度は我らが朝敵になるだろうな」
「静陽殿を見捨てるのですか?」
「もう私達は既に静陽を見捨てているのと同然だ。このままでは私達は共倒れになるのだぞ。静陽を失うのは痛いが蔡一族を滅ぼさせる訳にはいかない」

 劉表は厳しい表情で蒯越に言った。劉表にとって最大の支持基盤である蔡一族を失うことは荊州での地盤が揺らぐことに繋がるのだろう。

「静陽殿を見捨てれば蔡一族の信頼関係を損なうと思います」
「蔡一族がどの程度静陽に協力するかだろう。劉車騎将軍に協力すれば蔡一族でも許すと言っている。だから蔡一族とて一枚岩にはならないはず。これで間違いなく蔡一族の求心力は失われるだろうな」

 劉表は冷静に思考を巡らし自分の考えを言った。
 
「実力行使に移る前に私が襄陽に出向き静陽殿を説得いたします。その時に序に秋佳を連れ帰ります」
「何と説得するつもりだ? 劉車騎将軍に命乞いをして情けをかけてもらい助命してもらえとでもいうつもりか? 倫陽を劉車騎将軍に殺されているのだ納得するわけ無いだろう」
「静陽殿が劉車騎将軍の襲撃者の中に倫陽を入れたからではありませんか? 逆恨みとしか言いようがありません」
「それを静陽の前で言ってみるがいい。追い返されるのが落ちだ」

 劉表は蒯越の話を聞き考えんだ。しかし、直ぐに頭を左右に振った。

「無理だ。伊斗香、静陽は切り捨てるしかない」
「静陽殿は私達とともに荊州北部を掌握するために力を合わせてきたはずです。なんとか命だけでも救うことはできないでしょうか?」

 蒯越は蔡瑁と苦楽を共にしてきただけに性格に多少問題がある蔡瑁とはいえ切り捨てるのは気が引けている様子だった。

「伊斗香、お前も静陽と距離を置くべきと言ったではないか?」
「そうですが」

 蒯越は蔡瑁を見限る土壇場になって気持ちが動揺している様子だ。

「私を一度静陽殿の元に行かせてください。劉車騎将軍の元に丸腰で投降すれば直ぐに斬り殺されることはないはずです」
「それを静陽が飲むと思うのか? 仇と思っている者の元に丸腰で出向き命乞いをしろと言うのだぞ? 私でも説得する自身がないな」

 劉表はお手上げだという態度でため息をついた。蒯越も劉表の言葉に苦悩しているようだった。
 劉表は何か思いついたのか蒯越から視線を逸らす。その様子に蒯越は気づく。

「飛鳥様、何か妙案でも」

 蒯越は劉表にすかさず尋ねた。劉表は蒯越に言いにくそうだった。

「静陽を奴婢(奴隷のこと)に落とすなら可能性はある。ただし、劉車騎将軍が静陽を奴婢に落とす意思が必要だがな」
「奴婢とはあんまりではありませんか! 仮に奴婢と落とされたとしても劉車騎将軍に斬り殺されれば意味がありません」
「奴婢になったからといえ劉車騎将軍に斬り殺されるとは限らない」
「私が劉車騎将軍の立場なら斬り殺します」

 蒯越は断言するように言った。

「それはお前だからだろう。劉車騎将軍は情け深い方と聞く。奴婢に落ちた静陽の身を憐れみある程度のことは許してくださるやもしれん」
「自分の命を狙う奴婢など危険以外にないでしょう。劉車騎将軍が手を下さずとも周囲の者達が処分するはずです」
「やはり駄目か。妙案と思ったのだがな」
「奴婢に落とすなど正気ではありません。気位の高い静陽殿のこと舌を噛み死ぬと思います」

 蒯越は劉表に抗議した。
 劉表からは蔡瑁を救おうという様子はあまり感じられなかった。彼女は蒯越に付き合っているだけのようにも見えた。

「飛鳥様は静陽殿を救う気はあるのですか!?」
「ない」

 劉表はきっぱりと答えた。

「なんと。義姉妹の間柄であまりに冷たくはありませんか?」
「救うために何もしないとは言っていない。救うために努力はする」

 劉表はやる気のない態度で蒯越に答えた。

「蒯越、静陽を救いたいか?」
「当たり前です」
「ならば今宜城にいる兵を引き連れて劉車騎将軍の元に馳せ参じろ。そして、襄陽攻めで先陣を受け持ち静陽を捕縛しろ。その戦功で劉車騎将軍に褒美として静陽の助命を願いでるのだな。今なら他の豪族達もまだ日和見を決め込んでいる。一番に馳せ参じれば劉車騎将軍のお前への心象は良かろう」
「静陽殿の敵になれと」
「伊斗香、お前は静陽を捕縛すると言ったではないか? 今動くより劉車騎将軍のお指図で静陽を捕縛した方がいいに決っている。劉車騎将軍の面子も立つはずだ。お前は静陽に恨まれるだろうがな。お前は静陽を救いたいのだろう?」

 劉表は蒯越を見つめた。

「分かりました」
「伊斗香、お前が兵を勝手に連れていったことにしてくれ」
「それでは私の旗下の七千程の兵しか動かせません」

 蒯越は劉表に抗議の視線を送った。

「それでいい。私が関与したと豪族達に思われるのは困る」
「ご自分の保身のことしか考えておられないのですか!」
「お前とて同じではないか? 保身でないというなら静陽の元に出向き共に劉車騎将軍と一戦交えればいい。私は止めんぞ。お前達が敵に回れば、私は劉車騎将軍の元に逃げ込むだけだ。流石の劉車騎将軍も私を迎えいれてくださるだろう」

 劉表は蒯越に冷たく言い放った。蒯越は劉表に言われ額に青筋を立てたが、瞑目して深呼吸をした。

「ご自分の身がそんなに可愛いのですか?」
「娘達が都にいるのだぞ、それに荊州にもな。なぜ、静陽のために血を分けた肉親を捨てねばならない。静陽に道理などない。あの女は図に乗りおって! 何故、私が馬鹿者と一緒に心中しなければならない!」

 劉表は冷静な表情から一転して険しい表情に代わり感情的に叫んだ。彼女の気持ちを聞かされた蒯越は何も言えなかった。蒯越は苦悶の表情を浮かべた。劉表の言葉を蒯越は痛いほど理解できたからだろう。蒯越も本音は静陽を見捨てたいと思っていた。だが、長年の同僚だけに中々割り切れずにいた。

「飛鳥様、劉車騎将軍の元に兵を率いて馳せ参じます」

 蒯越は下唇を噛み締め両手の拳を握りしめていた。

「そうか」

 劉表は蒯越の言葉に短く返事した。

「伊斗香、劉車騎将軍にお会いしたら静陽の助命をくれぐれも願いでるな。助命を嘆願するなら戦後にしろ」
「飛鳥様、分かっております。秋佳の件飛鳥様にお願いしてもよろしいでしょうか?」

 蒯越は劉表に拱手する。劉表が頷くと蒯越は部屋から退出した。

「伊斗香は熱い女だな。散々、敵対する荊州豪族を力でねじ伏せてきた女と思えない。しかし、熱苦しい女が居なくなったことで動きやすくなるというものだ」

 誰もいない部屋の中で劉表は独り言をいいはじめた。

「伊斗香には秋佳のことを頼まれたがどうしたものであろうな。とりあえず人を送るだけ送ればいいだろう。失敗したら失敗したでいい。それより静陽を失う穴埋めをどうにかせねばなるまい。こうなっては劉車騎将軍にお力添えしていただく他あるまい。そのためにも荀侍中は上手くやってくれることを願うしかあるまい」

 劉表は妖艶な笑みを浮かべた。

「劉車騎将軍は野心強き方のようだ。領地を統治できる手駒は幾らでも欲しいはず。袁太守は才気溢れているがまだまだ幼い。彼女が広大な荊州を統治するのは無理だろう。私が入り込む余地は十分にある。それに同じ劉氏。そう悪い扱いは受けないだろう」

 人の気配のしない部屋の中で劉表は一人笑みを浮かべ笑っていた。 
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