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幻影想夜

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第十五夜「思想家」


「だから、僕はそう思うのだ!」

 声高らかに彼は言った。
 しかしながら、彼の前には素通りし、嘲笑する街人がいるだけ。誰一人として彼の話をまともに聞く者なぞいなかった。
 それが彼の日常であった。


 ハインリッヒ=フォン・グランツ…それが彼の名前だ。
 王家の血統に属するグランツ家の長男であり、次期当主になる人物なのだが、これがかなりの変り者。日々このように街中に出てきては、自分の理想を声高に語り、街の者からは“夢想家”と馬鹿にされている。
「ありゃ、貴族の道楽だ。夢だの理想だのとほざけられるのは金持ちやお偉いさんだけだ。」
 このように酒の肴に笑い飛ばされているのだ。

 ハインリッヒは知っていた。街の者達が何か囁いていることを。だが、ハインリッヒが思ったことは…

―皆、僕の声に反応してくれてるんだ!―

 と、少しばかり勘違いして捉えていた。まさか陰口を叩かれているとは、微塵も考えていなかったのだ。

 ある日のこと。ハインリッヒはまた、街中で熱弁を奮っていた。
 この日は教会前の天使の噴水広場。心地よい春の日和りで、子供たちが遊んでいた。が…
「教育とは何か!それは調和を尊び、学力と精神の向上を促すものでなくては価値がないのだ!この時代、もはやラテン語など不要であり、もっと諸外国の言語を学ばせるべきなのだ!その上、音楽や美術など精神を育む教育は疎かにされ、神学などに多大な時間を割くなど有り得ない!」
 鳥が驚いて飛び去る程の大声で、ハインリッヒの日課が始まる。そこで遊んでいた子供たちは恐れて逃げ帰ってしまった。
 そんな大声は、教会内にもよく響いていた。
「またグランツ公の息子か!全く、父が公爵だからと言って、何を述べても許されるとでも思っているのか!」
 教会内部では罵詈雑言が飛び交っていた。が、教会とはいえ、王家血族の公爵家には中々文句を付けられない。

 グランツ家。それは古い家柄で、血脈を辿れば第三代国王グレトニウス一世に繋がる名門中の名門。現王家とも深い親交があり、それはこのハインリッヒとて同じだ。
 父親である現公爵クリストフは、施政を自らの考えで立ち上げた“薔薇騎士会”に一任している。
 この組織は、市長、元教師、芸術家、商人や弁論師など十二人から成り、三年に一度の選挙で選ばれる。これはクリストフの考えで、「国は民のもの」という理念に基づいている。未だ試験段階だが、いずれは国全体に広め、貴族による横暴を根絶したいと考えていたのだった。
 そんなことに我関せずのハインリッヒは、意気揚揚と教会前で演説を繰り広げていた。
「確かに、教会での教えも大切だ。だが、真に大切なことは、自分が自分であることだ!ただ偉ぶっている者に付き従って、家畜のように生きることではない!それには教育が必要不可欠なのだ!今の教育は守護すべき民を家畜のようにすべく、不要なものだけを大量に教え込み、真実から遠ざけるよう仕向けられているに過ぎない!」
 これを聞いた教会の司祭は顔を真っ赤にして怒
って言った。
「今外で馬鹿なことを叫んでいる愚か者を、直ぐに捕えて地下牢に入れろ!」
 そう命じられた見習い司祭は、ハインリッヒを仕方無く捕えて牢に入れたのであった。

 翌日、事態を知った父クリストフが教会に書状を送ってきたので、ハインリッヒは無事釈放された。だが、彼宛てにも手紙が届いており、そこにはこのように書いてあった。

―この次は無いと思え。再び捕えられることがあるようならば、私はお前を見捨てるだろう。いつまで風を追うつもりなのだ?早く現実に立ち返るのだ。繰り返すが、次は無いと肝に命じろ。―

 それは乱筆に書かれ、かなり憤慨していることが伺える手紙であった。
 だが、こんなことで日課を止めるハインリッヒではなかった。
 釈放された直後、当たり前だというように日課を開始。今度は市庁舎前にて「政治とは何か?」を延々と語り始めた。
 通り過ぎる人々は、まるで道化でも見るかのように薄笑いを浮かべ、さらには銅貨を投げ付けて嘲笑うものまでいた。そして、その銅貨を拾おうとする子供に押し退かされもした。
 誰一人、彼の言葉なぞ聞いてはいなかったのだった。

「貴族とは、民を守護する者でなくてはならない!権力を我が物顔で振りかざしている者は、まるで玩具の剣を振り回している子供のようなものであり、危なっかしい上に何の益も齎さない!賢い者達は気付くべきだ!知識ある者は弱者のためにその知識を使い、権力ある者はその力で民を守り、富豪と成った者はその資産で貧しき者を救わぬならば、それらに何の価値があるのか?!我々は今こそ変わらなくてはならない!人が人であるために!」
 市庁舎の人々は顰めっ面をしている。何せグランツ公の息子だ。嫌でも文句は付けられない。
 だがその中で、商人の一人で取税官であるセバスティアン・ゴルツは、彼を高く評価していた。
「彼の言葉は、今は夢想と蔑まされてはいるが、やがて現実化するだろうよ。」
 そう言って、部下達を困惑させていた。そんなセバスティアンに、部下の一人が抗議した。
「ゴルツ様、お言葉ではございますが、とてもそのようには思えません。彼の言っている事は、この国の法から逸脱しておりますし、あまりにも突飛な考えゆえ、民を困惑させているようにしか思えません。」
 と、このように反発したので、セバスティアンはこう返したのだった。
「いいから見てろ。ハインリッヒは種を蒔いているのだ。そこから芽が出て実までには時間がかかる。その恩恵を受けられるのは、もう少し後の世代になるだろうがな。時代は変わってくもんなんだよ。彼は俺たちなんかよりも余程賢い。俺には、わざと馬鹿を装ってるようにしか見えねぇ。だがよ、嘲笑ってる者の中にゃ、理解してるヤツも必ずいる。そいつらが台頭してくりゃ、この国は変革を迎える時期だってことだ。ま、お前に言っても意味はねぇがな。」
 そう言うや部下を鼻で笑い、仕事に戻れと手を振って追いやった。
 だが、そんなセバスティアンではあるが、気掛かりが一つあった。それは教会の異端審問だ。
 もしローマから派遣でもされれば、十中八九ハインリッヒは捕えられるだろう。この市の教会はハインリッヒを嫌っている。いや、彼の“言葉"を…と言った方がいいかも知れない。
「なるようにしかならないか…。」
 セバスティアンは、青空の下で演説を続けるハインリッヒの声を聞きながら、そっと溜め息を零した。

 それから一週間が過ぎた。
 何事もなくハインリッヒは、また日課の演説を開始した。近くの本屋では、「また夢想家のお出ましだ!うるせぇったらありゃしねぇっ!」と、ブツブツ言いながら掃除をしている。
 その斜め隣の肉屋では、「変人めっ!全く商売の邪魔だっ!公爵の息子でなけりゃ、絞め殺してやりてぇや!」などと言いながら、肉の目方を計っていた。
 そんなことなぞどこ吹く風のハインリッヒは、今日も今日とて絶好調である。
「富める者と貧しき者が、不平等なんてことは有り得ない!人間は全て平等なはずだ!富める者はその知識と財力で貧しき者を庇護し、貧しき者はその庇護の下、安心して働けるようにならなくてはならない!今の時代は狂っている!何故に貧しき者が虐げられなくてはならないのか?貴族も庶民も、皆人間だ!同じだけの幸福を受けられて然るべきなのだ!互いに助け合い、交流があってこそ、国の発展に繋がって行くのだっ!」
 そこまで言い切ったところで、ハインリッヒは口を閉ざした。物々しい一団が、市民を掻き分けて近づいてきたからだ。
 それは鎧で武装した兵であり、胸に十字の印が刻んであった。それがハインリッヒの目の前に遣ってくるや否や、いきなり取り押さえられ、こう告げられたのだ。
「ハインリッヒ=フォン・グランツ。汝を異端者とみなし、パヴァーム卿プロバンス=フォン・ゲルナー様の命により捕縛する。」
 淡々と告げられたハインリッヒは、何の抵抗もせずに連行されていった。

 街の者達がハインリッヒを見たのは、この日が最期であった。
 何故ならば、彼の言葉に恐れを抱いた教会は、公平な裁判をすることなく、ハインリッヒを異端者として処刑してしまったのだ。
 これは公開されることもなく、グランツ公にさえ封書で知らせただけであった。
 グランツ公はその所業に大いに怒り、教会裁判の内容を公開するよう責め立てたが、教会は「これはローマの許しを得て行なった正当な裁判の結果だ!公正なる正義だ!」と、訳の分からぬ言い分を繰り返すだけであった。
 これに憤慨したグランツ公は王家に直訴し、ローマに内容公開するよう書状をしたためてもらったが、これさえも全く役には立たなかったのであった。
 そして、処刑されたハインリッヒの遺体さえ、父であるグランツ公の元には戻されることはなかった。

 グランツ公クリストフは悲しみのあまり、暫らく誰の前にも姿を見せなかった。
「ハインリッヒ…すまない。お前には何もしてやれなんだ。幼い頃に母を亡くし、さぞ辛かっただろうに。それなのに、私は仕事に明け暮れて、お前を使用人達に任せっぱなしだったな。今更だと笑うか?ハインリッヒ。こんな父に反発し、あんな行ないをしたのだろう。本当は、もっと多くのことを語りたかったし、お前と一緒に旅行も行きたかった。今にして思えば、偲ぶ思い出すらあまりにも少な過ぎるな…。父親としては失格だ。ハインリッヒよ…こんな無力な父を許してくれるか?」
 クリストフはハインリッヒの部屋で、哀しみに浸っていた。
 屋敷にあるハインリッヒの部屋は、驚く程質素であった。
 クリストフは息子が困らぬようにと、毎月かなりの金貨を与えていたが、この部屋には、その金で買ったであろう物は見当たらない。唯一、身形を整えるものくらいで、それでさえ公爵家に恥じぬ最低限のものでしかなかった。
 そんな質素な部屋を涙目で見渡すと、机の上に一冊の本が置かれていることに気が付いた。
 クリストフが近くに寄って見てみると、どうやらそれは日記のようであった。
 クリストフはそれを手に取り、表紙を捲った。
 そこには息子…ハインリッヒの日々の思いや行動が書かれており、彼がどんな考えを持っていたかが伺えるものであった。
「そうであったのか…!だからお前の部屋はこんなにも…。」


<ハインリッヒの日記>より

 二月十九日 快晴

今日は街外れの孤児院に行った。教会が建てたものの筈だが、雨が降れば雨漏りし、隙間風が入り寒い上に湿気がひどくてカビ臭い。なぜ最後まで面倒を見ないのか不思議だ。私はそれらを直してもらえるように、金貨を二十枚渡してきた。内装はどうにか修理出来るだろう。管理者は子供好きな女性で、子供の世話をしている者は以前孤児であった者だと聞いた。これであれば、渡した金貨も心配ないだろう。暫らくしたら見に行こうと思う。父上だって、私が贅沢するよりも喜んでくれるだろうから。


 二月二十日 曇天

以前から、教育とは母国語、外来語、数学、歴史、自然学、弁論術に芸術と道徳の調和が必要と考えている。今の教育は古びたラテン語に神学の時間を取りすぎて、まるでわざと教えない様にしているように見える。こんな教育などでは後がない。貴族や教会だけが肥えても意味がないのだ。父上のように“国は民のもの”と言う考え方をしなくては、貴族制そのものが崩壊するだろう。


 三月五日 晴れ

館の近くで物乞いをする老人に会う。私は近づこうと声を掛けてみたが、「貴族なんぞに近寄られたくない」と投石された。余程嫌な目に遭ったのだろう。その後、何人かの物乞いに会ったが、その物乞い達は皆「貴族の若様、この憐れな者にご慈悲を。今日の糧を与えて下せぇ!」と施しを求めて来た。私を拒んだ物乞いとは正反対だ。銅貨を数枚与えたが、ふと思って最初の物乞いを探した。そして見つけだして金貨を二枚投げ付けてやったのだ。「何でこんなもん寄越しやがる!」と怒鳴ったので、私は「さっきの石の礼だ!貴族嫌いな物乞いよ、その金で貴族を驚かせる程の金持ちになってみせろ!」と言ってやった。やる気があれば、彼は数年後には別世界にいるだろう。


 三月十三日 霧雨

出掛けずにリュートを弾いていた。母の形見のリュートだが、弾かずにおくと文句を言われそうだからな。執事のゲオルクがトラヴェルソを演奏していたのを思い出し、呼んで一緒に演奏を楽しんだ。以前はヴァイオリンの巧いヤツが居たんだがな…今は海外遠征とかで留守だ。仕方なく二人だけで数曲の小品を合わせてみた。そして私は考えた。音の調和が、これ程に心を豊かにしてくれるのだったら、なぜ人もこのようにならないのだろうか?兎角、上だの下だのとくだらない理由を持ち出す貴族や教会は、何様なのだろうか。権力を振り翳しても、鏡に映るのは肥えた醜い己の姿だけではないか。その金のカフスで何人分の食事が賄えるのか、そのゴテゴテした指輪で何人の病気を癒せるのか考えたこともないのだろうな。貴族や教会こそ質素にすべきなのだ。肥え太る必要などは微塵もない。


 三月二十九日 快晴

あの孤児院から見にきてほしいと連絡があった。私は支度をして出掛けて行ったが、全くもって驚いた。外装までもが美しく直され、見違えていた。管理の女性の言うには、内装のみで手一杯だったのだったが、改装の話しを聞き付けた市民が自主的に援助を申し出て、外装は市民が自らの手で作り直したのだという。まるで小説のような成り行きだ。とても素晴らしいことだ。私は案内され内装を見て回ったが、清潔感ある良い出来だったので安心した。それ以上に、子供たちのあの嬉しそうな笑顔…。金を持つ者は、より無き者のところへ回せば良いのだ。私は後金貨二十枚と銀貨三十枚を渡してきた。衣服や食事、それに教育を充実させてもらうためだ。教会が割り込んでこないことを願うが…。


 四月一日 晴れ

今日は三日だが、牢に入れられていたので仕方ない。そこで聞いたはなしには、全く耳を塞ぎたくなるようなものばかりだった。教会の内情は、考えていたよりも深刻なものだったと言える。司祭は金を数えることに忙しく、教義などそっちのけで貴族の様に振る舞っているそうだ。妻を着飾らせては夜会に出掛け、民からの寄付金を湯水のごとく使ってると聞いた。食事を運んできた看守を捕まえて聞いたのだ、間違いはないだろう。その看守とは妙に気が合って、いろいろと話しをした。特に、ある司祭が不倫をし、それがバレた時の話は興味深い。その司祭は女を魔女と呼び、異端審問にかけて有罪にしてしまったのだ。その女は火刑にされ、要は口封じされたのだと言う。正しく教会の隠蔽工作だ。神への冒涜と言っても過言ではないだろう。教会に裁判権があるのは如何したものか?私はかなり危険なことだと思っている。


 四月十一日 快晴

人が人として生きられる世界。決して夢じゃない。働くにしても、現在のように多額の税を納めさせられ、自由や夢を奪われては働くために生かされているようなもので、まるで使い捨ての道具だ。本来の貴族や教会のやることではない。この狭い世界、偉い人間なぞいない。各々の人々がその役目を果たすのみだ。時として欲も大切だが、それに溺れてはならないのだ。さぁ、罪に抗うのだ!



 日記はこの四月十一日で終わっている。翌十二日に彼が異端者として捕らえられたためである。
 ハインリッヒは、死を予期していたのだろうか?
 彼の日記は、実に百二十八頁三百七十四日分が記されていた。世論や持論、政治に教育、道徳的なことまで、生活内容とともに書かれていて、それは独自の世界観を創り上げていた。
 クリストフは読み終えた後、そっと日記を閉じて呟いた。
「弱き者を救うには、先ず弱き者を奮い立たせねばならない…。お前は愚か者ではなかった。ただ、少し先を見通し過ぎただけだ…。」

 その残された日記は出版された。クリストフが部下や貴族・教会勢力を敵に回しての強行な出版であった。内容自体、貴族や教会に対しての多くの弾劾があり、クリストフ自身さえ脅かされ兼ないものでもあった。
 だが、この国を変えられる力があると感じたのだ。その結果、自身が滅びても悔いはしない。そのため、館の使用人達には金を出して暇を与えようとしたが、猛反発してクリストフの下に残ったのだった。それは、ハインリッヒが蒔いた種の最初の芽生えだったのかも知れない。
 使用人達はハインリッヒを誇り、愛していた。いつも家族同然に接し、誰かの家に病人が出れば自ら見舞いに行き、また誕生日ともなれば盛大に祝った。悩みがあれば親身になって聞き、それが解決するまで決して見離すことはなかったのだった。
 まるで親子のような、まるで兄弟のような…それがハインリッヒだった。
「坊っちゃまは慈しみ深く、私達を愛して下さった。それは金銀で譲り渡すことの出来ぬものでございます。」
 執事のゲオルクがそう言うと、皆口々にハインリッヒとの思い出を語り始めた。

―人徳だな。私は間違っていない。ハインリッヒはその志を残してくれた。親である私が継がずして、誰が継ぐと言うのか!―

 クリストフは、語り尽きぬ使用人達を見つめ、堅い信念を抱くのであった。


  †  †  †


「あのような書物に、誰が関心を寄せるというのだ?所詮は変人の戯言。案ずる必要もあるまい。当人はこの世におらんのだからな。世間の爪弾き者の日記なぞ、恐るるに足りぬは。」
 嘲笑って独り言を呟いているのは、ハインリッヒを処刑するために四苦八苦していたパヴァーム卿プロヴァンス・フォン=ゲルナーである。
 彼はハインリッヒを亡き者にするため、ローマに書簡を何通も送り、異端審問官の派遣を要請していた。それと、自分に決定権を与えてくれるよう貢ぎ物も怠らなかった。そのお陰で決定権を委任され、審問官不在でも異端審議を開けたのだ。
 後は簡単だった。悪魔の言葉を発し、黒魔術を施行する古い呪われた宗教を信奉してるだのと嘘を並べ立て、余計な審議なぞ行なわずに周囲を丸め込んだのだ。
 本人の言葉なぞは全く聞かれなかった。理由は“悪魔に取り憑かれている”と言うもので、隔離されて姿すら見せることはなかったのだった。
 なぜここまでしてハインリッヒを処刑したかったのか?それは恐れであった。ハインリッヒの言葉が、時代そのものを変えてしまうことを恐れていたのだ。


  †  †  †


 発売初日、クリストフは驚かされた。二百部を用意し、十の店に頭を下げて置かせてもらっていたのだが、それらが全て完売したのだ。その上再注文まで来ていた。
「考えもせなんだ。残るものと覚悟していたんだが…。」
 買い求めた者は教師に芸術家、律法家、弁論師、一部の市民は金を出し合って購入していた。
 中でも、政治に関係している他国の貴族や、教会関係者までが注文してきたのには呆気に取られた。
 今やハインリッヒの考え方は、出版された日記により広く知られるようになった。
 王家にもその話しが伝わり、ある日、クリストフの元に登城せよとの命がきた。同日にはパヴァーム卿も登城の命を受けており、二人は同じ日に登城したのであった。
 王は先ず、グランツ公クリストフを呼び寄せて話しをした。
「グランツ公よ、汝の息子ハインリッヒの日記を読ませてもらった。」
 入室したばかりのクリストフに王がさらりと言ってきたので、クリストフは覚悟を決めた。
「王よ、お目汚しさせましたること、この爵位を返上致します故、廃本せよとの命はお下しされませぬ様ご容赦くだ…」
 クリストフが跪いて許しを乞うてきたので、王は慌てて「違う違う」と彼の言葉を遮った。
「グランツ公にそのようにされては困る。そちには大臣を遣ってもらわなくてはならんのだからな。」
 そう言って盛大に笑ったのだ。そして話しを続けた。
「汝の息子は偉大な思想家よ。余さえ気付かぬ事象をよう見ておったのだのう。余はこの日記を読み、国を改革することを決意させられた。なるほど、現状では先は無いな。気付いてはおったのだ。汝の息子が処刑されたと知った時でさえ、余は教会や諸公の反発を恐れて動かなんだ。それは間違いであった。先日、ローマの兄に書簡を送った。ハインリッヒの日記と共にな。パヴァーム卿の悪事は、看守であったクセルが全て語った。彼はハインリッヒの熱烈な信奉者でな、この日記が出版された日に命懸けで訴えを申し出てきたのだ。ハインリッヒは無罪であったのだとな。余が直接話しを聞いたのだが、パヴァーム卿の悪事には開いた口が塞がらぬ。全く呆れることよ。」
 玉座に座る若き王は、大きな溜め息を吐いてグランツ公を見た。
 だが、グランツ公はいまひとつ現状を理解出来ずにいた。そのため、王に尋ねた。
「王よ、私をどのようになさりたいと申されますか?」
 そんなグランツ公に、王は微笑して告げた。
「グランツ公クリストフ・マグヌム・フォン・グランツ、汝を今より国務大臣に任ずる。」
 あまりにも突拍子もない王の発言に、クリストフは「ハッ?」と言って首を傾げた。
 そもそも、この国に大臣という役職は存在しない。各貴族がそれぞれの土地を治め、国に税を支払うシステムで、それらの貴族を監視し束ねているのは元老院の役目。大臣と言う役職が登場するのは“ハインリッヒの日記”なのだ。
 この中で<国務大臣>とは王直属の職にあたり、事実上国の第二位の地位となる。
 クリストフは迷った。まさか国がこうも早く動くとは思わなかったのだ。
「余はな、新たな体制が整い次第、王制を廃止しようと考えておる。」
 これを聞いてクリストフは、目を丸くして王を見上げ何か言おうとしたが、王はこれを遮って話しを続けた。
「まぁ聞け。我らは今まで貴族制度の上に胡坐をかいてきた。貴族は己が特権を振り翳し、自らの利益を貪って来たのだ。余もそんな愚か者の一人だ。“国は民のもの”…まさにその通り。民が安定した暮らしが出来ぬのならば、一体何のために国があるのだろうか?そのような中で、我らは何をしておるのだろうかと考えたのだ。余の信頼する十二人の貴族を召集し、話し合ってこのように決めた。グランツ公よ、汝はこの国を息子ハインリッヒの思想に基づき改革せよ。息子の理想を具現化するのだ、クリストフよ!」
 この言葉にクリストフは、ただ頭を垂れて「仰せのままに」と王の決断を受領するしかなかった。
 その後、王はパヴァーム卿を呼び、厳しく断罪した。
 パヴァーム卿はあたふたと言い訳をしたが、次の王の言葉に呆然と崩れ落ちた。
「パヴァーム卿よ、今頃は汝の屋敷にも教会にも、ローマ教皇庁の査察団が調査に入っていよう。余が法王に使える兄に書簡を送り、この日の段取りを整えておったのだ。汝に余の兄、マルコ・グラーフ・ヴァン・ハンセンを罪人に落とすことは出来まい。よくぞ長年に渡り、余とローマを欺いてくれた。汝に荷担した貴族どもも調べが着いておる。もうこのような喜劇には幕をおろさねばのぅ。」
 真っ青になったパヴァーム卿は小さくなって震えているが、最後に王は強い口調で問いただした。
「ハインリッヒをどのようにしたのだ?その亡骸は何処へ葬ったのだ?」
 もう震え過ぎて口もろくに開くことの出来ぬパヴァーム卿は、ボソボソと呟いてはみたが、全く声にならない。
「はっきり申さぬかっ!」
 王は立ち上がり、今にも切り付けてくる勢いであったため、恐怖のあまり後ろに仰け反りながら言った。
「首を切り落とし、火で焼いて灰にし、共同墓地に投げ捨てました!」
 やっとのことで言葉を紡いだ。
 これを聞いて王は、玉座に腰を落として言い放った。
「されば、汝もそのようにしてやろうぞ。」
 そして、王は許し乞うパヴァーム卿を一瞥し、家臣に牢に入れるよう命じたのだった。
 王はパヴァーム卿が連れて行かれたのを確認すると、グランツ公を見た。
「我らはハインリッヒの遺志を継ぎ、子孫により良き国を残さねばならぬ。権力のある者は、その力で民を守り導かねばならぬのだ。クリストフよ、どれだけの時がかかるかは解らぬが、遣ってくれるな?」
 そう言う王に頭を垂れて、クリストフは答えた。
「答えは決まっております。どのような艱難も厭いますまい。」


  †  †  †


“ハインリッヒ革命”と謳われた一連の改革から十六年の後、時の王ルートヴィヒ二世は、ハインリッヒの思想に基づいた新たな法を制定し、翌年には王制及び貴族階級の撤廃を宣言した。そしてこの改革によって、教会もその力を失い、本来の敬虔さを取り戻したのであった。



 現在、街の中心に建てられたハインリッヒ図書館前には、彼の像が立っている。熱弁を奮う彼を表したもので、右手には紙とペンを、左手には金貨の入った袋を持っている。
 これは生前のハインリッヒの性格を表現したもので、常に考え、貧しい者には何の躊躇いもなく手を差し伸べていた彼を忍ばせる。

 思想家ハインリッヒ=フォン・グランツの生涯は、たった二十四年であった。だが、その短い生涯で築かれた彼の思想は今尚、天空の太陽の如く我らを見据え、守護し続けているのである。



       end...



 
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