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蘇鉄の木

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1部分:第一章


第一章

                     蘇鉄の木
 文禄三年のことである。この時の天下の主は豊臣秀吉であった。
 彼は一介の農民から天下人になったが日本の権力者としては異例な程派手好みであった。それは美というものに関しても同じであった。
 とかくみらびやかなものを好んだ。金を愛し花にしろ木にしろそうであった。だが時として静かなものも愛するという繊細な感性も備えていた。それはこの時も同じであった。
 彼が堺の妙国に来た時のことである。そこで見た見事な老木に心を奪われたのだ。
「これはよい木じゃ」
「確かに」
 彼の側近の石田三成がその言葉に応える。小柄で猿顔の主に対して鋭利で整った顔立ちをしている。顔からも切れ者であるということが窺える。
「これは中々。見事なものです」
「のう、治部よ」
 秀吉はここで三成をこう呼んだ。彼の朝廷での役職であり彼の仇名と言ってもいいものになっている。
「この老木をずっと見ていたくなった」
「では大阪へ移されるのですかな」
 三成はそれを聞いて述べた。
「大阪の城へ」
「いや」
 だが秀吉は首を横に振る。そうではないというのだ。
「それは止めておこう。この木は大阪には合わぬ」
「ではどうさるのですか?」
「桃山じゃ」
 秀吉の返事はこうであった。桃山にも彼が築いた城がある、やはり美しい城であり彼の象徴の一つとも言える存在であった。
「桃山に移したい。それでどうじゃ?」
「桃山ですか」
 三成はそれを聞いて考える顔になった。暫し考えてから秀吉に対して答えた。
「ここでよいのでは?」
「何故じゃ」
「何処となくでありますが」
 そう前置きしてまた秀吉に対して述べる。
「この木はここにあるからこそ相応しいように思えてきました」
「ここにあるからか」
「はい、あくまで私の考えです」
 一応はそう断るが三成自身はこの木が今ここにあるこの風景に合っているのではないかと思えていた。それは調和的なものであり彼の美観によるものであった。
 だが秀吉の美観はまた異なる。彼はそれを承知していた。そのうえで話をしていることもわかっていた。
「ここにあった方がいいと思いますが」
「いや、わしはそうは思わぬ」
 秀吉がこう言うことはわかっていた。だから驚かなかった。
「やはり桃山で見たい。この木は桃山にこそ相応しい」
「それではやはり」
「うむ、すぐに人夫達を集めよ」
 そう三成に命じる。
「桃山に移して見続ける。よいな」
「わかりました」
 三成もこれといって反対はしなかった。時として秀吉に対しても厳しいことを言う彼であるが今回はたかだか一本の木であるからそれは留めたのである。こうしてこの老木は桃山に移された。秀吉は桃山においてこの木を満足気に見て楽しむのであった。
「ふむ、やはりのう」
 城にある自身の屋敷の庭に移された老木を満足した顔で見ている。
「この木はやはりここにあってこそじゃ」
「いや、全く」
「その通りです」
 側の者達がそれに相槌を打つ。彼等にとってはこれも仕事なので特にそうは思っていない者もいる。三成もそれは気にしてはいなかった。
「そうじゃろう、治部よ」
「そうですな」
 三成は表情を変えず秀吉に応えた。
「確かに悪くはありません」
「そうじゃろう、そうじゃろう」
「ただ。一つ思うのですが」
「むっ!?何じゃ」
 秀吉はそれを聞いて三成に顔を向けた。そうして彼に問うのであった。
「この木はここにいて幸せなのでしょうか」
「幸せか」
「はい。今ふと思ったことなのですが」
 そう秀吉に述べる。
「木がそう思うと考えるのは。いささか滑稽でありましょうが」
「ふむ。それは少しな」
 秀吉もこれには頷くことはなかった。彼の知恵をよく知ってはいるが。
「的外れではないか」
「左様ですか。それではここにあって特に困ることはありませんな」
「わしはそう考える。それはそうとしてじゃ」
 ここで秀吉の言葉が景気よくなった。
「酒はどうじゃ。よいのを貰ったのじゃ」
「酒をですか」
「うむ、太夫からな」
 福島正則のことである。秀吉にとっては数少ない子飼いの武将の一人でもある。なお三成とは秀吉の死後激しく対立することでも有名である。
「わしに献上してくれたものじゃ。どうじゃ」
「そうですな。是非共」
 三成もそれには少し笑顔となって頷いた。酒は嫌いではない。飲まれる性質の男ではないがそれでも好きかというとどちらかというとそうであった。だからこそ断らなかった。
 
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