| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

皇帝の花

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

5部分:第五章


第五章

「けれどここには薔薇がない」
「それもすぐに」
 彼等は慌ててネロに告げた。
「届きますので」
「お待ち下さい」
「いや、もういいんだ」
 ネロは気遣う彼等に対して優しい声で返すのだった。
「私はもう」
「あの、陛下」
「まさか」
「あれを持って来てくれ」
 力なく言うだけだった。
「あれを。いいね」
「ですがあれは」
「陛下はまだ」
「私はもう。わかっているんだ」
 その力ない声のまま言うだけであった。それが今のネロの全てであった。
「私に薔薇を贈ってくれるのではなく剣を突きつけてくるのだから。だから」
「宜しいのですか」
「もう。それで」
「反逆者達が欲しいのは私なのだろう?」
 こうも問う。
「君達には関係ない筈だ」
「それはそうかも知れませんが」
「それでも我々は」
「一人でいい」
 そんな彼等を拒絶するようにして告げた。
「いいね。君達はこれからも」
「そうですか」
「ではこれで」
「わかってくれたらあれを持って来てくれ」
 穏やかな声で彼等に言う。
「いいね」
「はい」
「それでは」
 今度は彼等が力なく頷き一輪の黒薔薇を持って来た。そうしてそれをネロに手渡すのであった。
「これで宜しいのですね」
「うん」
 ネロは手渡されたその黒薔薇を見詰めながら答えた。
「これでいいよ。ただ一つだけ皆に言い伝えて欲しいことがあるんだ」
「それは。何でしょうか」
「私がいなくなったら」
 彼は言う。
「私がそこにいる場所にも薔薇を飾って欲しい。それだけを伝えて欲しいんだ」
「わかりました」
「それでは」
「そんなことが起こる筈がないのだけれどね」
 悲しい笑みを浮かべて呟くネロであった。
「だから今こうしてここにいるのだから」
「ですからそれは」
「殆どの者は陛下を」
「それでも。剣を突きつけられたから」
 ネロにとってはそれだけで立ち直れないものがあったのだ。あまりにも繊細なその心はそのことに耐えられなかったのだ。彼は薔薇を欲していた。しかし剣を欲してはいなかった。そういうことである。
「もう。いいんだ」
「そうでしたね」
「では。これで」
「さようなら」
 別れを告げると黒薔薇の花びらを口に入れた。それで全ては終わったのであった。
 ネロの追っ手達が別邸に来た時には全てが手遅れだったという。もうネロは死に向かっていた。彼は皇帝として誇り高く死ぬことができたのだった。
 この時彼は追っ手の一人にこう言ったと伝えられている。
「もう遅い。これがそなたの忠誠か」
 と。だがこれは真かどうかはわからない。芸術を愛した彼は死の間際に今この世で最も偉大な芸術家が死ぬと言ったとも言われている。だがこれも真相はわからない。
 だが一つだけ確かなことがある。それは花についてであった。
「私のいる場所にまた薔薇を」
 この言葉はローマ市民や奴隷達、そして多数の貴族や議員達、彼に刃を向けなかった者達に伝わった。彼等はネロを愛している者達だったのだ。
「皇帝は死んだのか?」
「いや、それは嘘だ」
 彼等はこうも言い合うのだった。
「彼はきっと帰って来る」
「そうだ、このローマに」
 中にはネロが死んだことすら認めない者がいた。奇しくもこれはネロがそれだけ彼等に愛されていたということであった。
「帰って来るさ」
「そうしたら今も」
 ネロが死んだ後ローマは暫し皇帝の座を巡って混乱に陥った。それは一年続きローマの者達にとってはいい時代ではなかった。それによりネロの治世を懐かしんだのだ。
 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧