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義愛

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7部分:第七章


第七章

 それから間も無くのことであった。村に銃声が鳴り響いたのは。それは村民達が最も聞きたくない音であった。
 彼等はそれを聞いて身構えた。すぐに銃声のあった方へと向かう。
「こっちだ」
「ああ」
 そこは村の廟であった。古い、今にも朽ちそうな廟の開かれた扉の向こうで。森川がうつ伏せになって倒れ伏していたのである。
「駐在さん!」
 呼び掛けても返事はない。その手には銃がある。8
 森川は自害したのであった。村民達への謝罪の為に。命をもって謝ったのであった。
「何でこんなことを・・・・・・」
「わし等の為に・・・・・・」
 村民達は泣いた。心の奥底から泣いた。自分達の為に尽くし、命をもって謝罪した森川の為に。彼等はそんな彼のことを心に刻み込むのであった。
 その僅か三年後には妻ちよが夫の後を追うようにしてなくなり、息子であった真一は台湾において教師となった。村民達は時が移り、その縁者もなくなり、成長していく中でも森川のことを忘れてはいなかった。村の長老もなくなり、その子が跡を継いでいた。森川の死から二十年が過ぎようとしていた。
 その頃村では疫病が流行っていた。皆これに苦しみどうしようかと考えていた矢先であった。
 長老の子である保正李九の枕元に一人の男が姿を現わした。
 男は警官の服を着た小太りの髭の男だった。それが誰か、彼はよく覚えていた。
「駐在さん」
「お久し振りです」
 森川は笑顔で彼に挨拶をした。
「お元気そうで何よりです」
「え、ええ」
 保正はこれは夢だと思いながら森川に言葉を返した。
「どうしてこちらに」
「実はお伝えしたいことがありまして」
 森川はニコリと笑って彼にこう述べた。
「伝えたいこととは?」
「今村に病が流行っていますね」
「はい」
 その通りである。頷いてそれを認めた。
「それで今困っているのですが」
「それについてですが」
 森川はここで言った。
「収める方法があるのです」
「本当ですか!?」
「はい」
 声をあげる保正に応えた。
「それは薬でしょうか」
「いえ」
 森川はそうではないと言う。
「祈りではないですよね」
「それでもありません」
「それでは一体」
「私が皆さんにお教えしたことを思い出して下さい」
 森川はいぶかしがる保正にそう述べた。
「何をお教えしたのか」
「確か」
 言われて考えを巡らす。
「村自体を奇麗にして、食べ物にも気をつける」
「そう、それです」
 それを聞いたところでにこりと笑った。
「その通りです。ではおわかりですね」
「それでしたか」
 言われてようやく気付いた。
「今まで忘れておりました。だからこそ常に周りを奇麗にせよと」
「これからも病はありますので。御気をつけ下さい」
 森川はまた言う。
「宜しいですね、それで」
「わかりました」
 保正はそれに応える。
「有り難うございます、では早速」
「村民達にお伝え下さい」
 森川は最後に述べた。
「私がお教えしたことを忘れないようにと」
「は、はい」
「私が願うのはそれだけです。それでは」
 森川はすうっと姿を消した。その顔は最後まで笑っていた。笑って姿を消した森川の後には。青い空が広がっているだけであった。
 保正は目が覚めるとすぐにそのことを村民達に伝えた。皆が森川が言った通りに周りを奇麗にするとそれで病はなくなった。全ては森川の言った通りであった。
「また駐在さんに助けられたな」
「ああ」
 村民達は病が鎮まった後で互いに顔を見合わせてそう言い合った。
「死んでからもわし等を見守って下さっていたのじゃな」
「本当に有り難い方じゃ」
「それでな」
 保正はここで村民達に対して言った。
「わしは駐在さんを神様として祭ろうと思うのじゃ」
「駐在さんをか」
「そうじゃ、生きておられる時はわし等の為に尽くされ」
 さらに言う。
「死んでからもわし等を見守って下さっている。神様に相応しくはないか」
「そうじゃな」
「確かに」
 村民達もそれを聞いて頷き合う。
「ではそれでよいな」
「うむ」
「是非そうするべきじゃ」
 皆保正の言葉に頷く。
「それがあの方へのご恩になるな」
「わし等の為に死んでからも尽くして下さるあの方への」
「駐在さん、見てますか」
 保正は森川がいた駐在所を見て言った。
「わし等、ずっと駐在さんを覚えておきます。貴方のこと、忘れません」
 こうして森川は神として祭られることとなったのである。呼び名は義愛公。義に篤く、常に仁の心を忘れなかった森川を讃えての呼び名であった。人々の為に尽くした森川はこうして神となり異国で祭られているのである。長い長い時代が過ぎても。今こうして祭られているのである。

「そうした事情があったのですか」
 私はお年寄りのコーヒーを飲みながら話を聞いていた。話を聞き終えて何か夢の様な気持ちになった。
「台湾にそこまで尽くした日本人がいたなんて」
「意外でしたか?」
 お年寄りは私の方を見てにこりと笑って尋ねてきた。
「御先祖にその様な方がおられたことを」
「ここでの日本人のことは少しは聞いているつもりでしたが」
「はい」
「それでも。そこまで素晴らしい方がおられたとは」
「これは本当の話なのですよ」
 お年寄りは優しい笑みを浮かべてまた言った。
「だからあの像があるわけでして」
「はあ」
「あの像は一時大変なことになりかけましたが」
「大変なこと?」
 私はそれが何か最初わからなかった。
「何ですか、それは」
「ほら、日本が戦争に負けた後ですよ」
「ああ、第二次世界大戦ですね」
「あの後ね、国民党が来まして」
「ああ、それですか」
 そう言われて話がわかってきた。こくこくと頷く。
「日本のものは全て禁止で。私もやっと覚えた日本語を表では話せなくなりました」
 国民党の政策は徹底していた。日本文化を全否定したのである。蒋介石は己の権力を固める為にそれをした。またかなりの独裁政治を敷いたことも私は知っている。
「それであの像も」
「壊されそうになったのですか」
「そんなの我慢できるものではありませんよ」
 お年寄りは笑みを浮かべていたがその声には芯があった。
「私等の為に命まで捨ててくれた駐在さんの像を壊されるなんて。それで」
「それで。どうされたんですか?」
 私は問うた。コーヒーを口から離して。
「中国の服を着せたんですよ」
 お年寄りはニコリと笑ってそう答えた。
「中国の服をですか」
「ええ、それだと向こうにもわかりませんでしたね」
「そうでしょうね」
 これは私にもよくわかった。
「あれで中国の服だとそのまま関帝廟ですからね」
「ええ、そう思った国民党の人間もいましたよ」
「やっぱり」
「ですがね」 
 ここでお年寄りはうっすらとした笑みになった。
「私等にとってはあの方は関羽様よりもまだ尊い方なんですよ」
「そうなんですか」
「そうですよ。だってあの人は日本人だったんですよ」
「ええ」
「それなのにね。台湾人の私達の為に尽くして下さって」
「同じ日本人だと言ってですよね」
「やっぱり素晴らしいですよ。普通は出来ません」
 こうも言った。
「民族が違うのにね。同じだなんて」
「そうですね。僕にも何か信じられない話です」
「しかし本当なんですよ」
「ですよね」
 そう言われてもやはり実感が湧かない。まるで夢みたいに思えて仕方がない。
「不思議ですよね」
「はい。本当に不思議なまでに素晴らしい方でしたよ」
 それからお年寄りは言った。
「私のお爺ちゃんも助けてくれましたし」
「お爺ちゃんとは!?」
「わかりませんか?ほら」
 私の顔を見て言う。温かく、穏やかな笑みになって。
「あの海の中で怪我をした男の子」
「ああ、あの人が」
 言われてようやく気付く。
「そうなんですよ、あれは私の祖父なんですよ」
「そうだったんですか」
「私はね、お爺ちゃんに日本語を教えてもらったんですよ」
「あの人に」
「店も残してもらってね。森川さんに助けてもらってから頑張って日本人が持っているみたいな格好いい喫茶店作ってそのマスターになるんだって頑張って」
「はあ」
「父が二代目で、私が三代目です」
「三代ですか」
「ええ、こっそりと日本の雰囲気というのを残してきましたよ」
「それがこのお店」
「そういうことです」
 またにこりと笑ってきた。
「どうでしょうか」
「僕はあの頃の日本は知らないですけれどね」
 私はまずこう前置きした。
「けれどこのお店は」
「はい、このお店は」
「好きになりました。そしてお爺さんも」
「有り難うございます」
「それにこの話は忘れられません」
 この店とお年寄り、そしてコーヒー以上に。私の心に残った。
「何があってもね」
「そうした日本人がいたことに」
「はい」
 その言葉に頷く。
「そしてその人がしたことを忘れていない私達がいることを」
「忘れはしません、何があっても」
「ではまたこれからも」
「来て宜しいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
 それが別れの言葉だった。それも一時の。
 遠く南にある筈のこの島に日本人の足跡があった。それを今でも覚えていてくれて、讃えてくれる人がいる。私はそのことを何時までも覚えていようと思った。何時までも、何時までも。



義愛   完


                  2006・9・25


 
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