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老  癈  行

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癡 翁
     

  綺麗な人だね。
  おっかさんだって綺麗な人だ。ショートステーに来るときゃ、おっかさんが送り迎えするよ。
  暗い顔してた。
  今じゃ、こっちへ来てしゃべっちゃ帰ってくな。よぼついたジジイとババアを相手にして、それで楽しいことがあるんだろう。よく笑うわな。
  知らねえけんど、ま、明るくなったな、去年に比べっと。
  俺は長げえもの。九年目か?ずっといるよ。
  人がたくさん入れ替わった。九年前の職員なんかいやあしない。施設長は何番目だか。
  入った時にいた半分がたが死んじゃった。こういう場所の厄介になったらばオシマイ。死ぬのを待ってるようなもんさね。
  後縦靭帯骨化症てって、あちこち体がしびれて動かねえ。十年めえに車椅子、それで特養に入ってるがな?おととしんなって指もこんな。死ぬのを待ってるのよ。
  従業員のやつら、認知だ認知だ、俺を子供扱いかなにかにして得意がってるのがいてな。青二才めが、気に食わねえぜ。
  ほとんどだ。口の利きかたを心得たのがいない。しつけがなってねえやい、ここは。
  表通りにゃあ『ご利用者様お一人ひとりの生活スタイルに合わせたサービス』みてえな看板を出してるが。何が利用者様なもんか。便所にも好きに行かせねえ。「さっき行ったばっかじゃん、忙しいんだから座ってて」って、俺のほうで「お願いします」って頭を下げて、「さっき行ったじゃん」と来らあ。
  男ワーカー女ワーカー関係ねえや。みんな同し。
  今朝だって、8時前かな、ちょっと外の空気を吸って若葉でも眺めたいと思ったんで廊下で車椅子を動かしてた。バルコニーへ出ようってえと、
  「駄目だよ、横溝さん。食堂にいな!」
  呼び戻されちゃった。何ひとつさせやしねえ。ワーカーが見てねえ時でねえとできねえ。
  中にゃあ丁寧な子がいるけどな、いい子に限って泣かされてる。
  ああ。ケアマネージャだか知らねえが、お偉いオバサン従業員にいびられてる。くだらねえオバサン連中が威張ってる、いいワーカーをこき使って。
  そう言ってちゃあ陰で言われんな。小声で言ってるぜ。またフオンになるから、ああだこうだ。認知だから無理だってね。しょっちゅうヒソヒソ話してやがんだい、聞こえねえと思って。馬鹿にして。「フオン」て何だ。
  フオンだろうと誰だろうと、カラオケと風船バレーなら負けやしねえ。
  1階にあんだろ?南山ラウンジってって、あそこで、月曜日の昼すぎになっと、今週は風船バレーで来週がカラオケ。その次が風船バレーって替り番こでやっていくんだ。
  「この俺を脅かすほどの競い手はいねえ」と言いてえとこだが、年甲斐がねえしよ。俺も成長した。
  まあ、今じゃあれが楽しみでね。あれがなけりゃ特養なんかにゃいねえや。愛想のねえ職員だらけで。うちにいるよかこっちにいたほうが気楽てえば気楽だ。ばあさんがうるさい、同居したバカ娘夫婦は金のこと。それじゃあ、しょうがねえな。
  啓子ちゃんが話しかけてくれたんだよ。いいね、ああした人であれば。
  来はじめた最初は澄ましてさ。秋だったか。お高くとまって見せて。つーんと。美人だろ?目立つわな。廊下を通る時とか。体が大きいからね。70以上あるように言ってたから。俺と変らねえべか。おっかさんは事だ。
  若くて大きな人が車椅子に乗っかって通れば嫌だって目立つさ。ジジイとババアが揃ってそっちを向くな、何だ何だてって。
  それが、啓子ちゃんの方で遊びに来るんだ。年寄りしかいねえのに。
  向こうだと障害者の集まりで、知的がほとんどだし話んなる相手がいねえんだな。でなきゃあ、ジジイババアの特養へ遊びに来る物好きもあるめえ。
  ほかにいるよ?河合さんてって、俺とおなし後縦靱帯。まいんちこっちへ来ちゃお喋りして、夕飯時になると帰ってく人だね。
  俺よか二十若いや。俺が特養、河合さんが若いてんで障害者ホーム。若いって、もう六十でババアみてえなもんだ。こっちい入るはずが若い人を入れる空きがないのやらって、障害者ホームで世話んなりながら待機してる。
  啓子ちゃんは違うよ?入所じゃないから。
  あの子は通い。3時のおやつで帰る。それから、月に数晩、ショートステー。
  向こうの一番奥に見えるほうが障害者ホームになっててね?建物がひとつづきなだけで分かれてんだよ、年寄りと障害者に。障害者が、十室だったっけ、部屋があって、河合さんなんかが入ってる。啓子ちゃんがショートステーで泊まるのもあっち。
  こっち方に近いホールがあんだろ?朝飯を食うと集まってくる。日中部屋にいちゃいけないんだとよ、障害者は。朝飯の後あすこに集まってゲームをしたりお絵かきをしたり。
  賑やかだい、みんな来ると。「きゃあ!」だの「ぎゃあ!」だの、いちんち奇声が聞こえてらあ。たまに驚くような声を出すのがいるね。こっちに近いぶん聞こえっちまうんじゃ仕方がねえ。
  であすこへ来る途中にへこんだスペースがあるんだが、へこんでて見えねえけんど、障害者食堂。入所も通いもそっちで食う。啓子ちゃん、河合さんもね。
  こっちがわの特養にしたって似たつくりだな、もっと広いが。特養なら上の3階と4階にもある。3階と4階は全部特養。
  待てよ?3階の一部がデーサービスになってたな。年寄りの通い。のんびり来て、風呂に入って昼飯を食って。茶飲み話をするやつもいりゃあ、カラオケを歌って帰るのもいる。暇をつぶしに来るんだね。ま、風呂に入れてもらうのが一番の目的だ。
  障害者はこの2階オンリー。入所とショートステーをあわせて十人てとこかね。残りが通いの客だ、啓子ちゃんとおなし。通いを入れっと、さあ、二十人、多い日で二十四五人か。
  あの子たあ落語の会で懇意になってさ。1階の南山ラウンジ - ほれ、カラオケと風船バレーをやる - あそこで去年の暮れ方、寄席があって、若手の噺家が、ボランティアだろうが、昼飯を食い終わる時分に来て、これから落語が始まるからみんなで南山ラウンジへ行くよ!ってって車椅子を押した職員が行きつ戻りつ。けっこう集まったな、あの日は。80人、うーん、70人ばかり入ったか?入所、通い、障害の人も来て。啓子ちゃんが降りて来てさ、俺の隣に車椅子をつけて。
  それまで挨拶以上の世間話をしてはいたが。よく喋った。噺家のする話なんざロクに聞かない。特別に機嫌が良かったんだろう。
  以来だよ、ちょいちょい遊びに来てんのは。
  「おはようございまあす」って、10時すぎだね、こっちへ会釈しいしい、そこの廊下を車椅子を動かしちゃすーっと目の前を通って、向こうのホールへは障害者同士ってことで一応挨拶がてら顔を見せるとすぐまた「おはようございまあす」って我々年寄りの居るこっちのホールへやって来る。
  「横溝さあん、夕べよく眠れましたかあ?」「戸田さあん、朝ごはんに何が出たんですかあ?」「今日もよろしくお願いしまあす」ってね。
  塗り絵とパズルを膝にのせて、だれかれ順ぐりに声をかけながら「何々さあん、どうしましょう。私このごろ頭を使ってなくて物忘れが始まっちゃいましたあ。珍しい面白い謎謎、御存知ありませんかあ?」「お返しにひとつこういう問題は如何ですかあ?」「よかったら一緒にパズルを考えませんかあ?」「この絵、どのようにするんですかあ?私分かりませーん。教えてくださあい」ってね。
  それじゃあ我々はオヤ啓子ちゃんってなろうさね。
  なにしろ愛嬌たっぷり。今じゃ「啓子ちゃん啓子ちゃん」って我々のアイドルよ。
  お雛様に合わせてサプライズ誕生日パーテーをしてな、先々月。河合さんも入って。涙を浮かべて喜んでた。俺なんか惚れてんな。
  まあ、啓子ちゃんだって、障害のほうに居ちゃあ話の種がないだろう。ゲーム遊びやら体操やら、中に入らないで、本を見てるっていうしね?障害者食堂で食べるお昼とおやつを除きゃあ、午前と午後、大概ここで過ごすよ。風呂に入る順番次第で向こうのワーカーが呼びに来てる。
  自分は少し早めに廃疾したのでお仲間に入れて頂きます、あちらの方方は生まれつきで、自分とはそこが違っていて気が合わない、みたいな話をしていたっけ。
  ああいう大きな声を出して歩きまわる知的の人たちと一緒にされるのが嫌なのか、ことによると、おっかながってるのか。いや、分かんないがね?
  話てえばしょっちゅう二人で旅の話をするよ。昔行った国の風景だの景色だの、国境をまたげば風習が異なるだの、言葉だの、着るものだの、乗り物だの、食い物だの、寺だの、教会だの、モスクだの、聞かしてくれてさ。
  外国旅行だね。エクアドル。アゼルバイジャン。舌を噛みそうなのが好みみてえだな。

 
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