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至誠一貫

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第一部
第五章 ~再上洛~
  五十八 ~交錯する思惑~

「ふう……。月、平気か?」
「ええ。お父様は大丈夫ですか?」
「お前達程ではないが、全く呑めぬ訳ではない。案ずるな」
「そうですか」
 酒宴も終わり、月と二人、寝静まった洛陽を歩く。
 睡蓮(孫堅)と華琳はわかっていたが、馬騰もまた酒豪の類であった。
 ……結局、酔い潰れたのは袁紹一人。
 顔良が必死に連れて帰ったが……あれで明日、出仕出来るのであろうか?
 月はと言えば、あの顔触れの中にいて、微塵も酔ったように見えぬとは意外であったが。
「酒量に関しては、完全に父の負けだな」
「へぅ~、は、恥ずかしいですよ」
「別に恥じる事もなかろう? 酒に強いのもまた、英雄たる要素ではないか」
「英雄、ですか……」
 月は、空を仰ぐ。
「私は、そんな風に呼ばれたくありません」
「ほう?」
 普段、あまり我を出す事のない月にしては、珍しい事だ。
 やはり、多少は酔っているのであろうか。
「私はただ、詠ちゃんや恋さん、霞さん、閃嘩(華雄)さん、それにお父様達と、平和に暮らせたらいいな、って。それだけが私の願いです」
「平和か。……当面は、望み得ぬ事だな」
「……はい。見て下さい、洛陽の街を」
 この時代、蝋燭も決して安価ではない。
 それでも、活気のある街であれば、まだ煌々と明るいであろう刻限。
 現に、ギョウも陳留も、そうであった。
 ……だが、この洛陽はどうだ。
 都とは思えぬ、静寂のみの世界。
「本当なら、もっともっと、賑わっている筈です。……でも、これが現実です」
 月の言葉には、静かな怒りと、哀しみが漂っている。
 ……この小さな身体で、いろいろな物を背負わねばならぬとは、何とも不憫な事だ。
 真面目な性格故、それら全てを真剣に受け止めているのであろうが。
「月」
 私は、頭に手を乗せ、そっと撫でた。
「お父様……?」
「何もかも、抱え込もうとするな。人はそれほど、全知全能にはなれぬぞ?」
「ですが、私は陛下より高い位を賜っている身です。その分、庶人の皆さんにお返しをしなければ」
「それは理想だ。確かに理想を持つ事は必要だが、理想に溺れてはならぬ」
「理想に溺れる?」
「そうだ。理想を求める余りに現実が見えなくなれば、理想という深みにはまる。決して抜け出せぬ、底なし沼の如きものにな」
「……お父様は、どうなのですか?」
「私か。……無論、私にも理想はある。嘗ても、持っていた」
「嘗ても?」
「ああ。武士の生まれではないが故に、武士としての誇りを貫く、とな。あの生き方には、今でも悔いはない」
「……まるで、閃嘩さんのようですね」
 そう言われると、苦笑せざるを得ない。
「私は、そこまで猪ではないぞ?」
「いえ、今の閃嘩さんです。あの方も、武人として生き抜く事を固く決意されています」
「なるほどな。確かに、そうかも知れぬな」
「ただ、少し思い詰め過ぎるところはありますが。真面目ですからね、閃嘩さんは」
「ああ。……ところでそこの者、出て参れ」
 振り向く事なく、私は背後の気配に声をかける。
「…………」
 返事はないが、影はそのまま、姿を見せた。
 そして、小さく会釈し、歩き出した。
 ……ふむ、私か月、どちらかに用があるのだな。
 少なくとも、敵意は感じられぬが。
 私は月の手を取ると、影に従って歩き出した。

 やがて、影は大きな屋敷の前で、どこへともなく消えた。
 正門ではなく、裏門のようだが、如何に洛陽とは申せ、この規模の屋敷ともなるとそう多くはないであろう。
「ここは……見覚えがあるな」
「はい。大将軍何進様のお屋敷です」
 小声で、月が答えた。
 と、木戸がかすかに開いているのが眼に入った。
 ならば、招きに応じるとするか。
 辺りを見回し、監視の眼がない事を確かめてから、私は木戸を押した。
 中には、よく見知った顔が待ち構えていた。
「霞さん?」
「何故、お前が此処にいる」
「……とりあえず、中に来てくれへんか」
「良かろう。月も、良いな?」
「……はい」

 屋敷の一室。
 そこに待っていたのは、何進と、もう一人。
 我が陣に忍び込もうとした少女か。
「……え。そ、そんな……」
 月が、やはり顔色を変え、少女に駆け寄った。
白兎(はくと)ちゃん……どうして」
「…………」
 白兎と呼ばれた少女は、黙って目を逸らす。
「月。顔見知り、いやそれ以上の関係の者だな?」
「……そうです。この娘は董旻、私の妹です」
 成る程な。
 道理で、霞が狼狽した訳だ。
「……済まん。土方、月」
 何進が、私と月に向けて、頭を下げる。
「どういう事か、聞かせていただけますな?」
「うむ。白兎は……俺の妹の命で、貴公の陣に忍び込んだのだ」
 何進の妹と言えば、何皇后しかおるまい。
「もともと、白兎ちゃんは何進様にお仕えしていたんです」
「せやけど、月の妹やろ? 当然、ウチらとも無関係やないっちゅう訳や」
「二人の言う通りだ。だが、俺に仕える以上、妹とも接点が生じる。……そして、白兎は月に似て、とても義理堅く、頼まれた事を断れない性格なのだ」
「…………」
「そして、知っての通りだろうが、今あれは、とても焦っているのだ」
「焦っている、と? しかし今生陛下のご生母ですぞ?」
「確かにそうだ。だが、指をくわえてみている十常侍ではない、あれを陥れるべく、暗躍を続けているようだ」
「……わかりませぬな。皇后様には、貴殿もついておられる。それに、陛下には我ら西園八校尉が親衛隊として配属されますぞ?」
 すると、何進は苦々しげな顔になった。
「その事だが、西園八校尉は有名無実のものとなりそうだ」
「どういう意味ですかな?」
「元々、先帝の強いご希望で作られた制度と官職。だが、今上陛下が、同じくそれを望んだ訳ではない。勅令を取り消す者がおらず、そのまま発令されただけの事だ」
「しかし、我らはこうしてこの地に参り、叙位を受けておりまする」
「無論、それは奴らもわかっている。だがな、奴らの言い分は、俺が大将軍の座にあるのに、陛下直属の親衛隊を新設するのは、軍が二重権力となる。それは好ましくない、そういう事らしい」
 一見、理に適っているようにも聞こえる。
 だが、所詮は何皇后らに力を与えぬ為の方便に過ぎぬ。
 その為に、位置づけが曖昧な我らが俎上に載せられた、という訳か。
 本来ならば、何進を追い落としたいのであろうが、失脚させるだけの名目が何進にはない。
 黄巾党の残党こそまだ蠢動しているが、理由としては如何にも弱い。
「しかし、任ぜられた者が、いくら新たに勅令を出そうと、果たして納得しますかな?」
「そこなのだ。内々に調べさせているのだが、どうやら新たに叙位を行う事で、宥めるつもりらしい」
「では、賜った官職は一度返上させる、と」
「そうだ。蹇碩はともかく、それ以外は皆新たに州牧に封じるつもりのようだぞ」
「……成る程。再び地方に追いやろうという訳ですな。しかし、州牧は軍権を持つ身。中央の命に従わぬ軍閥と化す危険もござるな」
「宦官共は、それでも良いのであろう。とにかく、この洛陽より敵対する可能性のある連中は全て遠ざけ、その間に俺や妹を追い落とせばそれでいい、そんなところだろう」
 何処までも、性根の腐りきった連中だ。
 庶人がどれほど苦しもうと、己らの権力欲と栄華さえあればどうでも良いのであろう。
「当然、その動きは妹も知っている。それで、貴公に接触を図ろうとしたようだな」
「そこがわかりませぬ。何故、拙者なのでござるか? 筆頭の蹇碩殿はやむを得ぬとしても、他にも袁紹殿や鮑鴻殿もおられます」
「そら、当然ちゃうか?」
 それまで黙っていた霞が、重々しく口を開いた。
「どういう事だ?」
「まず、歳っちは月と父娘の間柄やろ? つまり、歳っちが味方につけば、当然月も従う。そう考えるのが普通やな」
「確かに、軍の規模ではかなりのものになるな」
「せやろ? それだけやない、歳っちは何より、黄巾党征伐で最大の武功を挙げたちゅう実績がある。目を付けへん方がどうかしとるで」
「ふむ」
「それに、今本拠にしとるギョウは、洛陽に近いやんか。仮に洛陽におられんようになっても、駆けつけるには十分な距離や」
 霞の挙げた理由は、いちいち理に適っている。
 流石は張文遠、という訳か。
「だがな、土方」
「は」
「俺としては、貴公を巻き込むつもりもないし、また貴公がそれを望まぬのもわかっているつもりだ。だから明日、妹に会って諭すつもりだ」
「何進殿……。何故、そこまでなされるのです?」
「そうだな。俺みたいな凡庸な大将軍に仕えてくれる白兎に、これ以上辛い目に遭わせたくない。それでは理由にならんか?」
「…………」
「それに、貴公は月の父親。つまり、白兎にしても父同然ではないか。俺は、それを犠牲にしてまで、くだらない権力争いを見たくない」
 そして、何進はふう、と息を吐く。
「もし、妹がそれでも聞き入れぬのなら。……俺は、大将軍の職を辞そうと思う」
「え?」
 月が、驚きの声を上げる。
 ……いや、霞も。
 そして、臥せっていた董旻も、跳ね起きた。
「何進殿。それが何を意味するのか、おわかりなのでしょうな?」
「ああ。けどな土方、俺はもう疲れた。やはり、俺は肉屋の主人が丁度いいみたいだ」
 思いつきで発した言葉ではない、そんな重みが感じられた。
 恐らく、悩みに悩み抜いて出した結論なのだろう。
「十常侍が、牙を剥きますぞ?」
「だろうな。だが、官職だけではない。全てを返上し、平民に身分を落とせばどうだ? 奴らが欲しているのは権力、それを全て呉れてやれば、俺を殺す意味がなくなる」
「何皇后や陛下は如何なさるおつもりか?」
「……それも、考えてあるさ」
 何進は、不敵に笑う。
 ……凡庸どころか、実に大胆ではないか。
 策を授けた者が影にいるのやも知れぬが、何進自身に覚悟がなければ、こうも思い切れまい。
 十常侍共は、何進の真の姿を恐らくは知るまい。
「白兎」
「…………」
 未だ会話の出来ぬ董旻は、何進の呼びかけに頷いた。
 その眼は、潤んでいる。
「俺のような男に、ここまで従ってくれた事、感謝する。もし、俺に何かあったら、土方を頼れ」
 ぶんぶんと、董旻は頭を振る。
 子供が、嫌々をするかの如く。
「わかってくれ、白兎。俺はこの通り出自も卑しい凡夫。だがお前は、今日まで懸命に仕えてくれた。……こんな目に遭わせてしまうつもりはなかった、許せ」
 ……つくづく、惜しい男だ。
 このような醜悪極まりない権力闘争と無縁の、何処かの諸侯に仕える一武将であったなら。
 今少し、違った形で後世に名を留めたやも知れぬな。
「何進殿。今宵は月を、董旻の傍にいさせてやりたいと存じます」
「おお、そうだな。では月、後は任せるぞ」
「は、はい。……ありがとうございます、何進様、お父様」
 董旻も、私に向けて目礼をしてきた。
 少なくとも、嫌われてはいないようだな。
「霞。我らは外すと致そう」
「せやな」
 霞の顔には、安堵の色が漂っていた。


 何進の計らいで、部屋が用意された。
 この屋敷に泊まるのは、これで二度目となる。
 ……恐らく、今宵が最後になるであろうな。
「歳っち。ちょっと、ええか?」
 霞が、顔を覗かせた。
「どうした?」
「なんや、目が冴えてしもうてな。一杯、付き合ってくれへん?」
 と、徳利を掲げて見せた。
「構わぬが、私はもうかなり過ごしてきたぞ?」
「せやから、一杯だけでええねん。な?」
「一杯だけだぞ。お前に付き合っていたら、明日に差し障る」
「おおきに」
 嬉しげに笑いながら、茶碗に酒を注ぐ霞。
「ほな、乾杯」
「うむ」
 カチリと茶碗をぶつけ合い、そのまま一口喉に流し込んだ。
「蘇双の酒だな」
「ウチ、これ大のお気に入りやねん。洛陽でもな、ごっつ評判ええんやで?」
 そう言いながら、水の如く一気に呷った。
「あ~、ホンマこれええわ」
「相変わらずの飲みっぷりだな。尤も、その方が霞らしいが」
「これがウチや。歳っちかてわかっとるやろ?」
「ああ」
 霞に合わせては本当に潰れる故、舐めるように少しずつ、嗜むことにする。
「歳っち」
「何だ?」
「……おおきに」
「礼ならさっき聞いたぞ?」
「あ、ちゃうねん。白兎の事や」
 茶碗を満たし、またぐいぐいと呷る霞。
「歳っちんとこで白兎を見た時は、ホンマ驚いたわ」
「私も、月の妹と存じていれば、別のやりようがあったのだが。よもや、な」
「しゃあない、歳っちと月が一緒におる時に、白兎はずっと何進はんとこやったからな。疾風(徐晃)なら面識あるかも知れへんと思っとったけど、どうやらそれもないみたいやし」
「しかし、よく董旻を連れ出せたものだな?」
 私は、ずっと気になっていた事を問うてみた。
「ああ。星にな、訳を話したんや。そしたら、歳っちならわかってくれるやろ、て」
「……そうか」
「星を責めんといてや。これは、ウチの責任やからな」
「責任? そのようなもの、問うつもりは毛頭ない。ただ、それならば最初からそう申せば良かったがな」
「……かも知れへん。せやけど、白兎の顔を見て、ウチ……」
「もう過ぎた事、今更とやかく申すまい」
「…………」
 霞は、黙って席を立った。
「如何した?」
「……歳っち。隣、ええか?」
「隣?」
「せや」
 返事を待たず、私の隣に腰掛ける霞。
 長椅子のような幅がある故、無理はないのだが、それでも密着する格好になる。
「霞、酔ったのではないか?」
「ああ、酔ったわ。……歳っちに」
「意味がわからぬぞ。もう、それぐらいにしておくが良い」
 徳利を取り上げようとした手に、霞の手が重なる。
「……稟、風、愛紗、疾風、星。それに彩(張コウ)もおるんやな」
「……霞。何が言いたい」
「歳っちが、格好ええ事はわかっとる。腕も立つし、度胸もある。それに、優しい。こないな男、他におらへん」
 霞が、私の腕に抱き付いてきた。
 胸が当たっているが、本人は気にする素振りも見せぬ。
「なあ。その中に……ウチも混ぜてくれへんか?」
「……即答は出来ぬな。皆に確かめねばならぬ」
「けど、ウチは歳っちを独り占めするつもりはあらへんよ? せやから、な?」
 そう言って、霞は腰を浮かし……接吻をしてきた。
 生暖かい酒が、口移しに流れ込んでくる。
「霞。……何をしようとしているのか、承知の上であろうな」
「……こないな事、酒の勢いだけでやれる程、ウチは阿呆やないで?」
「……良かろう。参れ」
 私は、霞の身体を抱き締めた。
 かすかに、震えているようだが……。
「無理はするな」
「……ええねん。ウチな、歳っちが好きや、これはホンマもんの気持ちやから」
「…………」
 もう、言葉は要らぬであろう。
 今はただ、霞の気持ちに応えるのみだ。


 翌朝。
 迎えに来た疾風に、事の次第を告げた。
 ……盛大に溜息をつかれる結果を招く事になったが。
 一部が朱に染まった夜具を見た何進は苦笑し、月は耳まで真っ赤になったのは、また別の話。
「今更ではありますが……。仕方ないでしょう、歳三殿程の御方、惹かれない方がどうかしてますからね」
「せや。……ただ、愛紗達に話さなあかんやろ? それはちょーっと気が重いんやけどな」
 全く異なる意味合いで、霞は溜息を一つ。
「だが、これは不文律。私も後で皆に話さねばならぬ」
「英雄色を好む、とは言うが……やはり土方、貴公は尋常ではないな」
 ……何進の呟きに、返す言葉はない私であった。 
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