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最後のストライク

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5部分:第五章


第五章

「打ちたいのか」
「そんな御前の球をな。打ってみたい」
「本田・・・・・・」
「俺達はもうすぐ靖国に言ってそこで日本を護るけれどな」
「ああ」
「これからの日本が。ずっと野球を出来るようだったらいいな」
「そうだな。そんな世の中になったら」
「また野球をしような」
「そうだな、ずっとな」
 旅立つ前のほんの一時の話だった。周りのベッドは一日ごとに空いていく。その中で彼等は話をしていた。いずれ自分達のベッドも空くことをわかっていながら。
 そして遂にその日がやって来た。五月十一日、その日は雲一つない素晴らしい蒼空だった。
 石丸はその下にいた。もうすぐ最後の出撃の時である。
「石丸少尉」
 その彼に声をかける者がいた。海軍報道班員の山岡荘八であった。彼はこの鹿屋に派遣されていたのである。
「そろそろ時間ですよ」
「ああ、わかってるよ」
 彼は山岡に返事を返した。だがすぐに機体に向かうわけではなかった。
「少し、ここにいていいか」
「何かあるんですか?」
「ああ、本田少尉」
「おう」
 本田はその言葉を待っていたかの様に石丸に返した。
「用意はいいか?」
「ああ、何時でもいいぞ」
 彼は笑みで石丸に返した。石丸はそれを聞くと満足そうに頷いた。
「じゃあグローブを頼む」
「ボールはいいのか?」
「ここにあるからな」
 そう言って飛行服から自分のグローブと白いボールを取り出してきた。銀座の球団事務所で貰ったあの白いボールだ。彼は肌身離さずこの白いボールを持っていたのだ。
「これを使わせてもらうさ」
「わかった、じゃあいっちょやるか」
「ああ、頼むぞ」
 本田は距離を開けて座る。バッテリーのそれと同じ形で。
 山岡はその本田の後ろに回った。球審と同じ位置だ。そこから石丸の最後のピッチングを見守ることにしたのだ。
 石丸は大きく振り被った。そして最初の一球を投げた。
 伸びのあるいいボールだった。石丸は今の視点から見れば小柄であった。だがそれでもその身体の能力を完全に活かした投球は見事なものであった。コントロールもよかった。見事なボールであった。
「どうだ?」
 彼は投げた後に声をかけてきた。
「!?」
「山岡さん、貴方にだよ。どうだった、俺のボール」
「あっ、私にだったんですか」
 山岡は最初石丸が本田に声をかけているのかと思っていた。だがそれは自分に対してであったのだ。
「何といいますか」
 彼は落ち着きを取り戻しながらそれに答えた。
「凄いボールですね。やっぱりエースだっただけはありますよ」
「いや、そうじゃなくてさ」
 石丸は山岡の言葉を聞いて苦笑いを浮かべた。屈託のない、そして陰のない笑みであった。とても今から死にに行く男の顔には見えなかった。
「ストライクかボールか、教えて欲しいんだけど」
「あっ、そっちでしたか」
「うん、どうだった?」
「ストライク!」 
 山岡はそれを受けて叫んだ。手を挙げて。実に威勢のいい声であった。
「そうか、ストライクか」
「はい、こんなボール今まで見たことはないです」
「嬉しいね。けどまだこれで終わりじゃないんだ」
「まだ投げるんですね?」
「ああ、もうちょっと投げさせてくれ」
「わかりました。それじゃあ」
「石丸、来い」
 本田もグローブを構えていた。
「御前の球、どんどん受けてやるからな」
「これが最後だ、パスボールだけは勘弁してくれよ」
「その時は身体張って止めてやる、安心しろ」
「よし」
 また振り被った。そしてまた一球投げ込まれる。
「ストライク!」
 山岡と本田は同時に叫んだ。
「よし、もういっちょ!」
「ああ、来い!」
「何か、何かね」
 山岡は泣きはじめていた。
「これで最後なんて。何か・・・・・・」
「山岡さん、あんた作家だったよな」
「はい」
 本田は後ろを振り向いて山岡に声をかけてきた。山岡はそれに応えた。
「だったらさ、これで最後なんて言わないでくれよ」
「何故ですか?」
「あんたは戦場に立たないけれど、俺達を見ていれくれてるんだよな」
「はい」
「だからだよ。俺も石丸も行って来るから。そして」
「そして・・・・・・?」
「靖国にいるからさ。そこにいるから」
「靖国にですか」
「そうさ、だから安心してくれ。そこに行ったら皆いるんだ」
「皆・・・・・・」
「ここから出撃した奴等もな、皆靖国にいるんだ」
 彼は今前を見据えていた。石丸はまた投げようとしていた。
「そこにいたら俺達もこの戦争で死んだ奴等もいる。あんたはそれをじっと見ていてくれ」
「それを後世に伝える為ですか」
「そうさ、俺も石丸も」
 その言葉には迷いはなかった。実に澄んだ言葉であった。一点の曇りもない、晴れ渡った言葉だった。だからこそ殊更悲しい言葉でもあった。
 
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