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最後のストライク

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4部分:第四章


第四章

「こんな美味しいものが食べられるとは」
「たんと食べて下さいね」
 老婆は笑顔で石丸達に対して言う。
「それで敵に勝って下さい」
「はい」
 老婆は死ぬということは一言も言わなかった。特攻隊として死ぬ運命にある彼等に対してあえてそうしたことは言わなかったのだ。散華するのが運命の彼等に対して。あえて気遣ってくれたのだ。
 戦友達は次々に沖縄に向かって行く。一人、また一人と。誰も帰っては来ない。
 皆散華していく。笑って戦場に行き、そして帰って来ない。皆覚悟を決めていたのだ。祖国の為なら喜んで死ぬ、と。そして帰っては来なかった。皆命を捨て、そして散っていく。絶望的な戦いにあって彼等は全てを捨てていた。そして、次の時代の為に戦っていた。
「靖国で会おう」
 彼等は後から来る仲間達にこう言った。そして行く。何もかもを捨てて。
「なあ」
 石丸の出撃も間近に迫っていた。彼はそんな中宿舎で眠ろうとする前に法政大学で野球をしていた本田耕一に声をかけた。宿舎の外では蝉の鳴き声が夜の闇の中に響いている。
 本田はファーストだった。石丸はピッチャーだ。その違いはあれど彼等は確かに野球をしていた。だからこそ意を通じるものがあった。
「何だ、いきなり」
 本田は石丸に声をかけられそれに応えた。灯火管制の中で暗い部屋の中でのことである。
「俺達、野球をしていたよな」
「今更何を言ってるんだ」
 本田はそれを聞いておかしそうに声をあげた。
「いや、それでな」
 石丸はそのうえで言うのであった。
「俺、ずっと野球をやっていきたかった」
「そうか」
「死ぬのも惜しくはないんだ。人間何時か絶対死ぬからな」
 そこには達観したものがあった。
「戦争に行くのも運命だ。それで死ぬのも運命だ」
「ああ」
「それはいいんだ。けれど最後の最後まで野球がしたかった」
「今はしていないのか?」
「いや、してる」
 彼は答えた。
「ずっと野球のことばかり考えてる。ずっとな」
「だったらそれでいいんじゃないのか?」
「そういうわけじゃないんだ」
 だが彼は他にもあった。
「それだけじゃないんだ、俺は」
「それだけじゃないって」
「最後にな、投げたいんだ」
「投げるのか」
「その時な、頼みたいんだ」
 彼は闇の中で本田を見ていた。暗く、何も見えない筈なのに本田の顔がしっかりと見えていた。そして外からの蝉の鳴き声も耳には入っていなかった。
「俺の球、受けてくれないか」
「御前の球をか」
「嫌ならいいんだけれどな」
「いや、そんなことはない」
 だが彼はそれを引き受けた。
「俺でよかったら受けさせてくれ」
「済まないな」
「御前名古屋軍にいたんだったな」
「ああ」
「職業野球のボール、受けさせてくれ。どんな球なのか」
「わかった。受けてみて驚くなよ」
 彼は不敵に笑ってこう言った。かってはプロ野球は職業野球としてあまりいい目で見られてはいなかった。大学野球の方が格式は高いとさえ言われていたのだ。金儲けだと叩かれていた。そうした時代だったのだ。それが変わるのは戦後かなり経ってからのことである。三原脩と水原茂が日本シリーズにおいて遺恨試合を繰り広げ、鶴岡一人が南海を率いてその度量を
示してから。そして長嶋茂雄や杉浦忠、稲尾和久、中西太といった選手達が現われてから。プロ野球が批判されなくなるのはそれからであった。
「俺のボールをな」
「ストライク投げてくれよ」
「一球も外しはしないさ」
 彼はコントロールには絶対の自信があったのだ。
「見ていてくれ、俺のボール」
「ああ。ところでな」
「何だ?」
 今度は本田が石丸に声をかけてきた。
「御前、生まれ変わったら何になるんだ?」
「生まれ変わったらか」
「ああ。何になりたいんだ?」
「また、マウンドに立ちたい」
 彼は迷うことなくこう答えた。
「マウンドにか」
「そして投げたい。俺はそれだけでいいんだ」
「無欲なんだな、御前は」
「御前は違うのか?」
「俺は。打ちたいな」
 本田は顎を少し上に上げてこう言った。
 
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