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最後のストライク

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2部分:第二章


第二章

 時代はさらに暗くなってしまっていた。戦局は悪化し、世相はさらに陰鬱なものとなっていた。新聞は戦争のことばかりで配給や贅沢を戒めることばかりが言われた。
 野球にもその影響は及んだ。ユニフォームはカーキ色になり、背番号はなくなった。ストライクやボールといった言葉もなくなり、『よし』や『駄目』という言葉になっていた。しかも遂に彼にも声がかかったのであった。
 学徒動員。追い詰められた軍は遂に最後の方法を採った。躊躇い続けていたそれを遂に実行に移したのであった。
「若い命が戦場に散るのだな」
 ある軍人はそれを聞いて顔を俯けて呟いた。非情と言われていた軍ですらこれはしたくはなかった。何処か甘いと言えばそうなるだろうか。アメリカは開戦と同時に学徒動員をかけていたというのに。ナチス=ドイツやソ連に至っては中学生すら動員していたのだ。彼等は何処か甘かった。そしてそれでもそうせざるを得ない時代になってしまっていたのだ。
 その中には石丸もいた。大学の夜間部、日本大学に通う彼も例外ではなかった。当然の様に彼も動員されることとなったのであった。
 昭和十八年十月二十二日。冷たい雨が降る神宮外苑競技場。そこで学徒出陣壮行会が行われた。その中に彼もいたのであった。
「ほんの十日前だったのにな」
 彼はその中でふと呟いた。たった十日前までマウンドで投げていたのだ、それを思い出していたのだ。
 十月十二日。彼はある記録を立てていた。
 ノーヒットノーラン。相手チームにヒット一本も許さなかったのだ。この大記録を達成したのは戦争中では彼が最後であった。彼はその大記録を達成した僅か十日後に戦場に向かわなくてはならなかったのだ。
 この年彼は二十勝をあげた。防御率は何と一点台であった。この時代物資不足の為ボールは極めて粗悪なものであったとはいえこの記録は輝かしいものであった。彼はこの記録を置いて戦場に向かったのであった。
「また帰って来たら野球をしよう」
 この時はこう思っていたかも知れない。この時は。確かに思っていただろう。彼は野球を愛していた。野球が彼の全てであった。その彼がそう思わない筈がなかっただろう。
 だが。運命というものは時として非常に無慈悲で残酷なものである。戦局は更に悪化していたのだ。海軍の飛行予備学生となった彼に一つの異変が訪れようとしていた。
「これは兵法の外道だ」
 海軍航空隊を率いる大西中将は言った。神風特攻隊である。
 彼は悪化していく一方の戦局を挽回する為にこの最後の最後の策を執った。自ら敵に体当たりを敢行しその敵を倒す。苛烈と言えばあまりにも苛烈、そして非道と言えばあまりにも非道、だが彼はあえてこの策を執った。自らそれが非道なものだとわかっていながら。
 石丸が飛行予備学生となったのは昭和十九年二月一日であった。特攻隊がはじめて登場したのは六月のレイテ沖海戦においてであった。そのあまりもの攻撃にアメリカ軍は戦慄を覚えた。
「これが日本軍だというのか」
 そう、これが日本軍であった。命すらぶつけて戦う、喜んで散華する、それが日本軍の将兵であった。彼等は決して洗脳されていたわけでも狂っていたわけでもなかった。若しそうだとしたならば何と救われる話だっただろうか。誰も狂ってはいなかった。冷静だった。冷静に命を賭けていたのだ。
 回天という兵器がある。特攻用の兵器であり自らが操縦し、敵艦を撃沈する人間魚雷だ。これを開発した二人の海軍士官はまず自分達が最初に乗り込み敵艦に向かって行ったのだ。あくまで祖国の為に。後ろにいる家族の為に。彼等は向かって行ったのであった。
 そして石丸もその中に入った。土浦海軍航空隊である。大学にいた彼は少尉に任官してそこにやって来た。ここはその特攻隊の養成所となっていた。生きては決して帰れぬ兵士達。彼もまたその中の一人になったのだ。
 彼は死ぬ為に訓練を続けていた。その中の十一月のことである。彼は当時銀座にあった名古屋軍の球団事務所を訪れた。
 この時帝都も空襲により所々が焼けていた。その焼け跡を見ながら彼は事務所に向かっていた。
 道を行けばモンペ姿の女ばかりが目に入る。そして広告やチラシは戦争のことばかりだ。全て戦争のことであった。贅沢は敵だ、欲しがりません勝つまでは。そんな言葉ばかりが目に入った。それと焼け跡が。
 銀座も同じだった。かっての賑わいはそこにはなかった。戦争というものに銀座も飲み込まれ埋もれてしまっていた。彼はその埋もれた街の中を歩いていた。
 そして事務所を訪れた。すぐにマネージャーが出て来てくれた。
「おう、君か」
「はい」
 石丸は笑顔で挨拶に応えた。
「海軍にいるそうだね」
「はい、零戦に乗っています」
「そうか、それは何よりだ」
 マネージャーはそれを聞いて顔を綻ばせた。実は石丸は海軍が好きで兼ねてより零戦に乗りたいと言っていたのだ。その願いが叶えられたことに彼は喜びを見せたのだ。
「本当に。よかったな」
「この事務所まだやっていてよかったです」
「ああ、野球ももう終わりだからな」
「はい」
 職業野球も十一月で一時休止となることになっていたのだ。彼はその前に事務所に来たかった。そして今ここに来たのであった。
 
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