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歪んだ愛

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第2章
  ―2―

心理担当の時一の姿が見えないと思っていたが、休憩室にきちんと居た。和臣を見るとゆっくり微笑み、向かいの席を促した。精神科の世話になった事は無いが、其の滑らかな動きと笑みは患者の心理を和らげるには充分、本物なのだなと納得せざるを得ない。手元には大学ノート、“東条まどか”と云う名前と日付が書いてある。顔は西洋の人形みたく愛くるしいのだが、文字も手も随分と男らしい。
菅原は長机の、所謂上座に着席すると分厚いファイルを開いた。
三角形に座って居ると思えば良い。菅原の後ろには大きなホワイトボードが置かれている。
「木島さんは収穫あった?」
菅原の問いに和臣は電子煙草を咥え、煙を荒く吐き捨てる仕草をした。
「あるなんてもんじゃない、犯人とコンタクトが取れた。完全に舐められてる。」
両菅原の目が鋭く和臣を捉えた。何方が先に話すか、譲ったのは菅原で、時一は頷いた。
「如何云うコンタクト方でした?」
時一の質問に和臣は順を追って説明した。
殺害から一週間経つのに東条まどかの携帯電話が繋がる事、事件当日から四日間夏樹曰く繋がらなかった、昨日迄電源は切られていた、理由はメッセージアプリに送ったメッセージに既読が付かなかった事…此れは夏樹とゆりかが証明した、ゆりかが間違いで東条まどかの電話に発信すると繋がった、其れを夏樹に説明した所いきなり既読が付き、続けて東条まどかの電話からワンコールの着信が着た、折り返しは不通、そして其の日の午後二時過ぎ、夏樹の電話に東条まどかから着信があった。
「そして、ゆりかの方に、着信が着た。」
和臣はゆっくりとポケットからあの時撮った動画が収まる電話をテーブルに置いた。
和臣の言葉をノートに書き殴る時一の手が止まった。動画を再生しようとすると和臣を一旦止め、菅原が三人を呼んだ。呼ばれた三人は和臣を囲む様に後ろに並び、再生を押した電話をテーブルの真ん中に置いた。
「なんやねん、此れ…」
「良い趣味してるな。」
再生が終わり、重苦しい空気を全身で感じた。誰よりも鋭い目で電話を睨み付けるのは時一で、電話を持つと二回再生をした。ノートに動画の詳細を殴り書き、電話を物理担当に渡した。
「ボイスチェンジャー、君の分野。」
「はい。あの、木島刑事…」
「何だ?」
「此れ、SDカードに移せます…?」
小さな手に収まる電話の画面をコツコツ突き、物理担当は聞く。
「其れ何方だ。」
「…ドコモですね。」
「んー…、判らん。俺、機械に弱いんだ。」
額が付きそうな程顔を寄せ、物理担当の手ごと電話を握った。
ちっさ…
余りの手の小ささに和臣は驚いた。
此奴やっぱり女なんじゃないのか…?
顔を上げると間近にあった顔に和臣は慌てて離れた。男相手に何を考えて居るのか…顔が熱くなった。そんな和臣の事等構わず、物理担当も自分のとは違う勝手に苦悶し、一層口角を下げ、口元の黒子を弄った。
斎藤(さいとう)さん、助けて…、判んない…、嫌い、スマートフォン嫌い…、全然云う事聞かない…、まるで長谷川さんみたい…」
「は?なんて?」
「ハイハイ。」
電話を渡された丸眼鏡…斎藤と云うらしい…は画面をちょいちょい弄り、あっさりSDカードを本体から取り出した。
「ガラケー卒業しよ?(たちばな)さん。貴方、此の中で一番機械使うでしょ?慣れて、な?」
物理担当…橘は此れでもかと眉を落とし、だって判んない…、と斎藤を見上げた。
一八〇センチは超えて居るであろう斎藤を見上げる橘は、何処から如何見ても女だった。
斎藤の指先にあるSDカードを秀一は取り、和臣の小さな頭を撫でた。
「機転が良いね、和臣。分析しちゃうよ。」
「頼む。」
秀一が記憶する限り、和臣の頭回転の速さは良かった。秀一の利発さが証明されるのは記憶力で回転の速さでは無い。和臣は、記憶力こそ並だが、回転の速さが、通常が八十であるとしたら百程の速さで回る。
素早い回転と洞察力、此れが和臣の武器であるが、此の和臣依り素早い回転を見せるのが相棒の加納。
加納は桁外れの秀才で、其のIQは145と、凡人には理解不能の領域に達して居る。
IQ指数が120超えると人は天才と呼ばれる。和臣は其の少し手前の118、加納の叩き出した数値に驚いた。此れ程の頭脳、アメリカ最高位に値する大学を難無く出た訳である。
頭脳と肩書きを見て全く釣り合わない今の現状の加納は、和臣には気味悪く映る。あれだけの秀才、アメリカに其の侭居た方が本人の為にも世の為にも良かったのでは無いかと思うのだが、天才の考え等凡人には凡そ理解出来ないのが常である。だから天才は天才なのだ。
大学で犯罪心理学を専攻していたのなら加納も、此処で働けば良いのに態々警察になる等変わり者だ。
休憩室に戻った和臣は、ホワイトボードに写真を貼り付ける菅原の背中を眺めた。
「菅原さんって、白衣似合いますね。」
白衣等そう珍しい物でも無いのに、菅原の白衣姿には一目置くものがある。身体の一部と云おうか、すんなり馴染んでいる。普段着に見える。白いジャケット、或いはコートを着ている様な、白衣を着てますと云われ無ければ判らない程菅原の身体に馴染んでいる。
「初めて云われたわ。」
「他の人達は白衣って判るんですけど、菅原さんはなんか、身体の一部、って感じです。」
「まあなあ、二十年以上着とけばなぁ。着てない時間の方が短いからなぁ。」
「先生は、元が解剖医なのでしょうか?」
「いや?俺は外科医。此処来る迄京大居った。橘も京大や、放射線科医。」
「へえ、凄い。」
「で、俺は外科医やし、放射線…レントゲンと麻酔科医とは切っても切られんのなぁ。此処受けたら受かってしまったもんやから橘怒ってなぁ。だったら物理で募集行きますぅ!云うてなぁ。アホやろ。受かっとる、アホや、可哀想。内科の父ちゃん泣いてはるわ。内科は放射線治療するやろ。」
菅原はキリキリ笑い、橘の艶やかな髪を見た。
ヘッドホンを付け、SDカードから読み取った動画の音声を分析する橘がふっと顔を上げ、菅原を見た。強化硝子のドアー越しに視線を合わせた菅原は、何も無い、と手を振った。
「すぅぐこっち見よんのよ。悪口やとほんま直ぐな。」
「誑かすのが御得意の様で。」
「んー?俺がゲイて何処で知った?あかん子。」
「内の課長から聞いた。彼の方もゲイだから。」
「…嗚呼、あの人な、知ってる。寝た事あるもの。宅の課長、ど豪いサディストやけど超絶ネコやったわ。美味しく頂きましたぁ、ご馳走はん。」
「嘘…!え?嘘だよね…?」
和臣をあしらう様にバラバラとファイルを開き、ホワイトボードに貼られる四枚の内、足の裏が映された写真を菅原は指した。
和臣にはもっと聞きたい事はあったが、此れは署に帰り直接課長に聞いた方が良いだろう。課長って尻軽なんだね、と。彼のサディストの顔面が真っ赤に燃え、自分と菅原を怒鳴り散らす事を想像すると笑えた。
「東条まどかの足の裏には細かい裂傷がある、此れは木島さん知ってるな?」
「はい。」
片方脱げた靴、其の足の裏に裂傷があるのは覚えている。
「此れが不思議な事に、こっち…右足にも裂傷が見られる。靴を履いてる側に。詰まり東条まどかは、殺害当日以前にも裸足で走った事が判る。…で、此の裂傷が、足先に集中してる。」
足裏の写真の横にもう一枚、左右の足裏を映した写真を貼った。
「で、此れで判ったんが、東条まどかは、短距離走が得意やて事。」
「短距離…」
菅原は掌をテーブルに付け、説明を始めた。
「マラソンみたいな長距離は、こういう風に、足全体を地面に付けて弾む様に走る。何でか。爪先を立てると膝から腿…大腿四頭筋て云うんやけど、其処にかなりの負担が掛かる。体重が地面に向かう圧と、地面から反動する圧が、屈折する膝に集中する為、長距離の場合膝に掛からない様踵でバウンドを付ける。一方で短距離は。」
べったり付ける掌を浮かせ、指先だけをテーブルに付ける。
「地面に接する面積を少なくする事で、速さを出す。足裏って云うんは、身体の全てを支えてる。身長と足のサイズが関係するのは此の為、そして一番変化を見せる場所。人間が成長する過程で一番最初に伸びるんが足。這い這いをする赤ん坊の足裏は小さいけど、歩行を覚える時期に身体が成長すると、支える為足が大きくなる。一八〇センチと一五〇センチの人間の足の大きさは一緒じゃない。足の遅い奴の特徴は、身体に対して足が小さい。此れはバランスを保ち歩く事を身体が命令するから。ハイヒールを履いた女の足が蛞蝓みたく遅いのは、地面に接する面積の減少、前に倒れない様背筋を伸ばす姿勢、足裏に掛かる筈の圧が膝に掛かる、此れ等身体のバランスを無意識に保つ為歩行の速度が遅くなる。子供の足が妙に速いのは、全身で圧を分散するから。子供って揺れ乍ら走るだろ?身体と足に対して、此れは頭が大き過ぎるから。揺れ、圧を分散しないと前のめりに倒れる。此れが、短距離の仕組みになる。」
黙って聞いては居たが、長い、と和臣は思った。
「地面に接する狭い面積、進行方向に倒した身体。此れ人間の仕組みで、爪先立ちで前のめりになると前に進む。此れが短距離。速さを出す為に面積を狭くし、身体を前に倒す…人体の習性を応用して空気抵抗を無くす。で、皆頭では其の法則を理解してるんやけど、身体が其れを知らない場合身体は動かない。無意識に長距離の走り方をする。東条まどかの身体は短距離の仕組みを無意識にする程知ってる。詰まり、短距離を得意とする。」
「東条まどかはテニスをしてたって。」
「ボールの速さに追い付く為には此れが要る。テニス選手は、膝の柔軟性が非常に高い。正に飛ぶ様に走る。瞬発力が短距離選手に比べて違う。」
和臣に聞く迄も無く菅原には、東条まどかがテニスをして居た事が判って居た。其れが如実に表れていたのは肩。右利きであろう其の肩の筋肉は左とは違った。
「疑問なんが、なぁんで裸足で走ったか、って事な。」
写真を見た侭菅原は呟く。聞いた和臣は、まさかと思う事態に声を喉から絞り上げた。
「一度だけじゃない…」
「そういう事。多分やけど、当日犯人は前から現れたんやないかな。膝にも傷がある。爪が割れとるやろ、此れは倒れた時かな。ほんで、後ろから、ざっくり…」
自らの首にペンを向け、首から耳に掛け滑らせた。
「と、思うやろ!?」
いきなり出た菅原の大きな声に和臣の尻が椅子から一瞬浮いた。怯える姿にキリキリ笑い、和臣は口元を押さえ呼吸を整えた。
「オモロイもん、見付けた。」
眠たそうな目が瞬間ギラつき、ホワイトボードを叩いた。
「死亡推定時刻は八時から十時の間。退社時間は二時間前の六時、会社から自宅迄凡そ四十分。六時半に会社を出た場合、自宅に着くのは早くて八時前。で、此処で死亡推定時刻を絞れる出来事が起きる。木島さん、事件当日、退社した後東条まどかは恋人に会った?」
「いや…そんな事は聞いてないですが…」
会ったと過程した場合、其れをあの夏樹が隠すだろうか。和臣の見た所、会って居た場合夏樹は其れを素直に云うだろう。
菅原の口角が面白い程釣り上がり、時一に視線を投げた。
「東条まどかは事件当日、殺された後、暴行されてる。膣を調べたら痕跡があった。膣道口と膣壁に微かな裂傷、子宮口に性交痕跡、そして、膣壁に化学反応があった。人工的に作られた物質…コンドームに付着するローションが膣壁にべったりと御丁寧に付いてたわ。死んだ女は如何やっても濡れへんからな。膣分泌液とローションが混ざってない、此れが死後暴行の証拠や。生きて強姦された場合、生物反応、強姦の場合防衛本能が動き、生殖器官である性器が傷付かない様面白い様に分泌液が放出する。ヴァギナってのは、一寸の反応でペニスを受け入れる体制を取る。東条まどかの性器に其の反応は一切無かった。」
「犯人はまどかさんを殺害後、其の身体を好きにしました。犯人がネクロフィリアか如何か…此れは違うと思います。生きて物に出来なかったまどかさんを、殺害し、死後強姦する事で顕示したと思われます。未だまどかさんの携帯電話の持っている事が、犯人のまどかさんに対する執着心を見せて居ます。」
「現場に一切の血液反応が無い、でも服にはべったり反応がある。其れも、傷のある肩から…背中一面に。此れは防水性シートの上で切られると見られる反応や。犯人は防水シートの上で切り、其の身体をシートで包んで現場に運んだ。背中が丸まった状態で血液はシートに溜まり、背中で血液が吸われた。地面に対して垂直に身体があった場合、東条まどかの場合首や、血液は必ず下に向かう。傷が右にあるて事は犯人は右利き、此れだと血液反応は右腕に集中する。顎から耳…傷の痕跡から見てナイフは後ろに流れてる、後ろからナイフを引いてるわな。だから犯人は右利き。此れが、シートに仰向けでナイフを引いたら犯人は左利きになるけど、傷は耳に向かって伸びとる。左利きの人間が正面から寝た相手を搔っ捌くとなったら、傷は真横か肩から顎に向かう。と云うか、正面やったら普通は心臓狙うわな。態々首は狙わん。」
菅原が云う“オモロイ”報告に和臣が吐き気を覚えた。和臣が何より許せない犯罪が性犯罪…強姦…。世の男殆どが強姦に対し良い思いしないのは確かだが、和臣の強姦を働く者に対しての嫌悪は筋金入りだった。
性根腐ったクソが……。御前が笑う其の刹那に、一瞬の快楽、性欲、支配欲…其の餌食となった者の苦痛を一瞬でも御前は判るのか……!腐った欲望の為に、被害者を含む其れ等を愛する者達の苦痛が判るのか……!?
嫌悪抱く犯罪に加え、東条まどかへの死後強姦…挑発とも思える犯人からの電話を受けた後だからか、和臣の神経は逆立ち、見て居る菅原達が苦渋に顔を顰めたい程怒りに震えて居た。
私怨に近い苛立ちを蓄える和臣の赤く潤む目元に時一は息を吐いた。
「強姦は、被害者の人権を無視した非道且つ鬼畜の諸行です。木島さん、若し宜しければで構わないのですが、其の(わだかま)り…僕に吐き出しては見ませんか?執念で誤った見解を出す可能性が高いです…、貴方の目は、刑事と云うより、強姦魔への憎悪が見えます。」
笑うしかなかった。
何故自分が刑事に、其れも強姦を扱う一課に願いを出したか…、時一の澄んだ大きな目は全てを見透かして居る様で、然し羞恥も嫌悪も無かった。此れが、犯罪者を分析するに相応しい精神科医なのかと和臣の顔は不自然な笑みを蓄えた。
「妹が、強姦に遭ったんだ。もう十年も前だ、俺が大学生の頃。妹は後遺症で家から出られなくなった…、俺は、姿の見えない相手を、ずっと追ってる…、刑事になれば見えると思ったのに…」
「大丈夫、ゆっくり息を整えて下さい。」
時一の温かい心臓の音に視界が揺れ動いた。蓄積する加害者への憎悪が肥大した。
「もう、意味が無いんだ…、強姦の時効は十年…、成立してる。だのに一時の私欲で妹の人生を目茶苦茶にした犯人はのうのうと笑って生きてる。彼奴は未だ中学生だったんだ。見事に妊娠してたよ…。元から身体が弱い女でな、結果未熟な身体で掻爬した彼奴は限界で、子供が産めなくなった。判るか…?何よりも大事に思って居た妹の全てを壊された俺の思いが…」
全く知らない和臣が、妹から妊娠していると聞かされ、其れが発覚する迄約三ヶ月妹は被害を黙っていた。元から生理が不安定な妹で、まさか此れで妊娠する等思っても居なかった。二三ヶ月生理が来ない事等ザラで、今回もそうだろうと思っていたのだが、明らかに違う身体の訴え、トイレで気絶した妹の手に転がる二本の線が並ぶ妊娠検査薬を見た和臣の絶望と云ったら無かった。そして聞かされた事実に和臣迄吐いた。
十年以上も昔の事なのに、今朝の事に思えてならない。いや、本の数分前。ずっとあの時間で止まっている気分だった。
「木島さん。」
時一の声に和臣は身体を離し、拷問の様な痛みと記憶を繰り返す頭を触った。
「ゆりかさんを、保護して下さい。犯人の狙いは、ゆりかさんです。」

愛してるよ、ゆりか……

不愉快な変遷声が、一層和臣の頭を締め付けた。
時一も菅原も云っていた、東条まどかは、ゆりかに成り代わって居たと。 
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