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その魂に祝福を

作者:玄月
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魔石の時代
第五章
  そして、いくつかの世界の終わり4

 
前書き
和解編。あるいはコアラ抱っこ編。
 

 



 彼女達を残してきた村が、神聖ロムルス帝国の襲撃を受けた。
 その報告を自分が聞いたのは、第二次オリンピア戦争の最前線にいた時だった。最も過酷を極めるその戦場で、敵味方問わず積み上がる死体の山を眺めながら――この中で自分だけが死なないのだと、そんな事にすら苛立ちを覚えていた頃だったはずだ。
 その時の自分が何を思ったのか――それは、不思議と覚えていない。だが、史実として第二次オリンピア戦争はその後一〇年もの長きに渡って戦火を燻ぶらせ、泥沼の攻防戦が延々と繰り返された。その中で、いくつもの集落が戦火に巻き込まれる事となる。
 その戦乱に一応の終止符を打ったのは自分だった。『奴ら』の後ろ盾を得た皇帝を仕留めた時の感触だけは不思議とよく覚えている。だが、やはりその時にどんな感情を抱いたかは覚えていなかった。
 自分が皇帝を討った事で、神聖ロムルス帝国の中では後継者争いが激化し――いわば内戦状態に陥ったらしい。そんな有様では侵略戦争を維持する事など到底できず、かと言ってサンクダム領にこの期に乗じて帝国を侵略出来るだけの余力もない。結局、一〇年もの歳月を費やして死をばら撒き続けた第二次オリンピア戦争は勝者すら有耶無耶にしたまま終戦を迎える事となった。後に残されたのは、荒廃した大地に山と積み上がる死体と、その何倍にも積み上がった嘆きだけだ。
 自分の感じている感情も、どこにでも転がるありふれたものでしかない。皇帝を討ったところで何の感慨もなかったのは、戦場から戦場へと渡り歩く中でそんな事はとっくに思い知っていたからだろう。いや、その程度には自分の感情を突き放していなければ、耐えられなかったのかもしれない。『世界をやり直す』というその誘惑に。
 サンクダム領の各国は荒廃した国土の回復に加えて、植民地に取り残されたロムルス人への対応に奔走する羽目になった。およそ三〇〇年の時を超えて蘇った民族対立は新たな世界にも深々と爪痕を残し、その爪痕は往く当てのない難民を大量に生み出す。サンクダム領に取り残されたロムルス人に対する弾圧は概ね苛烈を極めた。それを歴史の繰り返しだと皮肉る事も出来ただろう。だが、事態は深刻だった。失脚した支配者階級に対する私刑が横行し、それは瞬く間に富裕層に――さらには中流階級からいわゆる貧民にまで広がっていく。生欲、傲慢、色欲、憤怒、嫉妬――憎悪の連鎖の中で無数の欲望が花開き、魔法と結びついては魔物となって猛威を奮う。そして、それは新たな憎悪を生み出していく。その狂気の中では、もはやサンクダム人もロムルス人もなかった。どこかで歯止めをかけなければ、サンクダム領そのものが崩壊するのは明白だった。だが、誰もそれを止められない。
 ロムルス人の保護を――そう訴えたのは、やはりサンクチュアリだった。世界の終わりから人々を守り抜き、世界を復興させたサンクチュアリに対する信頼は今も揺らがぬものだったが、それでも反発は強かった。その頃には難民の何割か――特に元軍人達が集まり、小規模なロムルス領を構築。皇帝の遺志を受け継ぐという名目で周囲との小競り合い起こしていたという事もある。それに、誰も彼もがエレイン――二代目ゴルロイスのような悟りを開ける訳ではない。誰もが過酷な赦しではなく、安易な狂気へと逃げ込んでいた。その時の自分もそれは変わらなかった。そして、その安易な世界の中に留まれば留まるほど、自分の中で何かが摩耗して行ったように思う。
 そんな世界の終わりは、思いのほか呆気なくやってきた。切っ掛けとなったのは摩耗した同類と、とある泣き虫との出会いである。過酷な環境の中で摩耗し、名前しか覚えていない、元奴隷の少年。そいつは泣き虫だったが、魔法使いとしての素質は高かった。別にだからという訳ではないが、自分はその少年を引き取り、養育する事になる。その少年に酷く懐かれたという事もあるが――結局のところ、この少年を救う事で自分が救われたかったのだろう。あとで振り返ればそう思わずにはいられない。
 同類――延々と続く殺し合いに摩耗しきったロムルス人の女傭兵。自分に殺してもらうために、わざわざやってきたそいつも似たような事を考えたのかもしれないし、そうではないのかもしれない。何にしても……どんな運命の皮肉なのか、その女は後にその少年と結ばれる事になる。それまでの道のりはお世辞にも平穏なものとは言えなかったが――幸せそうな二人を見て、確かに自分は救われた。今の自分があるのは、あの二人のおかげだと。そう思う。
 どれほど深い闇でも、光が差し込んでしまえば瞬く間に消えうせる。その光は小さくとても弱々しい。そして、どんな形で自分の前に現れるかも分からない。それでもその灯は必ずどこかにある。必ず見つけ出せる。……その光に背を向け、自ら闇の奥まで逃げ込もうとしない限りは。




「目が覚めましたか?」
 その言葉で、意識が覚醒した。いや、覚醒したというのは正しくはないのかもしれない。お世辞にも意識がはっきりしたとは言い難かった。
 それでも、その声の主が誰なのかくらいは理解できていた。
「リニス……」
 ほんの少し前までは、当たり前のように傍にいた存在。アリシアが可愛がっていた山猫の亡骸を寄り代に生み出し――そして使い捨てた私の使い魔。
「わざわざ迎えに来てくれたのかしら?」
 ここがあの世というやつなのだろう。信じてもいなかったが……今さらそれを受け入れない理由も思いつかなかった。すでに消滅した彼女に膝枕された状態で、どうやって否定しろと言うのか。幽霊にも足があるのか、なんてどうでもいい事すら考えていた。
「馬鹿な事を。今さら貴方なんて誰が迎えに来るものですか」
 ここまで面と向かって毒づかれたのはさすがに初めてだったが――思えば彼女はいつもこんな調子だった。あの子に対する私の態度や、我が身を省みず研究に没頭することに、いつも不満を示していた。その原因に思い至り、思わず苦笑する。
(私もあの子の事を笑えないわね……)
 彼女が母性などと言う『余計な感情』を持っていたからこそ……私が破棄した後も、あの子は真っ直ぐに育ったのだから。
「それよりもプレシア。アリシアからお話しがあるそうですよ」
 アリシア。その名前に、思わず飛び起きた。もしもここが死後の世界だというのなら、
せめて――せめてひと目だけでもあの子に……!
「ママ……」
 飛び起きた先に見えたのは、いつかあの子と過ごした草原。そして、あの時と同じように花に囲まれた我が子の姿だった。あの時と違う事があるとするなら、それは――
「ママのバカ!」
 今にも泣き出しそうな程に顔を歪め、小さな肩を精一杯に怒らせている事だろう。
「アリシア……」
 生前、ついに聞いた事がなかった我が子の怒りの声に思わず言葉を失う。それが死への恐怖への嘆きなら……それを味あわせた私に対する呪いの言葉なら――何故助けてくれなかったのかと糾弾しているのであれば、きっと耐えられた。けれど、
「どうしてあんなことしたの!? 自分までこんなになって……いろんな人に迷惑かけて……フェイトにもあんなに酷い事をして!」
 こんなにも真っ直ぐな怒り。それも、自分ではなく他人を思いやっての怒りには耐えられない。だが、考えてもみれば当然だ。私がこれまでしてきた事は、どれ一つとして優しいこの子が許してくれる訳もない。ああ、許されない事をしている自覚はあった。いつの間にか忘れていたとしても。だが、本当の意味で理解していなかったのだ。
「ごめん、ごめんなさい……」
 どうか。どうか、ボロボロと涙をこぼす我が子を抱きしめる事を許してはもらえないだろうか。その場に両膝をつき、誰とも知れぬ相手に懇願する。全てが終わってしまった今になって初めて、その愚かさと罪深さを思い知った私が今さら慈悲に縋れるはずもないと分かっていたとしても。
「あのね、ママ……。私は約束を守ってくれただけで、もう充分なんだよ?」
「約束……?」
「妹が欲しいって約束。守ってくれたでしょ?」
 アリシアが言っている妹。それは、あの子――フェイトだった。それくらいの事は分かる。分からない訳がない。
「ちゃんと、フェイトに謝って……それから、私の分も沢山優しくしてあげて。ね?」
「アリシア……」
 我が子の願いを叶えたいと思う。けれど、それはもう――
「大丈夫。ママはまだ戻れるよ」
 景色が滲む。私が泣いているせいではない。全てが薄れつつあった。
「待って! お願い、アリシア待って!」
 未練など、もうない。例え同じ場所には行けないとしても、どうかこのまま連れて行って欲しい。思わず手を伸ばし――
「もう! 約束したでしょ。フェイトは、ママの帰りを待ってるよ」
 待っている訳がない。あの子には、それほどに酷い事をした。
「だからしっかり謝るの。悪い事をしたら、ちゃんと謝りなさいって言ったのはママでしょ?」
 腰に手を当て、精いっぱいに胸を張って――それは、いつかの私の真似をしているのだろう。その姿さえ薄れて――遠のいていく。
「大丈夫だよ。フェイトはちゃんと分かってるよ」
 何の心配もしていない。そう言わんばかりに、アリシアは笑った。
「ママは本当は優しい人なんだって」
 身体が浮遊感に包まれる――いや、落下しているのだろうか。分からない。けれど、娘から遠ざかっているのは分かった。
「さて、それでは私は本来の主の元に帰りますね」
 傍らのリニスまでが、遠のいていく。彼女だけが、本来の主――飼い主だったアリシアの元に向かっていく。この楽園から追放されるのは私だけだ。
「リニス!」
「プレシア、貴方にはまだやるべき事があるでしょう?」
 それでも手を伸ばす私に向かって、彼女は言った。
「いい加減、真面目にフェイトと向き合いなさい。それが、アリシアの望みでもあるんですよ?」
 今さらどんな顔をしてあの子の前に立てと言うのか。そんな事は、誰よりもリニスが分かっているはずだった。
「だから言っているんです。フェイトと向き合うこと。それができない限り――」
 それは、きっと大切な事だったはずだ。意味は分からなかったが、きっと。
「アリシアを迎えに来ても、追い返しますからね」
 その言葉を最後に――私が望んだ世界は静かに消え去った。




 何か、大切な夢を見ていたような気がする。
「待って!」
 自分の叫び声で、目が覚めた。飛び起きてから、身体が鉛のように重い事に気付いた。もう一度ベッドに倒れ込みそうになった時、
「起きたか。元気そうで何よりだ」
 そんな声が聞こえた。何とか踏みとどまったまま視線を動かすと、ベッドサイドには黒衣を纏った魔導師の姿があった。
「貴方は……」
「御神光。まぁ、好きに呼んでくれ」
 子どもらしからぬ無愛想さで、その少年――光は言った。そのまま、彼はベッドサイドに置かれていたリンゴに手を伸ばし、やや不器用に皮をむき始めた。不器用なのは慣れていないからではない。顔の半分を覆うように包帯が巻かれているから――いや、片目がないからだ。
「ここは?」
 その少年が右目を失った理由。それは、私のせいだ。あの異形の魔法を使ったのをうっすらとだが覚えている。今さらと言えば今さらだが――気まずさに耐えかね問いかける。訊くまでも無かったが、他に話題が思いつかなかった。
「管理局の船だ。アースラとか言ったかな」
 まぁ、それはそうだろう。他に考えようがない。
「私もいよいよ年貢の納め時ね」
「まぁそうだろうな」
 その少年はあっさりと言った。そして、肩を竦めて見せる。
「もう逃げ場はない。素直にフェイトと向き合うんだな」
 それは――ある意味では予想通りのセリフだった。そして今さらでもある。
「今さらどうしろと? 管理局の手に落ちたなら、私達は無事では済まないわ」
『虐待を受け、強制されていた』あの子なら、あるいはまだ救いがあるかもしれないが。
「どうやら防がれたようだけれど……仮にも次元断層まで起こした以上、幽閉期間は百年は下らないでしょうね。もちろんその間にあの子に会う事は出来ない。私もあの子もさすがにそんなに長生きはできないわよ?」
「それに関しては問題ない。とっくに取引は成立している。奴らが契約を違えない限り、お前達が拘束されたとしても精々数年だ」
 言いながら、彼は何かしらの書類を見せた。どうやら、私の罪状らしい。そこに記されていたのは、ロストロギアの不正所持という文字のみ。次元断層のじの字もなかった。
「あの連中は、フェイトに対する虐待および管理局への攻撃、次元断層とやらについてはロストロギアに取り憑かれた結果という扱いにする気らしいな。ついでに、ロストロギアに付け込まれるきっかけになった事故についても再調査するようだ。あの女狐ども、軽く調べなおした時点で随分と憤慨していたからな。まぁ、お前が勤めていた会社の重役連中はそれ相応の末路を辿る羽目になるんじゃないか?」
 リンゴをいくつかに切り分けながら、いい気味だと言わんばかりに笑って見せた。いくつかの意味で、管理局はそれほど甘い組織ではないと言ってやりたいところだったが、取りあえず別の事を口にする。
「せっかくの好意だけど、それも無駄だわ。私はもう――」
 長くない。そう言おうとした私の口に、彼は切り分けたばかりのリンゴの一切れを強引に詰め込んだ。甘酸っぱい風味そのものは不快ではなかったが、とにかく状況が悪い。何とか咀嚼し飲み込もうとしている私に、その魔導師は新たな書類を突きつけてきた。
「それが最新の検査結果だ。体力と魔力の衰弱こそ予測されるが、それ以外は全くの健康体。それどころか、身体年齢は二十代程度に若返っているくらいだ。何か問題があるとは思えないが?」
 身体年齢はともかく――数値を見る限り、異常はどこにも見られない。それに、冷静に考えてみれば呼吸も全く苦しくない。常に胸元に張り付いていた不快感がない。
「何で……?」
 もはや魔法も通じなかったはずだ。ジュエルシードを用いてなお、症状を抑えるのが限界だった。
「どちらについて訊いているかは分からないが……何であれ、救済した相手がお前のような特異的な回復を見せるのは別に珍しくもない。まぁ、それで人生をやり直せということだろうな」
 前半は意味が分からなかったが――人生をやり直せという言葉だけは、何とか理解できた。確かに、その機会を与えられたのだろう。
「―――」
 それなら、もう一度娘を蘇らせるべく研究に戻るだけだ――そう思っていたのに、何故こうも途方にくれたような気分になるのか。ただ、何かが変化している。他の選択をしろと、そう言う事なのだろうか。……私に他の選択肢なんてものがあるとでもいうのか。
「ああ、だが。これだけは伝えておいた方がいいか」
 言って、彼は私の右腕に触れた。抵抗しないでいると、そのまま掌を上に向けて見せる。そこには、うっすらとだがZのような形をした奇妙な痣が浮かんでいた。
「簡単な魔法を使ってくれるか?」
 管理局に拘束された時点で、魔力は封じられているはず。そう言いかえそうとしてから、気づいた。魔力は封印されていない。しかし、
「痛ッ……ッ!」
 魔力を高めた途端、右手の痣が焼けるように痛んだ。それを見て、彼は肩をすくめる。
「やはり、干渉しあうか……」
「これは?」
 どうやら、この少年はこの痣が何なのか知っているらしい。
「魔物化した代償。……念のため確認するが、魔物化したことは覚えているか?」
「……ええ」
 力と引き換えに、自分の身体が暴走体より根の深い――さらに深刻な変化を起こしたことは覚えていた。それを魔物化と言っているのだろう。なるほど、はっきりとは覚えていないが言い得て妙だ。
「あれだけ派手に魔物化しておきながら、この程度の代償で済んだのは幸運だったが……魔物化した魔導師なんて前例がないらしい。それに、あの魔物化も俺がよく知る者とは微妙に異なっていたこともある。この分なら、しばらくは魔法を使わない方がいいだろう。正直、どんな影響が出るか俺にも分からないからな」
 その説明が理解できたかと言われれば、何とも怪しいが――それでも、しばらく魔法が使えない事だけは分かった。けれど、その程度のことは私が犯した罪を思えば安すぎる代償だった。ああ、なるほど。いつの間にか忘れていたが……それを罪だと素直に認められる程度には正気を取り戻しているらしい。
「さて、そろそろ本題に入ろうか」
 右手の痣を見つめていると、彼は言った。本題。その言葉の意味を理解する事を、束の間拒絶していた。その隙に彼が立ち上がり、ベッドを囲っていたカーテンを開け放つ。
「あ、あの!」
 その先には、確かにフェイトの姿があった。光に軽く促され、彼女は少しだけベッドに近づいてくる。けれど、手に届くほどには寄って来なかった。今までの仕打ちを考えれば当然だろう。
(今さらやり直そうなんてね……)
 虫のいい話だ。自嘲する私に向かって、彼女は思わぬ言葉を告げた。
「ごめんなさい!」
 ゴメンナサイ?――この少女は、一体何を言っているのか。全く理解できなかった。それとも、あの世界――第九七管理外世界に伝わる呪いの言葉か何かなのだろうか。馬鹿げた事だが、その瞬間は本気でそんな事を考えていた。
「私はいつも自分の事ばかりで……自分だけが苦しんでるんだって思いこんでて……かあ――あなたがあんなに苦しんでる事なんて全然知らなくて……」
 言葉が理解できない。この子は何故、私に頭を下げているのか。全く理解できない。今、一体私はこの子に何をされている? 何をさせている?
「それで、その、もしも私でよければ……これからも、貴方のお手伝いをさせて欲しいんです。あなたが、ちゃんと娘さんに会えるように――」
 理解が及ぶより早く。意識が追いつくより早く。身体はすでに動いていた。鉛のように重い身体が、その瞬間だけは重さを失ったような錯覚の中で――実際は、ほとんど這いずるような形だったとしても――その子の身体を抱きしめていた。
「ごめん、ごめんなさい……本当に……」
 あれだけの仕打ちを受けて――それでも何故この子が私に謝らなければならない? そんな事は間違っているのだ。この子は思いつく限りの言葉で私を罵って、ありったけの魔力を込めた魔法でも叩きつければいい。それだけの権利がある。なのに、何故?
「ごめんね、フェイト……」
 ひょっとして、まさか、今でも……この子は私のことを母親だと思ってくれているのだろうか。
「母さん……?」
 それに答えるように、この子は――フェイトは呟いた。
「まだそう呼んでくれるの?」
「もちろんだよ。あなたは私の母さんだもの」
 ああ、確かにそうだ。この少女がどんな生まれ方をしたとして――この子が母親と呼べるのは私しかいない。私の意思や思惑など関係なく、この子を生みだした時点で、私はこの子の母親になったのだ。そんな事に、ずっと気付かずにいた。ずっと気付こうとしなかった。気付きたくはなかったのだ。だが、もうそうは言っていられない。ああ、全く何て世界なのか。絶望に逃げ込む事すら許さないなんて。
「これからも、母さんって呼んで良い?」
  そして――彼女は恐る恐る言った。
 馬鹿な子だった。本当に馬鹿な子だった。私には勿体ないくらいに。
「ええ。ええ。……フェイト、あなたがまだそう呼んでくれるなら」
 まだ私をそう呼んでくれるなんて。本当に――私には勿体ないくらいの娘だった。こんな世界でも――こんな私でも、まだ生きていかなければならない。そう思えるほどに。




「いい加減離れろ」
「やだ」
 今朝方目覚めてから何度か――下手をすると何十度か――繰り返した会話を繰り返し、ため息をつく。そろそろため息をつくところまでを一括りにしてもいいのではないか。そんな事を考えつつ、呻く。
「お前はコアラか何かか?」
「いいでしょ、コアラ。可愛いもん」
 じゃあ、ナマケモノにしておくか――その言葉の代わりについたため息が目の前に広がる栗色の髪を揺らす。今朝方目覚めてから……いや、気を失っている間からか。がっちりとなのはに抱きつかれたままだった。例外はプレシアの病室に訪れていた間――その間なのはにはフェイトを迎えに行ってもらっていた――くらいなものか。俺の身体にしがみつくその姿はそれこそ木にしがみつくコアラか枝からぶら下がるナマケモノかといったところだ。雷が鳴っても離れそうにないその様子は、スッポンに例えてもいいかもしれない。……まったく、殺戮衝動の鎮静が上手くいっていなかったらどうする気だったのか。
(いや、それならどこにいても危険は同じか?)
 ともあれ、そろそろ離れてもらいたいところなのだが。心配をかけたことを加味しても移動のたびに抱き抱えて移動しなければならないのはいい加減面倒くさい。などと思っていると、
「ぐす……」
 鼻を鳴らすが聞こえた。ああ、せっかく泣きやんだと思ったらまた再燃したのか――などと思っていると、先手を打ってなのはが言った。
「だからこれは嬉し涙なの! 皆無事だったから!」
「……そうか」
 若干気圧されたのは否めない。逞しく育ってくれて一安心だ――取りあえず、それで自分を納得させておく。ともあれ、それならしばらく放っておくか。……まぁ、法衣を着たままだから多少鼻水がついても気にするようなことではない。
(それこそ、魔物由来の酸だの毒だのを浴びてもある程度は平気だしな)
 それらに比べれば鼻水なんて可愛いものだ。それに嬉し泣きなら好きなだけ泣かしてやる方がいいだろう。
 昨日の今日で艦の中はまだ慌ただしい様子だが、病室があるこの区画はその喧騒からもいくらか遠い。空調の音となのはの嗚咽だけがしばらく辺りを支配していた。
「ところで……」
 時間にすれば一〇分をいくらか過ぎたくらいか。ひとまず落ち着いた様子でなのはが顔を上げた。
「右目は何で治さないの?」
「ん? ああ……」
 右目――禁術の代償として捧げたそれはまだ修復していない。視界の狭さと距離感の曖昧さはあるが、普通に生活している分にはそこまで大きく気にはならない。……まぁ、慣れているという面もあるかもしれないが。記憶にはなくても『身体』が覚えている。
(身体が、っていうのも皮肉だけどな)
 この『器』――この『身体』になってからようやく二桁が過ぎた程度だ。その間に禁術を使った回数などまだ片手で足りる。だが、
「本来禁術の代償として捧げた部位は取り戻せないんだ。だから、最後の切り札になる」
「でも、その――身体は治ったでしょ?」
 皮膚と心臓の事だろう。まぁ、その辺りは治しておかないと深刻な負担となる。特に心臓は――いくら不死の怪物とはいえ、呪血の循環が滞ればその不死性……というより、回復力は大幅に減弱するのだ。だから早急に修復する必要があった。しかし、
「まぁな。だが……覚えているか? どうやって禁術の代償を修復したかを」
 あの状況下で、リブロムを『使えた』のはおそらくなのはしかいない。ならば、心臓を修復したのはこの娘だろう。
「えっと、確かリブロム君の涙で……」
「正しくは雫だな。まぁ、涙に見えるだろうが」
 肩をすくめてから、一応訂正しておく。
「あの雫がないと修復できないんだ」
「ないの?」
「ああ。あれはちょっと特殊な代物でな。現実で捧げちまった代償を取り戻すだけの量を精製するには少し時間と手間がかかるんだ」
 追体験中に使った程度であれば、雫もそれほど必要ない。だが、現実で使った場合は話は別だ。特に今回はエクスカリバーなんて物騒な禁術まで使ってしまった。心臓のような重要な器官を『取り戻す』にはそれなりの代償が必要だった。
(暇を見つけて追体験しないとな)
 そして、それが雫の精製に必要な代償だ。まぁ、そうは言っても右目だけならそれほどの時間はかからないはずだが……。
(この『器』でエクスカリバーなんてまともに使える訳ないんだよな)
 だが、それは仕方がない。それは人間であるために必要な――人間として当然の代償だ。エクスカリバーに限らず、人間の身であの魔法――禁術を使えば必ずああなる。人間の証のようなものだ。人間でいたいなら、甘受するより他にない。
「そうなんだ……」
「心配するな。数日かかるかもしれないが、取り戻せるのは間違いない」
 ともあれ、しゅんとしてしまったなのはに、慌てて付け足しておく。
「ホントに?」
「そんな事で嘘はつかないよ」
「うん。じゃあ、『魔物』の方はどうなったの?」
「殺戮衝動の事か? なら、落ち着いていなければ今頃は大暴れしているよ」
 どうやらあのじゃじゃ馬どももこの結末に納得してくれたらしい――右手を見ながら、声にせず呟く。あるいは恩師達が宥めてくれたのかもしれないが。
(まったく。つくづく人を振り回してくれる)
 事態を世界の終わり寸前までこじれさせてくれたあの魔石に向かって、声にしないまま毒づいていると、なのはが言った。
「じゃあ、もう大丈夫、なんだよね?」
「ああ。そうだな。もう大丈夫だ」
「良かった」
 久しぶりになのはが笑っているところを見た気がする。別にだからという訳でもないが……まぁ、ようやく一息つける。こうしてなのはの髪を撫でていると、その実感がわいてきた。やれやれ、まったく。本当にどうにかなって何よりだ。

 ――そして今日も、世界は続いていく



 
 とまぁ、そんな訳で。色々と綺麗に収まったはずなのだが――
「それで。何でお前らは話を綺麗に終わらせてくれないんだ?」
 翌日、何故か俺はアースラの会議室で机に頬杖をつきながら呻いていた。ちなみに同席しているのは、なのは、リブロム、ユーノ、テスタロッサ一家と、ハラオウン一家、あとは何とかいう女局員だった。
「仕方ないでしょう? 次元断層の影響で安全な航行ができないんだから」
 あの石ころ最後までロクな事をしない。やはり『何でも願いを叶える』代物は俺にとって天魔か何かに違いなかった。折角だから一つくらい貰っておこうかとも思ったが、この分ならやめておいた方がよさそうだ。余計な面倒ごとは避けるに限る。
「それは分かった。だが、何で俺がお前らと仲良くお話ししなけりゃならないんだ?」
 あっさりと言うリンディを睨みかえし、毒づくように告げる。自分達はあくまでお互いに利用し合ったに過ぎないし、俺はこれ以上この連中に関わる気などない。なのに何故、ここで面と向かって話なんぞしなければならないのか。
「彼女達の今後について、色々と詰めておきたいというのが理由の一つね」
 何故か緑茶に砂糖を投入しながら――この器に宿って初めて緑茶というものを飲んだ俺でもそんな暴挙はしなかったのだが――リンディが白々と言った。
「それはもう済んでるはずだ。確か全部あの魔石のせいにするんだろう?」
 口裏を合わるためにある程度の話は聞いている。だが、報告用の細かな詳細は知らないし、別に知りたくもない。もちろん、俺達に悪影響がない限りは、だが。
「そっちじゃなくて。代償だったかしら? それの影響や治療についてよ。それに裁判終了後の事もあるでしょ」
 なるほど。それが餌か――同席するテスタロッサ親子とアルフを横目に見やり、思わず舌打ちした。
 ちなみにテスタロッサ親子はお互いに消耗しており、昨日の会話以降は再び検査やら治療やらを受けていてロクに会話はできなかったらしい。そのせいか、今朝になって改めて顔を合わせてから今に至るまで、どうにもぎくしゃくしているように思える。とはいえ、その場の勢いだけで解決するような問題でもないだから、仕方がないと言えば仕方がない事だ。時間をかけて解き解していくより他にない。と、それはともかく。
 今はリンディの質問に集中した方がいいだろう。油断していると何を探りだされるか分かったものではない。
「残念だが俺も魔物化した魔導師の相手をするのは初めてなんでね。お前達に教えられるような事は何もないな。それに被った代償は基本的に治療できない。精々鎮静して共存していくしかないな。まぁ、プレシア女史の場合は色々と特殊な状況下だったから、あるいは完治も目指せるかもしれないが……いずれにせよ未知数だと言わざるを得ないな」
 これは嘘ではない。むしろ、俺としても早急に対処しておかなければならない課題の一つに数えていいほどだ。そういう意味でも、この一件は決して無駄ではない。
「それが、彼女達を手元に置いておきたい理由?」
「別にお前達のお膝元では生活したくないと言ったのは俺じゃあないんだがな」
 誓って俺が唆した訳ではないのだが――テスタロッサ親子は、裁判が終了次第……身柄の自由が保障され次第、海鳴市に越してくるつもりであるらしい。戸籍云々は義姉か士郎辺りに任せればいいだろう。それに、確かに俺にとってもある意味では都合がいいというのも事実だ。だが、それ以前に、
(まぁ……そうだな)
 もう一人の可愛い妹分の成長が傍で見られるというのは、この上ない幸運だった。
「まぁ、それはそうなのだけどね」
 肩をすくめるリンディから、プレシアが気まずそうに視線を逸らした。彼女が娘を失う事になった――さらに全責任を押し付けられた件の事故については、リンディが再び探りなおしているらしい。まぁ、プレシアが勤めていた会社は管理局の上層部とも付き合いが深く、さらにミッドのお偉方の隠居先――最近覚えた言葉で表現するなら、天下り先の一つでもあるらしい。それを聞くだけで叩けば叩くだけ色々と埃が出てくる事は疑いない。
 ついでに、間接的にとはいえ、ある意味では娘を殺した張本人どもが幅を利かせているような場所には帰りたくない。そんなプレシアの気持ちが今さら分からない訳もない。
 ちなみに、フェイトもアルフも海鳴市に越してくる事に特に不満はないようだ。このまま滞りなく話が進めば、近いうちに近所が少しだけ華やかで賑やかになるだろう。
 それに関して、俺がとやかく言う事は何もない。むしろ、禁術を三回も使ってようや 救い出した彼女達を得体の知れない組織にかすめ取られる方が心外だ。
(もっとも、彼女達こそが管理局が介入してくる切っ掛けになりかねないんだが……)
 リンディやクロノに関して言えば、多少は信用していいと思っている。だが、管理局全体を信用する気にはどうしてもなれなかった。理由は自分でもよく分からないが――そもそも俺自身が『組織』というものにロクな印象を持っていないからだろう。だから、彼女達の身を管理局に預けておくにはどうにも不安が残る。ここまでやって最後の詰めを誤るのも間の抜けた話だ。やるなら徹底的に。最も安心できる形でケリをつける。
「それにしても、病気を治すどころか若返らせるなんて、一体どんな魔法を使ったの?」
「何だ。若返りに興味があるのか?」
「それはもちろん。女性にとって若返りは共通の夢よ?」
 冗談交じりにリンディは言った……が、それは申し訳ない。その夢は随分と前から何度も叶えている。もっとも、そんな事を言ったが最後、余計面倒な事になるのは明確だった。ここは敢てこの女が訊きたいであろう事を素直に答えてやるべきか。
「プレシア・テスタロッサ女史が『違法研究』に着手した――いや、アリシア・テスタロッサが死亡した事故が何年前に起こったかは知っているだろう?」
「ええ。今から考えて二六年前よ」
「当時の彼女の年齢も把握しているか?」
「もちろん」
「それを踏まえて、今のプレシア女史を見てくれ。何かピンと来るものはないか?」
 もっとも、プレシア自身が相棒や桃子、リンディ並みに――下手をすればそれ以上に若作りなので、俺自身いまいち自信がないのだが――と、そんな事を思っていると、リンディはあっ、と小さく声を上げた。
「ひょっとして、その当時まで若返っているというの?」
「まぁ、それよりいくらか若いようにも思えるが……それが正解だろう。魔物化した人間を救済した場合、大体の場合転機となった時点の姿に戻る。ついでに言えば、原因となったもの――例えば障害や病も癒える事が多い。そうだな。例えば自分で切り取って料理して人に食わせちまった料理人の舌が回復した事例もあるくらいだ」
 途端、コーヒーに口をつけていたクロノがむせ込んだ。他の連中にもなかなかの形相でこちらを見てくる。別にだからという訳でもないが、もう一言付け足しておく。
「それに若返りが起こったという事例も知っている」
 もっとも彼女の場合、単純な若返りとも言い難いが。だが、あの薬師がどうしてそんな『体質』になったかを説明しようとすると聖杯について触れなければならない。それはいくらか都合が悪いし、今のところは本題からも外れる。
(とはいえ、そうそう過信できるものでもないが)
 いずれにせよ、救済とて完璧ではない。プレシアを横目に見ながら、声にせず呟く。
 救済によって魔物と化した肉体を戻す事が出来たとしても、その精神までは戻せない事も多い。だからこそ、救済したとしてもその半数は再び魔物化すると言われている。旧世界のアヴァロンですら把握していた以上、信頼性のある数値だと考えていいだろう。だからこそ、新旧問わずサンクチュアリは救済後に醜人――つまり、元魔物の人間相手の『人生相談』にも随分と力を入れていた。それでも堕ちる奴は堕ちるのだから、エレインの理想を叶えるのはなかなか難しいようだが。
 ともあれ、プレシアが再び堕ちてしまわないようしばらく見守る――場合によっては、もう少しだけお節介を焼く必要はあるだろう。そのためにも傍にいてもらわなければ困る。とはいえ、それを管理局に告げる訳にはいかない。
 話を聞く限り、管理局に魔物化に対処する術がないのは明白だが……それでも、再び魔物化する危険がある、なんて事を伝えた場合に連中がどんな判断を下すかは大体見当がつく。余計な横やりは誰のためにもならない。ここは黙っておくのが賢明だ。
「……何と言うか、凄いとしか言いようがないわね」
 取りあえず気分を持ちなおしたらしいリンディが呻いた。
「そうか? 単純に人生をやり直せる最低限のところに逆戻りしただけだと思うがな」
 それに。もっと深刻な代償が残ってしまえば――誰が見ても分かるような代償が残ってしまえば、やり直しも難しくなるのだ。とはいえ、それは周囲の環境次第でどうとでも変わる。……その環境を整えるために、リンディにはもう一働きしてもらう事に決めていた。もちろん、勝手にだが。
「ある一定の時点まで肉体の状態を巻き戻す。それがあの魔法の効果なのか? もしそうだとするなら、プレシア・テスタロッサは定期的に検査を受けた方がいいのか?」
 言ったのはクロノだった。しかし、ずいぶんと味気のない表現である。救済というのは、そう単純なものでもないのだが。
「健診は受けておいて損はないだろうが……単純に巻き戻している訳じゃあない。さっきも言った通り、魔物化してしまった原因というのも癒えるからな。例えば……」
 さて、誰を例に出すのが一番分かりやすいか。何人もの顔が浮かんでは消えて――
「そうだな。昔救済した中に、生まれつき身体の弱い男がいた。そいつは特に視力が弱くてな。生まれつきほとんど何も見えなかったらしい。で、そいつが青年になってから、甲斐甲斐しく世話をしてくれる女性と巡り合い、恋仲になった訳なんだが――」
 実際のところ、魔物化する要因には概ね悲劇が付きまとう。まぁ、うっかりすると喜劇にも見えるようなものも稀に混ざっているが。
「恋人になったのに、どうしたの?」
 先を促したのはなのはだった。正直失敗したと思う。まだウチの妹には少しばかり早い話だった。
「まぁ、ごく当たり前の欲望が沸き起こったのさ」
 仕方がない。多少改ざんして話すとしよう。決めてから、口を開く。
「ごく当たり前の欲望?」
 言ったのはフェイトだった。惚れた腫れたの話に食いついてくるあたり、やはり年頃の少女という事だろうか。
「何だと思う?」
 少し好奇心が刺激され、思わずそう言っていた。
「えっと、手を繋ぎたいとか?」
「一緒にどこかへお出かけしたいとか?」
 なのはもフェイトも実に可愛らしい答えを返してくれた。二人にはぜひ成長してもそのままでいて欲しいところだ。と、それはともかくとして。
「相手の姿を見たい、だよ。最初に言っただろ、目が見えないって」
 そこまでは、ごく当たり前の事なのだ。さらに言えば、それ自体は聖杯を使わずとも叶いつつあった。それこそが、悲劇の始まりだったとしても。
「まぁ、それを思い詰めちまったんだろうな。結局、そいつは魔法に溺れ魔物化した」
 本当の引き金となったのは、その女性の裏切りだった。容姿に自信のない彼女は、彼が目が見えるようになりつつある事を恐れ、思い詰めるあまり毒を盛った。命の限界を悟った男は、より強く彼女の姿を見たいと――せめて、最後にひと目見たいと思い詰め……命が尽きる直前に事実を知った。だが、彼を本当に絶望させたのは、おそらく彼女が毒を盛っていたという事実ではないだろう。容姿を愛していたのではないと――その心を愛していたのだと、それを信じてもらえなかったことだ。
「それを、貴方が救った?」
 プレシアの言葉に頷く。俺が救済したのは間違いない。だが、それはあくまでも追体験の中で、だ。俺が受け継いだ世界で――その過去で恩師が実際にどんな選択をしたのかを知る事は、もはやできそうにない。
「まぁ、一応は。だから事情を知ってる訳だが……」
 ああ、全く。思い出すだけでも憂鬱になる。何せその魔物を救済したところで、それはもう何の救いにもならないのだから。……もっとも、そんな事は別に珍しい事でもないのだが。似たような話ならいくらでもある。
「俺が救済してからも、男の視力は回復していたよ。もちろん、病弱だった身体も癒えていた。まぁ、少なくとも人並み程度には。それらは全て、魔法に溺れた時点で得たものにも関わらず、だ」
「確かに、それは単純な巻き戻しではないわね」
「うん。でも、良かったね。目が見えるようになったなら、好きな人の事もちゃんと見えたんでしょ?」
 嬉しそうなフェイトの言葉に、猛烈な後ろめたさを覚えた。
「ああ、そうだな……」
 我ながら酷い嘘をついたものだ。良かったなどと、お世辞にも言えない。
 何故なら。魔物化した彼が最初に見たものこそが、自らの視線に宿った毒に侵され血反吐を吐いてのたうつ憎い憎い……最愛の女の死に顔だったのだから。
 愛憎劇。それは多くの場合、常軌を逸脱した行動を伴う恐ろしいものだが――全てが終ってしまえばどこか物哀しい。だから、きっとこの結果はきっと最良の結末の一つだったのだと思う。例え誰に誇れるものでなくとも、不完全で不格好な救済でも――これ以上は誰も何も失わなかったのだから。
「まぁ、それから先はその男も特に身体を壊す事も無く長生きしたからな。プレシア女史が病を再発させる可能性は低いだろう。もっとも、さっきも言った通り、健診を受けておいて損はないが……それより先に、自分で自分の身体を顧みるのが先決だな」
 正確に言えば、長生きしたかどうかは知らないのだが――それでも、魔法使いとして活動した『記憶』が残っていた以上、相応に身体は丈夫になったはずである。
「ええ、そうね。今度はちゃんと自分の身体も大切にするわ」
 どうせ我が身も省みず研究に没頭した結果だろう?――そう言ってやると、プレシアは視線を逸らしながら言った。




 一通りの説明……といっても、例えば救済について具体的に何かを説明した訳でもないが、一応の義理は果たし、それなりの満足を覚えた頃の事である。
「プレシア女史の身体については分かったわ」
 どうやら、この女狐は満足していないらしい。これ以上何を訊かれる事やら。
「それで、貴方の『魔物』はどうなったの?」
「愚問だな。あれから何日経ったと思ってる?」
「まだ二日目よ」
「二日もあれば充分だ。堕ちるならとっくに堕ちている」
 つまり、殺戮衝動は完全に鎮静化したという事だ。一時は随分と焦らせてくれたが、どうにか解消できたらしい。
「なら、その『魔物』について詳しく話してもらえるかしら? ジュエルシードの脅威が取り除かれた以上、第九七管理外世界に残された脅威はその『魔物』だけだもの。念には念を入れておきたいのよ」
 なるほど、そう来たか――言葉にしないまま、それでも皮肉たっぷりに呟く。さすがに場馴れしているだけあって、実に面倒な方向に話を誘導してくれる。
「別に『魔物』ってわけじゃあないんだけどな」
 確かに、『魔物』の魂とも縁がない訳ではない。純粋な魂という訳ではないが、それこそ世界を蹂躙できるほど凶悪な代物を宿している程だが……殺戮衝動の原因となったのは、間違いなく人間の魂である。それを『魔物』などと言われるのは心外だ。しかし、その誤解を解こうと思うなら――
(さて。どこから説明するか)
 さらに重要な事として、どこまで説明するべきか。何せ、事は俺の素性――つまり、何故俺が不死の怪物となったのかにも関わってくる。つまり、『奴ら』についても話さなければならない。
(連中は消滅した訳じゃあないからな。切っ掛けがあればいつでも姿を現す)
『奴ら』がこの世界に介入できないのは、自分という『楔』が存在するからに過ぎない。幸い『器』が変わっても『楔』の力そのものは弱っていないようだが……それとて完全無欠の力などではない。『世界』が大きく揺らがされれば、その隙間を縫って『奴ら』は入り込んでくる。そういう意味では、今回の一件はかなり危なかった。何せプレシアがあの魔石を従えていた――世界が引き裂かれかけたあの瞬間、ほんの僅かだが確かに『奴ら』の気配を感じたのだから。
「……かつて、俺の恩師が生きていた世界には、魔法使いによって構成される組織が三つあった。生贄を掟とする秘密結社アヴァロン。救済こそ正義だとする信仰組織サンクチュアリ。そして、その選択を拒むグリム教団。この中で、恩師はアヴァロンに所属する魔法
使いだった」
「生贄を掟とする?」
 首を傾げたのはリンディだった。どうやら、そこから説明しなければならないらしい。いや、単なる確認か。なのは経由で多少はこちらについて知っているはずだ。
「恩師の故郷では魔物化――つまり、プレシア女史の身体に起こったような変化が身近なものだったんだ。その脅威は今さら言うまでも無いだろう。それに対応できるのは魔法使いだけだった。倫理的にも、能力的にも」
 そこでいったん言葉を切り、反応を待つ。全く事情を聞いていないなら、倫理的という意味も理解できまい。だが、それに対する質問はなかった。やはりある程度は聞いているらしい。念のため視線でなのは達に問いかけると頷いた。
「魔物を仕留めると、多くの場合は元の姿に戻る。だが、それだけじゃあ不完全だ。そのまま放置すれば、力を取り戻し次第また魔物に戻る。当然そのまま死亡する事もあるが……例えその場合でも、魔物化した魂は復活してくる事がある。もちろん、再び魔物として。だから、魔法使いはそこで一つの選択をしなければならない。つまり、その元魔物の魂まで葬るか。それともその過ちを赦すか」
「それが生贄と救済、ですか?」
 言ったのはユーノだった。心なし顔色が悪い。当然の反応だろうが。
「そうだ。救済はやって見せた通りだ。生贄は自らの右腕に魂を取り込み、封じ込める。グリムはこの選択を運に任せた――つまり、どちらが起こるかをその本人の運命に委ねる手法を生み出しただけで、魔物化した人間の末路はこの二つのどちらかしかない」
「生贄か救済。あるいは運命。その決断が、三組織の違いと考えていいのかしら?」
 話が早くて助かる。ついでに言えば、その根底にある神話に触れなくて済むというのは非常に助かる。余計な事は言わないまま、説明を先に進められる。
「簡単に言えばその通りだ。もっとも、魔法使いも人の子だからな。必ずしもその限りって訳じゃあないが」
 掟破りには粛清を――そんな指針が決まる程度にはアヴァロン所属の魔法使いも救済していた訳だ。恩師とて少なくない人数を救済していたはずである。……もっとも、それが俺が受け継いだ世界で下した選択だったのかは、今となっては確かめる術もないが。
「当時、最大勢力だったのはアヴァロンだった。……少なくとも、当時世界の覇権を握っていたロムルス帝国から公的に魔法結社として認められていたのは、その組織だけだった。結果として、アヴァロンは魔法使い……ひいてはセルト人の社会を統治していたとも言える。だから、魔法使いとして生きるならこの組織に所属するのは一般的だった。サンクチュアリやグリムの構成員の何割かも元々はアヴァロンに所属していたはずだ。だからまぁ、魔法使いの家系に生まれた恩師がアヴァロンに所属したのは別に不思議でもなんでもない。ごく当たり前の結果だ」
「つまり、その仕事中に件の『魔物』を取り込んだという事かしら?」
「いや、違う。そもそもこの場合『魔物』というは殺戮衝動に対する比喩にすぎない。原因は別……つまり、魔物化した魂を取り込んだからじゃあない」
 考えてみれば、恩師はそういった代償には苦しめられていなかったように思える。殺戮衝動に紛れて分らなかっただけかも知れないが――あるいは彼女の『加護』があったのかもしれない。
「それなら何故?」
「アヴァロンに加入するためには、試験に合格しなければならない」
 途端に、リンディが困惑したような表情を浮かべた。質問に対しての返答ではないと思われたのだろう。とはいえ、それも一瞬の事だったが。
「どんな試験なんですか?」
 恐る恐ると言った様子で訊いてきたのはユーノだった。人間の姿になっても野生の勘は健在なのだろうか。なかなかいい勘をしている。
「二人一組で、指定された魔物を見つけ排除する事だ。それがまず第一段階となる」
「魔物をって……。それってもう試験じゃないんじゃないかい?」
 呆れたように言ったのはアルフだった。
「それは間違いじゃないな。実際、試験の参加者の半数以上は死に至る」
 そう答えてから、多分彼女の中に生じたであろう誤解を解く事にした。
「もっとも、いきなりそう凶悪な魔物の相手はさせないさ。魔物化して日が浅い、もしくはあまり狂暴ではない魔物が指定される。道中で下級魔物――人間以外の動物が転じた魔物を相手にそれなりに経験を積み、魔力を高めておけば何とかなる程度だ」
「それでも、半数が死亡するというのはさすがに……」
 クロノが顔をしかめた。危険すぎると言いたいのだろうが……残念ながら、彼が考えている理由は正解ではない。試験はもっと過酷なものだ。
「最大の死因は魔物との交戦じゃあない。だからこそ、半数を下回る事は絶対にない」
「絶対にないだって?」
 怪訝そうな顔で――そして、どことなく警戒した様子でアルフが首を傾げた。もっとも、他の連中も似たようなものだ。
「試験の第二段階。それは、旅を共にした同行者との殺し合いだ。それに生き残り、相手を生贄とした方がアヴァロンに正式に加入できる」
 だから、生存者が半数を上回る事は絶対にあり得ない――告げると、全員の表情が凍りついた。多分、俺も初めてその記述を読んだ時はこんな顔をしていたのだろう。
「……何故そんな事を?」
 しばらくして、リンディが努めて冷静さを保ちながら呻いた。
「さぁな。魔法使いから人間性を削り取るためか。あるいは、団結してロムルス帝国に反乱を起こす事を防止するためか……まぁ、そんなところじゃないか?」
 あるいは、掟に――その後の戦いに対する覚悟を植え付けるためかも知れないが。もっとも、何と説明しても彼女達から同意を得ることは難しいだろう。実際のところ、俺自身も理解できるかと言われれば難しい。
 ただ、情を通わせた人間を生贄とする事は、その後の殺人に対する抵抗を削ぎ落とすのは間違いない。それに関しては、恩師とその相棒を生贄とした俺も例外ではなかった。
「今さら言うまでも無い事だろうが……恩師はその試験に合格した」
 ともあれ、今必要なのは理解を得る事ではない。説明を先に進める事にした。
「殺戮衝動は、その際に被った代償だ。本来の持ち主は彼の相棒だった」
 小さくため息をつく。彼女の事を思い出すのは、少しだけ気が重い。彼女の姿を思い起こせば起こすほど、胸が引き裂かれるような痛みを覚える。それは恩師の感情だと分かっているが――例えそれが他人の記憶であっても、辛い記憶は胸を締めあげるものだ。
「ひょっとして、その人がニミュエさんなの?」
 言ったのは、フェイトだった。思わず言葉に詰まる。その言葉は正しい。正しいからこそ、困惑させた。そんな話を、俺は彼女にしたか?
「その通りだが……そんな事を話したか?」
「う、うん……。確か」
 フェイトは曖昧に頷く。俺が話した訳ではないのは明白だった。何故彼女がその名前を知っているのか。気にはなるが――今は後回しにすべきだろう。
「彼女こそが恩師の最初の相棒であり、殺戮衝動の持ち主……生みの親だ。彼女を生贄とした事で、その衝動も恩師に受け継がれる事になった」
「そのニミュエさんは誰を怨んでいたの?」
 次に言ったのはリンディだった。どうやら、その由来についてはある程度聞いているらしい。情報の出所はリブロムだろう。
「母親だ。何で今さらあの衝動が目覚めたのか。その理由も、そこにある」
 舞台裏を暴くのはいささか無粋のように思えるが……どうやらここにいるのは無粋者ばかりであるらしい。それなら仕方がない。
 それなら精々、劇的な物語に仕立て上げてやるとしよう。

 
 

 
後書き
色々とありまして、ちょっと変則的な更新日となりました。
ともあれ、かなり遅れましたが今週中に更新できてホッとしています。これで何とか年内に無印編は完結できそうです。
テスタロッサ家の問題にも決着がつき、無印編中に決着をつけなければならないことは大体済んだかなと思います。そろそろA's編を書き進めていかないと大変まずいのですが、さて……。

といったところで。
それではまた、来週更新できる事を祈って。



 
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