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Magic flare(マジック・フレア)

作者:とよね
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第8話 草原

 ―1―

「殺した」
 背後で声がした。クグチは振り向く。灯台の中で、いつの間にか、スーツを着た中年の男が床に蹲っている。
「向坂さん」
「僕は、強羅木君を」
 向坂は、掌で顔を覆う。
「殺してしまった……」
 心臓がどくんと強く脈打ち、クグチは身構えた。ハツセリに背を向け、灯台の闇にすすり泣く向坂と向き合う。
「どういうことですか」
 一瞬、この手で撃ち、消してしまう直前の、非常階段から転落していく向坂ルネの顔が脳裏をよぎった。彼の顔に刻まれた恐怖。自分の選択への後悔。あの縋るような目。無力に開かれた唇。
 次いで復讐という語が、頭に浮かんだ。まさか。クグチは首を横に振る。
「向坂さん! どういうことなんですか」
 語気を強める。向坂は顔を隠したまま喋らない。クグチは彼に掴みかかろうとした。
「無駄よ」
 橋からハツセリが声をかける。
「彼はいない。向坂君はもうこの世界には存在しないの」
 向坂の肩に伸ばした指は、何にも触れずに彼の肩に埋もれた。慌てて指を引っこめると、その姿はホログラムのように消えた。
 橋では、長い髪を海風に任せて、変わらずハツセリが立っていた。クグチは止めていた息を吐き出し、意識して体の力みを抜いた。
「……茶番にはうんざりだ。何をしに来た?」
「思い出しにきたの」
 ハツセリは謎めいた笑みを見せる。その雰囲気に飲まれまいと、クグチは深呼吸をした。
「何をしに俺の前に現れたかを聞いてるんだ」
「思い出したことを教えに来たの」
「要点だけ言え。お前の遠回しの表現にはうんざりだ。用件は何だ。何を言うために、俺の前に現れた」
「人間は科学の力で幽霊を作った」
 いつか廃庭園で聞いた言葉を彼女は繰り返す。
「そして、世界を殺した。世界そのものを幽霊にしてしまった」
「だから?」
「ここは幽霊の世界よ。この世界は現実じゃない。ここに来た時それを忘れ、ここで暫く生きてみて、それを思い出したの。そのことを、あなたに伝えに来た」
 クグチは馬鹿にして鼻を鳴らした。
「自分が生きているのか死んでいるのかもわからない奴に、よくもそんなことが言えるな」
「今ならわかるわ。私は生きていて、あなたは死んでいる」
「馬鹿言え」
「逆に言えば、あなたが存在できる世界なら私は存在できない。そうね。この世界には、私は本当の意味で存在してはいない」
 クグチは灯台を出て歩み寄り、ハツセリの手首を掴んだ。
 風で冷えきっているものの、しっかりと脈打っている。なめらかな肌触りだった。だから腹が立った。
「……生きているじゃないか、ハツセリ。桑島さんって言ったほうがいいですかね? あなたは生きている! 電磁体でも幽霊でもない」
「人間と、人間によく似たもの」
 ハツセリ、あるいは桑島メイミは、手を振りほどこうともしなかった。
「人間と人間に似せて作られたもの。もしそれぞれが、自分の来歴を忘れたら、記憶をなくし、自分が誰かを忘れたら、果たしてその区別がつくのかしら」
 ハツセリは微笑み、畳みかける。
「あなたに、人間と電磁体の区別がつく?」
「当たり前だろ」
「では、私を何だと思う?」
「人間だ」
「あなたはどう?」
「人間だ、もちろん俺だって。決まってるじゃないか」
 クグチはハツセリの細い体を引き寄せた。
「俺は屁理屈をこねに来たんじゃない。ハツセリ、強羅木はどこだ」
「消滅した」表情を消し、「真実を証明する為に、彼はそうした」
 手に力が入った。
 するとハツセリの手首の感触が消えた。
 ハツセリが消えた。
 クグチは一人だった。
 波音が、世界中の人の声を打ち消す。
 風が強く吹いて、背後で灯台の扉が音を立てて閉まった。

 呆然と歩いていると、いつしかあの喫茶店の前に立っていた。中から伊藤ケイタが出てきた。彼はクグチに気がつくと、店の扉の前で動きを止めた。二人は見つめあった。
「どうだった?」
 クグチは力なく応じた。
「……誰もいませんでした」
「そっか」
 彼はぶらぶら歩いて来て、
「まあ、気を落とさないで」
 できるだけ優しく話しかける。
「僕も、出来る限りのことをするよ。強羅木君のことは一緒に探そう」
「伊藤さん」
 クグチの声の暗さに、伊藤ケイタが緊張する。
「何?」
「電磁体って何ですか?」
「何って?」
「何でそんなものを作ったんですか?」
 伊藤ケイタは黙っている。質問の意味がわかりかねるのだろう。
「何で、て……」
「何が、電磁体を作らせたんですか?」
 違う。
「何が電磁体を必要としたんですか?」
 クグチは言葉を探す。
「誰が――」
 訊きたい内容に最も迫る言葉を、ついに見つける。
「人間の何が、人間によく似たものを必要としたというのですか!?」
 伊藤ケイタがぎょっとして身を引いた。
 二の腕に鳥肌が立ち、クグチは何かよくわからないものに対し、しかし確かに深く、絶望した。
 こんなことを聞きたくなどなかった。
 こんな疑問を抱きたくなかった。
 伊藤ケイタには答えられない。こんな質問には答えられない。恐らく、誰にも。
 クグチは耐えきれず逃げ出した。赤い空の下で、誰にも会わず逃げた。
 息切れして、もう立っていられない、それほど疲弊した時に、狭い路地で壁に背を預け座りこんだ。クグチは震える手を見つめた。ハツセリの感触は生々しく残っている。
「ハツセリ!」
 けれど、彼女は消えてしまった。その言葉の通り、存在しないものとして。
「俺は」
 どこにもいないハツセリに、クグチは尋ねる。
「俺は誰だ?」
 この声が、ハツセリにも強羅木にも向坂にも届かないことはわかっている。
「俺は何だ?」
 あなたに、人間と電磁体の区別がつく?
 記憶の中のハツセリが、どこか意地悪く問う。
 それに答える方法を、クグチは一つだけ知っていた。
 腰のUC銃を掴む。
 銃口を、自分の顎に突きつけた。
 引鉄を引いた時、自分が人間であるならば、何も起こらぬはずだ。そうでなければ消滅……自分自身の中に渦巻く問いの答えを得る間もなく消える。息が弾んできた。目が見開かれ、半開きになった口から乾いた息が出入りする。
 クグチは覚悟を決め、目を閉じ歯を食いしばり、引鉄を引いた。
 聴覚が消えた。
 が、それは、単に強い緊張のせいだった。
 何も起こらなかった。
 固く目を閉ざしたまま、自分が引鉄を引いたままでいることを、確かに感じていた。
 耳に、鳥のさえずりが戻ってくる。
 坂の下の大通りの人の声、開け閉てされる家の扉や、誰かがゴミ箱を蹴飛ばす音が聞こえてきた。
 クグチは生きていた。
 それを確かめ、UC銃を握りしめたまま、膝を抱え、じっとうなだれた。もはや何も感じていなかった。もう二度と感情も、欲も、心と呼べる一切のものが戻ってこないかもしれないと思った。
 誰かが影を伸ばして、歩いて来た。クグチは顔を上げた。伊藤ケイタだった。
「どうしたんだい」
 その問いを拒み、よろよろと立ち上がった。全身が冷や汗まみれだった。
「何でもないんです。何でも――」
 顔の汗を拭い、空を見上げた。赤いままだ。いつまでも。
「伊藤さん」
「何だい」
 今度は先ほどよりも慎重に、質問の言葉を探す。
「人間と人間でないものは、何によって区別されるのですか?」
 伊藤ケイタはうなだれた。
 どちらともなく歩きだした。路地を下り、広い道へ。
 その場所からは、海を見下ろすことができた。
 空を映した赤い海。
「電磁体たちは、みんな、きれいに消えていく」
 伊藤ケイタは答えた。
「ひどい死に様をさらすこともない。無念を残すこともない。僕はQ国に行った。そこで――いろんなものを見た。いろんなものだよ。人間はひどい死に方をする」
「死に方が、人間が人間であることを証明するということですか?」
「わからない」
 伊藤ケイタの声は小さく、今にも消え入りそうだ。それでも誠実に答えてくれようとしているのがわかった。クグチは少しずつ、気が安らいでいくのを感じた。
「僕はあの戦争のさなか、人体が物体のように破壊されていくのを見た。たくさんの人が一瞬の光と熱で消え、声もなく消滅するのを見た。消滅だよ。死じゃない。あんなのは人間の死じゃない。廃電磁体……幽霊たちを見ながら僕は何度でも思った。彼らに、人間らしい死を死に直させてあげることができるなら」
「……それは、慈悲なのですか?」
「僕たちは傲慢だった」
 彼は心を消して答えた。
「今でも傲慢だ」

 ―2―

 翌日からクグチは業務に復帰した。外に出れば強羅木に会える、そう信じた。意外にも五日間の無断欠勤は咎められず、岸本は物言いたげな目をくれるだけだった。
 子供が眠っている。
 道の端、カフェテラスで。
 店は祝祭の夜以来、閉店したままだ。
 その子は放置されたパラソルが影を落とす、丸いテーブルの下で、目を半開きにして横たわっている。
 顔に表情はない。
 何故避難所にいないのだろう。あの子の親はどうしたのだろう。
「私のセイラちゃん! 私のセイラちゃん!」
 黒ずくめの女が飛行機みたいに両腕を広げて走ってきた。女はクグチの目の前で、その両腕で子供をかっさらうと、勢いを落とすことなく、けたたましい笑い声を上げて走り去っていった。子供の首が腕の中でのけぞり、虫が舞い上がった。子供は死んでいた。

「吉村さん、最近みないけど……」
 避難所で男女が声を潜めている。
「駆け落ちしたんだってさ」
「誰と?」
 男は肩をすくめ、
「電磁体とさ」

 民間ボランティアが、バスに乗って避難所から出ていく。
 撤収?
 まだ何も解決していないのに。
「何故?」
 別の避難所では、自衛軍が姿を消している。
「何故?」
 人々は乾いた空を仰ぎ、涙を流す。
 次の食料はいつ来るの? 次の水は誰が持って来るの?
「離乳食を……」
 女がクグチを呼び止める。
「持って来てくれませんか。この子が死んでしまう――」

「隔離しましょう」
 離乳食を求めて訪れた別の避難所では、よくわからないひどい胃腸の病がはやっていて、老人が死んだという。
 隔離しよう。このままでは誰も動けなくなる。今具合が悪い人は、みんな一カ所にまとめよう。
 どこに?
 死体と同じ場所に。
 隔離……そう……隔離された。
 自衛軍も警察ももう、道東の都市の内部を守っていない。彼らは居住区の外に検問を敷き、都市の外を守っている。誰もここに来ないように。
 道東の都市は見放され、隔離されてしまった。
 戦争の、Q国の軍事攻撃の哀れな被害者として、人々はただの数字になる。死者という数字に。

「救いようがないんだ」マキメが言う。「私たちは無力だ」
 空の赤い光が、彼女の顔に陰を刻む。

 避難所に、時折空から物資が落とされ、不運な男が下敷きになって死んだ。
 その場にたどり着いた時、人々は輪になって、コンテナを囲んで立っていた。何か神聖な儀式のように、神の声を待つように、声を立てず身じろぎ一つしない。
「何とかしないと」
 適当な人に耳打ちするが、
「何とか……何とか……」
 相手は夢のように呟くばかり。
「彼は天使になったんですよ」
 隣の中年男が返事をした。
「天使に?」
「磁気嵐は新しい人間を作った。守護天使たちがいるでしょう。人間としての記憶をとどめて。天使たちは永遠の命を得た」
 穏やかに語る男の顔に恍惚としたものを見いだして、クグチは硬直する。
「今度は私たちの番です。私たちが死んでも守護天使が残る。私たちはそこで生きています。私たち人間は電磁体に、守護天使になれる!」

「永遠の命を!」
 ビルから、ベビーカーが投げ落とされて路上で砕けた。
 ついで赤子が落ちてきて、砕けた。
 続けて若い母が。

 クグチは、そろそろ俺の気が狂うと覚悟をし始める。
 巡回中、ACJ道東支社の社屋からほど近い地区で、女の悲鳴を聞いた。
 もう一度。
 民家で女が泣き叫んでいる。クグチは義務感からその家に上がりこんだ。鍵は開いていた。声は廊下の奥、キッチンからで、そっと様子を窺ったクグチは予期せぬ人を見た。
「岸本さん」
 仁王立ちの岸本の足下で、女が床に這いつくばって泣いている。周囲の床に何か小さな破片が飛び散っていた。レンズと、レンズケースだ。
 岸本は少しだけ、クグチを見た。そして首を横に振り、穏やかな声で言った。
「こんな物はない方がいいんだ」
「馬鹿! 馬鹿!」
 ヒステリックに叫ぶ女は岸本の妻だろうと、クグチは推測した。
「私の幸福指数をどうしてくれるのよぉ!」
 妻は岸本の膝に両腕ですがりつき、
「幸福指数がなかったらハヤトをいい学校に行かせられないじゃない!!」
 岸本は何も言わない。
「この家だってどうするのよぉ!」
 膝立ちになって、岸本の腰のあたりを掴んで揺さぶり、「幸福指数がなかったら、この地区に住めないじゃない!」
 するとまた床に崩れ、
「家の支払いが……入学金の積み立てが……」
 そしてまた悲鳴のように叫び、床を殴って泣く。クグチのことなど完全に見えていない。
 岸本は妻の前から離れ、クグチの方に歩いて来た。
「もっと早くにこうするべきだったな」
「大丈夫ですか? 奥さん」
「大丈夫じゃない。見りゃわかるだろうが。だがこのまま持たせて、他の連中のように気が狂うより遙かにマシだ。この都市では余計な物が見えすぎる」
「……そうですね」
 ふと声がやんで、妻が岸本の背後で立ち上がる。その顔を見ようとした途端、妻はカウンターに走り、呆然としたままの顔で、包丁を持って戻ってきた。
 クグチは岸本を腕で押し退けて、キッチンに飛びこんだ。主婦が包丁を構えて突っこんでくる。すれ違い様、絶妙のタイミングでその体に腕を回し、捕まえることができた。
「岸本さん!」
 背後から押さえこみ、手首を強く握りしめる。主婦は包丁を落とした。暴れる相手を渾身の力で押さえながら岸本がいる方を見ると、廊下に立つ、小さな男の子が目に入った。
「パパ?」
 岸本は息子に構わず、むしろクグチと妻に歩み寄って、包丁の柄を蹴って遠ざけた。
「明日宮、あの子をACJに連れて行ってくれ」
 クグチが手を離すと、途端に飛びかかってきた妻の腕を、岸本は巧みに捻りあげた。キィと女が叫んだ。
「行こう」
 クグチは幼い岸本ハヤトに声をかける。
「パパとママはちょっと忙しいんだ」
「人さらい!」
 主婦の叫び声が背中で弾けた。
「人さらい! 人さらい! 誰かー!」
 岸本の息子は母親の様子を興味深そうに見つめていた。手を引いて外に出る。自転車の荷台に座らせ、腰にしがみつくよう言った。子供は大人しく従った。
「怖かっただろう」
 ぎこちなく気遣うと、子供は「ううん」と否定した。
「いつもだから」
「いつも、お母さんあんな感じなのか?」
「うん。あのねえ、指数がねえ、減ったりねえ、あと僕があんまり貯めてなかったりするとねえ、すごい怒る」
「ふぅん、そうか」
「あとねぇ、それからねえ」
 子供は高い声で続ける。
「パパがねえ、こないだ帰ってきた時ねえ、僕にレンズを外せって言って、それでパパにすごい怒ってたよ」
「そうか。レンズ、外したのか?」
「ううん。嫌だよ。だって、レンズ外したらママとお話できなくなっちゃうじゃん」
 クグチはどういうことかわかりかねて、少し、返事に困った。
「つまり……ママの守護天使と話ができなくなるってことか? ママそのものとは話をしないのか? その……」
「うん。だってママじゃなくてねえ、ママの守護天使と話した方が指数のためにいいんだって。幼稚園の友達もみんなそうしてるよ。それが僕のためなんだって」
 クグチは何故か唐突に、この子と自分が同じように生きていることを実感する。

 ―3―

 翌朝起きると色が狂っていた。
 色が狂うと人間は目から壊れることがよくわかる。クグチは寮の窓辺に立ち、眼鏡をつけたり外したりして、見える景色の不愉快な違いを味わった。
 向かいのボーリング店がその建物の輪郭を無くし、黄色からショッキングピンクの色のグラデーションの、マーブル模様が地面から立ち上るのみになっている。よく見るとマーブル模様は定期的に、そこかしこで人の形になり、救いを求めるように顎をあげて両腕を突き上げ、またもとの色に溺れて消える。
 路面はいつか見たミルクの大河が再現され、誰の記憶なのか、腐ったみかんや羽根のない妖精、顔が焼かれた人形や、ひどい火傷を負って這いずる人間が現れては消える。
 クグチは眼鏡をしまった。
 凍結された都市サーバに何らかの異変があったことは明らかだ。エラーが起きたか攻撃されたか。いずれにしろ打つ手はない。結局、都市を放棄し隔離する自衛軍の判断は正しかった。
 都市に人が出てくる。
 本当に静かな町で、人々は路上を埋めて立ち、期待のまなざしで電子のオーロラが埋め尽くす真昼の空を見上げる。
「フレアが来る」
 誰かが高まる期待に堪えきれず囁いた。その囁きは囁きを呼び、人々は梅雨明けも蝉の声も知らずに繰り返す。
「フレアが来る」

 ACJ道東支社には、守護天使を持たぬが故、一緒に狂ってしまうこともできなかった孤独な特殊警備員たちだけが残った。
 警備員たちは厳重に支社の建屋を施錠した。外の異変に神経を高ぶらせながら、何かが来るのを――何かが終わるのを? 待っている。
「フレアは電磁体たちを消滅させなかった。数を減らしたようには見えるけど、単に変質しただけです」
「まあ、私は学者じゃないんでよくわからないけど」
 マキメはクグチと一緒に廊下の窓から路上を見下ろして言う。
「あの人たちにはわかるんだろうね。フレアがまた守護天使たちを変えるのを見たいんだ」
「あの人たちは自分が守護天使になれると信じている」
 クグチは呟いた。
「結局、何だったんですか、守護天使って」
「ただの電磁体だよ」
「わかってます。そうじゃなくて、電磁生体が民間に広まるその方法……その形が守護天使というパッケージだったのは何でだろうって思うんです。何故もっと事務的、実利的な情報保護技術ではなく、人間に似たものとして形になったんだろうって。そうでなければここまで広まらず、受け入れられなかったのだろうか」
「電磁生体に関する技術の一部はもちろん、戦前から民間に広まっていたよ。それを大人から子供まで漏れなく巻きこんで人々に使わせて……ACJが金を儲けるには、もっと各家庭に浸透させる必要があった」
「各家庭に浸透しているただの道具なら他に幾らでもあります。ホームパネルだって何だって。どうしてそんな家電ではなく、わざわざ人間によく似たものにする必要があったんだろうっていう意味です。ACJがそう判断したのは、社会が、人々が、それを求めたからです。その求めの理由がわからない」
「人口が減ったからじゃないかな」
 数秒考えて、彼女が言う内容の意味に思い当たった。
 戦争は人の数を減らし、都市を寂しくさせた。その世界で、とりあえず賑やかなもの、とりあえず鮮やかなもの、とりあえず話を聞いてくれるもの、とりあえず隣に存在してくれるもの。決して自分を否定せず、鬱陶しい不幸自慢をしてこないもの。悲しみを、自分の悲しみ方で悲しむことを許してくれるもの。
 人間にはどうしようもなく、人間に似たものを必要とする時がある。
 ACJは守護天使によって、救済の神話を創ろうとした。
 それが来る。
「ありがとうございます」
「何が?」
「話したら少し気が紛れました」
 正午、人々が突如として、一定方向に流れ出す。
 マキメから離れ、UC銃保管室に向かった。
 殺風景な保管室で、島が壁にもたれて自分のロッカーを見つめている。彼が話しかけてこないので、クグチは躊躇いつつ通り過ぎて、自分の銃を取った。
「……どこに行くの?」
「巡回に」
 ACJ社のロゴが印刷された、半袖の青いジャンパーに腕を通す。
「俺さ」
 島が、もたれていた壁から背中をはなした。
「前言ったじゃん、俺、どうしても撃てなくて……」
「そりゃ人それぞれ向き不向きがありますよ。何もこの状況下で無理に撃ちに行かなくても」
「でも、やらなきゃ」
「その分俺が撃ってくるって言ったら?」
「駄目だ」
 島は衣服のポケットから、震える手で鍵を取り出した。ロッカーの操作板に差しこみ、ぎこちなくボタンを操作する。
「今撃たなきゃ、永遠に撃てない」
 彼のロッカーが開く頃には、クグチの出動態勢が整っている。
「俺も、後で行くよ」
「……そうですか」
 顔を見せず、消え入りそうな声で、「先に行ってて」と続けた。
 保管室を抜けた先に、もう一人、今まさに巡回に出ようとしている男がいた。
「岸本さん」
 彼は単車に跨ったまま、ヘルメットのバイザーを上げた。
「どこに行く」
「巡回です」
「そんなもん見りゃわかるだろうがバカヤロウ。どの地区に行くか聞いてるんだ」
「わかりません」
 クグチは軽く肩をすくめた。
「人々に動きが出ています。その先に行ってみようと思います」
「帰ってくるんだろうな」
 息が詰まった。
 それほど、岸本の問いを重く感じた。巡回路とか、予定時間とか、そういうことではない。もっと深いことを聞かれている。岸本自身も、自分が本当は何を尋ねているのかわかっていないのかもしれない。 
 帰ってこれるだろうか。この場所がこの場所である内に、自分を自分と呼べる内に、都市の浸食がちっぽけな自我とちっぽけな自己認識に及ばぬ内に、帰ってこれるだろうか。
「はい」
 クグチは頷いた。
「定時までには、必ず」
 十三班共有の単車のロックを解除し、ヘルメットをかぶった。岸本より先に支社の敷地を後にした。
 帰ってきたい。
 南紀を出る時にすら思わなかったことを、初めて思った。この仕事に、この日常に、この現実に、この毎日に、帰ってきたいと。
 クグチは時折表通りの人の流れを確かめながら、枝道を走った。時折人とすれ違った。ふらふらさまよっているだけに見えながら、ちゃんと表通りの人と同じ方向へ歩いているから不気味だった。彼らが何に導かれ、何を目指しているのか、眼鏡をはめて確かめるつもりはなかった。ACJの社屋や仕事仲間から孤立した状態でそれを行うのは怖かった。
 やがて表通りの人の流れは、都市を南北に貫く別の流れと合流した。人々がぶつかりあいもせず、さらに太い流れに合流し、一言も発しない様子を物陰から見守った。
 上り坂を、下から上まで人の後ろ姿が埋めている。
 その先にどのような聖域があるかはわからない。
 また単車を走らせた。
 細い路地を、散乱するゴミや家具を避けて、坂の上へ。
 大通りでざわめきが生まれた。やがて路地が終わり、大通りと合流した。クグチは歩道に立って人々の様子を観察した。みな空を見上げ、「ああ」とか「おお」と感嘆しているが、言葉にはならない。坂のてっぺんで、人々の足が滞り、局所的に渋滞する。そして人々は順次、その先の下り坂へ走り出した。クグチは人々を避けてまた路地に入った。近くの建物の裏側に外階段があった。それを駆け上がり、屋上のカフェテラスで眼鏡を装着した。
 人々と同じ光景を見て、クグチは息を飲んだ。
 藍色に染まる空に、緑のオーロラが踊っている。オーロラは誘うように、地上に緑の触手を伸ばし、その光が滴って、地にこぼれ落ちてくる。
 鳥だった。
 オーロラから生まれた大量の鳥たちが、迷いなく地上に急降下してくる。その先を見ようと柵から身を乗り出した。
 下り坂の下。
 そこで世界が終わっていた。
 無が広がっている。
 坂を下りきった先が、断崖になっている。
 その先はただ黒い、果てしない闇。
 闇が、視界の限界で、空と融けあっている。
 オーロラの鳥たちは一本の光の通路のように、その闇に突っこんでいく。
 そして、人々がみな、両腕を広げて、断崖から身を投げていた。
 空を飛べると信じているように。
 絶え間なく。
 一人の例外もなく。
 消えていく。
「やめろ!」
 クグチはその光景に向けて叫んだ。
「やめろ!」
 そこにいるかもしれない強羅木に叫んだ。
「やめろってば!」
 向坂ゴエイや、伊藤ケイタに叫んだ。あさがおに叫んだ。向坂ルネに叫んだ。
 赤子に飲ませる離乳食を探していた女に叫んだ。まだ何もわからない、それゆえ死すべきではない子供たちに叫んだ。どこかですれ違ったかもしれない人に叫んだ。言葉を交わしたことがあるかもしれない人に叫んだ。「見つけて」言い遺した女の電磁体に叫んだ。自殺した老婆に叫んだ。「やめろ!」守護天使を間に挟まなければ会話も成り立たない、かつての仕事仲間たちに叫んだ。
 叫びながら、あさがおはもういないことや、ルネはとっくに死んでしまっていることを思い出した。
 人の列は鎖のように、都市の果てから続いていた。みな、坂の頂でしばし停滞してから、駆け降り、腕という翼を広げて断崖に身を投げる。
 ハツセリは。
 ハツセリは。
 いや、彼女はあそこにはいない。
 ……ここにいるから。
 クグチは上から押し潰されるように、柵に手をかけたままその場にしゃがみこんだ。背後から、ハツセリが来る。砂礫を靴底で軋ませて、彼女が来る。
「眼鏡を外しなさい」
 少し離れた所で、立ち止まって言った。
「でないと、狂ってしまう」
 クグチは応じなかった。妙な意地がわいて、眼鏡を外さなかった。クグチが動かないので、ハツセリはもう少し、近付いてきた。
「悲しまないで。あの人たちは消えるべくして消えていくだけ」
「……どこに消えていくと言うんだ」
「あの人たちが信じる現実に行く。それだけのことよ」
 少しずつ近付いてきていたハツセリが、ついに隣に立った。一緒に柵に手をかけて、断崖に遠い目を向ける。
「私は自分の正体を思い出すためにここまで来た。私は須藤ハツセリなの? 桑島メイミなの? 思い出すためには、私は過去の再現と過去の歪曲とその後に起きることのシミュレーションが必要だった」
「思い出したのか」
「一つだけ確かなことがわかった」
 巨大なドームをなくした都市を、風が洗っていく。
 風にはさまざまな匂いがあることを、クグチは思い出しつつあった。水の匂い。草の匂い。土の匂い。山の匂い。古い民家の匂い。よその家の食事の匂い。
 かつてこの匂いを嗅いでいた。濡れ縁で、桑島メイミと座っていた時に。
「人間と人間によく似たものが互いに近付くほど、現実と幻想の違いは相対的なものに過ぎなくなる」
「電磁体は人間にはならない!」
「なるわ。あなたがそう」
 顎を上げ、ハツセリの冷たい目を見上げた。
「……俺は」
「あなたが実在なら私は仮想。あなたが仮想なら私は実在。あなたには、この光景を現実のものとして受け入れられる?」
 その時、フレアが来た。
 誰かがそれをフレアだと教えたわけではなかった。この時刻に、かねてから予言されていた超規模フレアが来ると、予報があったわけでもなかった。
 でもそれがフレアであることは間違いないと、クグチにはわかった。
 視界から全ての色が飛んだ。
 光が暴走する。
 視界が白く染まり、目を覆った。
 閉じた目になお強い刺激が襲い、砂粒のようなものが絶えず顔や手に吹き付けてくる。見えない嵐がやむのをクグチは待った。
 やがて光の気配が消えた。
 躊躇いながら目を開いた。
 闇はなくなっていた。優しい明るさが満ちていた。ゆっくり立ち上がりながら、眼下の光景を目にした。
 雲一つない夏空が頭上に広がっていた。夏の太陽が、健康的な光を廃都市に注いでいる。
 どこからか運ばれてきた草の種が、街路で芽吹いている。近くで鳥の声が聞こえる。巣をかけているのだ。
 オーロラも断崖もなかった。坂を埋めていた人の姿は、一人残らず消えていた。
 そして、都市の向こうでは草原が、緑色に輝いている。
 あんな所に、あれほど生命に満ちた自然があることを、クグチは知らなかった。豊かな匂いがする風が、草原から吹いていた。
 ハツセリは答えを待っていた。無言で待っていた。クグチは眼鏡を外して、額の汗を拭った。肉眼で見る光景も、眼鏡越しに見る光景も、何も変わらなかった。そして、ハツセリの姿も変わらず隣にあった。
「受け入れる」
 眼鏡をジャンパーのポケットに突っこんだ。
「他にどうしようもないだろう。起きたことが全てだ。たとえ理解を越えた現象であっても」
「そう」
「終わりか?」
 ハツセリは無表情でクグチを見ていた。その目には、思い通りにはいかなかった怒りと苛立ちがはっきりと見て取れた。
「個人的な要求を言えば、あなたには、私の話を信じてほしかったわ」
「そうか。悪いな」
 クグチはハツセリに背を向ける。
「どこに行くの」
「ACJに戻る」
「待って!」
 その声に応じ、足を止めた。
 ハツセリは冷たい仮面も謎めいた仮面も脱ぎ捨てていた。夏風に素肌をさらし、頬を紅潮させて、まっすぐクグチを見ていた。
「私は消えるわ。もう二度と会えないのよ」
「消える? どこへ」
「あなたがあなたの現実を生きるなら、もう一緒にいることはできない」
 クグチは結局、やっぱり彼女の話の意味が分からなくて、返事に窮するしかない。そうだな。何一つこいつの話は理解できなかった。わかるのは、それでもハツセリが真剣に話しているということだけだ。
 つまり、彼女が二度と自分の前に姿を現すつもりはないということについて。
 クグチは彼女に、礼を言わなければならないことを思い出した。古傷をえぐるだけかも知れないが。
「一つ教えてくれ」
「なに?」
「あんたは結局ハツセリなのか? 桑島メイミの電磁体なのか?」
「わからない」
 ハツセリは悔しそうに俯いた。
「私が思いだしたのは、私がここに来た理由だけ。結局私が誰なのか、ハツセリなのかメイミなのかはわからないままだわ。何故それを聞くの」
「桑島メイミに礼を言いたい」
 ハツセリの体がぴくりと震える。
「昔焼け跡で、子供だった俺の命を救ってくれた。それは桑島メイミじゃなくて、桑島メイミの電磁体だ。けれど、そのような意志を電磁体に残してくれた桑島メイミに、礼を言いたい」
「そんなこと……」
 ハツセリは、首を横に振ると、ぱっと顔を手で覆った。
 桑島メイミは死んだが、礼を言う相手は残った。幽霊でも、廃電磁体でも、守護天使でも、呼び名は何でもいい。
「ありがとう」
 礼を言ったのは、ハツセリのほうだった。顔を上げた。笑っていた。
「あなたは、私を救った」
 どういう意味か尋ねるより早く、彼女は両腕を広げた。
 いきなり彼女の背後の柵が外れた。ハツセリはそのまま後ろに倒れこみ、落下した。
 クグチは声も出せず、屋上の縁に駆け寄った。
 音を立てて柵が地面に落ち、弾んだ。
 ハツセリはいなかった。





『さようなら、明日宮君』
『愛していた』





 ―4―

 そしてまた光が、閉じた瞼をそっと撫でる。自分を保護する金属の繭が音を立てて開くのを感じた。
 天井が見えた。そのまま動かずに、思考が肉体になじむのを待った。まず瞼が自由になった。何度か瞬きを繰り返し、次に、指先を動かしてみた。体に少し、力が戻っていた。その力を、喉を震わす為に使った。
「明日宮君」
 だが声にはならず、入室した人物に聞かれることもなかった。
 すっかり白髪だらけになった、憔悴した顔の、土気色の肌の男が、横たわる繭の中を覗きこんできた。
「ハツセリ」
 男は労わるように言った。
「それとも、桑島君かな」
 少女は身を起こした。長い黒髪を後ろに払い、気だるげに細めた目で、男を見つめた。
「衰えたわね、向坂君」
「そうかな」
「ええ。保存されたシミュレーション世界のあなたより、遥かに」
 向坂は、傷ついたかもしれない。きっとそうだろう。でも彼は、そんなことは言わない。いつも気弱そうに微笑むだけ。だから彼は、人より早く老いた。
 彼はハツセリが答えるのを、催促したりはしない。
「出ましょう」
 地上階に出る。廊下のブラインドに滲む光を見て、午後だわ、と思った。

 放棄された国防技研実験棟F棟の裏手には、向坂アカネとルネの墓がある。遺体はない。この丘陵から見下ろせる、かつて道東の都市が広がっていたクレーターで、二人は数字だけの死者になった。塵さえ残らなかった。そしてあの、共に濡れ縁で語り合っていた、六歳の少年もまた……。
「明日宮君」
 クグチを思っているのか、エイジを思っているのか、自分でもわからない。空を見上げた。フレアが空を支配して以来、地上は雨を降らさぬ雲に、いつまでも覆われている。
 雲の下で、都市の残骸は草に覆われつつあった。自然は生きている。人が死のうと生きようと。
 ハツセリは自分の手を見た。
「私は誰?」
 後ろから、墓参りを終えた向坂が歩いてきた。彼は済まなさそうに口を開いた。
「放射線計が壊れてしまった。君が眠っている間に」
「構わないわよ。そんなもん、あってもなくてもどこも同じじゃない」
「そうだね」ため息をつき、「どこにいたって、僕たちは長生きできない」
 ハツセリは、草原になりつつある滅んだ道東の都市を見つめながら、足を、ひび割れた道路に踏み出した。
「そんなのは、今を生きていられない理由にはならないわ」
 頬に向坂の視線を感じる。
 構わず歩き始めた。向坂は少し離れてついて来た。
「答えは見つかったのかい?」
「いいえ。でもいいの。私が桑島メイミだとしても須藤ハツセリだとしても、どちらでも、それで何かが変わるわけじゃないわ」
「……君は変わった」
 焼け焦げた車が道端に棄てられ、その周囲にもまた、丈高く草が茂っている。
「私は……」
 下り坂は、次第に道東の都市から遠ざかってゆく。ハツセリは無言で別れを告げ、都市の影に背を向けた。
「ええ。私は、だって……とても大切なことを……教えてもらったもの」

 道東の都市とは反対方向に長い坂を下る。
 都市はもう、見ることもできない。


 
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