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乱世の確率事象改変

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首無き麒麟は黒と出会い


 屈強な兵士が跪く様は雄大にして荘厳。
 膝を付いて尚、威風堂々たる姿に見惚れること幾瞬、高鳴る胸は抑えられるはずも無く……劉協は胸の内に溜まる気持ちを全て吐き出すかのように、ほう、と息を吐いた。
 彼らが如何様にして街を救ったか、耳に挟んではいる。
 特殊な笛を用いた民の誘導と伝達、流れるような連携での救助活動。暴徒に堕ちた兵士からの凶刃に対して、身を賭して盾となる事もあったという。
 子供心に、劉協は思う。
 彼ら一人一人こそが英雄なのだ、と。身を、命を、魂を掛けて人々を守る彼らこそ、英雄と呼ばれるに相応しい、と。
 名を上げようとも、優雅な暮らしをしようともせず、ただ黙々と主に従い平穏な世界の為に命を使う……そんな彼らに敬いの念を向けずして人と言えるか。否、否であろう。

 隣で微笑む覇王は、この英雄たちの命を対価として、長きに渡る平穏を手に入れようとしている。
 敬いを忘れず、礼を失わず、生死の別なき全ての命の為に戦っているのだ。血肉を喰らって、想いを喰らって、天を新たに染め上げる為の階を作っているのだ。

 愚かしい、とは劉協も思わなかった。聡明であるが故に、平穏を作り出すにはもう莫大な命を対価にするしかないとよく理解している。
 帝であれば、俗世の事だと任せる事も出来るが……彼女は知りたかった。
 帰ってきた時には燃えてしまった街があった。
 馬車から覗けば泥に塗れた人々が、涙を零しながら炊き出しを食んでいた。
 たかがこんな小童の為に戦が起きたのだ……と感じてしまった。持つべきではない感情を持つ程に、彼女は優しすぎた。
 故に、彼女は彼らに対して、言っておきたい言葉があった。

「……徐晃隊、いや、黒麒麟の身体よ」

 冷たく、されども暖かい少女の声が城前の広場に浮かんだ。
 彼らは黙して語らず、続きを待った。絶対的なカリスマを持つ帝を前にしても、彼らの心はブレるはずもない。動かず静かに、頭を垂れていた。
 恐れ多くも帝が兵士達に声を掛けるなど……通常ならばまず無いが、きっと副長達のおかげだろう……彼らは自分達の同志が行った嘗ての働きに敬意を抱く。

「一度しか言わぬ。散った同志らの墓前にも捧げよ。
 洛陽では……大義であった」

 華琳は隣で満足気に笑みを深める。彼らにとって自分達の戦友を称えられる事は救いに違いない……そう感じて。
 顔を上げない五百の兵士達の心には安らぎが来たり、自分達もそうあれかし、といつものように心を高めていく。
 返す言葉はなんであるか。今、褒められているのは嘗ての彼であり、彼らなのだ。この時ばかりは許してくれと思うも、彼らにとって命令は絶対。彼の指標を示したくとも示さず。
 言葉の代わりとばかり、全員がさらに深く頭を下げる。
 目を丸くした劉協は少しばかり震えた。彼らは間違いなく一つの身体に等しいと実感できて。

――相変わらずいい部隊ね。

 声には出さず、華琳は内心だけで褒める。自分の言葉は、帝の後では薄くなるだろう、と。

 華琳の本拠地であるこの街にて、集った鳳統隊を見てみたいと劉協が言ったので今の状況となっている。
 袁紹軍が陽武に進軍したとの報告が入るや否や、華琳は親衛隊と共に洛陽を離れて戻ってきている。孫策と周瑜に……都の守備を命じて。
 嘗て救った都で狼藉を働けるわけがなく、劉表暗殺の疑念を晴らすには丁度いいやり方。帝の臣であると示すにも十分であろう。

 家族を想い判断を過ったというのなら、家族を賭けて失態を注げ。諍いの鎮圧の為に指示を出す事は許すが都を離れてはならない。

 今度こそ何を優先するのか見せてみよ……それが華琳の与えた処罰である。
 劉表に近しかったモノ達には甘いと思われるやもしれないが、孫家に従う多くの命を遠くから眺めているしか出来ないのだから、戦場で剣を振るう王たる孫策にとっては厳しい罰となろう。
 戦を迅速に終わらせる為に帰すべき……というのは大陸の現状と先を思うなら言っていい事でもない。帝の敵は袁家が最優先であり、暴走した劉表の臣下よりも選ぶべきなのだから。

 油断なく、華琳は脅しを掛けてもいる。
 反旗を翻してもいい。逃げたければ逃げてもいい。
 洛陽を再び燃やし尽くす程の気概があるならば……そして後々に手を組むであろう劉備に不審の芽を与えてもいいのなら、ということ。
 帝直属の禁軍は、練度が余り高くないが、孫策軍の監視にと洛陽に置いてある。此処で孫策が裏切れば洛陽が戦火に沈む。
 帝を守ると言っても、華琳の街には不要な軍。華琳の親衛隊一万と黒麒麟の身体五百が居れば、最悪の場合、帝だけでも官渡まで連れ出す事が出来るだろう。
 そも、袁家に従うのが嫌で下剋上を為したのだから、共闘するとなれば恥も外聞も持たない下賤な王に堕ちる。混沌とした乱世を長く引き伸ばしたいのならそうすればいいが……未だ地盤が安定していない彼女達では不安が大きい。
 これで、個人の性格的にも、状況的にも、孫呉は洛陽から出られない。

――気高くあれ、誇りあれと心身を高めてきた孫呉の戦姫には、此処での裏切りなど出来ようはずがない。元より、孫呉がこの時にこちらを攻められるというのなら“私も孫呉を先に潰してもいい”。従って孫策は洛陽から逃げられない。

 身を滅ぼしてでも曹操軍を食い破ろうとするなら、華琳も同じく当たればいいのだ。
 出来る限り使いたくない策ではあるが、袁家に対して外部をぶつける事も華琳には出来る。
 帝が一声掛ければ飛んでくる忠臣の勢力が……この大陸には一つあるのだ。
 西涼を治めている馬の一族は自他共に認める漢の忠臣。袁家を征伐せよと勅を下せばすぐにでも駆けつけるだろう。
 ただ、袁家と孫呉討伐までの同盟に繋がり、益州勢力とも後々手を繋ぐ事に発展し兼ねない。
 優しい方法で乱世を“止められる”が、後の世に長い平穏が来るかと言えば……華琳の判断では否、そして為したい事でもない。

――孫策は私の予想通りにするでしょう。せっかく取り戻した大切な土地を、また奪われたくなどないのだから。

 自分と同じく、雪蓮も未来の大陸の姿を承知の上だと……孫呉の王が持つ先見と才を見極めた上で降した決断。
 誰彼の目的や為し得んとしている事を読み解いて行けば、旧き龍の齎した波紋は大きく、華琳すら彼女の思惑に少しだけ乗らざるを得なかった。なればこそ、こうするのが最善だと、華琳は早い時期に決めていた。

――しかし……この孫策に与える罰こそが今後の為の大きな成果となり得る。

 静かに昏く、乱世の様相はあの龍に引き摺り込まれたが故、裏切りと牽制の泥沼になる可能性が出てきた。そのただ中で、覇王だけは己が有利を確信して笑みを深める。

「陛下」

 凛……と、鈴の音の如き声が向けられる。彼らに他にも何か話そうかと思案していた劉協の耳に。
 ゆっくりと顔を向けた彼女は、華琳の瞳の鋭さに僅かに圧された。
 されども、今は帝の仮面の上、目を細め、続けよと示す。

「現在行われている官渡の戦に於いて、袁紹と袁術――袁家に対する処断は……詮議を執り行わず、この曹孟徳に一任して頂きたく」

 アイスブルーの瞳には知性の輝き。笑みはただ不敵にして敵意無く、何を思ってかは劉協には分かりかねる。

「逆臣に対して正式な詮議をせずに処断する、と?」

 袁紹や袁術ほど名の売れたモノであるのなら、武官文官を並べて罪一等を言い渡し、帝に示した上で刑に処されるのがしきたり。帝が袁家の対応を任せると言ったとしても、殺さずに捕えられたのならそうするべきである。
 華琳としてはそれをしたくない理由があるのだが……じっと帝の瞳を見据え、

「はい」

 短く返答を行うだけであった。
 これは試されているのだろう……劉協はそう読み取る。どう取るにしても抗うことなど出来ないが。

「何か……考えがあるのじゃな?」
「然り。必ずや……」

 区切られた一拍。徐々に引き裂かれる口と、楽しげに細められた目に怖気が走った。

「……世の平穏の為になりましょう」

 ゆっくりと目を瞑る劉協は震えていた。目の前の女が恐ろしい。何を考えているか分からないというのは、人として恐怖を感じて当たり前。
 しばらくの静寂。
 膝を付く彼らは華琳の笑みに彼とは違う英傑の力強さを感じ、目を伏せる。
 瞳の奥に光る輝きは獰猛に過ぎる。彼なら、昏く渦巻く自責の念を込めて、楽しげに見せながらも自嘲気味に喉を鳴らすのだろう、と。
 想いは同じであれど、先に描くモノは以上であれど、やり方は同じであれど、覇王は彼とは違うのだ……それでも、彼が望んだ平穏は作れるだろう。
 不満は無い。無いのだが……彼らは寂しく感じていた。自分達の主は、やはり彼だけだった。

 幾分、彼らは華琳に練兵場にて待機せよ、との命を受けてそこに向かい始め、劉協と華琳は城の内に歩み入る。

――黒麒麟の身体……あなた達の心に渦巻く澱み、此処を発つ前に少しだけ深く染めておきましょう。“戻らない”場合の為にも。

 帝の隣に侍りながら、華琳は昨日の夜遅くに到着した“二人”の事を頭に浮かべて……また、笑みを深めた。




 †




 相対するは二人の少女。其処には重苦しい立場もなく、ただの人しかいなかった。

「ゆ……月……?」

 劉協は忘れるはずもない。その少女は己の命と心の恩人。
 昏くて恐ろしい政略の泥沼に飛び込み、内から変えようと尽力してくれたたった一人の味方。
 死んだと聞かされていた。自分も死んだと思っていた。なのに……この目の前に居る彼女は生きている。
 白銀の髪は美しく、儚げな雰囲気に穏やかさを漂わせ、優しく芯の強い瞳には意思の輝き。

「はい、陛下」

 上品な仕草も微笑みも声も……記憶にあるまま。全てが彼女である証明。
 華琳に連れられて訪れた部屋で、劉協は月との再会を果たした。
 涙が零れそうになるも、唇を噛んでグッと堪えた。それでも……止まらなかった。たった一人だけの理解者だったのだから詮無きこと。

「……ばかものっ……余の許可なく離れおって……」

 侍女服姿の彼女の袖を、つい……と摘まむ。ただそれだけだが、少女としての劉協を示すには十分。
 責めているのではない。そういう言い方をしなければならないだけ。自分が不意を突かれて連れ去られた以上は、である。
 月はきゅっと彼女の小さな掌を包み込んだ。

「申し訳ありません」
「よい……よい、許す……そなたは生きておる。それが……何よりであろう」

 震える唇、その横には涙が一粒。月は小さな手拭いでそっと劉協の頬を乾かした。
 月の目尻にも涙が少し。昔の月が救いたいと願った目の前の小さな皇帝は、どれだけのモノを諦観してきたか知っているから。
 嘗て王として魔窟に乗り込んだ英雄董卓はもういない。この世界に認識されているのは悪辣なる逆臣董卓。そして此処にいるのは……ただの月。姓も名も捨て去った、ただ一人の少女。


 互いに幾分か想いの確認をし合っていたが、劉協は説明を求めた。

 何故生きているのか。
 今までどうしていたのか。
 華琳の所に居たのなら、何故会おうともしなかったのか。
 沢山の疑問をぶつけた。

 月は少しの悲哀に染まる瞳を向けて、あの洛陽から今までをつらつらと説明していく。

 自分から生贄になろうとしたこと。詠に止められたこと。誰かに生贄にされそうになったこと。
 黒麒麟に助けられたこと。劉備軍に守って貰っていたこと。自分から姓と名を捨てたこと。
 彼が壊れた事も含めて、全て。

 歯を噛みしめたり、怒ったり、泣きそうになったり……ところどころで劉協は表情を変えていた。

「名を……自分から捨てた? 奪われたと同義じゃろうに」

 一番怒っていたのは其処であった。真名しか呼ばれなくなるとはどれほど苦痛なのか、と。
 この世界での真名とはそれほど重い。他人が勝手に呼べば、頸を飛ばされかねない程に。

「いいえ、自分から捨てました。どうか生きて欲しい……そう願ってくれた彼の想いに応える為に、そして私が私として責を果たす為に」

 乱世の果て、彼が望んだ平穏な世界を見る事で、自分が死なせた人達の想いに報いる……それは月が自分に当てた戒めで、責任の果たし方。

「何故じゃ……ほんにそなたは優しすぎるぞ。黒麒麟や劉玄徳を責める事も出来たであろうに」

 詠が責めても、月は彼を責めなかった。其処すら、劉協には不思議でならなかった。

「あの戦が起こってしまった原因は私です。洛陽を火に沈めた原因は私です。私が力不足だったから、陛下も、民も、人々も、あの人すらも苦しめてしまったんです。誰かを責める権利も怨む権利も、私にはありません」

 初めて、劉協は月の王としての資質を知る。
 彼女は誰かを咎める事はあるが、誰かを責める事などしない。自分の責を棚に上げて喚くモノは王ではないのだ。

――私が桃香さんや彼を責めるなんて有り得ない。私は、悲劇の主人公なんかじゃないんだから……自分で選んだ結果を、他人に擦り付けるなんて出来るわけない。

 元より乱世。助けてくれたら、など敗者の弁舌に過ぎない。
 彼は怨嗟を向ける事を正しいと言った。人として当然で、奪われた側には感情を抑えるモノの方が稀有であろう。
 ただ、月はそれをしない。したくない。憎悪も怨嗟も、自身が凡人だと知っていて、その上で王であったからこそ持つ事はなく、他人のせいだと責める事など……優しい彼女には到底出来なかった。
 月は王の理を以って解に辿り着いている。
 もし、自分が攻める側であったなら、救援を求められてもそしらぬ顔をしていただろう、と。涼州を守る為なら、自分と同じ立場の人でも踏み台にしていただろう、と。
 彼女は嘗て王だった。生易しい覚悟で州一つを纏め上げる事など出来ない。優秀な頭脳を持つ詠が隣に居て、自身を慕う臣下や民達が暮らす地を戦火にする可能性があるのなら……“洛陽に呼びつけられたのが自分でなければ”、今後の為にと連合に参加していた。振り返ってみればそんな考えが思い浮かぶ。
 だから余計に、彼女は誰を責める事も無い。王の責務は任ぜられた地や血族の繁栄、そしてより良い平穏。例え他と戦ってでも、幾多の命を生贄に捧げてでも、身一つになろうと守るが責務。乱世が見えたなら、力を付けようとするのは至極当然の対応。
 加害者の立場なら厳しく冷たい王の理を持つが、被害者の立場なら弱者の振りをする……それはどれほど、傲慢で愚かしい誇り無き王であるのか。
 否、それは王ではない。華雄が守ろうとした誇り高き王では無い。霞が、詠が、ねねが、恋が守ろうとした優しい王様では無いのだ。

 月は微笑んだまま、自分を守る為に戦ってくれた人々を想う。
 徐晃隊を見てきたから、関われなかった兵士達にも懺悔を零して。
 後ろで隠れて甘い蜜を吸う卑怯者……誰かの挑発の言葉は真理に等しい。国を廻す努力を知らない民から見れば、戦場で血みどろになって戦う兵から見れば、正しくその通りなのだから。
 だから今も、月は誰も責めない。
 その在り方を読み取って、劉協は感嘆の吐息を一つ零した。

「……余はそなたから学ぶ事がまだまだあるらしい」

 つい……と目を伏せて、幾分の冷たさを取り戻した声が放たれた。
 月は口を挟まず、儚げながらも力強さの宿る瞳で小さな皇帝を見据えた。

「こうして再び巡り合えた天命に感謝を」

 祈るように、掌を胸の前で握った。
 渦巻く思考には割り切れないモノも多々あるが、ふと、これから月がどうするのかが気になった。

「月よ……余の侍女とならんか?」

 今は秋斗の侍女であると言っていた。華琳の元に所属し続けるのだから、離れる事も無いだろう。それなら自分の側で仕えていろいろと教えて欲しい……そう願った。
 哀しそうに月は首を振る。何故、と言おうとしたが、強い光を放つ瞳に圧されて言葉が詰まった。

「私が私として責を果たす為には、もう侍女ではいられません。助けたい人が増えてしまいましたから」

 帝からの誘いを断る程に、彼女の心は誰かの救済を望んでいる。それが出来る可能性があるなら縋り付き、また彼女は舞台に上がる。聡く裏を読んだ劉協はしゅんと落ち込むも、何も言わずに続きをまった。

「今回の戦が終われば、私は“彼女”の下で乱世の舞台にもう一度上がります。この大陸に、皆が望む平穏を齎す為に」

――私の幸せは、繋がっていく皆の幸せが増える事。私の大切な人達が幸せになる事。

 彼とほとんど同じだ、と嬉しくなった。
 彼らとほとんど同じだ、と心が弾んだ。
 詠と同じだ、と胸が温かくなった。

――私はずっと彼を食べていた。いつでもこの願いを持てるように……

 頭に浮かんだ一つの言葉が、彼女の心に火を灯す。夜天の王は、蒼天に大切な言葉を教えようと決める。

「陛下、一つの言葉を……私の覚悟の証として、聞き届けてください」

 これから自分も彼らのように在れ、と願って。
 頷いた劉協に、優しい微笑みを向けた。瞳には、嘗ての自分よりも大きな意思の輝きを宿して。



『乱世に華を、世に平穏を』





 †





 待機を命じられた以上は自分達の訓練を始める事も出来ない。彼らは手持無沙汰に、列を崩さずにそれぞれが口を開いて、いつものように話しこんでいた。
 当然、誰かが来るか何かしらの指示があれば黙して語らず規律を守るが、練兵場はがらんどうで誰も居ない。なら、如何に規律重視の彼らといえども話すくらいはする。
 昨日はどこそこに食べにいっただの、あの店の給仕が可愛かっただの、くだらない話がちらほらと。
 帝からの賛辞は心を高めて歓喜を齎したが、彼らは緩いのだ。彼が居た時からそうである。嬉しい事があったなら、しょうもない事でも笑い合いたがる。
 先程とは全く違う砕けた空気の中、最前列では第三の部隊長が宙を見上げていた。見る先は北、戦が行われているという官渡その方角。

「今頃よぉ……あの方は戦ってんのかなぁ」

 笑い声を背に受けながらの一言は部隊長の隣から。その男も同じようにその方角を見つめていたが故、何を思ってかは理解出来た。
 この二人は幽州にて、雛里の隣に居た者達。鳳統隊の中で一番精強な二人である。
 副長には届かない。第一、第二の最古参の面々にも届かない。しかし二人は残存する彼らの頂点に位置している。
 目を向け、じっと見据えた部隊長が口を開く。

「戦いたいかよ?」
「……ああ、戦いたいね。戦って戦って、殺して殺して……そうしなきゃ収まらねぇ。お前もだろ?」
「……まあ、な」

 ため息は同時。ギシリ、と拳が鳴るも同時。誰の為に戦いたいかなど、決まっている。
 自分達は、副長や先達を乗り越えたわけではない。転がり込んできた立ち位置。そんなモノに満足出来るか……当然、否。

「そりゃよ、皇帝陛下を守れるなんてのは、たかが一部隊の俺らにとっちゃあ最高に名誉ある仕事だと思うぜ? けど……」

 またため息を一つ。悲哀に暮れる瞳と、もどかしさを映し出す眉間。

「……そうだよな。くくっ、そうに決まってるよな」

 どうしようもない奴だ、と部隊長は思った。自分達の仕事場は、やはり此処では無いのだと感じた。
 地獄のような戦場で、命の輝きを煌かせ、想いの華を咲き誇らせる。何処かで戦っている者達がいる……自分達は……ただ街と絶対者を守るだけ。

「欲しいのは名誉じゃねぇんだ。人が、仲間が、戦友が、バカ共が死んで殺して仕事してんのによ、じっとしてるなんて……もう、嫌だ」

 苦しい、とその男は感じていた。
 彼が与えた狂信はそういうモノ。自分が強くなってしまったから、何処かで戦が起こっているなら向かいたい。“自分達が戦って一人でも多く救いたい”そういう渇望を生み出してしまう。
 心の底まで、彼らは黒に染まっている。
 特に今集まっているモノ達はその心の澱みが根深い。
 何故なら、彼と一番精強な部隊二つが失われた時も、彼らは言いつけを守って策の為に耐えていたのだから。

「ああ、そうだな。俺も戦いてぇよ。ホントならじっとしてるなんざ出来やしねぇ」
「はっ、つくづく俺らはあの方と一緒になっちまったんだって思うぜ。洛陽で無茶を押し通したあの方も、こんな気持ちだったに違いねぇな」

 しかし白馬義従のように駆ける事はしない。
 感情に突き動かされて動くも正しいが、彼らにとって上の命令は絶対であるが故に。
 そうして、またため息を落とした。

「渇いてんだなぁ……俺達」
「おおとも、おおとも。俺らは渇いた。渇いちまった。なんだ……それなら、誰かがまとめなきゃなんねぇよな」

 周りを見れば、何処となく落ち着きがなくなって来ていた。
 当たり前だ。彼らも同じく、五百の全てが渇望している。帝を守る誉れより、この手この命を賭けて救わせろ、と。
 これは澱みだ。彼が居れば抑えられる。彼からの命令であれば心の底から従える。それほど、失った心の支柱は大きすぎる。

 心が渇く。たった一つでいい。内から溢れ出る渇望を抑えられるだけの指標が必要だった。

 第三の部隊長は数歩前に出て、くるりと振り返った。
 これは誰かがやらなくてはならない事。自分達だからこそ、欠けたままで雛里に従えた。今の彼らには片腕も頭もないが、隊の在り方から乱れなかった。

 両手両足になれるのは四人。その中で一番信頼が厚く、一番古く、一番彼の事を知り、皆と仲がいいのは第三の部隊長。平穏の大切さを一番に知っている彼はまだ若く、新しい家族も出来た。故に、皆から生きてくれと願われて彼とほぼ同じ立ち位置。
 代表として立っても、文句など出ようはずがない。
 次第に消え行く歓談の声。じ……と彼らは部隊長を見据えた。

「なぁ、お前ら……心の渇きは万全か?」

 不敵な笑み、さながら、黒麒麟のように。
 応、と声が重なった。一糸乱れぬ返答は通常通り。彼の身体として相応しい。

「忘れてねぇよな、俺達の内っかわにある想いのカタチ」

 叫びたくても叫べない指標が、ただ心の中を焦がして渇かす。もっとだ、もっと、あの頃と同じように……“俺達に誰かを救わせろ”。

「へっ……小声で上げちまおうぜ、なんて御大将なら言うだろうな」

 誰かが吹き出す。ああ、黒麒麟ならそんな事を提案しやがるだろう、と。

「そんで副長とか俺とかお前らにバカじゃねぇのかって怒られるんだ」

 楽しい思い出だ。止めてくれるのを分かってるから、彼はいつも彼らを試す。そんな事は自分では出来ないと部隊長は思う。
 こうして思い出させる事くらい。だが、そうすることでこそ、澱みが少しでも晴れる。彼らの主はたった一人しかいない。
 はぁ……と誰でなく吐息が漏れていた。安息か、はたまた悔いか……否、それは寂寥であった。

「俺達はここに居る。此処に居るって事はまだあの人は帰って来てねぇってこった。だからよ……」

 自分も寂しい、と感じながら空を見上げた。
 蒼い蒼い天には雲一つ無く、日輪の輝きが燃えている。黒一つ許さぬというかのように。

「……もうしばらく我慢しようや。乱世に想いの華を咲かせるのは、まだ早い――――」

 主が帰って来てこそ、解き放たれる想いがあるから……と繋ごうとして、声が聴こえた。
 こんな時に言葉を零すバカ共では無かったはず、そう部隊長は思って彼らを見ると……目の前の者達が震えていた。
 皆の視線は自分の後ろに向けて。耳を澄ませば……足音が一つ。

「お……おぉ……おおぉ……」

 言葉にならない声が皆から漏れる。
 ある者は苦悶を、ある者は期待を、ある者は悲哀を、ある者は歓喜を。
 表情の色彩はそれぞれの予想のカタチを表すかの如く。自然と流れる涙は止められるはずのない想いと渇きから。
 ゆっくり、ゆっくりと部隊長は振り向いた。怖かったから、かもしれない。現実を突き付けられる事が、きっと怖くて恐ろしかったのだ。

 初めに目に移ったのは真黒い革靴。訓練では何回蹴られたか分からない。
 少し上げると黒の外套が揺れていた。月光の上ではためけば翼に見紛うソレに幾度も目を奪われた。
 次に手だ。幾多の傷が走る手。自分達が付けた傷がどれだけ多い事か。
 そして黒こそ、そのモノの証。黒の衣服を見上げて行くと……黒瞳があった、黒髪があった。

「……お、御大将……」

 ずっと求めた彼らの主が、其処に居た。

 嗚呼、と嘆息が自然に漏れる。どよめきが場を埋め尽くす。規律など、守れるわけがない。
 彼は此処に居る。彼が此処に居る。それだけで、自分達は満たされた。
 頭の中から、彼の記憶が無い事など吹き飛んでしまった。
 何故なら、彼らはあの徐州の後、第一も第二も副長も、全ての骸を弔ったというのに、彼を見ていない。
 死んだのではないか、そう思いそうになった時も多々あった。それだけ、彼が居ない事は彼らにとって“異常”だった。
 残存する徐晃隊最古参の彼らは、ずっと黒麒麟と共に戦ってきたのだから。

 思考の空白は、自分達が涙を流していると気付いて掻き消える。
 記憶が消えているなら、自分達が思い出させてやればいい。そうだ、そうすればいい。
 彼らはバカだ。単純で、素直で、捻くれていて、子供のようなバカ共だった。
 故に、一人が叫びを上げた。抑える事が出来なかったのは、やはりそうあれかしと一番に願い続けた部隊長。

「お……御大将っ! 俺ですっ! 幽州での黄巾出兵より徐晃隊所属の――」

 姓を叫び、名を伝え、字も真名も……彼の記憶を呼び起こせるようにと宙に張り上げた。
 同じように続々と、自分の姓を、名を、字を、そして真名でさえも投げ渡していく。
 徐晃隊に於いて彼と真名まで預け合ったモノは副長だけだ。いつか副長のように認められてから預けようと決めていた。強くなってから呼んで貰いたいと希っていた。
 それでも耳に挟んでいるモノは多いはず。彼らは仲間であり、同志であり、戦友であり、家族。互いに交換しているモノも少なくない。
 きっと彼なら、こうする事で思い出すだろうと……そう、思ったのだ。

「あの東区の店のメシ、練兵の後だったし最高に美味かった!」
「俺なんかゆえゆえから手ぬぐい受け取って鼻血出しちまったんだぜ!」
「えーりんに一緒に蹴られたのは俺でさぁ!」
「俺のガキなんかいつでも御大将のくれたおもちゃで遊んでんだ!」
「副長達と過ごした休暇、バカばっかやってすんげぇ楽しかったよなぁ!」

 語るは思い出。共に過ごした大切な日々。誰よりも近しい彼であったから、彼らは泣き、笑いながら語る。
 覚えていますか、と誰かが叫んだ。
 楽しかったよな、と誰かが笑った。
 嬉しかったぜ、と誰かが感謝した。
 楽しい日々を、どうか思い出してくれ。俺達はあんたの幸せも知っているから。だから絶望なんか掻き消してやる……と。

 静寂が広がったのは彼が目の前で立ち止まるとほぼ同時であった。

 憂いに満ちた瞳の色と、悲哀に満ちた苦悶の表情に、絶望が一つ。
 彼らは良かれと思ってやった。戻ると思ってやった。だからなんら罪はない。きっと、それで戻る事もあるだろうから。

――ごめん……俺は……お前達の主じゃないんだ

 しかし、戻らないなら……今の彼の心を切りつける刃でしかない。一つ一つの言葉が今の彼を切り裂き、追い詰めていく。
 しん、と静まり返るその場には道化師が一人。優しくて哀しい笑みをふっと浮かべた。

「……お前さん達には嘘はつかん」

 震える声は今にも涙を零しそう。その笑みは、自責の海に沈み込む時の彼と同じであった。
 死んだバカ共に、殺した敵達に、いつか死なせてしまうモノ達に、謝ることなど決してしない……矛盾だらけの黒と同じモノが其処に居た。

「……もうちょっとだけ、待ってくれな? 頭ん中に引っ込んじまってる黒麒麟のバカ野郎を、必ず戻してやるからさ」

 目に居れた途端に、耳に入れた途端に、慟哭が張り上がる。幾つも、幾つも。
 自分達の言葉が今の彼を傷つけた。ずっと彼を見てきた彼らは……自責と絶望の渦に呑み込まれる。

「……っ……なんで……」

 心の叫びを受け止めない彼では無いから、こんな事で嘘をつく彼では無いから、この絶望が現実だと受け入れるしかなかった。

「なんでっ! なんで御大将が……壊されなきゃなんねぇんだよぉぉぉぉぉっ!」

 ずっと我慢していた絶望の叫びが天高く響き渡った。
 黒麒麟の身体は一人残らず膝から崩れ落ち……大切なモノを失った悲哀と、自分達で戻せない無力さで、男の誇りと意地すら捨てて子供のように泣き叫んだ。


 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。
キリが良かったので分けました。


月ちゃんが覚悟を決め、徐晃隊は先に彼と邂逅。


袁家のアレコレ、華琳様と彼、回顧録は次回。


ではまた 
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