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乱世の確率事象改変

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赤は先を賭し、黒は過去を賭ける

 大きいというだけで人は恐怖を感じる生き物である。
 猫が虎並に巨大な体躯をしていたのなら、間違っても大抵の人は飼おうなどと思わない。
 もし、命を奪う武器がそのような変化を遂げていたならば、脅威を感じずにはいられないのは自明の理。

「撃ち方用意っ!」

 前掲にして腰低く、緊張した面持ちで大槌を構える斗詩は、隣でにやける明の声に生唾を呑み込んだ。
 射程範囲ギリギリのこの場所にまで、敵の兵器からの攻撃が届くのか否か……彼女達には予想も出来ない。
 幸いな事に、曹操軍は城壁の上に見えた物体を下げただけで何もしてこなかった。
 遠くにしっかりと見えるのは一人だけ。漆黒の様相から、誰であるのかは理解出来た。
 白い輝きがチラリと見えて一寸心臓が高鳴ったが、相手はそのまま動こうともしない。不気味に過ぎるが、迷いは思考を曇らせるだけだと頭の隅に押しやる。

「誘ってる、か」

 感情の挟まれない声で明がぽつりと零した。彼女は斗詩よりも戦場の嗅覚……いや、人の心の動きを悟る能力が鋭い。
 この僅かな時間で読み取った明に感嘆して、斗詩は吐息を一つ宙に溶かした。
 目線は逸らさない。逸らせるわけがない。敵の城壁を油断なく見回し、グッと脚に力を入れる。
 何もしてこないなら、彼女達袁紹軍はこの兵器を使うだけである。
 小さく、彼女達の横で火が灯った。撃ち出す槍の先、木で出来た部分の中央にはくり抜かれたくぼみがあり、内側には油を染み込ませた布が打ちつけられて燃えている。

「あはっ」

 隣で小さく笑う声は少女のように甘く、まるで恋人との逢瀬を楽しんでいるようだ、と斗詩は思う。
 胸いっぱいに息を吸えば、誰かが生唾を呑み込む音がはっきりと聞こえた。

「撃てぇっ!」

 楽しげな声が上がった瞬間、特別製の弦の弾ける音が響き渡り、巨大な槍が……官渡の城門に向けて放たれた。
 緩い弧を描く槍の速さは小さな武器と同じに鋭く、風切り音は誰も聞いた事が無いモノであった。
 それが辿り着くまでのほんの少しの間、曹操軍も袁紹軍も、思考に空白を作られ、目で追う。ただ、城壁の上の男だけは……なんら動きを見せず、他の兵士達のように城壁の上から身を乗り出さず、彼女達を見据えていた。

 場に響いた轟音は、衝車が城門にぶつかる音より尚大きく、鋭かった。

 新たな兵器の産声と言えよう。歓声が上がったのは袁紹軍。僅かにどよめきが上がるのは曹操軍。互いに、その兵器の威力を理解した。
 人の壁では止めきれない智の力が、これより後の戦場では振るわれ続けるのだ、と。

「次っ! もたもたすんなっ!」

 快活な怒声が響き、兵士達は瞬時に二度目の射撃の為に動き出す。バリスタの威力に惚れ惚れしながら、頭の中に城門を遠くから無傷で壊せる未来を想像しながら。
 兵士達と違い、斗詩と明は警戒を解かない。心が緩むはずもない。あの男は何も動かなかった。微動だにせずに、斗詩と明を見続けているのだ。油断など、出来る訳がない。

「各部隊千人長に伝令! 同兵器を使用し三面の城門を打ち壊せ! 杭の打ちつけられていない南側は攻めるなっ!」

 分けすぎると統制が取れなくなる為に、夕と郭図は三つの面を攻略する事を選んでいた。さすがに他と全く違う組み方をされている面には不用意に近付けないというのもある。曹操軍が其処から逃げ出してこの官渡を放棄するならば勝ちが確定、という理由も一つ。逃げ道を敢えて残せば、思考に油断と隙を齎せるのだから。
 曹操軍はまだ動かない。正面の城門を無傷で壊せるなら御の字だが、二人ともがこの戦場に気持ち悪さを感じていた。

「ねぇ、ちょこちゃん」
「分かってるって。相手は誘惑してるんだよ。生身の人間が近づくのを……虎視眈々と狙ってる」

 敵の狙いはそれしかない。自分達が城門を壊して入り込もうとするのを待っているのだろう。なら、使ってくる兵器や罠は限定される。

――勝ち気に乗らされたわけだけど数で押し切れるかどうか……

 明は相手の思惑を理解した上で命じている。この正面よりも先に、東西の城門で何が起こるか確かめさせたかったが故に。
 持てる手段を全て使い、通じるかどうかも威力偵察の内。必要な犠牲を消費する事に、なんら躊躇いはない。
 黒が目を光らせているこの場は攻めさせない。不可測ばかりを齎す男を動かす方が危険だと感じていた。
 また、弦が弾かれる音が響く。轟音が鳴れば、兵士達の心も湧き上がる。

「秋兄と正面から戦うのは初めてだもんねー」
「どうしたのっ?」

 二撃目が発されると同時に紡がれた言葉は掻き消され、斗詩が大きな声で聞き返すも、明はくつくつと喉を鳴らした。

「なーんでもない♪」

 舌を出して答えれば、斗詩は首を捻った。ふるふると首を振って、斗詩にもう一度なんでもないのだと示した。

――夕とあたし、鳳統と秋兄……徐州では二対二で負けちゃったかんね。警戒するに越した事はないや。

 残された策だけで手玉に取られたのは記憶に新しい。街全体を利用した異質な一手を思い出すと、そのまま突っ込むなど愚策に過ぎた。
 彼女の判断は半分正解。
 初撃が成功した時点で下がっては兵の士気も下がる。外側に火が燃えつき始めたのを見て下がっても同じこと。
 しかしこの場に居座る事がどういう事か、彼女達は分かっていなかった。

「ちょこちゃんっ!」

 ゆらり、と城壁の上で彼が動く。明は口を引き裂いて、何が来ようとも対応しようと思考を回し始める。
 城壁の隅に上り剣を天に掲げた彼を見つめ……斗詩の頭には夕暮れが思い浮かんだ。

 あの時は三人。白馬の王と片腕と昇龍がそうやってこちらに敵意を向けていた。
 今回は一人。黒だけがこちらに残虐な笑みを向けていた。

 心が逸った。逃げ出したくなった。このまま此処にいるなと脳髄に怯えが染み渡る。

――ああ、これはあの戦の続き……あの時あの場所に居れなかった悔いを、黒麒麟は此処で返すつもりなのかもしれない。

 言いようのない不安が胸を締め付け、冷や汗がどっと噴き出した。されども、斗詩は勝つ事よりも生き残ることだけに意識を向ける。
 ゆっくり、ゆっくりと振り下ろされた長剣、ぴたりと向けられた切っ先の鋭さに、彼女は大きく息を吸い込んだ。




 †




「アレはまだ放っておいていい」

 零された黒の言にも疑問を上げず、真桜自慢の工作兵達はただ時を待つ。
 熱を帯び始めた城門。焼ければ木が脆くなるは必然。そこに何度もバリスタでの射撃を打ち込まれては直ぐに決壊するであろう。
 しかし彼はその程度の事は気にしないでいいと言った。城門が壊れるなど、この官渡の要塞に於いてはなんら問題にはならない、と。兵達に不安はあるが、それでも黒麒麟が言うならと抑え込んで焦りを打ち消せる。
 隣に侍るのは既に朔夜だけ。真桜は風の向かった西門の指揮に向かっていた。
 矢の一本さえ飛んで来ずに城門が破壊される……通常の攻城戦ならば有り得ない事態ではあるが、すっと剣を降ろし、城壁の端から降りた秋斗は緩い表情でのんびりと構えている……ように見せていた。

「……これでいいか?」
「はい。目立つ行動を、して何もしないというのは、それだけで効果を上げられます。敵の思考を縛り、時間を使わせれば他の被害を増やせますから」
「クク、肩透かし、拍子抜けってわけだ。おもしれぇ」
「虚を織り交ぜ、隙が出来た所に実の一撃を。戦の常道、です」
「同時に敵の有力な指揮官を封じる、か。まあ、寄って来ても問題は無いわな」
「むしろ出てきた、方が多くを殺せますから来て欲しい。此処は蜘蛛の巣です」
「蜘蛛の巣、ね……ならあいつくらい捕まえたい」

 そう言って指差すのは赤い髪の女。顔を向けようともしない彼に、朔夜は少しだけ近寄った。
 目を凝らして見てみれば、自分には無いたわわな果実が実っていた。鎧の膨らみからその大きさが見て取れて、むうっと口を尖らせる。さすがに口には出さなかったが。

「……情報通りなら、あれが張コウ、ですね」
「ああ、俺の真名を呼んだっていう張コウだ」

 意味深な言い方。不安を覚えた朔夜は彼に顔を向けるも、渦巻く黒からはいつものようには心が読み取れない。

「何か、思い出したんですか?」
「……重要かもしれんって感覚だけだ。他には何も」

 嘘だ、と直ぐに分かる。こういう言い方をする時の彼はナニカを隠している。
 詳しく聞いても躱して煙に巻くだろう。秋斗は自分の事をあまり話したがらないし、朔夜も深く聞きたくない。
 それでも不満は湧き立つ。きゅむきゅむと何度も自身の手を握った。気を紛らわす為のいつもの癖。今回は……抑え切れずに彼の手を握った。
 大きな掌に小さな掌を重ねて、握って良かったと心底思った。彼の手が震えていたから。

――月姉さまのように癒せたらいいんですが……。

 少女の想い儚く……するりとすり抜けた温もり。彼はすぐその手を離した。

「あ……」

――どうして?

 落ちそうになった言葉を呑み込む。ぎゅうと眉を寄せて、悲哀のままにじっと彼を見つめた。
 首を向けただけで合わされた視線に、息を呑む。渦巻く黒に吸い込まれてしまいそう。

「……朔夜、敵軍撤退の時に追撃するなら俺が出たい。いいか?」

 浮かぶのは初めて見た感情の色。昏い暗いその色は、寒気がする程に冷たかった。

「きゃ、却下、です。秋兄様は出てはダメ、です」
「何故、と聞いても?」

 薄く裂かれた口、纏わりつく声音にぞくぞくと這い上がるのは恐れであった。彼を失う事よりも、彼を突き動かしているその感情に恐ろしさを感じた。

――あなたは、誰、ですか?

 どうにか呑み込んだ言葉。此処にいる秋斗が別人に感じてしまう。濁った瞳も、薄く浮かんだ笑みも、黒麒麟を演じようとしている時とも違う異な姿。
 僅かに目を逸らして、代わりに放つのは彼を呼び戻す為の方策。

「……逆に聞きます。何故出たいのか、利の面で説明してください」

 怯えたままでもう一度視線を合わせ、じっと見つめ続けると、彼は目を瞑ってため息を吐いた。後に開いた目には、もう昏さは見当たらない。

「……うん、俺が出る利は無いな。すまん」

 落ち着いた様子にほっと一息。
 計画上、彼が此処で打って出る利は全くない。あるとすれば記憶が戻るかどうかだが、この官渡が終われば張コウを手に入れられると踏んでいるのだから無理せずとも待てばいいのだ。
 彼を動かすような昏い感情で思い至るのは……憎しみ、といった所。しかし月から聞いた黒麒麟が、誰かに憎しみを持つとは思えない。

「張コウが、憎いんですか?」
「……どうやらそうらしい。過去のぶっ壊れてた俺が誰かを憎んでたとは月も言ってなかったし、俺もそうだと思うんだがなぁ」

 尋ねても頭をがしがしと掻いて悩む秋斗。彼に分からない事が朔夜に分かるはずがない。
 先ほどの彼は別人のようだった。普段の切り替わりとは違う。彼でない誰かが乗り移ったかのような……そんな気がした。

――怖い……あなたが“人”から外れて行くのが、怖い、です。

 知りたいとは思う。朔夜は彼の苦しみが何かを理解したいと希っていた。

――でも、分かってます。あなたはきっと人に言ってはならない秘密を内に封じている。そうでなければ、弱いあなたが強くなれるわけがない。

 ここ数か月の付き合いで朔夜は彼の多くを読み取った。
 異端さばかりが際立つが、人としての彼は本当に普通の人物で、逃げる事が多いのは弱さから。
 世界を変えようなど、到底しないはずの人。そんな彼が他者の為だけにと強くなるには、自分を信じて欲しいと願う程の負い目を背負わなければ成り得ない……そう、朔夜は予想していた。
 その領分に踏み込むのは優しさではなく、労りでもなく、ただの自己満足の欲深さ。支えたいと言いながら自分の言い分を押し付けるのは迷惑でしかない、と彼女は優しい月の在り方から学んでいた。
 故に、朔夜は聞かない。

「……この戦が、終わってから考えるのが吉かと」
「だな。記憶が戻れば分かるだろうし」

 其処でまた、轟音が鳴った。
 目を向けるとバリスタの周りで敵が忙しなく動いている。また射撃を行ったのだ。
 他にも動きが一つ。誰の指示なのか、敵は陣形を整え始めていた。

「敵、の動きは虚です。どちらにも対応できるように」
「同じ事をやり返してきたわけだ……ま、西と東から合図があれば、次はこっちの番だな」
「下は、どうしますか?」
「予定通り、城門がある程度破壊されたら“内側から”倒せばいいだろ。燃えてる木の上に油を注げば、アレを準備する間は通れないし見えないからな」
「“下の下”は?」
「そっちも予定通り、一定以上の敵兵が動いたら“砕こう”か。外から順繰りに」
「以下でも投石器とアレは使うんですか?」
「城壁上から兵に対しての攻撃は小型投石器だけで十分だ。その代わり……クク、あいつらにはアレをお見舞いしてやりゃいい。動かないなら兵にも、な。敵はもう蜘蛛の巣に掛かってんだから」

 にやりと笑って、彼はバリスタの側に並ぶ二人を指さした。
 朔夜はその意図を理解し、愛らしい笑みを浮かべる。
 彼女の問いかけは答え合わせ。彼が自分と同じ対応を選ぶかどうか、試していたのだ。

「正解、です。死ぬ事はなくても、怪我くらいはして貰うのがよいかと」

――別に死んでくれてもいいですけど。

 朔夜の頭に昏い欲望が湧く。
 あの赤い女を得る事で彼が苦しむのなら、彼を彼で無くしてしまうのなら、彼女にとっては不正解。

 賢狼は心の奥まで黒への想いに染まっていた。





 †




 東門も同じくバリスタによる一撃を受けた。轟々と燃える炎が城門を焦がすも、焼切るまでは長い時間が掛かるであろう。
 その間にと、袁紹軍は通常の攻城戦と同様に矢を以って兵数を減らし、城壁に梯子を掛けて突破せんと攻勢の構えを見せた。
 ただ、この戦場では梯子を持ち寄るのは下策と言える。
 打ち付けられた杭の群れによって長い梯子は限定された方向にしか進めず、咄嗟の回避行動に支障が出る。細かい部分だが、その効果は絶大だった。
 秋蘭が指揮する夏侯淵隊は射掛ける矢を局所的に浴びせ、消費を最小限に抑えられるのだ。
 当然、真正面にも左右にも、追随する兵士達が盾を以って守っている……が、その程度のモノは黒に従う賢狼にも、覇王の為の天才軍師二人にも読み筋の戦術。全ての準備は万端であった。
 口を引き裂いたのは……稟。

「秋蘭」
「うむ……発射用意!」

 掛け声は大きく、凛々しい。
 一言の指示だけで全ての兵が気を引き締めた。皆、ゴクリ……と生唾を呑み込む。城外からの雄叫びが遠くに感じた。
 見れば城壁の各所は歯抜けのように板が張られている。木の板がずらされて覗くその本来のモノよりも小さな兵器は……朔夜と真桜が延津で使用したモノと同じ。

「まだだ……」

 杭の数は手前から三十列。未だ敵は二十五の所を駆けていた。
 各兵器の隣では、秋蘭と稟に視線を送る指示役がそわそわと身体を揺する。

「まだです」

 逸る心を抑え付けられるように、稟と秋蘭は兵達に声を投げる。敵は漸く二十を過ぎた。
 緊張からか、皆の額には脂汗が浮かんでいた。

「……っ」

 十五に差し掛かった所で、秋蘭は大きく息を吸い込んだ。敵の蹂躙まで、僅か数秒。
 十一に差しかかるか否かの所で……秋蘭と稟が同時に声を張り上げた。

『ふぁいあっ!』

 異質な掛け声と振り下ろされる手。
 遅れて、弾ける音が城壁の上で同時に鳴った。計算された角度、照準、タイミング……どれを取っても問題は無く、突き進む袁紹軍に、斜めと縦から、人の頭程度の石が弾丸の如く襲い掛かった。
 その数、ゆうに二十を超える。
 城壁を突破する梯子は長い。走る方向が限定されているならば……狙うにはいい的でしかなかった。
 鈍重な肉を打つ音が散らばる。何処かでは木の砕ける音が鳴った。どこもかしこも人の列が崩れた。東に圧し寄る敵軍全てが、広大な戦場でその瞬間に動きを止めた。飛んでくる石の速度に、敵は恐怖を刻み込まされる。

「っし!」

 兵達から歓声が上がる中、拳を強く握って、稟はガッツポーズを一つ。
 普段なら有り得ない稟の歓喜の仕草に、秋蘭は苦笑を零しそうになるも、急ぎで兵士達に指示を飛ばす。

「次弾装填っ! 梯子を全て壊せ! 大型っ、杭の数より距離設定! 目標、敵兵器!」

 瞬時に、曹操軍の兵士達は気を引き締めて……兵器の威力から笑みを浮かべて行動に移った。
 杭は照準を合わせやすいようにと打ち付けたモノでもあった。勿論、移動櫓や梯子対策でもあり、敵兵が抜こうと止まったのなら矢や石の的にも出来る。
 柵にすれば敵は壊そうと躍起になるだろう。壊してから近付こうとするだろう。それでは意味が無い。ただそこにある杭だからこそ、思考誘導が為せるのだ。

「ふっ、城門が焼切れるまで待てばよかったモノを」
「それは仕方ありませんよ。焼切れる前に脆くなった城門を“ばりすた”で破壊し即時突入、通常の攻城戦も織り交ぜて多数に手を割かせる……私でもそういう絵図を描きます」

 浮足立つ敵兵には矢の雨が降り注ぐ。城壁の外側は混乱に支配されていた。
 梯子が無ければ敵は矢を打つくらいしか手が無い。それさえ、兵器に自分が狙われるかもしれない恐怖を感じてしまえば狙いが定まらず……精強に鍛え上げられた秋蘭の弓部隊からすればいい的である。
 流れ矢に気を付けつつ外を見やりながら、二人はうんうんと頷いた。

「改良型投石機……やはり小さい方が速さが出ますね」
「城を守るだけならこちらの方が使い勝手もいいな」
「ただ、敵に真似されて大型の投石器を作られると城壁もろとも破壊される恐れが出てきます。現段階では“ばりすた”の的にもなりますし……」

 ちらりと兵器を見れば、兵士達が次々に石を打ち出していた。
 少しだけ開けた間では、如何に矢の対策に板を取り付けていると言っても、バリスタの槍は防げない。
 袁紹軍は先にこちらを狙うべきだったのだが、ギリギリまで板で隠されていたので見えるはずも無く、凄惨な状況を作り出してしまったわけだ。
 初の実戦では判断が鈍る。城門がまだ破壊されていない状態でこちらの兵器の攻撃を受けても、袁紹軍はバリスタをその対応に向けられない。そこまで全て軍師達の読み筋。

「心理的な駆け引きが何より重要視される……これはそういった戦になりました」
「互いに兵器を持ち寄れば確実に長期的な城攻めになる、か。徐晃の言った通りだな」
「然り。投石器が攻城戦で実践投入されれば、長期日数を以って城壁自体を破壊するといった手段にも乗り出せるでしょう。ただ……やられて一番厄介なのは彼の言っていた“ういるす”……死毒ですが。腐乱死体や死骸を投げ込んで疫病を流行らせるなんて……恐ろしいにも程があります」

 それは死んだ者の身体を利用する、倫理観を無視した策。儒教が根深く浸透しているこの大陸では、まず使われないモノ。
 ぶるり、と身震いをした稟は自分の身体を抱きしめた。彼の異質な知識が敵でなくて本当によかった、と。

「用水路を封鎖しての断水よりも、水場に浸されるだけでも恐ろしいな。疫病は気付きにくいし流行るのは早い。飲める水が無ければ……人は生きられんよ」
「水瓶に溜め込んでいるのでしばらくは耐えられますが、見えないというのが何より恐ろしい」
「全く……目に見えないモノを信じろというのだからさすがに首を傾げたが……」
「曖昧ですが実例は古くから立証されてますよ。ねずみの死骸や糞もそうですし、戦後の近辺には疫病が多く見られています。目に見えずとも原因を知っているというのはそれだけ対処が出来るという事。彼が華琳様の街改革で衛生面の強化に重点を置いた本当の理由はそれでしょう」

 風に示した事案の本当の価値は其処にあった。
 彼の知識は異質に過ぎるが、彼女達のような智者が読み解けば理屈が通るモノが多く、信頼するに足る。

「む……“ばりすた”の破壊が出来たか」

 バキバキと木が割れる音が響き、見れば敵兵器は大きな石に潰されて壊れていた。
 兵達から歓声が上がる。こちらの兵器の有用性を確認出来たなら、それは何よりも心を沸かせるモノであるが故。

「……これは嬉しい誤算ですね」
「一発で壊せたのは僥倖だろう。投石器は大型になるほど精度が落ちる。さて……この後はどうする?」
「予定通りです。こちらには兵器がある分、通常よりも優勢に事を運べる。それでも無様に攻め続けるなら……っと、撤退の銅鑼が鳴りましたね」

 話の途中で、目の前の袁紹軍は撤退を選択し、矢に射かけられながらも下がって行った。無論、小型と大型投石器からの攻撃も止んでいない。
 ほっと安堵を一息。

「まあ、梯子も無し、城門だけに希望を持って攻め続けるわけが無いだろうな。稟はどう来ると見る?」
「三面全て押し返せばしばらくは睨み合いが続くかと。真桜達が掘った分の土嚢を積み上げて夜まで持たせます。城門の予備は作ってありますから、後は組み上げて据えるだけです」
「くくっ、敵も一日で城門が復活するとは思うまい」

 楽しそうな秋蘭に対して、稟は呆れのため息を吐く。

「……あの人は悪戯が好きなせいなのか、人の嫌がる事、苦しむ事、悩む事をよく理解してますよ。嫌がらせを全て策に転じてくるあたり、発想は軍師のそれと言っても過言ではありません。強いと思った兵器が全く効かない場合も、延々と同じ事をさせられるのも……心を折るには最適解です」
「そうやって思考誘導を仕掛けた先には、華琳様の愛する軍師達があいつが考える嫌がらせをより強力にした罠を張っているのだから、心底恐ろしいと思うよ」

 秋蘭が称賛と共に笑い掛ければ、稟は照れて言葉に詰まる。
 頬が僅かに赤い。咳払いを二回して、クイ、とメガネを指で押し上げた。

「……褒めるのはまだ早いのでは? 軍師が求めるモノは結果ありき。予想予測の段階だけでは、策に嵌めたとは言えません。此処で褒めるべきなのは秋斗殿や朔夜、詠と月や真桜等の事前準備を行っていた面々です」
「素直に喜べばいいモノを……」
「もし……か、華琳様があいっ、愛してくれていると言っても、これだけでは満足など出来ませんから……勝利した時にこそ、我ら軍師は喜ぶべきですっ」

 わたわたと手を振る彼女は少女のよう。みるみる内に顔が赤くなるが、戦場である為か鼻血は噴き出さない。
 面白くて笑い出しそうになるも、秋蘭はどうにか抑えた。

「そうか、ならその時の反応も楽しみにしておくよ」

 意地の悪い言い方だ、と稟はジト目で睨む。そうしてコホン、と咳払いをまた一つ。

「……では私は、あなたはやはり素晴らしい将です、と言っておきますよ、秋蘭」
「勝利した時にもう一度言って貰おうか」

 二人はくつくつと笑い合った。
 与えられた仕事を遣り切った高揚感からか、皆の表情も安堵に包まれる。
 されども彼女達は曹操軍。気を抜かずに警戒を怠らない。
 まだ、この戦場は終わらず、敵を打ち倒してもいないのだから。




 †



 其処には阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっていた。
 西門の城門は破壊され、敵兵は蜜に群がる蟻の如く大量に押し寄せているのだ。袁紹軍の猛烈な攻勢、と付近だけを見れば誰もが言うだろう。
 しかし……曹操軍の優位は変わらない。
 こちらのバリスタも既に破壊済み。本来、バリスタは支援兵器としての用途が大きい。しかしこの世界では新しい為に、主力としての扱いを持たせてしまったのが悪かった。
 東と同じく梯子も既に壊れている。なのに何故、兵が城壁に群がっているのか……それは一つの策が成った証であった。

「“しょっとがん”、とお兄さんは言ってましたか」

 のんびりと紡いだ言葉はいつも通り。とはいえ、内心でその兵器の威力に風の手は震えていた。
 群がる敵兵とは相反して、朔夜が蜘蛛の巣と呼んだ杭の網目の中ごろでは、敵兵の多数が倒れ伏している。
 呻くモノ、泣き叫ぶモノ、もがくモノ、這ってでも逃げようとするモノ……全ての兵の身体にはある物が突き刺さっている。

「うっわぁ……やっぱこうなるんやなぁ」

 真桜の落ち込みは悲哀から。絡繰りとは結果を求めて生み出すモノであり、彼女は誰よりもそれをどういった用途の為に作り出したかを理解していた。
 落ち込むなと言い聞かせて、くるくると指で笛の紐を回し始める。この兵器の指示にはこれを使おうと、秋斗が決めていたのだ。
 この兵器は、黒麒麟の嘶きを以って放たれるに相応しい……と。

「嘗ての部隊、その最終手段である捨て奸から思い付いたらしいですがー……ただの竹が此処まで強いとは思わなかったのですよ。よく思いつきましたね」
「投石器の頭部分だけ改良して沢山の槍投げれるようにしよう、なんて兄やんが言うんやもん。作ってみたら……えげつない兵器になりよったわ」

 街で兵器開発の案を練っていた時を思い出して、真桜は苦笑を零す。
 放たれたのは竹槍であった。それも、重心がブレないようにと、先端に土を詰めた物。
 投石器は円軌道を描いた発射装置が途中で止められ、慣性の法則を利用して石を投げるモノだが、別に飛ばすだけなら石じゃなくてもいい。
 大型の投石器では余り速さが出ない為に、槍を降らせる事は出来ても投げるには不十分。しかし小型ではどうかと考えれば……軽い素材のモノなら速く多くを飛ばせる。
 真四角の箱、中身が蜂の巣のように区切られたモノに短く切った竹を詰め、小型投石器の射撃角度を変えれば……この時代では脅威な兵器の出来上がり。
 真っ直ぐに飛ばす事も、山なりに飛ばす事も可能で、精度は真桜が作った為に折り紙つきである。
 一つを作れば複数生産は可能。杭を打ちつけたので移動櫓を敵が使わないと読んで、大型をバラして小型の制作に物資を当てていた。
 竹は研げば鋭い。乾かせば固い。殺傷能力も重心固定と速度を加えれば言うまでも無い。黒麒麟の投槍よりもはるかに強力である。そして何よりも、手に入れるのも工作するのも楽で、安価であるのだ。

 真桜が嘶きを鳴らせば、一斉に竹槍が飛ぶ。
 袁紹軍が群がってきた時機を見て、真桜と風はまずこの兵器を使った。
 効果は見ての通り、後ろに下がれば狙われると見て、怯えてしまった敵兵達は城壁の周りで待つしかない。誰が好んで串刺しになどなろうとするのか。
 城門が破壊されれば中に入れると思うのも間違いだ。限定された範囲なら、少ない物資で火を燃やす事も、待ち受けさせた同じ兵器で串刺しにされるか弾き飛ばされる。
 人が燃え、人が吹き飛び、人が串刺しにされる。そんなただなかに飛び込む気概があるモノは少ない。抜けても多量の精強な兵士が待ち構えていて、無駄死にに等しい。
 たった一種類の兵器使用で統率は乱れに乱れている。袁紹軍は城壁の周りで怯えている。それなら、矢を射掛けてはいるが……風がこの戦場をより上手く利用しないはずがない。

「では、そろそろ次の策を発動しましょうか」
「ん、せやな。此処で少しでも減らしとかなあかんのやっけ?」
「はいー。この後にする事の為には、余剰分の兵は少しでも割いておくべきなのですよー」

 とてとてと風は城壁から離れた。側付きの兵士が流れ矢に注意を払いながら。
 すぅっと息を吸い込んで、彼女は大きく手を振る。

「ではみなさーん。少し熱くなりますけど我慢しましょうねー。はじめー」

 応、とむさくるしい返答が上がる。曹操軍の兵士達は即座に……中くらいの瓶を以って城壁の端まで駆けた。
 中身をばらまく者、そのまま投げる者……手が空いた者から順に下がり、後ろの兵が火矢を打ち上げた。
 手の届く範囲に近寄ってくれたのなら、燃やせばいいのだ。
 轟、と音を上げてそこかしこで火が燃える。服は燃えやすい。鎧は脱ぎにくい。水の無いこの場所では、消化する方法が足りなさすぎる。
 そうして、城壁の前の兵士達はどうにか纏まっていた心をかき乱されて烏合の衆に成り下がる。手の届かない場所に敵がいるのだから、逃げるしか出来ない。

 東側と同じく西側も……曹操軍は圧倒的な優位のまま敵を下がらせた。




 †




 降り注いだのは異常な物体。石以外は来ないと多寡を括っていたのが間違いであった。
 よくよく考えれば分かる事だ。何も石だけを飛ばさなくていい。飛ばすなら、なんでも飛ばせばいいのだ。
 矢の雨なら防ぐのは容易いが……さすがに槍の雨を降らされては対応が難しかった。
 大きな石が飛ぶのは他の場所。自分達よりも後方に向けて、敵は石を飛ばしてきていた。
 連射が効かないのか二の物は遅いが、それでも大きな質量の投擲は脅威でしかない。
 あたしと斗詩には特に多くの槍が降りしきった。逃げるか行くか……考える方が愚かしい。この官渡を攻めるのは現時点では不可能だったのだから。

 秋兄は何もしなかった。だからこっちも何もしないでおいた。城門が焼けて、何故か前に倒れても突っ込ませずに待たせた。
 こちらの兵器の槍に余りがあるからと、不審な所に打ち込んでみたのだが……そこからあの事態は始まった。
 纏まらせれば石。ばらければ槍。兵士達までは守れないし、敵に攻撃を加える事も出来ないから被害が増えるばかり。
 敵の兵器は分かった。威力偵察の効果は確かに得られた。だから……後は下がってじっくり対策を練ればいい。

 全ての兵士に撤退を命じ、届かないであろう範囲まで軍を下げた。
 こうして膠着すれば敵に為す術はない。城の防衛側に出来る事は攻めてきた相手を押し返す事だけなのだから。
 出て来るなら来て欲しい。野戦になれば、こちらの“もう一つの秘密兵器”を存分に使える。そうなれば兵数をより多く下げられる。
 ただ、夕の予測では出て来ない、とのこと。大型強弩でも揺るがないなら、彼女の本来の予定を進もうか。

「……怖かったぁ」

 震えながら、斗詩は兵から離れた所であたしに零した。
 やっと緊張が解けたのだろう。疲労感が濃い顔からは、どれだけ張りつめていたのかが見て取れる。
 兵達と同じように安堵出来る彼女に、少しだけ羨ましさを感じた。

「三つに振り分けた分、死傷者合わせて一万越えてるってさー」
「そんなに……なんだ」
「西側の火が一番被害が高かったらしいよ? でもホントに痛いのは擬似死兵に仕立て上げたモノが全部ぱぁになっちゃった事かなー」

 兵達に城攻めの気概はほぼない。攻める側の方が不利なのは攻城戦で当たり前だが、さすがに普通の攻城戦すら出来ないとなれば論外。
 作ろうとしていた擬似死兵は、敵が優位な状況を打破する為の燃える執念を持たせられたわけではない。生き残る事を最優先に設定したからこそ、彼らは狂えたのだ。
 冷や水を浴びせ掛けられたように熱が冷めるだろう。あたしと夕が与えた恐怖と同等以上を突き付けられては、僅かな違いだが、くだらない烏合の衆に堕ちてしまう。
 逃げ出しはしないように厳しく隊のバカ達に言いつけたから最低限は問題ない。
 斗詩もよく分かっているからか、難しい顔をして押し黙った。
 どちらともなく、二人で地べたに腰を下ろす。遠くに見える官渡は、戦が終わった後では不気味に見えた。
 風が気持ちいい。目を細めて頬を擽る髪の毛を片手で弄ぶ。くるくると回して解いてまた回す。
 自分も斗詩も、服がボロボロで身体は傷だらけ。致命傷はなかったけど面として迫る大量の槍は躱しきれなかった。両手なら無傷でいけたのに……とは言っても仕方ない。

「杭を抜いて普通の攻め、なんて甘いかな?」
「無理。抜いてる間に狙い撃ちにされるよ。おっきな石は鉄の盾でも防げないし。東と西の様子から判断すれば梯子は却下。鉤付き縄で昇るなんて論外だし、少数が入っても曹操軍相手じゃ攪乱のしようがないね」
「壊れた城門を突破するのは?」
「物量で? 多分無理だね。対策準備してたから燃やされても動じなかったんでしょ。攻城戦は外だけじゃない。門を抜けた後に待ち伏せとか、迷路でも作られてたら最悪じゃん?」
「じゃ、じゃあ南側を叩くのは――――」
「普通ならそれくらいだろうけどあたしは反対。擬似死兵に鍛え上げれなくなった時点で攻城戦はしない方がいい。勿体ないんだよ、時間も、兵数もさ」

 彼女は攻略の糸口を考えていたらしい。
 無駄。無駄な思考だ。籠ってくれてるなら攻めないでいい。どうせ覇王が来ないと何も始まらない。
 相手は兵数が足りない。こっちは時間が足りない。外部の動きも合わさって、官渡を攻めるのはもうおしまいにするべきだ。
 城攻めの方法は……幾つかある。でもするならまた被害が増える。

 例えば地下道を掘る事。城壁の重点を崩してしまえば崩壊も為し得るし、内部侵入での攪乱も出来るだろう。ただし余裕を見るなら一月とか二月とか掛かり、敵にはバレバレで賭けに等しい。
 調略は効かないし、物資の枯渇は狙えそうにない。石も槍も、向こうは手に入れやすいモノしか使っていないのだ。まあ、油は攻め続ければ切れると思うが、どれだけ被害が出ることか。
 きっと夕はこれ以上官渡に構わない。そんな無駄な時間は、あたし達にはない。且授様の命の灯は、刻一刻と小さくなっているのだから。郭図や上層部にばれないように探してはいるが、本腰を入れて探すには早い内に終わらせるに限る。
 何より、幽州から来る白馬義従にも対応を当てなければならない為に、自然と時間は限られてくる。

「初めは兵の被害を増やしたのに、こっちでは兵の被害を気にするの?」

 訝しげに問いかけられた。斗詩からすれば尤もな疑問だろう。
 でも見ている場所が違う。違いすぎる。斗詩も猪々子も本初も……優しすぎ。

「あのね……勝利条件は曹操の敗北であって官渡の攻略じゃないんだよ。確かに官渡を奪えば勝てるけど、あたしと夕が欲しい最高の結果は曹操が従う事、そんでもって袁家を……本初と公路以外皆殺しにする事、なんだよ?」

 驚愕に目を見開いた斗詩はぱくぱくと口を開いたり閉じたり。

――何も言えないとか……甘いよ。だってあたし達が負けたらもっと酷い事になるのに。怖がるから教えてあげないけど。

「だから精強で従順な兵が欲しいし、多くに生き残って貰わないと困るんだよ」
「っ……姫に親族と親を殺せって言うの!?」

 反対するのは分かってた。世界の既成概念に反逆を上げる手段だろう。儒教に於いて家族の殺しは、最悪の部類だ。
 ただ、そうでもこうしないと、腐ったモノは取り除けない。

「それがなに? 親だから命くらい救われるべきって? 親を殺すのは本初が悲しむからダメだって? 本初が親を殺すのはイケナイ事だからダメだって? 甘ったれんな、斗詩」

 舌で唇を舐めると、彼女の顔が歪んだ。
 自分の欲望もある。昏い暗い怨嗟が心には渦巻いている。それでもあたしなりに理を説いてやろうか。

「悪にも善にもなりきれないなら、乱世なんかに名乗りを上げるべきじゃないよ。生温さを残すから人は付け上がって世界が腐っていくんだ。人を外れて天に上りたいなら……親くらい生贄に捧げたらいんだよ。本初が選ぶべきなのはそういう道。覇道の贄に捧げるのは、己の身以外の全てじゃなくちゃ」

 言い切ると、背中にじわりと熱さが灯った。
 嫌な感覚。自分の親が最後に残したキズが疼く。感慨すら湧かないが、此れのおかげで夕に巡り合えたのだから良しとしよう。
 恐れる視線がまだ突き刺さっていた。何を恐れてか、大体分かる。

「斗詩、本初はあたしみたいにはならないよ。大事なもんが残ってるもん」

 言い当てられたからか彼女はびくついた。その肩にポンと手を置いて、ため息と苦笑を一つ。

「あんたと猪々子がいるじゃん?」
「……そんな軽いモノ、なのかな?」

 疑問は尤も。あたし以外親を殺したことが無いのだから仕方ない。
 でも、難民ならきっとそういう奴は溢れてる。貧困と飢餓に喘ぐ奴等にとっては、そこらへんにある不幸な出来事や成り立ち、結果に過ぎない。
 本初とあたしは、たまたまめんどくさい家柄や状況だっただけで、きっとそれらと何も変わらないのだ。

――人は皆、死んだらただのクソ袋。だから一つの命で足掻いて、もがいて、苦しんで、絶望して……それでも生きたいと願い、定めに抗おうとするから綺麗なんだ。

 斗詩の感覚では分からないだろう。彼女はその輪の中にいるから分からない。外から見ないと、この感覚はきっと分かって貰えない。
 続けて言葉を返そうとしたが、一人の兵士が近づいて来たから止めておいた。

「張コウ様、顔良様。陽武まで撤退せよ、との伝令です。張遼と夏候惇、楽進の部隊が動いている、とのことです」
「なっ……」
「あ、やっぱり?」

 斗詩は驚いていたが、予想の一つではあった。
 官渡に攻め込んでいる間に本陣や烏巣を狙う。戦では当然のやり方。個別撃破や孤立を恐れるか恐れないかで言えば、曹操軍は恐れない部類だ。判断する頭脳が数多もあって、決行する心の強い奴が幾人も居る。

「……夕ちゃんの予測?」
「うんにゃ、これはあたしの予想。陽動の意味も組んでるんでしょ。烏巣にも兵を分けたから、そっちを狙うかもーって見せたいんだよ」
「文ちゃん大丈夫かな……」
「問題ない。相手は八割がた攻めないね。いくら神速と覇王の大剣って言っても、倍以上の兵数に挟撃される方が大問題だもん」

 それが分からないバカなら苦労はしない。猪々子なら攻めてくれそうだけど、夏候惇は別種のバカだ。アレは戦に対する嗅覚が他とは違いすぎる。

「さ、戻ろうかね。速く戻った方がいい?」
「いえ、刻限指定はありませんが……」
「ん、分かった。纏めてすぐ戻るからーって言っといて」

 御意、と頭を下げて兵士は駆けて行く。

――これで官渡もおしまいかー。ただの兵器で人を殺すって……なんかつまんないな。

 味気ない。本当にそう思う。
 人が足掻く姿が見れない。人が生きている感覚が薄い。絶望が其処にあるだけで、諦観の割合が高すぎて面白くない。
 負けるなら敵の手で殺される兵達が見たい。吹き出る血しぶき、はみ出る臓腑、泣いて懇願する無様な姿や怨嗟を込める断末魔。そういった生きてる証が足りなさすぎる。
 人が苦しむ姿が好き。人がナニカを求めて抗う姿が好き。人が生に縋りつく姿が好き。だから、この戦いは面白くないしお腹が減った。
 満たす方法は無いだろうか。敵を捕まえたわけでもないから、味方を食べるのも気が退ける。夕を食べてもいいけれど、さすがに最近頼り過ぎて申し訳ない。
 ふと、いい考えが思い浮かんだ。
 危険な賭けだろうか。それとも安易な考えだろうか。否、楔を打つなら、今だけだろう。
 兵の纏めに向かおうと立ち上がった斗詩に、あたしは伸びを一つして声を向けた。

「斗詩、先に帰っといて♪ あたしちょっと秋兄と話して来るー♪」
「えぇっ!? ちょ、ちょこちゃん!? 独断行動はダメって――――」
「いいの! 後で説明するし、死なないからさ。着いて来たら殺しちゃうよー」

 話なんか聞いてやんない。跳ねる足取りで官渡に歩みを向けた。
 郭図に対して、秋兄とあたし達の関係を疑ってた事を逆手にとってやろう。兵士を連れて行かなきゃこっちの被害も無いし、十分だ。
 あたし一人が向かったら曹操軍は手が出せない。それが出来るのは秋兄だけで、それをするなら彼は曹操軍から離れないとダメになる。
 誇り誇りってうるさいから、あいつらはあたしと秋兄に話だけさせるしかないだろう。
 そんな理屈ばかりこねくり回しても、所詮は我欲が一番大きい。夕の為になる事をすれば、あたしのお腹は少しばかり満たされるのだから。

「ふふっ♪ なんか楽しみだー♪」




 †




 打ち壊された兵器は一基。曹操軍全体の被害兵数は五十にも届かない。結果としては上々であった。
 遠距離から兵器を壊される事もあるのだと兵士達も理解したようで、さらに気を引き締められたのも大きい。
 彼は遠くに転がる死体をじっと眺めていた。深く渦巻く黒には、冷たい光が揺れていた。
 自分が殺したという実感がひどく曖昧だった。それも詮無きかな、彼は指示を出しただけで、刃を振るったわけではない。
 嘗ての自分もこんな感覚だったのか、と思い悩むも、何処か違う気がした。
 あれだけ怖かったのに……自分は壊れているのかと疑いたくなった。
 結果は出せた。被害は防衛戦で有り得ない程に軽微に抑えられたといえよう。
 人を救えたという安堵が来るかと思った。しかし胸に湧いたのは、傍観者のように人の生き死にを眺めているような透いた感覚。空虚な渇望は、一つも満たされなかった。

――これじゃあ朔夜を咎められるわけないわな。

 各所での蹂躙の結果報告に心動かないモノがもう一人。
 当然と受け止め、風と稟の手腕にも満足気な朔夜。経験で勝る彼女達に話を聞こうかとも思ったが、彼が動かないのなら此処で待とうと隣に侍っていた。

「……一人で来たのか」

 じ……と彼の感情を読み取ろうと見つめていた朔夜の耳に、重たい声が響く。
 首を正面に向けると……赤い髪の女がボロボロの姿で、たった一人で歩いて来ていた。
 将なら馬を使えばいいのに、と思うも口には出さず、非効率な事をする敵将を睨みつけた。
 秋斗が歩みを進める。朔夜も同じく……並ぼうとして止められた。

「侍女姿ばかりしてる意味を忘れるなよ、朔夜」
「……や、です」

 止めるも否定。朔夜にしては珍しい素直なわがまま。
 足を止めた彼は、大きなため息をついて向き直り、屈んで彼女の頭に手を置く。
 くしゃり、と一度だけ撫でられた。白に混じる藍の上だけをするりと流されて、秋斗と目を合わせる。

「あいつと話すだけなんだが……」
「それでも、や、です」

 彼の変化を見逃さない為に、とも言わず。朔夜は口を尖らせて首を振った。

「あいつと二人で話がしてみたいんだ。俺が、黒麒麟に戻る為に」

 その言い方は卑怯だ。自分は黒麒麟を知らないから、朔夜は我慢するしかない。
 不安が胸を埋めるも、朔夜は掌を握って顔を俯ける。また、彼が頭をくしゃりと撫でた。

「じゃあ、行ってくる」

 返される声は穏やかで、普通なら信頼を感じるモノ。
 大きくて小さな背中を見つめて、眉根を寄せ、朔夜はきゅむきゅむと拳を握る。

「私は……月姉様の所に、先に行ってます」
「ああ、月光の準備を頼むって伝えてくれ。あの人を迎えに行かなきゃならんからな」

 たたっと駆けて行く少女の足音は耳に軽く。
 彼は城壁の端、兵士達すら下がらせて赤い少女を見つめた。

 にやけた笑顔が不快だった。殺したいと思った。
 なのに何処か、親しみを感じていた。

 どちらの感情が嘗ての自分のモノか分からないが、今の自分には敵でしかない……と心の内に唱えれば、カチリと脳髄が冷え切った。
 背丈はそこまで高くない。ボロボロの衣服が少しばかり痛々しい。輝く黄金の瞳は……透き通って見えた。

「やっほー♪ 久しぶりだね、秋兄」

――やはり俺を知ってるのか。記憶を失った事を言っていいのかどうか……ってか真名とかどうすりゃいいんだよ。

 ノープランである。
 どういった対応をしよう、こう来たらこう返そう……そんな事は全く組み立てていない。
 昔の自分なら、きっと親しげに真名を呼んで何がしかの楔を打ち込んだのだろうと思う。しかし、今の彼は彼女の真名を知らない。
 難しい顔をして頭を振る秋斗に、明は訝しげに眉を寄せて視線を送る。

「どったの? あ、コロシアイした後なのにって思ってんの? それとも公孫賛を追い遣ったあたし達が憎いって? たっくさん殺してきたのにそれはないよね、偽善者さん♪」

 挑発なんだろうか、とさらに悩む。親しげで嘲りも含まれない彼女の態度に、彼は本気でどうしたらいいのか分からなかった。
 頭の中に、彼女が見ていた黒麒麟を留めながら、どうにか視線を外さずに明を見つめる。
 明は彼の違和感にすぐ気付く。自分の皮肉に軽口一つ叩けない男ではないはずだ、と。

――秋兄って何考えてるかわかんないし……要件だけ言った方がいいかもしんない。

 自分の知る彼と違う様子に、若干の焦りと警戒を覚えた。自分と同類ならもしかしたら……この独断行動は浅はかだったかもしれない、と。

「ま、いっか。要件っていうか個人的な話だけどさー……関靖の最期の言葉、秋兄に教えてあげようと思って」

 不可測の連続ではあったが、秋斗は話の内容に歓喜が湧いた。殺したいと喚く心よりも、自分の過去を彩っていた人物の話を聞ける事がただ嬉しかった。
 殺気と歓喜が綯い交ぜになった目を細めて、彼は漸く口を開く。

「へぇ……教えてくれ」

 不思議な瞳の色に首を傾げた明だが、洛陽では読み取りにくくなっていた事を思い出して切って捨てる。
 ゆっくりと、あの異質な戦場の最後を締めくくった一騎打ちと、透き通った顔で泣きながら笑う白馬の片腕を思い出していった。
 重要な部分は一つだけ。明が彼に伝えなければならないのは、最期の懺悔。
 そうして、彼女は唯一罪悪感を抱いた少女が誰かに伝えたかった言葉を、紡ぎ落した。

「『せめてあなたの望む世界になりますように』だってさ」

 嘗ての友の最期の言葉を耳に入れた途端、彼は頭と胸に手を当てた。
 ズキ、と針で突き刺されたように頭が痛む。
 ギリギリと万力で締め上げられるように胸が痛んだ。

 白い世界が頭を過ぎる。どうして助けてくれなかったのか、と少女が責めた。
 昏い記憶が頭を掠める。少女の声が、血と臓物と汚物に塗れた戦場で絶望を吐き出した。
 赤い髪が舞っていた。目の前の女が口を引き裂いて鎌を振りかざしていた。
 お前は生きろよ、と笑い掛ける誰かの頸が飛ぶ。そして自分も……その赤の狂人の刃に倒れた。
 最後に聴こえたのは哀しい願い。

 絶望の世界を呪わずに、救えなかった誰かを漸く救い出せた歓喜と
 絶望の世界を悲しんで、一番の助けになれたであろう誰かへ想いを繋いだ。

『せっかく戻ったのに、一人にしてしまいます。せめて、あなたの望む世界になりますように……秋斗』

 ああ、と彼の口から吐息が漏れる。
 これは自分の記憶ではない。きっとあいつが、あの腹黒が、自分にナニカしたのだろう。そうでなければ、他人の記憶や想いが混じるわけがないのだから、と。
 もう自分は人では無いのだと……上位の存在から命を受け、世界を変える為に弄繰り回されてしまったのだと……絶叫を上げそうになった。
 何かを思い出しそうだった。
 じくじくと罪悪感と自責の圧迫が押し迫る。
 多くの人が自分を責めたのではないか……何を言った? 何を突き付けられた? どんな言葉が、痛かった?

 自己乖離ギリギリのハザマで、彼を繋ぐのは一人の泣き顔。

 彼女は泣いていた。黒麒麟の居場所に自分が居るから、今もきっと泣いている。
 一輪の美しい華のような笑顔を絶望に散らしたのは……自分。

――もう一度笑って欲しいから……俺は黒になろうと決めたんだ。

 天に操られる傀儡でも無い、黒麒麟でも無い、彼だけの想い、その始まりはたった一人。だから、彼は彼のままでいられた。

「大丈夫?」

 嘘のように心が静かに収束し始める。
 決めてしまえば、渦巻く昏い願望はもう気にならない。
 きっとその少女はこいつを憎んでいたんだろうと理解しても、そんなモノに引き摺られてやるモノか、と。

「……いやなに、偶に頭が痛くてな。古傷が痛むって感じだ」
「ふーん。そうなんだ」

 探る視線を向けられても、彼は動じなかった。
 あなたは同じです、と白銀の少女が言ってくれたから、彼は自分の思い描くままで黒麒麟を演じ始める。

「伝えてくれてありがと。ただ、その時の戦とこの戦は別の話だ。俺は欲しいもんがあって戦ってるわけで……俺からもお前さんに話しておくべき事がある」

 不敵な笑みに黒瞳が渦巻く。脳髄は冬枯れた古池の如く静かに、そして冷たかった。

「ふふっ、いいね、それでこそ秋兄だよ♪ なにー?」

 愛らしく首を傾げる彼女の目も、聡明な輝きに昏さが宿っていた。
 喉を鳴らす。欲しいと思った。殺したい程憎いモノを生かすのも、彼が思い描く世界には必要な事である為に。自分以外の誰かにもそれを強いる事になる。そうしなければ、戦争の後には一人の人も生きられない。
 覇王と彼の思惑は一致していた。彼が目指す世界と覇王が目指す世界が同じだから、この官渡の戦いの全ては蜘蛛の巣となったのだ。
 彼は知っている。彼女が本来辿るべき道筋を知っている。だから、彼はこの時に楔を打とうと決めた。

「袁家を裏切れ、紅揚羽。覇王と俺はお前が欲しい。お前の大事なもんを乱世で死なせない為には、早い内に裏切るべきだ。
 まあ、鎖を付けられているのは知っているが、それでもお前さんにはこっちに来てほしいよ」

 情報は何よりの宝。桂花と夕、そして明の関係は曹操軍の重鎮達に知れ渡っている。
 その情報が無くとも、彼だけは混ぜ込みたい思惑がある。もし、このおかしな世界でも細かい予定調和が保たれるなら……捻じ曲げてやろう、と。
 張コウという将が曹操軍に加わったのは官渡の戦で……そして田豊という軍師が命を散らしたのは官渡最中の諍いによりて。
 公孫賛を生かして残せたのが黒麒麟の介入による最大の成果であるならば、今の彼が捻じ曲げれば田豊をも救う事が出来るだろう……彼の思惑、否、指標はそういった点を基準にしている。
 自分の都合で生かして殺す。正史で失われる才人を一人でも多く生かし、後の世に強固なる平穏を……であるからして、彼も黒麒麟も、華琳と同じ先を見る事が出来た。

「……あはっ♪」

 キョトン、と目を丸くして呆けた後、楽しげに彼女は笑った。彼の方からそう言ってくれるとは思わなくて。そして夕の考える一手に、そういった策も含まれているのだと読み解けて。

――なるほど……確かに覇王に一番効く策があるね。此れを使わない手は無い。でも……いいなぁ、そんな“もしも”があったなら……

 明は彼を少しだけ羨ましく感じた。もはや黒麒麟に鎖は無く、自由に好きな事が出来るから。
 そっちに行けば、どれだけ幸せなんだろうか。もっと早い内からそっちに行けてたら、どれだけ楽しい毎日を過ごせたのか。
 分岐点は既に過ぎ去った。桂花を逃がした時に、明は夕を無理矢理連れて逃げ出しておくべきだった。流れた時間は、戻らない。
 そも、夕が母の命を望んでいたのだから、裏切れるわけは無かったのだが……。
 だから彼女は、今の大切な宝物の為に、自分に出来る最善を選択し続けるしかない。

「……秋兄は優しいね」

 寂しい笑顔を浮かべた。普通に、ありのまま本心を話せばいい。そうすれば彼は揺らぐとずっと前から知っている。

「でもおいそれと裏切ったら、あたし達がしてきた事ってなんだったのかな?」

 心が軋んだ。全てが無駄な徒労に過ぎなくなるのだと、明の心が抗う。その痛みに夕が耐えられるわけがなく、彼女が壊れてしまったら自身がまだ動いている意味も潰えるだろう。
 彼の心も軋んだ。嘗ての自分に対して言葉を向けていると相似だと気付いて。徒労に終わって壊れた黒麒麟も、最後まで遣り切ろうと勘違いしたまま抗うのだろうとよく分かる。認められなかったからこそ壊れたに違いない、そう思った。

「あたしはね、夕の一番大きな幸せを叶えてあげたい。だから逃げたくないんだよ」

 強い光を宿す黄金の瞳は、自分ときっと同じ……彼女の一番大きな幸せを叶えてあげたくて、彼は逃げないと決めたから。

「誘ってくれてありがとね。本当にダメそうなときは、さ……あたし達を助けて?」

 洛陽で夕も同じように助力を頼んだ。その時の気持ちが明にはやっと理解出来た。
 利用する計算を頭で行いながらも、本心が抑えられない。

――イカレちゃってるあたし達は、自分達と同じモノに期待せずにいられない。信じてないのに信じたいとか……変なの。

 二律背反の矛盾だらけ。自分がどんな顔をしているのか、彼女には分からなかった。
 ふいと逸らしていた顔を彼に向けると、昔に見た黒ではない気がした。憎悪と悲哀とが織り交ざった瞳は、澱みが見当たらずに透き通っていた。
 あの時からどう変わったか分からない。明には、今の彼の事を読み取れなかった。

「……約束する。例え俺しか賛同しなくても、お前さんの大切なもんを助ける為に力を貸そう。裏切れば、だけどな」
「ひひっ♪ あんがと、秋兄。じゃあさ、勝ったらあたしと夕のモノになってね♪」
「クク、やだね。誰がお前の言う事なんざ聞いてやるかよ」
「秋兄の意思なんて関係ないもーん♪ 力付くで言う事聞かせるだけだし」

 べーっと舌を出しておどける姿に、彼は口を引き裂いて笑う。飄々と話す彼女は、きっと自分と同じなのだと感じた為に。

「誰かの為に、自分の為に……ってか? ぶっ壊れてるな、お前も」
「おっ、あたし達と同じ事言えるようになったんだ。鳳統がそんなに大事なんて、妬けちゃうじゃん♪」

 ズキリと彼の胸が痛むも気にしない振り。
 黒麒麟が自分のように彼女の為だけに行動したかは分からずとも、此処で見せてやるわけにはいかない。

「さあ、なんのことやら。ただ、俺にとってはお前達も助けたい奴等だって言っておく」

 長い話に、周りの兵達も聞き耳を立て始めていた。
 ああ、こいつは不振も与えるつもりなのか……そう気付いて、彼は彼女を見下ろして笑う。
 兵達にも聞かせるように、彼は声を彼女に落とした。

「あんまり待たせてくれるなよ? 曹操殿も俺も、あんまり気が長い方じゃあないからな。お前さんの働きに期待してるよ、紅揚羽」
「真名すら呼んでくれないなんてつれないじゃーん。ま、いいけどさ。じゃあね、黒麒麟」

 もう話す事は無いと、彼は背を向けてその場を後にした。
 残った静寂に、ひょこひょこと歩いて去っていく少女が一人。

――俺の過去をお前に賭けよう。

――あたし達の未来をあなたに賭けよう。

 背を向け合った黒と赤は心の内で呟きながら、どちらも、幸せにしたい一人が救われて欲しいと願っていた。



















 †




 白の世界でモニターを見やる少女はため息を一つ。
 歪む表情は不満からでは無く、彼に向ける悲哀から。

「……第二適性者“関靖”の残滓が混じりましたか。私の頸に残滓が残ってるなんて……どの適性者もイレギュラーだらけです」

 独り言はもはや癖になっていた。自分しかこの場所にはいないから、誰も聞いていないから、思うだけでなく口から突いて出てしまう。
 呟きと同時にカタカタとキーボードを打って行く。
 長い文字列を完成させたと同時に、モニターの半分が切り替わった。

「第一と第二はループの絶望に耐えられませんでしたから……やはり徐晃には、妲己姉さまの尻尾での記憶の継続遮断も用いて正解です……」

 何度も、何度も殺される少女の姿が其処にあった。
 その度に巻き戻る世界。大切な人を救えない事に絶望し、それでも抗い続ける少女が居た。

「世界改変、この外史の崩壊を防ぐ方法が“乱世を天の御使いと呼ばれないモノが関与して治める”ではなかったなんて……第一が外史に取り込まれて初めて気付いた私達の失態……」

 振り慣れない斧を片手に振った一度目から、赤の少女に主と共に殺され続けて二十二度、何度も何度も少女は抗った。

「第一の影響力が強すぎた為に、世界側は復元力(カウンター)を押し上げてバランスを保ち……その結果、公孫賛が死亡確定なんて事態に……」

 敵は変わらず、強大な袁家。世界は彼女に残酷過ぎた。
 黒が策を出し続け、赤が赴き彼女を殺す。どれだけあの三人の英雄と昇龍を彼の地に留めようとしても離されて、彼女と白は殺される。

「世界が私達の思い通りに変えられるなんて甘すぎる認識でした。私達が第一に世界を変えて貰おうと介入し、外史を私の羽で事象干渉ループさせた事で、本当は甘かったはずの恋姫外史が残酷になってしまったんですから……」

 赤い髪が舞っていた。
 頸を飛ばされ、赤い髪が舞っていた。
 慟哭と怨嗟の叫びを上げる彼女は、何度繰り返されようと白を想い、泣く。

「ただ……袁家の強化は公孫賛の死亡に繋がり、始まりの恋姫外史に近付きました。そして……徐晃が華雄を殺した事で同じく……」

 最後の繰り返し、白の配下に異質なモノが混じり込んだ。
 前までは居なかったはずのモノ。美人なのは確かだが、何処か信用のおけないモノだった。

「第二は外史に取り込まれていましたが……ループさせる為に使っていた私の頸と、存在固定する為に使っていた貴人ちゃんの弦が弾きだされ、最期に記憶が戻ったのはこの外史が今回のループで終わるから。第一も第二も、死に淵で記憶が戻るなんてなかったですし……」

 張純、なんて名前は聞いた事がなかった。三国志を詳しく知らない彼女では無理も無い。
 そうして、彼女は裏切り者が混じった事で心が折れ、世界の改変を諦めた。


 カタカタ、と少女はキーボードをたたく。
 場面が変わり、映し出されたのは黒と赤。憐憫と懺悔を向ける瞳は、どちらに向けてか。

「ごめんなさい。私達が直接介入すると外史自体が壊れるので介入できません。始まりの外史でも、剪定者等の外部の介入が終端に繋がりました。
 ゼロ外史にする為には内部であなたが変えるしかないんです。
 だから第一に……ほぼ全ての事象で死の運命にある……たった一人の為だけに戦っていたこの子に……せめて今回くらい救いを与えてください、黒麒麟」
















 回顧録 ~クラキヨルニオチテ~




 十一度目

 同じように蒼天の下で目を覚ました。

 彼女の最期を思い出すと狂いそうな絶望が胸を支配し

 この場所から逃げ出したくなった。

 それでも、彼女を生かす方法が分かったから、ギリギリの所で踏みとどまった。

 そうして、いつものように彼女と出会った。

 そうして、いつもと違う彼女と出会った。

 彼女は変わっていた。

 否

 変えられていた。

 初めての振りをして自分の有用性を売り込み

 いつもの如く袁家に潜り込んで

 この世界が変わった事を知った。

 過去が違う。成り立ちが違う。生い立ちが違う。

 其処は自分の全く知らない袁家だった。

 全てが変えられてしまっていたのだ。

 前のやり方はもはや通用しない。

 情報を集めれば集める程に、十一度目の袁家は救えない欲望の掃き溜めになっていた。

 高笑いが似合っていた麗しい当主は……臆病さが際立てられて傀儡になっていた。

 二枚看板と謳われていた二人にすら隠し通せる哀しい道化。

 人質など、少しバカでも醜い事が嫌いな当主なら精一杯反抗していたはずだろうに。

 そして彼女は……逃げられない。

 昏い暗い闇に捉われて、この掃き溜めから逃げ出す事が出来ない。

 どうすれば彼女を救えるのか、考えても考えても分からなかった。

 前の時には居なかったあの男と、優しかったはずの上の者達が邪魔をする。

 前の時は何もしなかった龍が表舞台に出てきて邪魔をする。


 世界は戦略を変えて自分を潰しに来た。

 自分という異物が混ざったから、それを消す為に世界自体が変化した。

 自分から彼女も友達も奪い去った。

 これは罰、なのかもしれない。

 友達を殺し尽くしたから……全てを奪い去ったのだ。


 救いの手は無く、他人に話す事も出来ない。

 たった一人で世界を変えるには、もう道筋は一つしか残されていなかった。

 自分の存在理由は彼女だけ。

 彼女だけ。

 彼女だけが生きてくれるなら、もうそれだけでいい。



 その為なら……覇王に任せよう。

 才あるを愛する覇王なら、今回の彼女を救ってくれる。

 袁家を潰してもこの世界は壊れなかった。

 自分の所属する勢力を勝たせなくてもこの世界は壊れなかった。


 きっと世界改変の方法は、彼女を生き残らせる事。

 そうでなければ、どうすれば世界は変わるというのか。

 そうでなければ、自分がしてきた事はなんだったのか。

 きっと自分は狂っている。

 狂っている自分は、この世界には必要ない。






 彼女の運命を捻じ曲げられるなら

 このマガイモノの命、喜んで捧げてくれよう。


 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

ごめんなさい。この物語は外史設定が入りますので。
牡丹ちゃんは彼の前にこの外史に落とされた子です。
取り込まれてこの外史の住人になっていました。
彼女の最期の言葉に違和感があったのはこんな感じの理由です。
彼が斧を使えるようになったのも、牡丹ちゃんの残滓が影響しています。


袁家強化の理由は初めの一人の影響です。
なので、回顧録は“どちら”のモノか、予想して頂けたら幸いです。

全く関係ない話ですが、記憶を失った場合、真名ってどうするんだろう、と原作に疑問を向けたい今日この頃。

次は華琳様のお迎えと袁家側のあれこれ、です。

ではまた
 
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