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Element Magic Trinity

作者:緋色の空
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さよなら


ドサリ、と意識を手放したシャロンが落ちる。そこからある程度の距離を置いた場所に翼を畳んだティアが舞い降り、その背中から翼が溶けるように消えた。
―――――それと同時に、糸が切れた操り人形のようにくらりと倒れ込む。

「!ティア!」

慌てて支えると、だらりと両腕から力を抜いたティアが大きく溜息をつくのが聞こえた。
うあー…と小さく呻く声と共に全身の力を抜いた体躯が押すように寄りかかってきた事に驚きながら顔を見れば、怪訝そうな表情と目が合う。

「ぅー……魔力使い過ぎたわ…気怠いし動く気失せるし…面倒だからアンタこのまま私を運びなさい」
「はあ!?自分で歩けよ!」
「だから歩く力もないんだって……意識保ってるだけまだマシでしょうが。ほら、早く帰るわよ。さっさとして」
「いつもに増して偉そうだなオイ!」

じとりと睨むような目に女王気質な喋り方はいつも通りで、どこか安堵する。きっとこれがクロスかヴィーテルシアなら文句1つ言わず運ぶのだろうが、日頃口喧嘩相手のナツからすれば文句の1つや2つどころか5つくらいは言いたくなるもので。
いつものように言葉を返せば、ティアは小さく舌打ちをしてよろよろと立ち上がる。

「何だ、立てるんじゃねえか」
「平然と言うけどこれが限界。意識保ったままギルドまで帰るのはまず無理ね。ま、その時は適当にクロス辺りを頼るけど……いや、アイツも疲れてるだろうし止めた方がいいか…」

その心配は必要ない―――――とツッコむのは敢えて止めておいた。
24時間365日、天気がよかろうが悪かろうがたとえ空からドラゴンが降って来るなんて異常現象が起きたとしてもあの底無しのシスコンは絶賛営業中だ。姉に頼られたらどうなるか、なんて簡単に想像出来る。きっと、“怪我?何だそれ”というくらいになるのだろう。どれだけ見た目が傷を負っていようと、そんな事姉に頼られたシスコンには関係ないのである。何よりも姉、安全第一ならぬ姉第一。
だからきっとティアが何かを言うよりも早くクロスが過保護なまでに心配して、どんな方法を使ってでも支えて帰るだろう。
まあ弟がシスコンだという自覚がないのがティアで、今のところそれで上手く回っているから敢えて何か言う必要はない。

「でも、これでとにかく終わりだね!」
「ばーさんも気ィ失ってるし…ここまでやられりゃ諦めるだろ」

ルーシィの手を借りて立ち上がったルーにグレイが頷く。ひょいっとティアは肩を竦めて見せた。その顔には「ま、大丈夫でしょ」と書かれているようで、少し驚いた。
あまり感情や思考を顔に出さないタイプのティアにしては、思っている事がハッキリと顔に出ている。無意識か、少し緩められた口元がその証拠だ。

「…何よ、人の顔見てニヤニヤして」
「別に何でもねえよ。な、ハッピー」
「オイラに振るの!?」
「はははっ、まあいいじゃねーか。とっとと帰ろうぜ」

いつもの不機嫌そうな声に適当に答えながらハッピーに話を振れば、突然で驚いたのかぴょんと飛び跳ねる。それに笑いながらヒラリと手を振ったアルカの言葉にそれぞれ頷き、倒れるシャロンと本宅に背を向けた―――――瞬間。




【なかなかに面白い物を見せてもらった、感謝に値するぞ。巫女よ】




知らない声が聞こえた。
反射的に振り返れば、視界で瞬く青い光。響くのは軽やかな、それでいて逆らえないと根拠もなしに全身が訴えるような声。言葉の1つ1つが大地を震わせるようだった。
ふるりと震えた光から、ゆっくりと巨大な翼が伸びる。続けて足、腕、太い尻尾。鋭い爪が現れ、吐息を零す口が僅かに開く。静かに開かれた目は、全身を覆う鱗と同じ群青色に染まっていた。

「え?」

震える声に笑うかのように、きゅっと瞳が細くなる。全体的にスラリとした、それでも十分すぎるほどの迫力を持つその存在に懐かしい姿を一瞬重ねて、ナツは目を見開いた。
驚く周りとは対照的に、ティアは無言で目を向ける。驚きも焦りもないいつものポーカーフェイスは崩れず、じとりと睨むような目も苛立たしげに聞こえた小さな舌打ちの音も、変わらない。




【我が名は星竜シュテルロギア―――――万物を創造せし星の竜なり】




鱗を月明かりに照らして、その竜は笑うように声を転がす。
飛竜(ワイバーン)なんかとは比べ物にならない迫力に、ナツ達は言葉を失った。揃いも揃って口をあんぐりと開け、目を見開く。
と、そんな中で腰に手を当てて見上げるティアがボソッと呟いた。

「何の用かしら、敵風情が」

その声は小さいものだったが、静かすぎるほどの静寂で元々よく通る声が聞こえないはずもなく。
明らかに不機嫌そうな声もいつも通りでナツ達は一旦は聞き流すが、すぐに気づく。相手が悪党ならまだいい。が、今の相手は一族の初祖であり世界を創ったという、とにかく偉大な存在であるはずだ。
いくらティアがその一族の者だからといって、流石にマズイ。多分本人的には「ねえ」と呼びかけた程度だろうが、呼びかけ方を大きく間違えている。

「お、おいティアっ!」
「は?…何よ、全員揃って顔青くして。別に何もしてないんだけど」
「いやお前結構重大な事しでかしたからな!?」
「相手はカトレーンの初祖なんだろう!?そんな上からに……」
「一族なんてどうでもいいわよ、どうせ今日で終わるもの」

ナツとエルザの言葉にも全く動じず、サラリと言い返す。眉の1つもピクリとさえ動かさないその姿に、思わず絶句した。
そんな中で「ナツってティアが関わるとツッコミになるよね!」等と空気を読まずに言っていた奴がいたのは余談である。
ティアはそんな彼等を無視して、シュテルロギアを見上げた。

「少なくともコイツは敵と呼ぶに相応しい奴よ、初祖だからって頭下げる必要はないわ」
【ほう、妾が敵であると?】
「そうだって言ってるでしょ。シャロンに力を貸したの、アンタのクセに」

“じとり”が“じろり”に変わる。
確かに、シャロンの願い通りに星の滅竜魔法を与えたのはシュテルロギアだ。それは間違いない。愉快そうにくつくつと笑う竜を睨みつけるように見つめながら、ティアは更に続ける。

「こういう事言うと私が悪役みたいだけど、元々悪役気質だから問題ないわね……アンタが力さえ貸さなければ、事は全て簡単に片付いた。いいえ、そもそもアンタが巫女という異質な存在を作らなければ事は怒るどころか存在する事だってなかった。自分がやった事の重大さに気づいてないような奴が、敵以外の何だって言うの?」
【巫女の根源を妾に問うのは筋違いと言えよう、巫女よ。あれは妾の孫の1人が人間との子を産みたいと言い出したのがそもそもの始まり……不可能を可能にする力を求められたから与えたまで。それに、巫女という概念がなければ主も竜人として生まれなかった…苦しい経験のない、ただの貧弱な人間の1人でしかなかったのだが?】
「そういうのを言い訳って言うのよ、知ってる?別に私は私が何であれ正直どうでもいいけど、結局そんな概念を作り出したのはアンタでしょ?言い訳無用、責任転嫁甚だしいわ。それに、人間の全てが貧弱な訳じゃない。竜だから強い訳でもないでしょうが」

どこから湧き出てくるのか、次から次へと言葉をポンポン声に乗せては投げ付ける。普段ならこれで相手を完膚なきまでに言い負かしているが、シュテルロギアはといえば何事もないかのように平然と言葉を返していく。
徐々に眉が上がり、目にはっきりとした怒りが現れるのを見たナツ達は思わず顔を見合わせた。魔力が尽きていようと、何も出来ない訳ではない。相手が初祖であれ何であれ、ティアが本気で怒ればとにかく何かが起こる。下手をすれば辺り一面を更地にするような――――――。

「ティア落ち着いてーっ!」
「早まらないでええええええ!」
「は?」

それはマズイ。非常にマズイ。あの怒りが爆発するよりも早くどうにか怒りを沈めなければ!
その考えの下、右腕を掴んだルーシィをティアは怪訝そうに見つめる。その反対側では今にも抱き着きそうな勢いのルーが何故か涙目で喚いていた。

「何なのアンタ達、さっきから」
「だって…だってティアが早まるから~!」
「勝手に人を殺すなバカルー!喧嘩売ってんの!?」
「絶対勝てないからそんな事しないよう!僕は結構賢いからね、無茶無謀はしないんだよっ」
「アンタが賢かったら世の中の全員が賢い事になるわ。それにアンタ、ルーシィの為なら何だってするでしょうが」
「さっすがティア!完璧な正論だね!」
「とりあえずアンタの思考回路を1度見てみたいわ」

ギルドでよく見る掛け合いに笑いそうになる。ニコニコと嬉しそうに笑い目を輝かせるルーと、そんな彼を気怠げに見ながらも振り払う事はしないティア。性格的には真逆だが割と仲がいい2人はこんな時でも普段のような言い合いを軽く繰り出す。
いつものようにルーをあしらい終えたティアは、もう1度シュテルロギアに向かって口を開いた。

「大体アンタは…」
【巫女よ、妾は主と口論しに来た訳ではない】
「はあ?」

ティアは自分の言葉が遮られるのを嫌う。こっちの言い分が聞けない奴の言葉を聞く理由はない、と考えるタイプなのだ。相手の話は聞くのに自分の話を聞いてもらえないのは明らかにおかしいと苛立っていたのを思い出す。
今のように言いたい事を遮られたティアは、ピクリと眉を上げた。ひくりと口角が引き攣ったのを見ると、相当苛立っている。ぐっと握りしめられた拳をどうにか抑えているらしい彼女は、帽子の奥からシュテルロギアを見上げた。

「じゃあ何しに来た訳?言っとくけど、雑談なんてしたくないわよ」
【奇遇だな、妾も主とは雑談するほどの仲にはなれないと見た……まあ、それはどうでも良い。本題に入るとしよう。…妾は巫女に礼を述べに来たのだ】

その言葉に、ティアが目を見開いた。いや、これにはナツ達も目を見開く。
シュテルロギアはカトレーン一族の初祖だ。そしてティアは一族の人間でありながら一族を――――言い方は悪いが破滅させた。そんなティアを憎むのならまだ解る。激怒するのもまあ当然と言えるだろう。そんな中で、この竜は何と言った?

「礼?アンタに感謝されるような事をした覚えはないんだけど。何、どっかに頭でも打った訳?ルー、治してやりなさい」
「僕の魔法ってドラゴンの怪我も治せるのかなあ?」
「出来るんじゃないの?ほら、頑張りなさいな」
「…!ティア、応援してくれるのっ!?」
「煩い。いいからとっととやって。頭がおかしい奴とは長時間喋ってたくないのよ」
「うん、任せて!……と言いたいんだけど、魔力が…」
「アンタって肝心な時に役立たずよね」
「酷い!その通りだから否定出来ないよう!」
「……だから、魔力の器を底上げすれば、もう少し役に立つんじゃないの」
「…やっぱりティアは優しいね!大好き!」
「ルーシィに大きく誤解を与えてると思うけど」
「!」
「アンタ達はとりあえず空気読んで!?」

表情1つ変えずに呟くティアに、愕然としたように目を見開くルー。この掛け合いがギルドで起こるそれならともかく、今は結構重要そうな話をしている最中だ。ルーが空気クラッシャーなのは前からだが、ティアまで空気が読めないとは…。
どうにかツッコミを入れたルーシィに「違うからねっ、僕が好きなのはルーシィだからねっ」と抱きつくルーを無視しつつ、エルザはシュテルロギアを見る。

「どういう事か説明してもらおうか、何故お前はティアに感謝している?お前の立場上、憎むか怒るかのどちらかではないのか?」
「エルザ…コイツ相手にお前はねえだろうよ……」
「お前もコイツって言ってるけどな」

先ほどティアに対して慌てていたはずのエルザが、いつもの口調で問い掛けた。呆れたように溜息をついたアルカにグレイがツッコみ、どうやら何故ツッコまれたのか解っていないアルカは「?」と首を傾げる。
ふむ、と目線を落としたシュテルロギアは暫し考え、口を開く。

【主等は大きな勘違いをしているようだが、妾はこんな一族には既に用など無い】
「え?」
【当然であろう?随分と落魄れ、穢れ…見るに堪えない有り様よ。身の丈に似合わぬ傲慢な権力を振り回すだけの奴を、何故庇い慈しむ必要がある?】

問い掛けるような口調に、ナツ達は言葉に詰まる。
ティアは短く息を吐くと、シュテルロギアを睨みつけた。

「で?アンタが一族をどう思っていようが興味ないけど、私に礼ってどういう事?言っとくけど、私はどんな権力も財産もいらない。そんなくだらないお飾りはあの女にお似合いよ。地面に沈むくらいに飾ってきて差し上げたらどうかしら、きっと喜ぶわ」

吐き捨てるように言えば、シュテルロギアは【権力も富も与えるつもりはない】と笑みを零す。その笑みに苛立ちを覚えたのか、ティアはぐっと拳を握りしめた。
尻尾をくねらせた竜は、口元に手を当てくつくつと笑う。

【妾は望みを叶える。が―――望んでいない事を叶えるのは無駄であろう。頂上に立つ事を望まぬ巫女に、何故頂上を渡す必要があろうか。叶えるのなら本当に望む事を。それは当然ではないか?】
「ふぅん…だとしたら、アンタは何を持って私に感謝を伝えると?頭下げられても嬉しくないわよ」
【何を言うか、巫女よ。妾が頭を下げるなどする訳ないであろう】

心外だ、と言いたげに眉(辺り)を顰めるシュテルロギア。
どうやらプライドが高いらしいこの竜は、ふるりと全身を震わせる。冷えるのだろうか、なんて考えて、そういえばこの時期の夜は冷えるなあ…なんてルーは呑気に思った。

【妾が叶えるのは巫女の望み。―――――巫女よ、主には会いたい者がいるはずだ】
「はあ?……ああ、両親には会いたくないわよ。たとえあっちが望んだとしても、娘を殺そうとした親の顔なんて見たくないわ。序でにお祖父様にも。あの人、何かある度に私の部屋に押しかけてきて迷惑だったのよね」
【ふふ、そうであろうな。主が家族になど会いたくない事は知っている。ずっと、見てきたのだから。―――――主は妾、妾は主なのだから】
「意味解んない事言ってないで、言いたい事があるならハッキリ言いなさい」

じろりと睨まれ、【そのような顔をするでない。せっかくの美貌が台無しであるぞ?】とシュテルロギアは微笑を湛える。「余計なお世話よ」と面倒そうに返したティアはふいっと視線を外し、溜息をついた。

【では、長き茶番もこれまでとしよう。これは妾からの礼、遠慮せず受け取ると良い。時を超えし13の巫女、ティアよ―――――】

その声に反応するように、青い光が辺りを包む。あまりの眩さにその場にいた全員が目を覆い、瞼の奥で光が消えるのを待った。
瞼の向こうが落ち着いていくのを感じながら、ナツ達は目を開いて――――――。




『みんな久しぶりー!会いたかったよティアちゃ―――――ん!』




その空気を一瞬にしてぶち壊す、明るいトーンの声が響いた。
それは、つい先ほど聞こえたあの声で。2年前を最後に聞く事が出来なくなったはずの声で。弾むような柔らかい声に、ティアは目を見開いた。

『あ、あれ?皆聞こえてる?おーい!無視は悲しいから返事してよ~!あたし、そこまでメンタル強くないんだよー?ねえ、ねえってばー!』

焦るような声に引っ張られるように、顔を上げる。ティアの視界で、泣き出しそうに歪んだ少女の顔が一瞬にして笑みへと変わった。
揺れる暖色のポニーテール、纏うのは動きやすそうな服一式。アイスブルーの半袖ジャケットに深い青色のインナー、白いショートパンツを穿いたその少女は、ニコニコと笑ってティアの両手を握りしめる。

『やぁーっとこっち見てくれた―!聞こえる!?ねえ、あたしの声聞こえてる!?そのリアクションは見えるし聞こえてるって解釈しちゃうよ?』

そこで、やっと。
ティアは驚愕からどうにか抜け出して、震える声で呟く。



「……イオリ、さん?」



自分でそう言っておきながら、信じられなかった。
だって彼女は、ティアの師匠だったあの人は、2年前に死んでいる。重傷を負って帰ってきたあの人と最後に言葉を交わしたのは、紛れもなく自分自身なのだ。探究心が揺れる強い意志を込めた目が閉じたのも、呼吸の音が聞こえなくなったのも、ゆっくりと全身が冷え始めたのも、全部手を伸ばせば十分届く距離で、見ていたのだから。
なのに、そのはずなのに、目の前の少女は大きく頷いた。

『そうだよ、ティアちゃん。――――――会いたかったよ』









イオリ・スーゼウィンドは、自分の死についての記憶が曖昧だったりする。

気づいたら重傷を負っていて、とにかくギルドに帰ろうと転移系魔法を使って、ギルドに到着して気を抜いたら立っていられなくて、顔色を変えて駆け寄ってきたメンバーを安心させるようにどうにか微笑んで、愛弟子の彼女に、ずっと一緒にいられない事を謝罪した。それは覚えている。
だが、その重傷の原因が何だったかを全く覚えていない。思い出そうとしても、解らない。

その後も曖昧で、気づいたらイオリは“幽霊”なる存在になっていた。と、いってもそれに気付いたのは死んでから2年―――――つまり今年になるまで気づいておらず、どうにか「あたしは幽霊らしい」と気づいたイオリの最初の行動は、ギルドに行く事だった。
皆がどうしているか気になった。あの無愛想で不器用な弟子がどうなっているか、この目で確かめたかったのだ。

結果、ティアは随分と変わっていた。
乗り気ではないものの、団体行動をするようになって。ほぼ初対面に近いような相手を、拒む事なく相棒として見て。1人でいる事よりも誰かといる事の方が多くなって。苛立ちや毒を吐きながらも、誰かをこっそり気遣えるようになっていて。
そんな弟子の変化を生きて見たかった、なんて思いながら、イオリはずっとティアを見守り続けた。

―――――そして、今回の件である。
正直、怒った。クロスの怒りさえ凌駕するであろう程には、激怒した。
薄々感づいていたティアの過去は想像より壮絶で、それでも尚ティアを利用しようとするあの女が誰より憎たらしかった。もしイオリが生きていたのなら、どんな手を使ってでもシャロンを排除しただろう。
けれど、イオリにはどうする事も出来なかった。触れる事も出来ない相手には魔法の1つも当てられなくて、傷付く仲間達を見ている事しか出来ないのが何より歯がゆかった。

そんな時の、あの竜の声。【妾の巫女をそこまでに想うのなら、力を貸してやろう】という、イオリが全てを犠牲にするとしてでも待っていた言葉。
迷う事なく頷いたイオリは、自身の魔法を以てティアに全魔力を捧げた。今自分がやるべき事は彼女の代わりにシャロンを倒す事ではないと思ったから、最後の全てをティアに任せた。

そして―――――今に至る。







『……という訳でね、皆に会いたいなーって思ったら“その程度なら容易い”ってあの、えーっと…何とかって竜がどうにかしてくれたんだよ!』
「何とか、じゃなくてシュテルロギアです」
『あ、そうそうそれそれ!』

冷静にツッコんだティアに、イオリはパンと手を叩く。
2年ぶりに師匠に会ったはずなのに、不思議と涙は出て来なかった。それはこの人の明るい雰囲気がそうさせているのかもしれないし、本来泣くはずの所でイオリがマシンガントークを始めてしまい、泣くに泣けなくなったからかもしれない。

「イ…イオリぃー!」
『わあ、ルー君!って何で泣いてんの!?ほら、笑って笑って!』
「笑えないよう!だって…だって嬉しいんだもん~!」
『うっわあ!本気で泣き出しちゃった、どうしよアルカ君!?』
「この状況で泣くなってのが無理だろうよ!つか、お前……ダメだ、泣きそう」
『アルカ君まで!?どうしちゃったの皆!今日は泣く日なの!?』

うわああああああああん!と大号泣するルーと目頭を押さえるアルカを交互に見ながら、イオリは1人混乱する。戸惑いながらこんな時こそ頼りになるティアを見れば、彼女はいつものポーカーフェイスで肩を竦めたみせた。
実は面倒くさがりな弟子から目を外し、今度はナツ達を見る。が、彼等もルーやアルカのように頼れる状態ではなく、困ったように笑みを浮かべたエルザが声を掛けた。

「こういう事を言うのもアレだが…元気そうだな、イオリ」
『うん!エルザちゃんも元気そうだね!』

漸く頼れる人がいた!というように表情を明るくさせたイオリは、ふとエルザの後ろに目を向ける。ぱちりと目が合ったルーシィが反射的に頭を下げると、ニコニコと笑みを崩さないままイオリは手を伸ばした。

『ルーシィちゃん、だよね?初めまして!』
「は、はい」
『敬語じゃなくていいよー!あたし、堅苦しいの苦手だから!ね、普通にイオリって呼んでくれれば嬉しいなっ』

にぱっ、と効果音がつきそうな明るい笑みに、ルーシィも自然と表情を緩ませる。
写真で見た限りは優しそうな人だとは思っていたが、あのティアの師匠である。もしかしたら怖い人なんじゃないか、なんて考えたりもした。が、実際は随分と明るくテンションの高い人である。

「うん、よろしくね。イオリ」

そう言って笑みを浮かべると、何故かイオリはポカンとしてから『なるほど』と頷く。

「?どうしたの?」
『いやー…あのルー君が惚れたっていうからどんな子かと思ったら、そりゃ惚れるよね~』
「なっ!?」
「イオリも解るでしょ!ルーシィは可愛いんだよっ」
「ちょっ、ルー!」
『解るよルー君!昔はいっつもティアちゃんに引っ付いてるような子だったのに、一丁前に恋しちゃってさー!』

先ほどまでの涙はどこへやら、ぎゅぅっとルーシィに抱き着いたルーをからかうようにイオリは笑う。が、すぐにその笑みがふっと消え、優しい光を灯す目がティアを見た。

「?どうかしました?」
『え?あ、うん…大した事じゃないんだけど、ティアちゃん変わったなあって』
「はあ?」

睨むような目に、『せっかく可愛い顔なんだからその目はダメだよー』なんて呑気に返しながら、イオリは続ける。

『だって、昔は――――といっても2年前だけど、自分にも人にも厳しかったでしょ?でも今は、人を認められるくらいの余裕が出来てる』
「別に、そんなつもりはないんですけど」
『だろうね。ティアちゃんはそういう事を無自覚にやるから、皆君の魅力に取り憑かれちゃうんだもん。けど、あーんなに睨み合ってたようなナツ君に協力を求めるなんて、あたしの知ってるあの頃の君なら、出来る出来ないの前にやろうとすら考えなかったはずだよ』

目を伏せる。
知らないうちに変わっていくのは当然の事だけど、それがどこか寂しかった。ずっと一緒にいて、ずっと引っ張っていけるものだと思っていたから、尚更。
今の彼女には頼る事の出来る相手がいる。支えてくれる兄弟がいて、隣を歩いてくれる相棒がいて、真っ直ぐに言いたい事を言い合える友達がいて、伸ばした手を掴んでくれる仲間がいる。
それはイオリが生きていた頃から大した違いはないけれど、ティアはイオリが消えてからそれに気付いた。イオリがいる時には、気づかなかった。
それを考えると、まるで。

(あたしが、邪魔だったみたい)

こんなネガティブ思考が似合わないのは解っている。口に出せば、きっとこの弟子は盛大に溜息をつくだろう。
けれど、そういう事なんじゃないか、なんて考えてしまう馬鹿な自分がいて。
沈黙に訝しげな表情をし始めた仲間達を笑わせようと、イオリは顔を上げた。慣れたように、作った笑みを浮かべる。
――――――けれど。

「……作ってまで、笑わないでよ」

あの子の鋭い聡明な、人の悪意だけを見て育った目は、どうやったって誤魔化せないのだ。










ティアは、イオリの笑った顔が嫌いだった。
それが心の底からの笑みならまだ好める。が、今のような―――作っていると解ってしまうような笑みは、大嫌いだった。
昔から人の作ったような表情だけを見て、それに囲まれてきたティアだから解る事。特にこうやって、感情がそのまま顔に出るタイプの人だと尚更解りやすい。
イオリもそのタイプで、昔からそんな笑った顔が嫌いで仕方なかった。

「そんな事されてまで、笑ってほしくない」

ティアは知っていた。
イオリが自分の前で明るく笑うのは、ティアが少しでも人を信じられるように。この手を取るのは、全てを諦めたティアを励ます為に。明るく振る舞うのは、暗い事を考えなくて済むように。
いつだって自分の事を考えてくれていたイオリに、ずっと言えなかった事。
私の為にと思って行動してくれてるのを傷つけるから、なんて不器用な思考で言うのを諦めていた言葉。

「言いたい事言って、やりたいようにやってよ。自分の事隠してまで、人を優先しないでよ」

ああ、きっとこれはイオリを傷つけているんだろうな、なんて。
そんな考えがゆっくりと、それを知らしめるように脳裏を過っていく。人の事を考えるのが彼女の優しさなのに、それを真っ向から否定するような事を言うなんて馬鹿げてる。彼女ほど、誰かを優先に考える事さえ出来やしないのに。
けれど、今ここで伝えなければきっと終わってしまうから。

「それがアンタの優しさだから、それを根本から否定してるのは解ってる。今、すっごく酷い事言ってるのも自覚してる。けど、()()()()

そう言って。
ティアは、ゆっくりと右手をイオリへと伸ばす。揺らめきそうな視界を瞬きで正常化させて、かつて目の前の彼女が自分にしてくれたように。

「こんな酷い事言ってでも、私はアンタと正面から向き合いたいんだよ」

その目は、真っ直ぐだった。









伸ばされた手を、イオリはただ見つめていた。
迷う事なく向けられた掌の意味をどうにか呑み込んで、その思いをじっくりと噛みしめる。本当に変わっちゃったなあ、なんてどこか寂しく思いながら、その変化を心の底から喜ぶ自分がいた。

『…ティアちゃんは』

漸く、絞り出すように飛び出た言葉はどこか掠れていて、自分の声ながら驚く。それでも、そんな声でも真正面から受け止めるティアは、イオリから目を離さない。

『昔から、そうだよね』
「ええ」
『あたしが知ってる頃から、そうやって…自分の言いたい事は、全部言ってたよね』

それが原因で冷たい印象の強いティアだが、イオリはちゃんと知っている。
彼女は、本当に言いたくなれば誰かを気遣う事だって言えるのだ。むやみやたらに気遣いを見せないのは、その必要がないと信じているから。この気遣いが逆に重くなってしまうと知っているから。

『ずっとね、羨ましかったよ。何でも自由に言える君の事が、羨ましくて仕方なかった。あたし、5人兄弟の1番上だったから、ずーっと我慢ばっかりしてきた。それが“お姉ちゃん”になった人の絶対的なルールだと思って、泣くのも甘えも全部我慢してたんだよ』

どこか八つ当たりめいたそれにも、ティアは表情1つ変えない。きっとそれは彼女なりの優しさで、最低限の言葉以外を挿まないのもきっとそうだ。
それがとても嬉しくて、イオリの視界が霞んで揺らめく。

『だからかな、ティアちゃんが言うみたいに作って笑ってたのは。我慢が日常的で、毎日毎日それだけをしてたから、笑えなくなっちゃった。もちろん楽しい時は普通に笑えたよ?でも、君を安心させたい時に限って、何でか素直に笑えないんだ』

それが何より憎たらしくて、作り笑いしか出来ない自分が嫌になった。聡明な彼女の目はそれすらもとっくに見抜いていただろうけど、あえてそれを指摘しない優しさが嬉しく、痛かった。

『ゴメンね、そんな酷い事言わせちゃって。言われないと言えないなんて、師匠失格だね』

頬を伝う涙を、慌てて拭う。
きっとティアはその涙をはっきり見ていただろうけど、なんとなく隠したかった。あの子の記憶の中では「いつでも笑ってる明るい人」でいたかった。
スッと右手が下がる。顔を上げると、ティアが俯いていた。華奢な方が、震えている。
怒らせてしまったのだろうか―――――そんな事を頭の片隅で考えながら、イオリはティアを見つめた。

「……ふざけないで」

が、その小さな唇から零れた言葉は、怒りよりも寂しさに似た何かを強く感じさせた。








何を言ってるんだ、この人は。
イオリの言葉を聞き終えたティアが思ったのは、それだけだった。同時に湧き上がる怒りと、どこから生み出されるのか解らない悲しさ。その全てを集めて、声に乗せる。

「何が師匠失格よ。私の事何も知らないのに、そんな事言わないでよ!」

言ってる事が滅茶苦茶だ。お得意の冷静で現実的な毒舌は、今は全く使い物にならない。
きょとんとするイオリの顔を睨むように見つめて、ティアは吼えるように続ける。

「私がアンタにどれだけ支えられたか、知らないのに。アンタにどれだけ感謝してたかも気づいてないでしょうに。なのに、何で師匠失格だなんて言うの?」

声が震える。零れる涙を拭う余裕なんて、今のティアにはなかった。ただ言いたい事を言う事しか、頭にはない。
泣き崩れてしまいそうな衝動を必死に堪えて、言わなければいけないと半ば強制的に命令する。

「アンタ以上の師匠なんて、私は知らないんだ!やめてよ、そんな事言わないでよ!」

もう逃げない。伝えられずに過去を悔やんだあの頃を忘れた事なんて、1度もない。
無駄に大人びていた在りし日の自分を今と重ね、後ろにナツ達がいる事なんてお構いなしに叫ぶ。

「否定なんか、させやしない」

歩み寄ろうとしてくれていたイオリを突っぱねて、いなくなってから彼女の存在の大きさを知るなんて、本当に遅い。悪いのはティアだ。向けられる全てを悪意だと思い込んでいた、あの頃の馬鹿な自分。
けれど、今は違う。今悪いのは、誰が何と言おうとイオリだ。
失格だなんて認めない。それを言うのが本人だとしても、そんな事を言われて黙ってなんていられない。

「私の師匠を失格だなんて言う奴は、その言い分を私が否定してやる!」









『本当に、変わっちゃったね』

零れた言葉に、ティアが顔を上げた。頬を濡らす涙を拭おうと手を伸ばして、触れられない事に気づく。先ほどまでは手を取る事が出来たはずの自分の手を見つめて、イオリは微笑んだ。
もう、終わりだ。皆とも、お別れだ。そう告げるように消えていく手を、隠すように後ろに回す。

『でもね、ティアちゃん。その変化を恐れなくていいんだよ?君は君が変わる事を恐れて距離を取っていたけど、大丈夫。どんなに変わったって、君はあたしの弟子のティアちゃんでしかないんだから』

足が消えていく。ハッとしたように目を見開いたティアが何か言おうと口を開くが、イオリはそれに対して首を横に振った。
ティアの肩越しに見る仲間達もそれに気付いているようで、それぞれが目を見開く。

『アルカ君』
「…何だよ」
『いくらミラちゃんが優しくって心が広いからって、あんな簡単に別れ話しちゃダメだよ?泣きそうだったの、見てたんだからね』
「うる、せえ…余計な、お世話だっ……!」

声が震える。
溢れる涙を隠すように右腕で目元を隠したアルカの隣に、イオリは目を移した。

『グレイ君も、ちゃあんと気づいてあげなよ?あの子、いい子だと思うなあ。あと、可愛い弟子が出来たんだから、大切にしてあげる事。ね?』
「……」

グレイは、何も言わない。
けれど、俯いた顔からポタリと涙が落ちるのを、イオリは見ていた。

『エルザちゃんは…特に心配はないかな。強くて優しくて温かいから…。けど、あんまり1人で抱え込んじゃダメだよ?体によくないからね。もっとみんなを頼っていいんだよ』
「…ああ」

エルザは泣かなかった。
きっとそれは仲間の前だから。必死に堪えているのが見て取れる。泣いてもいいんだよ、なんて余計な一言は呑み込んだ。

『ルー君の恋が叶う事、あたしも願ってる。もし恋人になれたら、あたしにも教えてね。全力で祝福するから…あ、でも…見えないかな』
「イオリぃ……!」

ぐすっ、と鼻を鳴らしたルーは、何度も何度も頷いた。
それが何に対する頷きなのかは解らなかったけど、彼なりの何かなのだろうと受け止めて、頷き返す。

『あんまり話せなかったけど、ルーシィちゃんの事も大好きだよ。仲間だって思ってる。だから、ルーシィちゃんもあたしの事、仲間だって思ってくれれば嬉しいな』
「…仲間、よ……仲間に、決まってるじゃない…!」

両手で顔を覆うルーシィは、絞り出すように叫んだ。
膝が消える。ちらりと目を向ければ、太腿の半分が消えかかっていた。腕も、肘から先は既に消えている。

『ハッピー、君の恋も応援してるよ。あと、ナツ君のストッパーも……って、それはティアちゃんの方が上手なのかな。2人に何かあったら、あたしに報告よろしくね』
「あい…さあ……!」

小さな体を大きく震わせて、ハッピーがいつもの口癖を呟く。
目線を上げたイオリは、彼を見た。自分が弟子を任せ、弟子の彼女をどこまでも引っ張って、いい方向に変えてくれた彼女の戦友。
ナツは、イオリの言葉を正面から受け止めるかのように、イオリの目を見つめていた。

『…ナツ君』

感謝してもしきれないなあ、と思う。
ティアがここまで成長して変わったのは、紛れもなく彼のおかげだ。何を言われようと諦めずに手を差し伸べ続けて、隣で戦う事を許されて、協力まで求められた彼の。
あの時、任せたのがナツでよかった――――イオリは、心からそう思えた。

『約束を守ってくれて、ありがとう。これからも、よろしくね』

何をよろしくなのかは、敢えて言わなかった。それは、ナツ自身が決める事だと思ったから。
何か言いたげに目線を彷徨わせたナツは、少しして何も言わずに頷いた。そんなナツに笑みを返して、イオリは真っ直ぐ前を見る。

『ゴメンね、ティアちゃん。もっといろいろ話したかったけど、もうダメみたい』

どうにか肩は残っていた。太腿は完全に消え、腰辺りが徐々に消えかかる。長いポニーテールの先がゆっくりと消え始め、イオリの存在そのものが淡くなっていく。
その様子を、ティアは真っ直ぐに見ていた。時折揺れるその目には迷いがあったが、目を離す事だけはしない。

『……ねえ、ティアちゃん。最後に1つ、お願いしてもいいかな』

そっと声を掛けると、ティアはぱちりと瞬きをした。やや驚くようなその表情に、イオリは言う。

『―――――笑って?』
「え?」
『笑ってほしいの。こんな状況で言う事じゃないのは解ってるけど、笑ってほしい。最後だもん、笑っていてほしいよ』
「……さい、ご」

掠れた声に、頷く。
もうきっと会えないから、敢えて最後だと断言した。過去に踏ん切りをつけて、前を見て先に進んでもらう為に。

『ねえ、ティアちゃん』

もう1度、呼びかける。もう2度と面と向かって呼べないであろう名を、繰り返す。
溢れる涙を止めないで、それでも笑って、イオリは弟子の名を呼んだ。もう、顔と首しか残っていない。随分ホラーな光景だなあ、なんて他人のように考えるイオリがどこかにいた。

『――――――ティア』

初めて呼び捨てにした声に、ティアは驚いたように目を見開く。けれど、そこにある笑った顔を見つめて―――――彼女は、笑った。
柔らかく、温かで、ふわりと花が咲いたような、そんな笑み。ギルドの誰もが、弟のクロスや兄のクロノでさえ見た事がないような。
涙で濡れた瞳が柔らかく細まるその表情を暫し見つめ、イオリは微笑む。

『ありがとう』

そう言って。
イオリは、狭くなる視界に別れを告げる。




『サヨナラだね。会えて嬉しかった。笑ってサヨナラ出来て、嬉しかったよ』











面影の1つも残さずに消えたイオリのいた場所を、ティアは呆然と見つめていた。
その様子はイオリの葬式での人形のような姿と重なって、ナツは思わず目を逸らす。何故だか解らないけど、見てはいけない気がしたのだ。

「……一緒に、いたかったな」

だから、その囁くような声に気づくのが遅れた。
ハッとしてティアを見れば、その華奢な姿が座り込む。どうやらルーシィ達にもそれは聞こえていたようで、全員の視線がティアの後ろ姿に集中した。

「一緒に、いたいよ……!」

零れる言葉は、飾らない少女の本音で。
高望みなんてしない、ただ一緒にいる事だけを望む声は、どこまでも痛切で。
それが叶わないとナツ達も、ティア自身も解っているからこそ、辛い。
ルーが声を掛けようと1歩足を進めるのを、ナツが止める。向けられた顔に首を横に振れば、ルーは小さく頷いた。
今は、声を掛けてはいけない。今は、無理をして“いつものティア”にさせてはいけない。
声を掛ければきっと、彼女は涙を拭うから。何事もなかったかのように、呆れた顔でハンカチを取り出して差し出すから。悲しさを、押し殺してしまうから。

「言いたい事、いっぱいあったのに。……ありがとうって、言いたかったのに…!」

華奢な体躯が、震える。
今のティアに何か出来るほど、ナツ達は器用じゃなかった。








「あんな事、言いたかったんじゃない。ありがとうって……師匠でいてくれて、嬉しかったって……!」

どうしようもない感情を吐き出すように、ティアは1人呟いていた。
普段大きな感情を持つ事がないティアにとって、こんなに大きな悲しみを抱えるのは滅多にない事で、どう扱っていいのか解らないのだ。

「何で…何で、言えないかな。何で……ああいう事しか言えないかな…」

もう解らない。自分で何を言っているのかも、抱えるこの感情も。
ただ脳裏に焼き付いているのは、最後のイオリの微笑みと、最後の一言だけ。

「一緒にいたい……ずっと、隣にいてほしかった……!」

本人の前では言えない本音を吐き出す。相変わらず言うのが遅い、なんて思うのが馬鹿らしかった。
イオリが立っていたあの場所を見つめ、ティアは唇を噛みしめる。言う前に消えてしまったせっかちな師匠に向けて、最後に言う。

「さよなら…イオリさん」

きっともう、会えないから。イオリの発言にツッコんだりなんて、もう出来ないから。感謝の気持ちを伝える事だって、2度と出来ないから。
だから、もう彼女はいないけれど、最後に伝えよう。







「あなたの弟子で、幸せでした……!」











遠くで、彼女が笑った気がした。 
 

 
後書き
こんにちは、緋色の空です。
遅れてすいませんでしたああああああああ!ヤバいです、まさかの遅れです。今年中にROE編終わらせられないよこのままじゃ…!
あと締めくくりの1話だけなんですけど、多分書き終わらないんで……ああああああ!
『ファイアーエムブレム 覚醒』が面白すぎて疎かになっていた……!

と、いう訳でイオリ登場です(どういう訳だ)。
何度この話を止めようとした事か!でも、やっぱりティアの過去といえばこの人ですから、登場しない訳にはいかないな、と。

感想・批評、お待ちしてます。
多分これが今年最後の更新ですので…早いですが、皆様よいお年を! 
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