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Magic flare(マジック・フレア)

作者:とよね
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第7話 壊レタル愛ノ夢(前編)

 ―1―

 空はまだ赤い。血が流れたのだろう。
 血の汀(みぎわ)から打ち寄せられる赤い雲の下を、島トウヤが歩いている。
 赤いなあ、と呟いた。もう夜明けでもないのにね。まあ、そうだね。時間わかんないよね。時計、さっきのフレアで全部駄目になっちゃったもんね。
 と言ったところで、話し相手が存在しない事に気付き、愕然として足を止める。
 続けて、いや、でも隣に、さっきまで誰かいた、と言うように、その誰かを探すように、左右を見、前後を見、恐怖を顔に刻みつけて立ち竦む。
 梅雨の湿った風が坂の上から来て、、島にぶつかり、通り過ぎていった。
『すると毒の霧が満ちて来て』
 路傍に投げ捨てられたスカイパネルのスピーカーが喋りだした。
『私たちの区画まで来ました』
 男のアナウンスである。
『私たちはみな、懸命にシェルターに走りましたが、霧はそれより早く私たちに追いついて、全員を包みました』
 島は足を動かす。
『熱い。なんだこれは。熱い。爛(ただ)れる。熱い。痛い。熱い、痛い。熱い、痛い、痛い。痛い。熱い、痛い。焼ける。痛い、熱い、痛い』
 震える膝でぎこちなく歩き、徐々に急ぎ足になり、ついに走り始める。
『私たちはシェルターにたどり着き、その壁を、その扉を、ガリガリとかきむしりました。熱い。痛い。熱い。霧が焼く。痛い。熱い。皮膚が剥ける。皮膚が焼ける。開けてくれ。皮膚が焦げる。助けてくれ。助けてくれ。ガリガリかきむしりました。ガリガリ。ガリガリ。ガリガリ。またガリガリ。ガリガリ。ガリガリ』
 島は角を曲がり、そこでまたたじろぎ、足を止めた。
 首吊りが見えた。
『ガリガリ、ガリガリと。ガリガリ、ガリガリと。けれどシェルターは開かず、決して開かず、私たちはそこに家族がいることを、そこから出てこぬことを願いとし、祈りとし、出てくるな、このシェルターから、檻から、決して出るな、泣く看守となって、開けるな、出てくるな、ああ、けれどガリガリ、ガリガリ、ああ、やっぱり開けてくれ、入れてくれ、熱い、苦しい。助けてくれ。死にたくない。ガリガリと、助けてくれ、助けてくれガリガリと、恐い、死ぬのは恐い。ガリガリ、ガリガリと』
 崩れた塀、庭に面した窓の向こう、欄間に縄をかけ、和室に人がぶら下がっている。
 女だ。髪が長く、ひどくなで肩だ。
「おおい」
 不意に呼ばれた。
「どうした、そんなとこで」
 初老の男が崩れた塀の前に立っていた。
「人が」
 上擦った声で異変を告げ、窓を指さすと、もう首吊りの女は消えていた。
「この家はずっと前から無人だよぉ」
 間延びした声で、男はのんびり答えた。
「ご夫婦とお子さんが住んでらしたんだけどねぇ。ひどい事件でねぇ。お子さんが殺されてねぇ」
「……そうなんですか」
「奥さんも自殺してねぇ」
 男は顎を上げ、邪悪な顔で、
「俺がガキを殺したせいなんだけどねぇ!」
 笑いだした。長く。島はかろうじて一礼し、急いで通り過ぎた。
 スカイパネルの破片が路傍に積み上げられている。雲の赤を映している。
『おろして』
 そしてまた、走り出す島の隣でスカイパネルは喋りはじめる。
『おろしてと、私は頼み続けました。夫がおろしてくれた後も、夫が越していった後も、私はぶら下がり続けておりました』
 角を曲がっても聞こえる。
『けれど』
 次の角を曲がっても聞こえる。
『私の足の下には、いつしか畳がなくなって、この欄間の下にはぎっしり亡者が詰まって立ち、私を見上げていました』
 まだ聞こえる。
『ですので、この縄が切れても切れなくても、私は苦しむさだめなのです』
 小雨が降り始めた。透き通る夜明けだったのに、きっと大雨になる。
 小さなアパートについた。外階段を二階へ上り、薄い扉を叩く。
「星薗さん! 星薗さん」
 自分でも予想していなかった言葉が、続けて口から出た。
「助けて」
 内鍵を回す音。扉が外側に開き、充血して濁った二つの目を持つ、星薗の黒い顔が出てきた。
「何だおめぇ」
 その不健康な顔で星薗は言った。
「何だ」
 島は何も説明できることがなく、立ち尽くす。
「何だよ。助けてくれたぁ、どういうことだ」
「……すみません」
「何でぇ」
 たまたま、星薗の体越しに、奥の寝室が見えた。
 中に女物の衣服が散乱している。
「あがってけ」
 ふいと背を向けて、中に入っていく。
「あの」
「入れや。用があって来たんだろうが」
 狭い三和土で、後ろ手に戸を閉めたとき、ひどい後悔で胸が潰れる思いがした。二度とこのアパートから逃げられない予感がした。
「何しに来た」
 島はその言葉で、自分が生きていることを思い出した。ACJの特殊警備員で、その仕事で生活し、人間の社会で生きている、人間であることを思いだした。自分が死者ではないことを、死者の姿など見えず、死者の声など聞こえないことを思い出した。
 幻覚を見たんです。島は言葉を喉で殺す。町がひどいありさまだから、精神的に参ってるんです。
「岸本さんに言われて……あの、仕事に来てほしいって……」
 星薗は散乱する衣服の中で肩を揺すって嘲笑した。
「で、何を見た」
「えっ?」
「ひでぇ顔だぜ? 幽霊でも見たような」
 立ったままの島は、寝室を埋める衣服の中に、子供服も含まれていることに気付いた。
「坂の下の、塀が崩れた一軒家知ってますか? 殺人事件があったっていう」
「俺が捜査した事件だ」星薗は胡座を組んで頷き、「……俺が遺族になった事件だ」
「えっ?」
「昔刑事だったって言ったろうがおめぇ。聞いてなかったのか」
「初耳です。すいません」
「どんくせぇなお前。間が悪いっつーかよ」
「……すいません」
「こんなこと本当は謝る必要ねぇってわかってんだろ」
 島は目を伏せた。
「随分前のことだ。あの事件があったのはな。まだ戦争をやっていた」
 暑い日だった。星薗はささやく。
「通報を受けて駆けつけた時、俺は想像を絶するものを見た」
「……何ですか?」
「おぞましいものだ」
 子供が殺されていたんだ、と、星薗さんはそれを言えないんだ、と、島は思う。
 星薗は喋らない。背を丸めて座ったまま、じっと目を閉じている。
「その、星薗さん」
 現実感をたぐり寄せるために、島は会話をする。
「仕事に来てほしいんです。人手が足りてないんです、それに」
 嘘だ。
「星薗さんだって、困ると思うんです。来た方が……いいと思いますけど……」
「俺にとって何がいいかなんざ、何でおめぇにわかるんだ」
「そうですけど、でも」
 言葉をつなぐ。
 クビにされてしまうかもしれませんよ。そしたら星薗さん、やっぱ困るんじゃないですか。
 星薗は短く笑うだけだった。
「何のために働けっていうんだ」
「何って……」
「おまんまのためか? おめぇ、俺たちがまだ生きているって、そんな保証、どこにある?」
 島は不意に気付く。
 玄関の戸を閉めた瞬間から、今の今まで自分が見たくないと思っていたものの存在に気付く。星薗が何と暮らしていたのか気付く。
 幾層にも積み重なった衣服の合間から覗く長い髪と、両目に気付く。
 この衣服の層の下に床はなく、きっと地獄と呼ばれる場所につながっていて、そこから黒い風が吹いて、部屋に満ちていることに気付く。
 十分後。
 島が走って逃げて来た。公園のベンチで座り込んでいたクグチは、気付いて顔を上げた。
「島さん?」
 島は泣いていて、立ち止まらなかった。
 もう夜明けでもないのに、いつまでも空が、赤い。

 ―2―

 赤い空の下、自転車を押して、クグチは俯いて歩いている。居住区の外は平和だ。暮らしているのは、もともと貧しく不便な生活に慣れた人たちだ。中央掲示板がある広場では、ブルーシートをかぶせた簡易の小屋が並び、人々が泥付きの野菜や衣服を持ち寄り、交換しあっている。
 掲示板は広場の片隅にあった。
 クグチの張り紙が何者かによって、他の尋ね人の張り紙の上に貼り直されていた。雨よけのビニール袋の上に一言、
『ジャンパーは無しで』
 とある。
 クグチはACJの半袖のジャンパーを脱いで丸め、自転車の前かごに突っこんだ。UC銃を持ってこなくてよかった。あれはジャンパーよりも目立つ。自転車のハンドルに手を載せて、クグチは待った。
 UC銃を持ってこなかったのは、それであさがおを撃たないと決めたからだ。彼女を静かに消滅させようと決めた。彼女に何もしないと決めた。それは、何かをした内に入るのだろうか。
 何もしなかったことの何が正しかったのだろう。
 あさがおにも、まだやりたいことがあったんじゃないか。言いたいことがあったんじゃないか。その機会が失われていくのをみすみす見逃しただけじゃないのか。いいや。あれは廃電磁体であって、根津あさがおそのものではなかった。いいや。いいや。それは理屈だ。それでも廃電磁体は自分を根津あさがおとして生きていると思っていた。自分はそのあさがおの家族だった。それを消えゆくに任せると決めた。
 状況の判断は正しかった。けれど、人としての判断が正しかったと誰に言える?
 誰かが前に立った。
 クグチは顔を上げて、その人を、見た。
 痩せた小柄な男。中年で、頭はすっかり禿げ、眼鏡をかけている。にこにこと柔和な笑みを浮かべ、影をクグチのほうに伸ばしている。
 クグチは背を伸ばし、慌てて一礼した。伊藤ケイタは動画データの中の若かりし頃の面影を十分にとどめていた。
「歩こうか」
 そう一言だけ言うと、背を見せて人混みに歩き出す。クグチは自転車を押し、ついて行った。
 長く歩いた。
 後ろから誰かがついて来ていて、その気配が分かるかのように、それを振り切ろうとするように、伊藤ケイタは早く歩いた。道は混んでいた。ここでは平和だった頃の居住区のように、誰も行儀よく振る舞おうとしない。人並みに揉まれ、ぶつかられ、人の足を自転車で踏み、罵倒されながら、クグチは伊藤ケイタを見失わないことだけに集中した。
 ある角を、彼の背中が曲がった。
 生ゴミと雨の臭いが残る道に並ぶ、一つのドアを開ける。自転車を壁に寄せて止めている間、伊藤ケイタは、やはりにこにこしながら立って待っていた。
「いやあ、暑いね。あ、モーニング二つ」
 通されたのは奥まった席で、テーブルは黴臭く、店員と思しき中年女性は胡散臭そうにクグチを見ただけで返事もしない。伊藤ケイタは慣れているのか、くたびれたポロシャツの襟をつまみ、ぱたぱた扇いで服の中に空気を入れている。
 クグチは戸惑いながら、とりあえず挨拶した。
「初めまして。明日宮クグチです」
「うん。知ってる」 テーブルの向こうから手を伸ばし、「知ってると思うけど伊藤ケイタです。よろしく」
「よろしくお願いします」
 握手に応じると、コーヒーとパンを盆に載せて、さきほどの中年女性が来た。その店員は、やにがついた黄ばんだ目で無遠慮にクグチを見つめた後、
「ケイちゃん、この人……」
「ああ。明日宮君覚えてる? 昔よく一緒に来てた。彼、明日宮君の息子さん」
 すると店員のクグチを見る目から険も不信も消えて、ああ、と背をのけぞらせて叫び、笑いだした。
「そうだったの! まあ、ケイちゃんったら、先にそう言ってくれればよかったのに! 居住区の人っぽいから、あたしてっきり、また役所の調査か何かかと。まあ、そう」
 彼女はクグチの前にもコーヒーを置き、別人のように優しく微笑みかけた。
「なぁんだ、そういうことかぁ。ゆっくりしていってね。まあ、言われてみれば目許とか鼻筋とかそっくり」
 店員が引っこむと、伊藤ケイタは苦笑いして言った。
「居住区の外では、無課税の食料品が流通してるって噂だろ。ま、そういうことだから」
「ええ……。父はよくここに来ていたのですか?」
「うん。よくね。あの頃は店の立地ももっといい場所にあって、あの店員さんもね」
 と、ゆで卵をテーブルで叩き、剥き始めた。
「もともと明るくて愛想のいい人だったんだよ。でもまあ、今じゃいろいろ警戒しなきゃいけないこともあるから。居住区の外の暮らしは、たぶん君が思っているより不便や苦労が多い。気を悪くしないでね」
「とんでもないです、いただいていいですか?」
「どうぞどうぞ。で」
 伊藤ケイタは口許だけで笑う。
「なんで、君は僕を探していたのかな」

 店員はあれっきり出てこない。
 客も来ない。
 ここで、伊藤ケイタが秘密の話をすることに、慣れているようだ。
 こうやって、彼はよくこの店で謎めいた話をしたのだろうか。
 向坂ゴエイと。桑島メイミと。
 道東に来てからこれまでのことを、あさがおのことを除いて、クグチは全て話した。伊藤ケイタは頷く機械のように、口を挟むことなく聞いた。
「桑島君の件なら僕も知っている」
 伊藤ケイタは氷が溶けて薄くなったコーヒーをストローでかき回しながら口を開いた。
「須藤ハツセリのことでもある。桑島君の姪だ。君が推測したとおりだ。ハツセリちゃんは、桑島君でもある」
「何で彼女はそんな存在に」クグチは、言葉を選んだ。「……なったのですか?」
「実験だった」
「実験?」
「……不可避な流れだった」
 伊藤ケイタも言葉を選ぶ。
「ところで、君も知っていると思うが、守護天使というサービス名で商品化されている電磁体たちは、そもそも軍事目的で開発されたものなんだ」
「ええ」
「あれは情報と機密の保持に革命をもたらす画期的な実験だった。情報それ自体が、開示する相手を自ら選び、判断できるのならば、それはただの情報ではない。初期の研究者たちは、情報を生き物にできると考えたんだ。記憶させ、保持させ、必要とあれば……生きた人間に次から次へと転移させ、永遠に生きさせることができると。僕たちは日本にいた時からもう研究に加わっていた。そして陸戦で荒廃したQ国は、その実証実験を行うのに都合がよかった」
「……人体実験、ということですか?」
「そうだよ。僕がした。明日宮君も、向坂君もだ。Q国で、した」
「強羅木は。……強羅木ハジメは」
「彼はその前に、日本に帰ったから。桑島君もね」
 そうか、その時に、あの遺言代わりの動画が録られたのかとクグチは察した。
 強羅木がQ国での人体実験に参加しなかったという話に、クグチは奇妙な安堵を覚えた。彼は自分に先見の明はないと言った。しかし彼は、時代の強者や多数派になることを、強者や多数派としての様々な特権やリスクを得ることを、加害者になることを、回避して生きてきた。クグチに守護天使を持たせなかったのも、その延長線上にある。
「同じ時期、日本で守護天使が商品化された。あれはとても平和的な人体実験だったんだ。多くの人が流行に乗り遅れまいと、喜んで参加した。何も知らない内に」
 意識的にそうしているのかどうかはわからない。何となく、強羅木はそう生きることをさだめづけられた人間であるような気がする。
「けれど、明日宮君は亡くなった」クグチは我に返る。「その後釜を、向坂君が継いだ」
「停戦してからもですか」
「本来なら、そこでやめなければならなかった」
 伊藤ケイタは目を閉ざした。
「でも、やめなかった」
「どうやって実験を継続したのですか?」
「……太陽フレアで戦局が混乱し、調停機関が本格的に動き出すと、国防技研は人体実験の証拠隠滅を急がなければならなかった。様々な物証を焼却し、逃げるようにQ国から引き上げた。向坂君は、帰国してから桑島君の訃報に触れた」
 けれど、彼女の記憶と人格を引き継いで、守護天使が残っていた。
「向坂君が、生まれたばかりのハツセリちゃんが収容された病院に行ったのは、そこに、クグチ君、君もいたからだ。君はかつて向坂君に会っている」
「そうだったんですか」
「記憶がないことは聞いている。ともかく向坂君は、その……新生児であるハツセリちゃんのまっさらな守護天使に、桑島君の守護天使が転移していることを知った。桑島君にとって、いや……守護天使にとって……そうすることが」
 伊藤ケイタは笑う。笑って眉間の肉を摘む。肩を震わせ、声を潤ませ、恐れおののいて笑っている。
「そうすることが、桑島君がハツセリちゃんを生き延びさせる方法だったんだ。焼け跡で、声を大にして叫ぶことが。ここに子供がいる、助けてって。そして収容された陸軍の病院で、身内可愛さゆえに、他の子を見殺しにしてでもハツセリちゃんの治療を優先するよう病院関係者に強要することが」
「そんな」
「だから助かったんだ。ハツセリちゃんも。君もだ。彼女が、桑島君の遺志が、守護天使が、焼け跡でスピーカーとなって君の所在を叫んだから、君は見つけだされ、保護された。だから君は焼けることも飢えることもなかったんだ」
「ハツセリはそんなことを言わなかった!」
「言うわけがない」
 伊藤ケイタは指で目許を拭っている。涙は見せない。
「冷静になった桑島君は自分がしたことを悔やんでいた。君やハツセリちゃんを助けたことをじゃない。引き替えに他の人や子供たちを犠牲にしたことをだ。彼女は罪を償う方法を探した」
 これが現実かわからない。
 現実に起きた話なのか。自分の身に。
 クグチは耐える。目眩に耐える。生きながらえた命を、この心臓を、路上にちぎり捨てて、そうまでしても自分の生を確認したい衝動に耐える。
「守護天使に転写された桑島君の人格は消滅を許されず、ハツセリちゃんごと軍の施設に移された」
「……それから?」
「罪滅ぼしの方法を提示された。それが、国防技研の人体実験の延長に協力することだったんだ」

 国防技研が、と伊藤ケイタは言う。それを要求した、と。
「向坂君も、拒絶できる立場ではなかった」
 彼は闇になって呟く。
「伊藤さんは、その時、どうしていたんですか?」
「僕はとっくに国防技研を辞めていたよ。Q国から帰ってすぐにね。意気地なしなんだ。僕には罪滅ぼしなどできない」
 クグチを見ずに笑う。
「そんな実験は異常だって思うだろう。みんな異常だったかもしれない。善も悪も関係なかった。ただ電磁体のすべての可能性を知りたかった。研究者っていうのはそういうものなんだ」
 あなたもですか? 向坂さんもですか? 桑島さんもですか? 
 僕の父もですか?
 クグチは固く口を閉ざし、恐ろしい質問を殺す。
「桑島君にしても断れなかった。それが、姪ごさんを生きさせる唯一の方法だったから」
 僕がそれを知っているのはね、と続ける。
「後になって全部向坂君に聞いたからだ。何もかも嫌になったね。……本当に。僕は勤めていた大学も辞めた。作家業も辞めた。そしてこの町に姿を隠した。居住区の外の人間になっちゃえば、行方をくらますことなど簡単だ」
 伊藤ケイタは無表情になる。
「だが向坂君はそうはいかなかった。桑島君は、向坂君が国防技研から逃げず、研究を完成させることを望んだ」
「研究って、電磁体の……人体実験を? 人格を他人に転写させるっていう?」
「そう。もう取り返しがつかないから。ハツセリちゃんの本来の人格は育たなかった。肉体だけ大きくなったって、それを育ったと言えるかい」
「それは……」
「犠牲に見合うだけの成果が必要だったんだ。それを手にせず国防技研を去ることはできなかった。みんな戦争を忘れた。ドームに引きこもった。守護天使を持って幸せだ。幸せだと思って暮らしている。そんな世界がほしかったんじゃない。そもそもね、そんなことのための研究でも実験でもなかったんだ」
 不穏なものを湛えて声が大きく膨らみ、伊藤ケイタは何かを堪えて一時、押し黙る。
「……終わらせることだけがね、罪滅ぼしなんだよ。向坂君の、Q国で犠牲になった人々に対しての。桑島君の、ハツセリちゃんを生かすために犠牲になった子供たちに対しての。でも、向坂君は本心から、国防技研と距離を置きたがった。それでどうしてわざわざ、ACJなんかに転職したと思う? 設備の面でも、研究の質の面でも大きく劣る一民間企業にだよ」
「ACJなら、国防技研へのパイプが通じているからですか?」
「そうだね」
 つまらない部署でくすぶっている。
 そう向坂と強羅木のことを評した時、それが安全だからとハツセリは言った。
 まさかスパイの真似事を? ACJの運用や研究の内容を盗み出しでもしていたのか?
「向坂君は桑島君を連れて国防技研を去った。それからしばらくの間、僕がここで彼女を預かっていた。それで、一緒に暮らしてみてあることがわかったんだ」
「何ですか?」
「ハツセリちゃんに乗り移った桑島君の記憶は完全ではなかった。今でこそ、若い子ならね、みんな生まれた時かごく小さい頃に守護天使を与えられている。だけど当時は、電磁体が守護天使として商品化されてからせいぜい数年。桑島君の守護天使が彼女になりきるには時間が足りなかった」
 彼は少しためらった。
「彼女、桑島君の守護天使は、明日宮君のことを強く記憶していた。桑島君は彼女を愛していた」
「ええ、知っています。ハツセリから聞きました」
「明日宮君が妻子を裏切るようなことはなかったからね。彼の名誉のために、それは言っておくよ」
「ありがとうございます」
「だけど、桑島メイミが明日宮エイジを愛していたとしても、愛の記憶を守護天使が引き継いでいたとしても、その守護天使は、明日宮君のことを知らないんだ。彼は何年も日本に帰らずに、Q国で亡くなったから」
「……ええ」
「愛の記憶は、桑島君の守護天使にとって、唯一自分の人間性を証明するものだった」
「人間性」
「電磁体は明日宮エイジの記憶を欲した。欠けてしまった、桑島君が本来持っていた記憶を補完する必要があったんだ。それが、人間に宿る電磁体としてじゃない、人間として生きる方法だと、桑島君の守護天使は言った。この人間の肉体に、本来育つべきだった人格に教えてやれる唯一人間らしいことだと桑島君は言ったんだ」
「でも、どうやって。父も桑島さんも亡くなった」
「だから君に会った。君が明日宮君の面影を残していることを期待して」
 クグチが乾いた笑いを漏らした。
「似ていないと言われましたよ」
「そうでもないと僕は思うね。照れ隠しで言ったんじゃないかな。現に、南紀で君に会ったのをきっかけに、桑島君の守護天使は……だんだん生前の桑島君の振る舞いに似てきたんだ。よほど強い刺激だったんだ。南紀で君に会ったのが。守護天使は桑島君から引き継いだ彼女の生前のパーソナルデータから、かき集めた明日宮君についての情報をもとに、桑島君がなぜ彼を愛したのか、どのように愛したのか、演算を始めた。結果としてそれが、引き継げなかった桑島君の人格や性格の補完にもなり」テーブルに肘をつき、額に掌を当てた。「わずか一か月で、彼女は二度とハツセリちゃんとして振る舞わなくなった」
「ハツセリちゃんとして? じゃあそれまでは、じゃあ、俺が初めてあった時はハツセリとして振る舞っていたと言うのですか? ハツセリに、ハツセリの人格があったということですか?」
「わからない。けれど、今になって確かに言えることは、そういえばそれまでのハツセリちゃんの振る舞いやものの考え方は、生前の桑島君とまるで同じというわけではなかった。君に会う前と会った後の彼女の言動を比較して、初めて言えることなんだ」
「俺はハツセリに会っていたんだ!」
 暗い店内で、クグチは耐えきれず声を荒らげた。
「俺に会ったのが原因でそれが消えたというのなら、俺が殺したのと同じことじゃないか!」
「違う! それは違うぞ、明日宮君!」
「ハツセリは」記憶が閃光のように過ぎ去る。「俺にさようならと言った! あの廃ビルの庭園で二度めに会った時に!」
 こんにちは、そして、さようなら、と。
「俺は気にしていなかった。変なことを言う奴だと思ってたから。でもあれは、あれはハツセリの最後の言葉だったんだ。俺に会ってしまって、もうハツセリとして存在できないと悟ったから、それで別れを――」
 補完された桑島メイミの人格として、こんにちはと言った。お久しぶりと言った。
 それに上書きされ、消えゆく存在として、ハツセリがさようならと言った。
「――何が、違うと言うのです?」
「ハツセリちゃんを殺したのは、君じゃない。僕と向坂君だ。僕らが、彼女に君に会うよう勧めたから。向坂君が彼女を連れて南紀に行ったからだ。君のせいじゃない。君は何も悪くない」
「じゃあ、誰が悪いと」
「僕だ。でも、ハツセリちゃんの人格がハツセリちゃんの中にあるなんて思っていなかったんだ。それが電磁体の疑似人格に上書きされてしまう可能性があるなんて……いいや、これは言い訳だ。一つの体に二つの記憶と人格は入れない。わかっているべきことだった」
「ハツセリは……死んだのですか?」
「そういう言い方もできる」
 伊藤ケイタは、長く、唇を結んでいた。
「どう……償えばいいのか……わからない」
 何も言葉が続かなかった。
 どれほど二人して黙っていただろう。
 誰かが外から店のドアノブを回した。びくりとそちらを見ると、鍵がかかっているようで、外の人物は何か不満を呟きながら引き返していった。
 あの店員か店主が、二人の為に店を閉めてくれていたのだ。
 クグチは気を切りかえた。
「向坂さんが国防技研をやめてACJに転職したっていうのは、表向きの話なんですよね」
「まあ、そうだね」
「誰かがハツセリと一緒に廃ビルで暮らしていた。誰かがそれをACJの特殊警備に密告した。逮捕されたあの人たちは何なんですか? 密告されて逮捕される危険があるのに、あそこで何をしていたんですか?」
「捕まった人たちは、まぁもう釈放されたみたいだがね、何のことはない普通の人たちだよ。ただちょっと、守護天使や幸福指数に支配された居住区の社会制度に反感を持っていただけのね」
「彼らはあそこで何を?」
「さあ、それは知らないし、実をいうと関係のない話なんだよ。要するに、桑島君はあの廃ビルが気に入ってた。南紀で君に会ってから、彼女はあまり僕のそばにも寄りつかなくなったし、向坂君とも口を利かなくなった。一人で……人気のないところで過ごすことを好むようになった。向坂君が最低限の身の回りの世話をしていたけど、そこに、あの人たちが隠れ家として出入りするようになった」
「邪魔だった、ということですね」
「そう。匿名で密告したのは向坂君だ」
「僕はそこでハツセリと再会しました」
 そして、別れた。
「君と再会していることを最初、桑島君は向坂君に打ち明けなかった。むしろ向坂君はね、ACJの特殊警備員が来て危険だから、退避するよう彼女に言っていたくらいなんだ。向坂君は、もし誰にも見られずに君と二人きりで接触する機会があったら、自分のタイミングで君と桑島君を引き合わせるつもりだったみたいだけど」
「向坂さんは一度、ハツセリに会わない方がいいと警告を寄越しましたが……」
「知ってるよ。彼は全ての事情を話してから、桑島君と会わせたがっていたからね。桑島君の気まぐれで君が不必要に傷つくのは嫌だと言っていたし……後はまあ単純に、君が頻繁に出入りすることで人目につくのを避けたかったんだろう」
「そうですね……それは、不注意でした。向坂さんは今どこにいるんですか?」
「わからない。あの夜以来音信が途絶えている」
「生き延びてはいるんです。それはわかっている。でも、今の居場所が……」
「本当か? 向坂君は無事なのか?」
 身を乗り出してくるので、クグチは伊藤ケイタに、向坂ルネの件と併せて、一度だけ向坂の姿を見かけたことを話した。
「ルネ君の件は痛ましいことだ」
 でも守護天使のことまでは知らなかったと、伊藤ケイタは言う。クグチは喋った。
「でも、そんなことをしても無意味だったんです。どのみち太陽フレアが廃電磁体たちを消していたでしょう」
 言いながら、そんなのは向坂ゴエイに憎まれたくないがための言い訳だ、とクグチは思う。
「僕はね、廃電磁体たちが消えてなくなってしまったとは思っていない」
 伊藤ケイタは優しく話した。
「変質して見えなくなっただけだと思っているよ。かつて電磁体たちが、磁気嵐の特殊な磁場の中で変質して生き長らえたように、また姿を変えたんだ。一回目の大規模フレアで消えなかった電磁体たちが、二回目の大規模フレアで消え失せる理由は特にない」
「でもこの次には超規模フレアが来ます。それが来たら」
「それが来たら、どうなることだろうね。次のフレアが何をもたらすかは、僕にもわからない」
 でも、電磁体たちはいるよ。
 この町に、今でもいる。
 町は幽霊で満ちている。
 太陽が死を奪った。
 かつての研究者は、言った。
「まるで、太陽の魔法だよ」

 
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