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或る短かな後日談

作者:石竹
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終わった世界で
  一 雨と心音

 聞きなれた轟音。銃声。肉の爆ぜる音、焼ける匂い。もっと近く、この手の中で。鋭利な爪が、鉄の爪が。動く死肉を握り潰して、切り裂いて。

 もう、慣れた。慣れてしまった。初めて、この空気の中を駆け。初めて、醜い肉塊に、私の爪を立て、私の物ではない血肉を浴びたそのときは。嫌悪と恐怖で吐き気さえ憶えた……いや、吐き気と言うその感覚を、思い出した、と、言うべきなのか。只々、この現実から。今すぐにでも逃げ出したいと、そう思っていたはずなのに。
 今は、只。只々。迫り来る敵を切り裂き、啜って、傷を癒し。背後から飛んだ銃弾が群がる死体を撃ち飛ばす様を横目に、また、次の敵。巨大な肉、振り上げられた大鉈を掻い潜り、その、分厚い皮膚を抉り取る。思い出すことすらも叶わない、人間だった頃ならば考えられないほどの怪力。私の右肩、繋がれた腕……余分な腕に、力を込めて、また、貫き。

 抉れた肉。吹き上がる赤い粘菌は、何処までも血飛沫のそれに似た。与えた傷は深く、対する私は、返り血に濡れた頬と、幾らかの擦り傷。態々修復なんてせず、放っておいても再生するほど、浅い傷。それは、彼女も。私の背後で狙いを定める、彼女も同じ。立ち塞がるは歪な巨体、凶悪な風貌。対する私達の姿は、多少歪んでしまったとは言え、少女のそれで。しかし、それでも。

 私達は、嬲る側。あんなにも恐ろしかった戦場で。あんなにも恐ろしかったアンデッドを切り裂くこの瞬間に。この、背徳に。悦びを見出した、見出してしまった、自分に。

 悲しみを。嫌悪を憶え。それもまた、今更、と。深く突き刺した第三の腕、備えた鉄の爪を以て。肉を。視界を埋めた、白い肉を。敵を。

 それを。力任せに、裂いた。



 終わった世界と言われたところで、終わる前の世界を知らない私達にはそれを嘆く気にもなれず。私たちにとっては今、この醜い身体で、醜い敵と戦う日々こそが世界の全てで。自分のものではない血を、体の中を流れる粘菌を浴びては悦に浸る。私を設計したそいつは、余程悪趣味な……と。
 汚れ、罅割れた硝子窓。崩れ落ちた廃墟に嵌めこまれ、辛うじて原型を留めたそれに、映る自分の姿を見詰め。自分の姿に対する嫌悪を、私を作った、此処には居ない造物主へと吐きつける。

 二本の足は獣の足。背中に伸びた第三の腕。三つ腕、全てに備えた金属の爪……最早、指と言うべきか。手の甲までは、人の肌。其処から先は全て、鉤爪。不揃いに長く、湾曲し。しかし、揃って鋭利極まり。然程、力を込めずとも。一度撫ぜれば肉に埋まり、裂き、落とす。手の中にあるのが大事なものであっても。どんなに大切な宝物であっても、こんな手で握り締めたなら。簡単に崩れ落ちるだろう、と。大事なものよりも壊すべきものが多いこの世界ならば、こんな手の方が生きるのには向いているのかもしれないけれど。

「マト」

 鈴の鳴るような、とは。こういう声のことを言うのだろう。私を呼ぶ声に硝子窓から視線を移せば、隣を歩む彼女。無骨で巨大な銃を背負った、彼女の姿が其処にあって。

「大丈夫? 辛そうに見えるけれど」
「大丈夫。何も問題ない」

 そう言って。下手糞な。小さな笑みを彼女へと向ける。引き攣ったよう、とは、よく言われるけれど。それでも、彼女はそれで笑ってくれる。彼女の作る綺麗な笑みは。こんな世界とは場違いなほどに綺麗な笑みは。
 必要の無い、私の感傷を。心に掛かる雲を、払って。

「いつも言うけれど、抱え込まないでね。あなたは放っておくと無理ばかりするから」

 少しだけ、悲しそうに彼女は言い。それでも、笑顔を崩すことは無く。本の少しだけ。隠し切れなかった、浮かび上がったその、寂しそうな表情に。私の中に埋め込まれた、見せ掛けの心臓、胸が、痛んで。

「……大丈夫。無理しない程度にしか、無理しないから」
「何よそれ」

 そう言って、可笑しそうに笑う彼女。その笑みを見て、私もまた安堵して。

「……砂、多くなってきたね」

 足元。風に乗って舞い上がる砂を見詰め、その先を見詰め。左右に並んだビル、朽ちた車、折れた標識。このまま歩き続ければ、また、この町並みも砂に呑まれる。世界の大半は砂漠に覆われ、人間が飲めるような水は、私達は未だ見たことさえない。見たのは、汚染された水だけ。暗い黄色の雲、汚れた雨。時折雲の合間から見える空も赤く、まるで錆びてしまったよう。いつか、錆びに錆びたあの空が落ちてきて、狂った世界を終わらせてくれるのではないか、なんて。そんな、少しだけ流行りそうな終末思想を思い浮かべて。
 醜いアンデッドに解体されるくらいなら。そっちの方がまだ、夢があって良いと思う。そんな赤錆色の空も、今は。暗く分厚い雲に覆われ。どうやら私の鼻は、彼女の綺麗に整ったそれより、ほんの少しだけ利くらしい。

「リティ。そろそろ、どこかで休もう」

 風に舞う砂、その遥か先を見詰める彼女に言葉を投げる。対する彼女は、少しの疑問を顔に浮かばせ。

「構わないけれど、まだ少し早くない? もう少し先まで行っても、休める場所はあると思うけれど……ああ」

 彼女の長い、綺麗な髪に。彼女曰く、死人のそれとしては、綺麗な髪に。油を乗せた雫が落ちて。

「雨、ね」

 私の手首を掴み。その一滴を皮切りに振り出す、無数の雫。汚れた雫、雫の群れから。
 たった今まで私を映した、硝子窓のビル。螺子の外れた扉の向こう、暗く沈んだ、その静けさへと逃げ込んだ。



 降りしきる雨は、乾ききった世界に毒を乗せた恵みをもたらし。油の混ざった雨。時には、青白く光り輝く雫さえ降る――そんな。汚染された雨でさえ。この世界で生きる変異した生物にとっては。無論、それらを取り込めるように変異したもの達にとっては。確かに、恵みの雨と言える物で。
 私達のような。アンデッドにとっては、只、行動を鈍らせ、音を掻き消し、汚染物質を不快感と共に体に擦り付ける。感情とは無縁な程度の低い自我しか持たないアンデッドならば、心を乱されるなんてことなんて無いだろうけれど。私達は、御免で。

 音の無い世界。私たちの足音。時折聞こえる変異昆虫たちの羽音。風の音。普段、世界で聞こえる音なんて、その程度のもの。不規則に鳴り響く雨音は、廃墟に走った亀裂から落ちる雫の音は。死んだ世界を震わせ、音で満たして。濡れない場所、汚れない場所から眺めるだけなら、色褪せた世界に変化を与えてくれる存在でもある。

 此処から見える無数の雫が、穢れきったそれだとしても。私は。

「私は、雨、好きだな」

 不意に。転がった彼女の声。考えていることを読まれたかのよう。思わず、驚き、彼女を見れば。
 悪戯っぽい、笑み。

「あなた、結構顔に出るのよね。何考えてるのかすぐ分かるわ」

 絶え間無く鳴り響く雨音。廃墟と化したビル、たった今潜って来た扉の先を見詰める私を、嬉しそうに見詰め。言葉にせずとも、考えていることを理解された、それだけのことが……いや。そんなにも、気に掛けていていてくれたことが嬉しくて。頬の綻びを抑える事さえ叶わない。

 けれど。笑って、良いものか、と。自分に問いかけ。冷たい水が背中這い落ちるように。熱が引くように。笑みは自然と、退き、失せて。

「……もっと、笑ってもいいと思う。いつも気を張らないでさ」
「……でも」
「このままだと。あなたの心が壊れてしまうんじゃないかって心配なんだ。……あなたまで居なくなったら、私、どうして良いか分からない」

 私には。あなたが必要なのだから、と。
 恥ずかしげも無く。真っ直ぐ、目を見て言ってのける。彼女に。対する私は、何と、返してよいかも、分からず。只、只。
 顔を背け。背ける、私へと向けて、尚。彼女は優しく。また、寂しげな。私の胸へと爪を立てる、あの笑みを浮かべ。どうして良いか分からない。どう、言葉を返せばよいか。私自身は、どうしたいのか。

 何も、何も分からない。私は只の死体。戦うだけの機能を詰め込まれた人形(オートマトン)でしかないというのに。

「……奥、見てくる。多分、大丈夫だとは、思うけれど」

 投げっぱなしの言葉、返事を待つことさえも無く。そのまま。光の失せ行く扉の先を背後に。灯りの一つも無い廃墟……私たちにとっては薄暗い、程度。雨音から離れ、この廃ビルの更に奥へと、獣の足を踏み出して。

 私は。躊躇い続けている。あの子を失くして、失くしたまま。その原因は、私にあって。
 造物主は私をオートマトンと、そう名付け。成る程、動くだけの人形。心は要らず。生まれたときから、作られたときから既に、心なんて要らないものと。

 薄暗い闇の中から響く雫の音。規則正しく落ちるそれは、浅く張った水溜りに波紋を作り、静かに、時を刻み。私の心音も、また。外の雨音、鳴り出した雷。それ等全ての雑音など、知らず、知らず。雫と共に、自分の時を刻み、刻み、刻んで。更に、奥へ。更に暗い方へと、歩み、歩み。

 歩んだ、先。其処に。

 其処に。それは、居た。



◇◇◇◇◇◇



 返すべき言葉を見つけられず。いっそ、言葉など思いつかずとも。その手を握り、引き止めてしまえばよかったのかも知れない。知れないというのに、その姿。マトの姿が彼女のそれと重なって……重なったと、言うのに。
 彼女を。引き止めることが出来ず。暗がりに消えるその姿を見送った。
 
 マトは、彼女のことを引き摺り続け。ある種の狂気。それは、マトだけではなく。私の心にも植えつけられた。互いに、未だ。そしてきっと、ずっと。彼女を忘れることなんて出来ない。これだけ深く刻み込まれてしまったならば。
 例え、狂気を孕んだとしても。絶対に、忘れることなんて出来はしない。そのことに安心してしまう自分がいることも――無論。彼女が隣に居てくれたのであれば、と。何度祈ったかも知れず。祈る相手さえも分からない世界、幾ら私達が一度死に、新たに命を吹き込まれた存在だと言えども。
 彼女はもう、戻ってこない。彼女を失い苦しむマトや、私の姿を見ることを。悦びとする奴が、態々彼女を生き返らせてくれたりなんてしないだろう、と。

 諦めと、吐き出し方の分からない怒り。体の中で渦巻くそれを不快に思いながら。そろそろ、明かりが必要になるだろうと。ベルトに吊るしたポーチ……銃やら、ナイフやら。随分と多くの装備。そして、どれもが自棄に手に馴染む……皮で出来たその鞄から、小さなライトを取り出して。
 止まない雨を囲んだ、殆ど光を失った扉を、見れば。

 其処に立つ。人型。否。人間のそれとは異なる。数本の腕。背後、光り輝く雷、逆光で黒く塗り潰された奇妙なシルエット。敵襲。とっさに、銃を――

「ッ、マ……」
「リティイッ!」

 向け。彼女を呼ぼうとした、刹那。奥の部屋、響き渡る絶叫。背筋、体中から熱が引く感覚。聞いた、私は。
 構えた銃もそのままに。彼女の元。その暗闇へと駆け出し。飛び込んで。

「マト!?」

 見た、のは。
 薄暗い闇の中。浮遊する少女の体と、膝を着き。悶え苦しむマトの姿。震える空気と、浮かび上がり跳ね回る塵、瓦礫、独りでに曲がる剥き出しの鉄骨。浮遊する少女、その姿を見ただけの、私の視界にも移り込む鮮明な、不可思議な映像、歪み歪んだ光、幻。無数の色が渦巻く幻影。
 存在するだけで。近付くだけで欝と躁、感情を揺らし、心を潰す。直に触れずとも物を移動させ、破壊する、私たちの理解を超えたその力を。私達は既に、この目で見たことがある。

 ESP。平たく言えば、超能力。言葉だけを聞けば、絵空事、空想の産物。しかし。

 それは。実際に、今。こうして、現に存在していて。目の前にいる彼女……造物主、ネクロマンサーは、あの時。この手のアンデッド兵器を、オラクル、と。そう呼んだ。
 私達の古傷を抉る。心の底から、忌々しい、と。そう、あの。造物主へと面と向かって――顔も知らない奴へと向かって。怨嗟を吐き出したくなるほどに。

 銃口を浮遊するそれへと向け、舌打ちと共に引き金を引く。人間よりも頑丈で、比べ物にならない程の筋力を持ったアンデッドの肉体はその凄まじい反動を殺し。跳ね落ちる薬莢。対戦車ライフルの撃ち出した銃弾は、真っ直ぐに。浮かぶ少女、オラクルの身体へと飛び。

 その、背後。浮遊していた瓦礫を撃ち砕く。ESPに拠る緊急転移。避けられるであろうことは、承知の上。今は只、マトから引き剥がせればそれでよかった。

「マト!」

 頭を抱え。呻く彼女の体を抱きしめる。短い黒髪、埋もれた指。彼女の備えた鉄の爪は、自身の身を傷つけたらしく僅かに、赤く。彼女の体ならばその傷も既に、塞がっていることだろうけれど。

「大丈夫、大丈夫だから。私がいるから。落ち着いて。ほら。大丈夫だから」

 子どもをあやす様に。彼女の冷たい、強張った体を抱きしめ、語りかけ。オラクルの気配、入り口で見た何かが近付く足音。時間が無い。彼女が立ち直れないならば、今、この場は。私一人でマトを守らねばならない。
 そっと。彼女の体から。手を、体を。離し――

 服の端を。弱々しく掴まれて。長い彼女の爪、傷つけないようにと、曲げた指を以て。

「……大丈、夫。ごめん。ありがとう」

 服を掴んだ彼女の手を取り。若干、ふらつきながらも。立ち上がる彼女。顔を上げれば、浮かぶのは。
 今にも泣き出しそうな表情。それでも、必死で堪え。私の背後、近付く気配を睨みつけ。彼女の背から伸びた腕を、備えた爪を敵に向け、今にも飛び掛りそう。

「……無理は」
「無理してでも」

 言葉を遮られる。普段のそれより、荒い声で。

「戦わないと。あなたまで、壊されたくない」

 獣の足が床を蹴る。近付きつつあった人型、数本の腕、その先に構えた鎌。顔は、無く。あるのは昆虫のそれにも似た顎、大口のみ。禍々しい見た目、剥き出しの敵意へと。彼女は、爪を振り上げ、飛び込んで行き。

「……私も」

 もう、此処からでは聞こえないだろうと。分かっていながら。

「あなたに、壊れて欲しくない」

 引き抜いた二丁の拳銃。振り向き様に、姿を現したそれ。狂った、壊れた少女の形をした、浮遊するそれへ向き直る。
 彼女の口から零れ落ち続ける言葉を聞き取るのは難しく。時折声を張り上げたかと思えば、やはり。何を意味するのかも分からない。妄言、悲鳴、呻き声。此方の言葉も届きはしない、壊された精神、心は。それ自体が、無自覚な武器として振り回され。
 精神の壊された少女、と言うならば。それこそ、あの悪趣味なネクロマンサーが、その手駒として差し向けて来たことは既にあり。今更、心を乱されることは無い。
 厄介なのは、その姿、言動よりも、ESP。彼女自身、制御し切れている訳ではないのだろう……制御しようとさえしていないのではあろうけれど……その力は。私の身体を触れること無く抉り取り。崩し。徐々に、しかし、確実に。解体しつつあって。
 痛みが殆ど無いことを、幸いと言うべきか恨むべきか。突き出した両手、狙いを定める両腕が。彼女の攻撃に依ってぶれることは無く。オラクルへ向けて銃弾を吐き出すが早いか、マトに続いて異形へと跳ぶ。
 オラクルの近くに居てはならない。彼女のぶつけてくる心像、イメージ、極彩色の幻覚は。私の正気を削り取る。

「リーチが長い。それに速い」
「了解、ありがと」

 異形の人型と対峙する彼女が、振り向く事もなく、言葉少なくそれだけを伝え。
 言葉を返し。相手の腕、鋭い爪を備えた腕の一本が降り上がると同時に、右へ跳び。

 私が。たった今まで居たその場所を、その大爪が打ち貫いて。数メートル程離れた異形、動き出した直後に目標へと届く速度。彼女の言葉が無ければ、腹を割かれていただろう、と。
 震え上がる暇さえ無く。大きく跳ね、間髪入れずにまた、跳び。空を切った爪を躱して、銃弾を放つ。
 一発目は当たり。二発目は外れ。銃弾を受け、私へと注意を向けた異形、その、肩から腹にかけて。マトの爪が深く切り裂き。

 噴き上がる赤い粘菌。それを浴びた彼女は。

 笑っていて。普段の、感情を抑えた彼女とは違う、戦いの中での彼女。敵を切り裂く時の彼女。もがき苦しむ敵を見て笑う、嗤う、嗤う彼女のその姿は。笑顔は。
 私の望んだ笑みでは、無くて。なのに、美しさすら憶え。そんな思いを振り払うように構えた、対戦車ライフル。それを。

 マトの背後。突然其処へとテレポートした、オラクルへと向け。その、腹を吹き飛ばした。

「――――」

 叫び声は廃墟に響き。彼女の周りを飛び回る瓦礫が一人でに砕け、弾け飛ぶ。その中で、また。
 血飛沫。見れば、血塗れのマトが――返り血に染まった、マトが。更に深く敵を抉った、その姿を見。
 最早、私も、彼女も。随分と人間から離れてしまったな、と。あの子が今の私たちを見たならば。どう、思うのだろうか、なんて。

 腹に。足に。突き刺さる何かと、崩れ落ちる身体。 それが、敵の。大きく体を抉られ、血を噴き出しながらも悪意を剥き出しにした、異形の爪だと気付いたときには。
 引き抜かれた爪。栓を抜かれたように溢れ落ちた血と、埃に塗れた床に。頬を打ちつけていて。

「リ――」
 
 随分と低くなった視線。見えるのは、浮かぶオラクル、傷付きながらも腕を振り上げる異形。そして。
 マトの姿。恐怖に歪んだ、怒りに歪んだ。その表情も。

 あの時と同じ。あの時にも見た。そして、次。起こることも、私は。彼女の身体から溢れ出すそれを。蠢くそれを。私は、既に知っていて。

「マト、私は大丈夫だから、平気だから……」

 低い低い視線。少しでもはっきりと、私の声を届けようと。私の左耳に備え付けられた装置、私の声を指向性のあるそれに変える装置を通して語りかけても、もう。彼女の心へは届かずに。届かずに。彼女の爪が、彼女自身の肌を貫き。切り裂くことを止めることを。止めることは、出来ずに。

 彼女の身体が縦に裂ける。裂けた身体から溢れ出すのは。無数の肉蛇、蠢き、絡み、空を切り。目の前の敵へと向かって飛び、捕らえ、牙を突き立て、刺し貫き喰らい飲み込む。彼女の中に巣食った、黒く鈍く光を放つ、蟲の姿。
 彼女の嫌った。余りに、人間離れした。余りに悍ましい。その蟲の群れを解き放ち、弾けるように溢れ出した、宙でのたうち地を這うそれを。

 怒りに我を忘れて。迫り来るアンデッドへと向けて放つ彼女の顔は、狂気に取り憑かれたように。幾ら私が声を掛けれど、名前を呼べど。その狂気を晴らすことなど、出来ずに。

 無数の蟲は、蛇は。崩れ行く二つの死体を黒く黒く塗り潰し黒い黒い身体に呑み込み黒に染め。狂気を孕んだ笑みを零した彼女は。
 涙を。自棄に黒い涙。あの時と同じ。あの時と同じ。

 血の色をした、雫を零して。

 


 雨は降り続ける。壁に走るのは先よりも多くの亀裂。暗い天井から落ちるのは、先より多くの雫の群。
 静けさを取り戻した廃墟は。しかし、先の平穏、穏やかさは無く。床に転がる私と、肉蛇に埋もれ立ち尽くす彼女。彼女の細い体の何処にあれほどの量の蟲が詰まっていたのかと。二体のアンデッドを引き裂き、飲み込んでも尚変わらぬ彼女の姿、体。腹を、足を打ち貫かれても、痛みの一つも感じない私の体。二人、こんな体にされたことを怨みつつ、床に積もった埃に塗れ。血肉に塗れ。彼女の足元へと這い進み。

 名前を、呼ぶ。呼んでも、彼女に。彼女の心に。私の声は、届かずに。蠢く触手、埋もれ、時折覗く白い肌。もしかすると、もう。覗いた一部、その部分を残して、既に。彼女はその、蟲の群に食われてしまっているのではないか、と。この蟲は、彼女自身。この蟲もまた彼女であると。自身を喰らいつくすことなど無い、と。

 そんな保障は。何処にも無い。足を失っていなければ、今、すぐにでも。彼女の元へといけるのに、と。はみ出した綿を、引き摺り、引き摺り。彼女の、足元、たどり着いて。

「マ……」

 両手を垂らしてぼうと。何処を向いているのかも知れず。何を考えているのかも知れず。只々、肉蛇、その群の中央に埋もれ、立ち尽くす彼女の足に縋りつけば。
 彼女は。縋りついた私の重みに耐えかね膝から落ちて。赤く染まった床に倒れ伏し。

「マト! ねえ、マト! 起きて、ねえ、ねえってば!」

 うつ伏せに倒れた彼女の体に縋りつき。仰向けに寝かせ、腹から溢れて蠢くそれを、それらを掴み、掻き分け、掻き分け、彼女の顔、彼女の顔を、覗き込めば。

 目は、虚ろに。半開きの口。意識を失ったように。しかし。
 私達は、アンデッド。私達が動きを止めるのは、完全に解体された時、もしくは。

 体を動かす意志を失ったとき。完全に、心が壊れた、その時だけ。

「リ、ティ」
「マト! 平気なの!? 何処か怪我をしたの!? まって、すぐに手当てを……」
「違、う……違う」

 分かっている。分かっている。けれど。
 彼女の体は。私のそれよりもずっと強靭で。些細な傷は勝手に塞がり。彼女が床に伏したまま。動けない理由は、他に在って。
 けれど。私に、他に。出来ることなんて、無い、無い、無くて。何も、何も出来ないなんて。認めたく、無くて。

「リティ、私、私、もう……」
「大丈夫だから! 少し休みましょう、ね、落ち着くまで休んで、その間は私が守るから、安全だから、ね」
「違う!」

 体が跳ねる。彼女の声は。鋭く、そして。
 そして。酷く、悲しそうで。

「……ごめん。怖いよね。ごめん。ごめん……」

 張り上げた声も。私の顔を見た途端……私の。彼女の声、張り上げた声、その声を聞いて歪んだ顔を見た、途端。消え入るように、か細く、掠れて。

「私、もう、こんな。こんな、化け物みたいな……こんな姿だし、中身だって……もう、嫌だよね……」
「嫌、って、何が……」

 言葉に出した時には、既に。私も。彼女の言わんとしている事が、分かり、分かって、けれど。
 けれど。聞きたく、ない。

「私みたいな、こんな、もう、その辺のアンデッドと変わらないやつと」
「違う。やめて」
「むしろ、私のほうが、よっぽどって、そう思うでしょう?」
「違う。違う。そんなことない。やめてってば」
「リティだって……こんな気持ち悪い体の。気持ち悪い体だってッ! あの時だってそう思ったから! 私みたいな化け物と一緒になんてッ」
「違うッ!!」

 今度は、私が。声を張り上げる。そして、ほんの少し前の私と同じように。今度は彼女の、体が跳ねて。
 怯えの浮かんだ顔。そんな顔をして欲しくなんて無い。そんな顔を、私に向けて欲しくない。なんて。たった今、私が彼女へ向けた顔だと。忘れて、思う自分が嫌になって。

「……違う。私は。あなたと一緒にいたいの。あなたの隣に居たい。あなたに壊れて欲しくない……信じて。お願いだから」

 あなたの隣に居させて、と。彼女の瞳。暗がりで広がった。赤い雫を湛えた目。その目を見詰めて。
 懇願する。マトの隣に居たいと。居させて欲しいと。彼女から離れたら、私は。きっと。
 きっと。この世界に耐えられない。彼女と共に居られないなら。私は。私は……

「リティ……?」

 不安げな顔。私の見下ろす。私を見上げる。その頬に。赤い涙の這った跡へと落ちる雫は。堪えきれず。私の瞳から落ちた。

「お願い……お願いだから……離れないで……置いていかないで……っ」

 違う。違う。今は、彼女の言葉を。胸の内に堪った不安を。消さないといけない。晴らさないといけない。私はいいのに。なのに。
 涙は止まらず。体は振るえ。寒さなんて感じない、死んだ体、死体の肌。なのに、自棄に肌寒くて。

「ごめ、ごめん、ただ、わたしは、あなたと一緒に、ごめん、ごめ……」

 謝っても、謝っても。湧き上がる感情は抑えきれない。涙は止まらない。本当は、彼女を。体の変化に悩む、彼女を。励まさないといけないのに、一人、一人で。只、泣くことしか出来ない私が。情けなくて、申し訳なくて――

 不意に。冷たい。しかし、空気のそれよりずっと温かな腕、彼女の腕が、私の体を抱き寄せて。
 何時の間に塞がったのか。彼女が自ら裂いた肌、溢れ出した蟲達は、もう、何処にも居らず。抱き寄せられた私は、赤く染まった。彼女の胸に。額に感じる彼女の頬の感触。抱きしめられる温もりが。冷たい死人同士だというのに。

 暖かく。暖かく。また、涙が溢れ出す。

「……ごめん」

 彼女の声。より強く抱きしめられ。抱きしめられた、私は。
 力を抜いて。半ば、しがみつくように。彼女の体を抱きしめ返し。

「私のほうが、悪いから。ごめん。何の力にもなれてない。ごめん」
「そんなこと無い。……そんなこと、ない」

 血の臭い。雨の音。彼女の体の中で蠢く、蟲の音。そして。
 彼女の心音。私には無い音。私の持たないその音を。

「……ありがとう。……一緒にいてくれて」

 小さな声と、声と、共に。その音を、聴いた。

 
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