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乱世の確率事象改変

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龍と覇王は天前にて

 洛陽の城。謁見の間に広がる空気はまさしく異質。粘着質を持った気持ちの悪い空気と、突き刺さるような圧力が鬩ぎ合い、居並ぶ文官達は冷や汗を流すモノや、不快気に眉を顰めるモノが多い。
 玉座は空席。まだ、そこに腰を下ろす存在は来ていない。
 洛陽を守護する禁軍の代表だけが、背筋をしゃんと伸ばして、心地よさそうに立っている二人に恐れ慄きながらも、自身の役割を示すかのように表情を引き締めていた。

「なぁ、曹操。袁家はどう動くと思う?」

 言葉を発することすら憚られるはずのその場で、なんのことは無い、と前を向いたまま気楽に話しかける金髪灼眼の女、劉表。
 正式な謁見の場であれど、これから行われるは詮議に等しい。帝――――大陸に生きる者達にとって神に等しいその存在に、己の忠を示して潔白を証明する為の一時。
 余りに日常的であった為に文官達がざわつき掛けるも、華琳がほんの少し首と目線を動かしただけで、小さく息を呑んだ音が幾つも響く。居並ぶ文官達は蛇に睨まれた蛙のように、瞬きさえ出来ずに硬直させられていた。

「己が任ぜられた地以外の事……外部の事柄など、今この場で話すことでは無い。ただ、お茶とお菓子を用意して、ゆっくりと語らえる席を設けるというなら、話してあげてもいい」

 強い態度を示しながらゆるりと受け流すように見えたが、高圧的でありながらも友好を伝えた。
 面白い、というように劉表は頬を吊り上げる。

「お前のとこにある名店の菓子、持ってきたんだけど……この後で食うか?」

 ピクリ、と華琳の眉が動いた。
 劉表の発言は華琳の提案を受けるという事。事前に華琳と孫策に友好関係があるだろう事を分かっていながら……孤立無援で戦うかと思えば、歩み寄る為の小細工も準備済み。それがまた、華琳の心に期待を浮かべさせる。先手を常に打ってくるというよりかは、手を増やす事の出来る引出しが多いと感じた。

「考えておきましょう」

 短く、簡潔に返答を行って思考を巡らせる……間もなく、空気が変わった。
 上座の袖に居た文官が頭を垂れた。それだけで、並み居る人々の放つ意思が凍りつく。
 久しいな……と零したのは劉表であった。楽しげに、嬉しげに、口元を引き裂いて、膝を折って拳を包み頭を垂れた。華琳も倣って、膝を折って拳を包み頭を垂れた。
 人々が平服の意を示す其処には、コツ……コツ……と軽く重く、音が響く。一音毎に張りつめ、冷え込んで行く場の空気。首元に刃を突き付けられたような感覚と言えようか、否、触れねば喰われる事の無い強者を前にした感覚が“人”を襲う。
 現れたのは小さな少女だった。年端もいかない、触れれば折れてしまいそうな。
 腰まで届く白金の髪は美しく輝き、新雪を思わせる肌は透き通って見えた。ただ、蒼天を思わせる瞳には、感情の一片たりとて含まれていない。
 漢の皇帝、劉協。
 大陸唯一の絶対者にして、人とは隔絶された高みにある者。
 劉協は顔を向ける事無く、中央に位置する玉座目掛けて、一つ一つと歩を刻んで行く。足音と衣擦れの音だけがやけに大きく聞こえていた。
 どちらも途切れ、漸く、波立たぬ古池の如き静寂が訪れる。張りつめた空気は薄氷に等しい。言葉を一つ零せば、鋭利な先端が露わになるだろう。

「よい。面を上げよ」

 少女ならば甘いはずの声音は、極冬に降り積もる雪のように冷たい。“人”を見据える視線は虫けらを見やると同じく、覇気とは別種にして、格上の高みから見下ろす威圧。誰も目を合わせる事も出来ない……たった二人、覇王と悪龍以外は。
 不意に、劉協は目を細めた。じ……と華琳のアイスブルーを覗き込んだ。心の裏側までも見透かそうかと。
 一重の瞬刻、劉協の瞳に感情が浮かぶ。猜疑に近い疑問の色が。
 次に視線を逸らして劉表を見た。目を合わせているとも思えるが合わせていない。口元を見る灼眼は、二の句を待っているのだと分かる。

「……始めよ」

 肩肘を立て、頬杖を突いた劉協から短く為された命に、劉表は拳を包んで一つ礼を行った。

「皇帝陛下、御健勝なお姿、何よりにございまする」

 そんな一言から始まったのは、華琳にとってはまさしく茶番劇。
 劉表の口から零されるのは、病に侵され、帝を救い出す為の連合に参加出来なかった事に対する謝罪の意。華琳くらいしか気付けない、作り上げた哀しみの声を全面に含ませてのモノ。
 次いで、前皇帝の弁が身罷られた事柄に、涙を流して声を震わせ、所々で言葉を切りながら悔やみ伝える。
 文官達からはすすり泣く声がちらほらと。劉表がこれまで行ってきた政策も好意に拍車を掛けている為に、文官の心は揺さぶられていた。
 場の空気は同情に溢れ、漢の臣たるはやはりこうでなくては……と、色づき始める。
 経験が違う。華琳と劉表では、王の仮面を被ってきた年数にも圧倒的な差がある。
 人であれば必ずしも逃れ得ない、重ねた年月に対する期待。筆を持つモノにとっては官位と同等。二つ共を併せ持てば、敬い崇めるに値する。

――人が重ねた年月による経験は敬いと信頼に値する。しかし……固く閉ざされた思考と概念は打ち壊すべき敵ね。

 華琳は内心で一人呟く。
 彼女とて、年上を甘く見ているわけでは無い。人が成長する事を望む彼女は、理に適っていれば問題は無い。受け入れずに否定するモノや、固定概念で跳ね除けるだけのモノを除きたいのだ。
 自身で考え、捻り出したモノを吐き出してこそ意味があり、長いモノに巻かれるだけを良しとしない。それが華琳の考えだった。
 呆れから吐息を落としそうになる。ただ、自分に聞こえる程度に小さく鼻を鳴らした。それは自分への嘲笑。

――私でさえも“固定概念”に影響されていたというのに……愚かしい。

 女尊男卑の傾向は根強い。徐公明と出会わなければ、男への偏見を持ち続けていたやもしれない……そう考えて。
 今は違う。年性別の隔て無く、才あるをこよなく愛し、才無きを引き上げる自分であれと意識を改めている。有能を愛し、無能を憎む、それがこそが自分自身である、と。
 からからと笑う声が耳に響いた気がして苛立ちも少し湧くが、視界を広げてくれた事には感謝していた。

 先帝への黙祷を……途中に発された劉表の声で、華琳は目を瞑る。
 思考を一つに。死者に向き合う時は、華琳の心もそれ一つに向く。礼を向けない事は無い。如何に遊戯の駒の如く命を扱おうと、人としてそれだけは踏み外せない。そうして……自身が心の内に決めた約を一つ交わす。
 悲哀溢るる静寂の後に、雪のように冷たい声が響いた。

「そなたの追悼、確かに受けた。漢の臣たるを示すそなたの心、先帝まで届いたであろうな。
 して……互いに諍いがあったようじゃが、共に来ておるならば片付けたということか」

 名を呼ばず、目線だけで話の先を華琳に向けた劉協は、またアイスブルーを穿った。

「は。劉州牧は陛下への忠を示す為に、逆臣の一族郎党首を刎ね、此処に身を以って証明してきた次第に」

 他の事は言わず、劉表と共に来た事で終わった話だと言外に伝えた。
 華琳にも劉表にも、此処で劉琦の話を出す旨みは無い。
 思い描く乱世の派閥絵図の完成には敵対者が必須であり、劉琦の不足によって起こった事だと言ってしまっては、現在の劉備軍を圧倒的な不利に追い込まざるを得なくなる。
 華琳は迅速で強固な“自身による乱世の終結”の為に、桃香の益州平定を邪魔したくない。
 劉表は漢の再興の為に、娘を受け入れた桃香の邪魔をしたくない。
 互いに利が一致していると分かっているからぼかす事にしたのだ。
 詳細を教えろ……とは劉協も言わなかった。しかしまた、劉協の目が細まった。

「恥ずかしながら漢を騒がせた事、深く、深く謝罪致しまする」

 静寂を嫌うかのように、劉表がまた頭を下げた。劉協の視線が其方に向く。

――次の主導権を握りにきたか。助け舟、とは思っていないわよ、劉表。

 内心で呟くと、緩く吐き出す吐息が聴こえた。隣の女の空気が、がらりと変わる。
 これから自分に有利な方向へと話を進めるのだろう。しかし見誤っている……と華琳は頭を俯けたまま、微笑んでいた。

「……ならばよい。漢の為に、これからもよく励め」
「陛下。謝罪せねばならない事があり、申し上げたく」

 劉協の言葉が終わった途端に、凛……と鈴が鳴るような声を響かせる。
 話終わりには間を挟むのが礼儀であろう。だというのに、華琳はそれを待たずして、無理やりに割って入ったのだ。
 幾人かの文官達の表情が怒りに歪む……だが、激発する前に劉協がゆるりと手を上げて制した。場内は怒りの空気があった事を忘れ、瞬時に冷え込み、収束された。
 何故、と疑問に思うモノは多くとも、帝の制止があっては口に出せない。そうなれば興味は華琳に向き、次なる言葉を待ってしまうは必然。
 劉表に偏っていた雰囲気を帝に変えさせる。華琳はそれを為した。平然と、堂々と。

 操るでもなく、育てるでもなく、深く関わること無く、ひたすら帝に対して不干渉を貫いてきた希代の天才の事を、劉協は捉えきれておらず、少なからず興味を持っていた。
 今の行いを不敬とこじつける事は出来るが……もう一つ、しない理由があった。
 華琳の手札には“黒麒麟”がある。劉協が知りたくて仕方ないはずの、洛陽に於いて英雄視されている彼の事を、華琳は大徳の元から引き抜いているのだ。

 劉協は帝としての在り方を幼くしてやってのける程の王才を持ち、溢れる昏い話題にも耳を傾けてきた。
 子供ながらに宮廷闘争に巻き込まれたという経験は、心の傷と共に一足跳びの成長を促してしまった。しかし、世界の全てを諦観してしまうには……彼女は聡明過ぎて、幼過ぎた。
 華琳の不干渉は興味心を引き出している。頭が良ければ良い程に、昏い者達を知っていれば知っている程に、帝を使う事の利を知っているから……噂に聞く天才が自分を使わないのが不思議でならない。ほんの少し、優しく儚げな恩人を思い出させてしまう。
 黒麒麟が大徳の元を離れて下に付く存在でもあれば尚更のこと。帝としてでは無く、“英雄達に憧れる子供心”が僅かな希望を傾けていた。
 それを見越して、華琳は無礼ギリギリの対応を為したのだった。

「申してみよ」

 耳を打った声。ゆっくりと面を上げると、興味を宿した光の見える蒼天の眼が迎えた。
 華琳に聞こえる程度の笑いが耳に入った。劉表が漏らしたその笑みがなんの意を以ってか分からずとも、覇王は揺らぎはしない。これから話す事は、変わらない。

「逆臣董卓の洛陽大火は耳に新しく……」

 わざわざ其処で目を伏せて言葉を区切られ、劉協の思考は真っ白に染まる。
 何故、ソレを口にしたのか。親しかった事は知らずとも、神速の張遼を得たのだから董卓が悪では無い事を知っていたであろうに……顔には出さず、じわじわと悲壮が込み上げ、心に澱みが渦巻いていく。
 空白に切り込むかのように、目を見開いた華琳は言葉を続けて行った。

「されども、より大きな悪逆の徒が現れた、とすれば如何致すべきでしょうか」

 誰、とは言わず。思考を促すのはいつもの事。それが例え、帝であろうと。
 連合総大将の事を言っているのだと考えさせる。河北大乱と徐州の戦は耳に新しい。劉協にも情報は入っていて当たり前。心に溜まる澱みは、華琳の発言によって、大部分がその一所に向けられる。
 耳が痛くなる静けさが謁見の間を支配し、訝しげな視線で華琳を見る者と、劉協の答えを待つ者とに二分された。
 答えを返される前に、華琳はさらに続ける。彼女はまだ、返答を求めていたわけでは無かった。

「当然、泰平の世を乱す輩は臣が十全の力を以って断ずるべきであり、それこそが陛下から与えて頂いた責務」

 仰々しい声音で零された言は、厳しさを伴って場を打った。同意を示し、文官の誰しもが頷く。

――お前は……何をするつもりなんだ……?

 劉表の思考は華琳の話の真意を理解出来ず。これから先、侵略を行って世を乱すお前自身がそれを言うのか、と。

「しかし……幽州は脅かされ、徐州は陛下より任を賜られた劉玄徳が放棄せざるを得なくなる始末、力及ばず、未だ逆臣を断ずるには至っておりません。
 故に、ここにその不足を謝罪致します」

 すっと頭を下げた華琳は、劉備軍との交渉が行われた事を話そうともしなかった。取り逃がしたのは自身の不足だと言い切った。

――おい、曹操。お前は何を狙ってる……なんで……助力を求めてやがる。

 劉表にはそう聞こえた。否、話を聞いている誰しもが、そう受け取るだろう。
 このままでは対袁家連合が発足しようかという流れになってしまう。それは望む展開では無いはずであろうに、と劉表の頭は疑問だらけになった。
 公孫賛を保護した劉備が得をする流れにもなっているから余計に頭が混乱する。
 帝のみが言葉を零せるその場で、回り続ける思考の中から、劉表は一つ引っかかりを覚えた。

――助力を請う為に曹操がわざわざ自分の非を話すか? いや、言うわけが無い。こいつの手札は何が……

 一つ一つと数えて行く。そうして、思い至る道筋は、確かにあった。

――クソガキめ……そういう事か。

 気付いても遅い。既に賽は投げられた。
 この話を出せば、帝が尋ねなければならない事が出来てしまうのだ。

「ならば問う。劉玄徳は何故(なにゆえ)、公孫賛を連れて益州へ渡ったのじゃ? 徐州で諍いがあった事は耳に入っておる。任じた地で起こったならば、そなたと彼の者達で逆臣を討つは当然の帰結であろうに」
「それをご説明するには孫家も絡んで参りますが……」
「ふむ……詳しく申せ。多少長くなろうと構わん」

 やはり……と、内心で劉表は舌打ちを一つ。
 他勢力には徐州での戦の内情がはっきりと分からない。袁家の分裂、袁紹軍の参入、劉備軍と曹操軍の交渉、孫策軍の裏切り……それらを解き明かせるのは華琳しか居ない。伏していた劉表とは手札の枚数が違い過ぎた。
 そして何より……此処に居ない孫策軍の取った二つの行動が、この場で誰が有利かを決める波紋となる。
 礼を一つ。獰猛に輝いた華琳の瞳を、劉表はその俯けた横顔に見た。

「両袁家の分裂が行われた際、大陸が乱れ兼ねないと判断した私は、袁紹軍侵攻に対する防衛策を進めると同時に、袁術に悟られる事無く孫策と盟を結ぶ事に成功しておりました。
 黒麒麟、劉玄徳と並んで大徳との呼び声高き孫策は揚州の地が荒れている事に憂いている……そう耳に挟んだ為に。しかし……」

 区切られた一拍は人を惹き込む。
 孫策が袁術に反旗を翻した事はその密盟と繋がっていたのか、と皆の頭に強制的に刻み込ませ、話の続きを求めさせた。

「袁紹が幽州に侵攻したと報せが入り、孫策が……」

 再び言葉を切り、チラ、と劉表に視線を向ける華琳。
 どうせお前はそれも分かっていただろうに……内心で毒づき、劉表は歯を噛みしめた。
 事実確認の有無は当事者にしか出来ない。現代のように証拠を容易く見つける事は出来ないのだ。

「“袁術に命じられて”荊州に侵攻の準備を整えておりました。
 その時分の袁紹軍は今よりもさらに大軍。相対するには兵の大半を動かさなければならず、幽州の救援に向かえば、陛下の膝元たる洛陽が手薄になります。軍を率いて徐州に向かった際にどういった事が起こったかを思い出して頂ければ、私が動く事によって危うい事態となったこと、ご理解頂けるかと」

 思い出されるは黒山賊の侵攻と劉表の部下の暴走。荊州を攻めた孫策ならば、華琳の領内に攻め入ってもなんら不思議では無いとも同時に含ませて。
 起こった事実を引っくり返し、そっくりそのまま利用した。自分はそれを予測していて、帝を守るためには動けなかったのだと……思考誘導を仕掛けた。孫策軍が荊州に攻め込んだ事も、それぞれに納得の行く理由付けを強いてもいる。
 密盟を結んでいた華琳を頼らず、漢の臣たる劉表の領地を、逆臣に命じられるがままに攻めた。
 何故、侵攻する前に反旗を翻さなかった? その理由を皆が欲するのは自明の理。

「孫家の次女、孫権が徐州を攻めんとする動きがあるとも聞き及んでおりました。そのような状況で、盟を結んでいたとはいえ、何を信じればよいのでしょうか?」

 曹操軍は動かなかったという結果と、曹操軍が動いた時に領内に侵攻があったという事実があれば、帝を守る事を優先して正解だったと皆は思うであろう。それもまた、漢の臣の在り方だ、と。

 公孫賛との密盟を断った事を知っている。
 荊州侵攻を強いられる事を予測していた。
 劉備を餌にする事を提案してきたのだ。

 後日此処に来るであろう孫策達がそれらを発言しても、反旗を翻さずに荊州と徐州を攻めたという過去は変わらない。華琳を陥れようとしている、と誰の目にも映る。
 口約束とはそういうモノだ。証拠が無い。予測を話し合い、こうなればこうしようと言い合っただけでは後々にどうとでも出来る。
 白蓮も雪蓮達も、袁家への警戒が“行き過ぎて”いたのだ。

――代わりに袁術を討ち取る事になるのだから、前払いとして、孫策には自力で乗り越えて貰いましょうか。

 華琳が組み立てたのは強引な貸しの取り立て……踏み倒すという選択を与えない程に追い込んだ上での。
 劉協が華琳に説明せよと言った。よって、劉表は口を挟めない。覇王の独壇場はまだ続く。

「公孫賛が敗北したとほぼ同時に、徐州では徐公明が孫権を跳ね除けた……それが私の得た情報でありますが……」

 その言葉が発されると、劉協は目を細めた。
 微細な空気の変化を受けて、俯いたままの華琳は満足気に口角をほんの少し上げる。

「孫権の敗北により、袁術は荊州に侵攻させていた孫策を呼び寄せ、大軍を以って徐州を攻めるを決めたとか。此処からは部下に加わった鳳統と、“我が盟友である徐公明”の証言を入れましょう。
 劉備は徐公明と鳳統を労いの為に呼び戻し、大軍を以って袁術軍に当たるを決めた、とのこと。徐公明と、劉備に保護された公孫賛は、地位が違えど深く絆の結ばれた友と聞き及んでおります。互いの生存に分かち合う涙もあり、公孫賛が徐公明に思わず零してしまった敗走の無念と臣下達への懺悔を込めた慟哭は城中に響き渡っていたようで……」

 儒教の思想が根強い者達に対して聞こえがいい情報を投げ込んだ。
 客分として置いてある事と、色々と利用しやすい為に盟友と示したが……華琳の胸に彼に対する苛立ちが湧く。

――あの大嘘つきが私の盟友……本人を知っていると無理がある。対等な関係なんてモノは……ありえない。

 隙だらけな緩い彼を思い出してしまい、ひくつきそうになる頬をどうにか抑え、続けて行く。

「そんな折です。まだ公孫賛の傷も癒えぬ内に袁紹軍が徐州侵攻を開始。徐公明は公孫賛を気遣って劉備の元に送り、鳳統と配下の兵七千と共に袁紹軍に相対するを決めました」

 劉表以外はもはや華琳の話の虜だった。ゴクリと生唾を呑み込むモノ多数。此処が一番、聞きたい所なのだから。

「劉備からの助力申請が届いたのはこの頃」

 まさか、と劉表は息を呑む。

――曹操軍と劉備軍で行われた交渉の話は此処ではしちゃダメだろうが。同盟を組まずに通行許可を与えたのがお前となれば、責められるのもお前だぜ? 勅無く任地を放棄させたんだからな。

 それはもはや、帝や中央の権力が意味を為していないと宣言するに等しい。
 しかし華琳は続けた。全身から、冷たい覇気を溢れさせて。

「袁家を追い返した後の徐州を対価とする……それが劉備の提案してきた同盟対価にございました。元より劉備は、陛下から与えられた任地を離れ、同じく劉の血族であっても悪政を働いていると噂される劉璋の行いを確かめに行こうとしていたのです」
「なっ」
「……なんじゃと?」

 思わず声を発してしまったモノは多い。帝の自分を作っていた劉協でさえ、余りの衝撃から身を乗り出して尋ねてしまった。
 切り札は一つでは無い。華琳の手元には、徐公明と鳳士元が居る。劉備軍に所属していた二人が何よりの証人となる。例え華琳がその後の本格的な交渉で対価を変えていようとも言い分が立てられる。
 先だって責務を軽んじたのは劉備であると明らかにしてしまえば、華琳が有利な形成は動かない。

――帝の意味を保ちつつ、先に劉備の“為政者として”の評価を下げながらも蜀の地を任させる……その手があったか。

 帝から劉備に対する心象の操作を行えるのは、何も劉表だけでは無い。
 確たる証拠……結果が出てしまっている以上は、華琳の手の方が強く、信憑性があるのだ。
 史実の長きに渡る乱世の凄惨に染まった時代ならまだしも、早回しのように進んで行くこの世界で任地を自ら捨てる行いがどういう事を齎すか。
 群雄割拠と言っても余りに早過ぎた。一年も経たずして放棄すれば、上の者達が向ける為政者としての信用は……ガタ落ちする。
 ざわつく場内にて、上げられる声は不快気なモノが多い。この場に訪れた二人の為政者は、与えられた任地をしっかりと守っていたのだから余計に見劣りしてしまう。

「賢龍とまで称される劉表殿ならば、劉璋がどのような政事を行っているか知っているのではないでしょうか?」

 ふい、と話しの先を向けた。第三者の意見を挟めば論はほぼ固め尽くせる。
 文官も、劉協も、華琳も、頭を垂れている劉表を見据える。
 自分に話を向けられた事で、劉表は華琳の思惑に気付いてしまった。

――キヒ、オレに合わせろってか。徐庶は鳳統と諸葛亮に手紙を送っちまったから……乗らないとこっちが終わっちまうなぁ。

 作ろうとしている漢の忠臣の立場と、劉備達に残っている生命線は、手紙一枚の話を持ち出されただけでひっくり返りかねない。
 化けの皮を剥がされたくなければ、掻き混ぜようとした状況を華琳にとっての最善に持って行け……と、脅しを仕掛けられていた。
 中々、やる。駆け引きの楽しさから、劉表は口に浮かびそうになる笑みを抑えて、代わりに口を開く。

「……劉璋は蜀の地を乱し、我が領内にまでその影響が大きく出ております。難民の数は日増しに増えるばかりか、餌を求める賊徒も流れ込み、頭痛の種でございました。
 劉の名を貶める、即ち陛下の名を貶めるに等しい同族を許さぬ劉備の決断、為政者としては些か未熟が伺えますが、劉備もまた、漢の臣たるを示していると言えましょう」

 自分も間接的に助けられている、と案に潜ませる劉表の言に、劉協はまた、玉座にゆるりと背を持たれ掛けさせて頬杖を突いた。

「続けよ、曹孟徳」

 ため息を一つ。劉協はうんざりしたような表情で命じた。

「は。此処で孫策の話に戻します。荊州侵攻から引き返して徐州の戦場に向かい来たならば、劉備軍と相対するは必定。荊州を攻めた事と、孫権に徐州を攻めさせた事を見ても、袁術に反旗を翻すかどうかも不安がありました。
 其処で私は陛下を守れる人員を領内に残しつつ、劉備を助ける事にしたのです。徐州で相対するのが我が軍だけであれば、孫策は必ず盟を守ってくれるだろう、そう信じて。
 劉備を益州に向かわせたのは孫策、劉備両方からいらぬ嫌疑を掛けられぬようにする為。劉備軍が軍師の二人、諸葛亮と鳳統は荊州の水鏡塾出身、と言えばご理解頂けるかと」

 ふっと息を漏らし、頭を俯けたと同時に、華琳は劉表と一寸目が合った。
 其処には楽しげな色が揺れていた。遊び相手を見つけた子供のような、そんな輝きを映した目。

――徐庶の事は知っている。雛里が手紙を貰っていた事も聞いている。だから……あなたは私を手伝わなければならない、そうでしょう? 劉表。

「確かに、我が部下にも水鏡塾出身のモノは幾人かおり、特に徐元直は諸葛亮と鳳統に近しかったと聞いておりました。孫策と密に盟を結んでいる、などと零してしまえば、劉備軍は疑念猜疑心に捉われ曹操殿に反発していたやもしれませんし、劉備軍を残せば、孫策達は我が領地に攻め入った事に対する報復を恐れて、盟自体が破られていたやもしれません」

 劉備も孫策もそんな薄い器ではないが、とは二人も言わない。
 言わずとも、特に袁家に従っていた雪蓮達は疑われても仕方ない。本人が如何に王足り得ていようと、過去に辿った道筋と目の前に浮き上がっている事実を、人は見る。信じる事は、かくも難しい。

「御口添え感謝致す、劉表殿。
 よって、劉備を益州に逃がす事を最善と判断致しました。その後の動きは報告の書簡の通りに」

 後は各々に思考を任せるだけだ……と、二人は黙った。
 互いに合わせれば理論は固まる。掛け合い出来上がったこの嘘は固い。

――別に、あなただけが嘘つきなわけじゃないのよ、徐晃。状況を利用して捻じ曲げるのも、事実と結果を以って有利を得るのも、王ならば当然しなければならない。その意味では、あなたは私と同類なんでしょうね。欲しいモノの為なら、狡猾にも、残酷にもなれるし、嘘を貫けもするのだから。

 ウソをつくコツは、真実を潜ませる事。思考誘導のコツは、情報を制限して相手に思考させ、曲解させる事。
 反対意見を上げられる孫策は此処には居ない。後々ならば一勢力よりも二勢力の言が優先されるだろう。数は有利に立てる力。
 此処からどうするんだ、などと劉表は考えない。この流れならば、華琳にはある役割が与えられる。
 この場に敗者はいない。劉表も、華琳も、どちらもが望む展開になるだけ。劉表が華琳に与えたい影響は、時間稼ぎと兵力低下だけなのだから。

 ふい、と視線を司会役の文官に向けた劉協は、

「よきに計らえ」

 短く一言。理由は把握した。だからもう、お前達で決めろ、と。
 低く会釈して、文官が口を開く……前に、悪龍が口を歪めた。これで全てが整ったと言わんばかりに。

「逆臣の始末は曹操殿の軍に名誉挽回の機会を与える意を込めて一任してみるとよいでしょう。陛下の身と洛陽の安全は、孫策を呼びつけるカタチで三軍の兵によって守るのが最適かと。また孫家が裏切らないとも言い切れませんので、曹操殿には監視をして頂けたら尚嬉しい。何せ、虎は二度も私に牙を剥いておりますから」

 劉表に提案されて、文官は言葉に詰まる。これで対袁家連合を組めとは言えなくなった。
 不甲斐無い、とばかりに大きくため息をついた劉協が立ち上がり、場が凍る。

「曹孟徳、そなたに対袁家は一任する。必ずや先の不足を注げ。同時に、劉景升と共に孫伯符の叛意を確かめよ」

 御意と短い返答が為されるを待たず、コツ……コツ……と劉協は歩みを進めて行く。
 口を引き裂いたのは誰であったか。

 覇王と悪龍の二人共。

 己が描いている乱世の絵図を

 その先を見据えて、ただ笑う。











~旧き龍の末裔は~


 身の回りの世話を終わらせた侍女を下がらせ、ポスッと寝台に身体を倒し、劉協は枕に顔を埋めた。
 精神的な疲労は言うまでも無く、先程に相対していた二人の臣下を思い出して身が震える。

「何故、皆は仲良く出来ないんじゃろうな」

 寂しさから、傍に誰も居ないから、独り言を零すのが癖になってしまっていた。
 気付いて恥ずかしいと思った事は数え切れないが、今はもう、気にならない。気にもしない。口から吐き出さなければ、溜め込んでしまうから。

 腹黒さは見て取れる。話していた内容は駆け引きの応酬であるのだと分かり切っていた。
 据えられただけのお飾りの人形。何もしていなくとも、平穏な大陸に出来なければ責められ、貶められるのが自分。
 無力だ……と感じていた。
 ただ、自分から動いてはならない事も、よく分かっている。

「姉上……」

 ポツリと零した。
 寂寥を存分に含んだその声は宙に溶けて消える。

「漢は死ぬぞ。皆に殺される。しかし、余が動けばもっと酷くなる。帝は自ら動いてはならん。動くなら……月が生きているあの時が、最後の機会だったんじゃ」

 聡明な頭脳で過去を思い返せば、出来うる事は多々あった。
 連合時に動いていれば事態を好転させる事も出来たはずだった。それをしなかったのは自分の罪だと、甘んじて受け止めていた。
 否……と、頭に浮かんだ。
 それすら甘い考えだと、気付いてしまった。

「曹孟徳は……余が動こうともねじ伏せたであろうな。アレは月に協力はせんかった。そんな温くたい考えのモノが、他者から覇王と呼ばれるはずがない。この大陸はもう、黄巾が起こった時点で取り返しがつかんかった」

 哀しいことだ。皆が助け合えば、其処に平和は訪れるのに……劉協の心は憂いに染まる。
 
 気兼ねなくこんな事を話せるモノは、劉協の隣には居ない。
 誰かが隣に欲しいと思った。話を聞いてくれるだけでいいと願った。

 ふと、耳に挟んだ噂を思い出した。そういうモノならば、自分と対等に話せるのではないか、と。
 臣下達が躍起になって探していた人物の噂。帝の名を貶め、民には希望を与えるモノ。この大陸に於いて劉協の存在理由を、真っ向から否定するモノ。
 そこまで考えて仰向けに寝そべり、腕を額に当ててため息を零した。

「『天の御使い』……か。
 乱世を治めるなどと……ふざけておるな。逆じゃろうに。二天は乱世を呼ぶ。天からの御使いというのなら、なぜ、余の元に居らん。御使いとやらは、漢を殺しにきた乱世の使者じゃろうて」

 毒を吐き出す。
 澱みを、他者に突き刺す。
 其処には救われない少女が一人。
 世界に天から引き摺り下ろされる少女が、ただ一人。

「人の身が天に上るから、人々は希望を向けたのじゃ。余の祖も、元は人の身。そうしてこの大陸は繰り返されてきた」

 だから……と思考が繋がる。

「お主は訳が分からん、曹孟徳。何故、余に関わろうとせんのじゃ。お主が話しに来ないのならば、余にも考えがあるぞ」

 ぶすっと口を尖らせて、不満を露わにした。

「次の戦が終わり次第、盟友と認めた黒麒麟と共に、余の元で全てを話して貰おうか」


 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

時系列的にこっちが先でしたので、準備編みたいなモノになってしまいました……

帝は天子ですからこんな感じに。扱いが難しいですね。
華琳様は敢えて交渉の話を。
漢の復興に留めない手がまだあるので。
ぐっちゃぐちゃな敵対事情が形成されてます。


次は漸く戦ですね。
雪蓮さん達の上洛も後々描きます。


ではまた 
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