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乱世の確率事象改変

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覇王居らずとも捧ぐは変わらず

 ゆらゆらと揺らめく蝋燭の灯は心のカタチを表すかのよう。
 静寂が耳に響く軍議場。集まった者達はそれぞれが表情を重く沈めていた。漆黒と白銀の二人を除いて。
 目を細めて思考に潜る秋斗は微笑みを携え、月はキョトンと目をまぁるく、瞼を瞬かせる。

「劉表が直接動くなんて……」

 ぽつりと零された詠の一言に、先程の伝令からの報告を思い出していく。

 劉表と陳宮が華琳に謁見し、その結果、劉表と華琳が帝への謁見の為に洛陽に向かうとのこと。
 官渡到着までの日数は半月以上は掛かるであろう。その間の軍権最高責任者は春蘭、副責任者としては秋蘭と風、稟の三人とする……そんな内容。
 秋斗と朔夜は客分の身。黒麒麟の大きすぎる名声によって、兵の士気向上の為に華琳の名代として準備の責を預けられてはいるが、こと戦となれば曹操軍でも覇王の片腕たる春蘭が担うのは当然であった。朔夜は秋斗の御付きの文官であるのだから、月や詠のような侍女と扱いは大して変わらない。
 春蘭の頭の良し悪しの問題は、詠と朔夜を含めた多角的に頭脳を回せる軍師達四人がいる分、その意を汲み取る為に指示する者は誰であろうと関係は無く、秋蘭と秋斗、霞の三人が居れば、突撃思考の強さから来る暴走を抑える事も容易い。
 まあ、暴走する事など、日常時ならまだしも、華琳に戦を任された時の彼女がするはずも無い。仕事を任された以上、その期待を裏切るとは忠義に反すると同意であるのだから。

 のんびりと月の入れてくれたお茶を啜った秋斗は、緩く吐息を静寂に溶かした。

「どうせ曹操殿がいようといまいとする事は変わらんだろ。戦うのは兵、率いるのは将、操るのは軍師なんだからさ」
「あ、あんたねぇ……そんな簡単に言っていい事態じゃないのよ?」
「華琳様が、居ないとなれば軍務の負担は増え、敵方の士気は上がり、早急な決断が遅れてしまいます」
「せやで兄やん。ウチら曹操軍の兵の士気も……て、なんで月も不思議そうなんや?」

 首を傾げている月は三人から訝しげな瞳を向けられる。
 秋斗を見上げて目を合わせると、話してみたらいい、というように微笑みながら頷かれた。

「……私は“彼女”からの信頼の裏返し、と取っていたんですが……。
 緊張を齎しながらも兵の士気は期待された事で上がり、王の不在に敵方の行動を逸らせ思考を限定し、軍務に於いても……これより先にもっと大きな戦が行われる事を踏まえて、経験を積むという意味合いを込めてではないかと……」

 静かに、柔らかな声は耳に心地いい。その内容さえ、戦事でなければ。
 嘗ての月は“戦場に立たない王”であった。だから、華琳が居ないという状況にも別段不安を感じていない。自分がしてきた事を華琳もしているだけだ、と。
 真桜は気付かず感心したように頷くも、月の最後の発言に軍師の二人は口を開け放っていた。戦争は人の命を使う……だというのに、事も無さげに経験と言い放つ彼女に恐怖を感じて。

――どうして驚くんだろう。私達は兵を強くする為に必要な犠牲を払う事になるけど、その兵隊さん達の命の重さを心に乗せて、乱世を終わらせないとダメなのに。

 命を数扱いしてはいない。ただ、月と詠たちでは見ている場所が、視点の高さが……違い過ぎた。
 あなたはどう思いますか……秋斗を再び見た月の目はそう問うていた。

「クク、袁家との大戦が経験値稼ぎか、面白い」
「い、いえ。“彼女”もそう思っているかなと――――へぅっ」

 自身の発言の大きさに気付いて、慌てて付け加える月は、秋斗にくしゃくしゃと頭を撫でられていつもの口癖を零す。

「ゆえゆえの予想ならきっとそうだと――――」
「こらっ!」
「ぐへっ!」
「すぐに頭撫でるなって言ってるでしょ!」

 みるみる内に茹で上がっていく親友を見て、漸く自分を取り戻した詠は秋斗の頭を掌で叩いた。
 確かに月は可愛いけど……ぶつぶつと呟く彼女に、真桜は口に手を当てて笑いを堪える。朔夜は不足気に唇を尖らせ、きゅむきゅむと掌を握っていた。
 来る静寂に緩くなりそうだった空気が戻された頃、詠はため息を一つ。

「で? あんたは月が言った事以外も考えてるんじゃないの?」

 ジト目で見られて秋斗はお茶をもう一度飲んで喉を潤した。
 ほう、とため息をつくと皆の視線は彼に集まり、次に口から飛び出す言の葉を待ち焦がれる。

「……えーりんなら劉表の狙いが読めるだろ?」

 数瞬の後に返されたのは的外れな問いかけ。
 向けられるのは信頼の瞳。深くを言わずに相手に思考を積ませるそのやり方は、彼が用いる常套手段。
 答えが出ているのか、などとは詠も返さない。彼との付き合いは少しばかり長い。朔夜よりも詠を選んだ理由が、必ずある。
 回る思考は黎明の涼やかさを以って、過去の記憶と経験と知識の引き出しを開け放って行く。

「華琳を縛り付けて、袁家との戦時機も早める……だけじゃないわ。劉協様と華琳の関係に対する毒の仕込みと孫策の強制上洛。袁家の出方を伺ってから対袁家連合の発足……までは行くつもりが無いわね。袁家の始末はボク達に任せるつもりでしょ」

 隣では賢狼の瞳が冷たく輝く。外部勢力の思惑を読み取る力は、未だ詠の方が上。少しでも吸収できるように、と。
 対袁家連合と聞いて一寸驚いた真桜であったが、まだ全てを聞き終わってはいない為に、口を真一文字に結んで続きを待った。

「根拠は?」
「孫策軍に対する奇襲が出来ないからよ。元々なんらかの策略があったにせよ、虎が龍に二度も爪を立てた事に代わり無いから、攻め入る理由付けは立ってる。孫策が居ない間に攻めよう、なんて考えてるんだと思う。
 あそこには古くから仕える臣下が多いし、知識層の部下達は多大な恩を劉表に感じてるはずよ。武官が暴走しなくても劉表の死期が近いなら、そういった者達が兵力を持つ小勢力に焚き付けを行う可能性は高い。分かり易い言い方をするなら……主の命ある内に報復を、恩を返せなくなる前に奉公を……最も嫌う武力を智者達が振るってしまうくらい、劉表が荊州に与えてきたモノと、漢への信仰は大きいから。
 それに対して、後継問題で不和が出てたなら欲の強い者達もある程度は飼いならしていたでしょうね。抑えが無くなったなら、声高らかに忠義を示しながらも自分達が権力や地位を得る為に喜んで参加する。劉協様の、ううん、漢の皇帝の威光はもう……連合が組まれた事で野心旺盛なモノ達を抑えきれない程度になっちゃったから。きっとその背反する二つを扇動して率いるのがねね……陳宮と飛将軍よ」

 ねねの名を呼び直した事で、二人共が悲痛な面持ちに変わった。それでもぎゅっと拳を握って耐えている彼女達を、秋斗は目を瞑って見ない事にした。

「連合の発足は陳宮達の行いによってうやむやになるのは間違いない。その後に、部下の責任を取るカタチで劉表は劉協様の前で詮議に掛けられるでしょ。華琳に……裁量を任せるカタチでより多くの時間を割かせる。どうしようもないくらいに掻き乱される大陸の中で、唯一着々と手を進めて行けるのは桃香……劉備だけ」

 都で各勢力の情報を一手に受けていたのは詠。政略の駆け引きに一番触れてきたのも彼女である。経験という財産によって劉表の狙いを正確に読み取れる彼女の力は大きい。
 漢の臣として尽力していたのは彼女とて同じであり、月と共にその威光に縋ってもいた。
 いざ踏み入れてみれば、内部の実情は薄ら昏い暗殺と策謀が渦巻く泥沼の権力闘争が待っており、名と誇りを欲望の汚物に塗れた靴で踏みにじられたわけだが。それでも……董卓軍は帝の為に戦ったのだ――――史実とは違って。だから詠には予想が立てられる。
 荊州の部下達に劉表が示している事は黒麒麟がした事とほぼ同じと言っていい。己が身を捨てて何か行動を起こす様は人を惹きつけ、沸き立たせ、信仰になり得る。
 絡まった状況を以って、部下の忠義による暴走と断じてしまう事も出来るだろう。
 自身の劉の名に被せる事によって、乱世を掻き混ぜて時間を稼ごうとしているわけだ……劉備と娘が最終的な勝者になれるように。

「劉表の一手は大国である漢が行う最後のあがきに等しい。娘を向かわせた事で繋がりを持った劉玄徳が益州を正していく姿は……龍が鳳凰のように甦るかに見えて、民は希望を見出せるわ。そうして……後々に力を以って侵略を行う華琳が悪者にされていく」
「歴史を、繰り返させるというわけですか」

 朔夜の言葉に秋斗はため息を落とした。

――新末後漢初の再現に見えるだろう。語り継がれる歴史意識と根付いた儒教思想は民衆を支配し得る。現状維持の選択をしてしまうモノは、人として普通の思考だ。旧い者ほど変化を恐れる……あれだけ発展してた現代でも、そうやってゆるりと崩壊していったモノは多い。曹操殿や俺が目指す世界は屍で階段を作らないと手に入らないのも問題、か。

 大それたことを……と、彼は自身に自嘲する。
 政治家でも無い。英雄でも無い。軍の人間でも無い。何か特別な存在だったわけでも無い。
 人を殺す力を与えられただけの自分が立ち向かおうとしている壁の強大さを再確認した。
 それでも、欲しい。打ち壊したい、作り上げたい……その願いが、胸の内にはあった。嘗ての自分とは違い、もはや矛盾は無い。
 ふと、月から視線を向けられている事に気付いた。じ……と見やるその目は儚げながらも厳しさを含んで……否、貪欲な輝きにも見えた。
 秋斗の答えを、彼女は求めていた。自分の糧と出来るように。

「ありがと、えーりん。その説明を聞いた上で言おうか。
 劉表の思惑は曹操殿も予測してるだろうから、面倒な外部は任せておけって事だと思う。目の前の戦よりも乱世の行く末を優先したのさ。自分の成長、部下の成長、兵の成長、全てを高めるのも、ゆえゆえが言ったように理由の内かな。軍師達の思考負担を減らすってのも一つか」
「月の言った事も確かにあるだろうけど、少なからず兵は不安を感じてるわよ?」
「ウチの部隊の奴等にも、若干の不安はあるみたいやで? なんやそわそわしてる感じで落ち着かへんし」
「拭わせるさ。全てを良い方向に向けさせるのが俺の役目だろうからな。兵の心理掌握はそれぞれの部隊を預かる将達がやる……が、部隊毎だけじゃなくて軍全体として纏めさせるには“名代として送ってある黒麒麟”を使えばいい、あの人が考えてるのはそんなとこだろ」
「それじゃまたあんたが……」

――嘘をつく事になるわよ

 寸前の所で飲み込んだ言葉。微笑んだ秋斗は気にするなと首を振って伝える。

「クク、何もするなとも言わず、追加指示も無いから期待してくれてるって思っとく。出来なかったら罰則だろうけどな。ホント、あの人は厳しい人だ」

 楽しげに言う秋斗に不安の色は見られず、皆が一様な表情を浮かべていた。

「兄やんはそれでええん?」

 別の誰かのマネをして、それをする事に期待され続けているなんて。
 優しく、心配そうに見つめてくる真桜からの問いかけにも、緩い表情は崩れない。

「俺がそうしたいんだよ。別に黒麒麟の名を利用するくらいどうってこたないだろ? 気のいいバカ達や、お前さん達皆の為になるなら」

 彼が浮かべた笑顔は純粋な想いからか綺麗に見えた。瞳には哀しみの欠片も見当たらず。

「今の俺に出来る事を、全部やらせてくれな」

 されども耳を吹き抜けた乾きを含む渇望の声が、四人の心に不安の陰を広げていた。




 †




 払暁の日輪が合図であった。
 官渡までの道程はそれほど長くは無い。
 今か今かとこの時を待ち焦がれていたのは誰であったか。否、曹操軍の誰しもが、主の進む道に立ちはだかる強大な壁を打ち倒す時を待っていたのだ。
 歩みを進める兵達の表情は引き締まり、されども緊張し過ぎてはいない。血と汗を滲ませた練兵の数々は自信となって、己が心を高めさせている為に。自分達が信頼を置く将達の背中を見ている事も理由の一つかもしれない。
 ただ、醸し出される不安の翳りは拭い去れていなかった。
 いつも行軍の先頭にあるはずの、黒馬に跨り揺らめく、黄金に輝く二房の螺旋が無い。
 軍を進める前に上がるはずの勇気を齎す口上も、覇気溢るる凛とした声音も、奮い立たせてくれる不敵な笑みも……全てが無い。
 二人の軍師、そして将達は、前の戦までとは全く違う空気をまざまざと体感していた。

「風、これは……まずいですよ」
「……」

 道中で幾刻、はらりと嫌な汗を一筋だけ流した稟の問いかけに返答は無かった。隣を見やると、

「……ぐぅ」

 風は寝ていた。いつも通りに、安心しきった表情で、馬に牽かれる車の上でゆらゆらと揺られながら。

「寝るなっ!」
「おおっ」

 怒声と共に頭を叩かれ一寸跳ねた風。ぼんやりと宙を眺めた後、のんびりと稟に顔を向ける。

「馬車の揺れって眠くなるよねー」

 気が抜ける。今から戦に向かうとは思えない程に緩い。
 にへら、と眠たげな目をさらに細めて紡がれた一言は、稟のこめかみに血管を浮き上がらせるには十分であった。
 しかし、こういった軍事を話す時は敬語であるのがほとんどの風が、平穏な日常時に於いて零す砕けた口調で語りかけた……その行いは日向の草原に吹き抜ける一陣の柔風のように、稟に思考を回す為の隙間を作った。

「風は気にしていないのですか?」

――華琳様の不在を。

 誰でも軽く読み取れるのだからそう続けるまでも無く。稟は返答を求めずに、朝の冷たい空気を大きく吸い込んだ。ゆっくりと吐き出して肩の力を抜く。身体の脇に置いてあった木箱の中からお茶セットを取り出した。
 キュキュっと魔法瓶の蓋が仕事だとばかりに声を上げた。コポコポと薄い緑が湯気を立てて湯飲みを満たすと、二つに注ぎ、すっと風に一つを差し出した。

「ふふっ、ありがとー」

 微笑んで礼を一つ返された。空を見上げながら二人は湯飲みを傾ける。ある程度舗装されている道では、石ころにでも乗り上げない限り零す事は無い。
 淹れたてを持ってきたのでまだ熱く、ずずっと音を立てた後、どちらともなく大きく息を溶かした。

「大丈夫ですよー。お兄さんが居ますから」

 のんびり紡がれた言葉に、稟の目が細まった。

「ふむ……今の秋斗殿がこの混沌とした士気を纏められるとでも?」

 噂に聞く黒麒麟ならば出来たやもしれない、と稟は考える。
 徐晃隊を作り上げた影響力の片鱗は華琳の親衛隊を変えた事を見てもあるだろう。しかし今回は大軍である。役不足感が否めない為にそれへの期待を斬って捨てた。

「曹操軍全ての士気を纏めて上げるのは一人では出来ませんよ。それこそ華琳様くらいしか」

 同時に二人は遥か前方を見やった。兵を率いている五人の将の背を頭に浮かべながら。
 春蘭は華琳が到着するまでの間の大将を任せられている。不安を感じておらずとも、居ないならば余計に華琳の為に、といつも以上に力が入っているだろう。
 秋蘭は軍全体の把握を任されている。いつも通りだ、と思っていようとも、いつも居てくれる主の不在に、日が経つと共に増える負担を頭の隅に描いているだろう。
 凪と沙和は、将としての姿を見せてはいるが、出立の時に若干のぎこちなさを見せた事から分かる程、華琳の不在の大きさを兵と同じように感じて、心に陰りを齎しているだろう。
 季衣と流琉は言わずもがな、主を守護する為に戦うでなく、主にどこそこの補佐をしろと命じられたでも無い。一人の将として戦場に立つ為に緊張しっぱなしである。
 そして霞は……先の事があるから、普段と同じ軽さを見せていようとも、内面に哀しみの楔を埋め込まれてしまっている。

 皆の心情が手に取るように分かる。まだ一年と経っていないが、稟も風も、己が軍の主要人物達がどんな状態か、繋いだ絆から把握していた。

「お兄さんは幼女趣味の変態さんですが、春蘭ちゃんと喧嘩して肩の力を抜かせたり、秋蘭ちゃんの仕事を勝手にやって軽くしたり、凪ちゃんと沙和ちゃんにどうしようも無い話をして呆れさせて気持ちを落ち着かせたり、季衣ちゃんと流琉ちゃんを連れ回してそれとなく勉強させたり、霞ちゃんと一緒にお酒を飲んで澱みを流したり……してくれたらいいですねー」
「……随分とまあ、多くの仕事を彼に押し付けるつもりに聞こえますが」
「いえいえ、風は何にもしませんよ? お兄さんが勝手にするんじゃないかなーって思ってるだけなのです」

 よく言う。
 心の中で呟いて稟は笑みを浮かべた。
 思考の誘導は風の十八番。例え彼がせずとも、風がそうするように促すのは目に見えていた。心配も余りしていないから風の本心でもあるのだと、彼女が持っている彼への評価も知る。
 華琳の代わりに将達の心を慮るのは軍師の役目。それも間違わずに受け取ったが……稟の彼に対する評価は少しばかり違う。
 エメラルドの瞳はサファイヤを覗き込む。どちらもに輝く光は知性の鋭さ。風は首を傾げて、ふにゃりと笑った。まるで……その瞳に彼はどう映っていますかと、問いかけるように。

「ふふ……皆と話し始めたら勝手にするでしょうね。ですが……私達では考え付かない事をするのも彼ではないかと」

 期待。それが稟の“今の彼”に対する評価である。
 心の在り方も、思考能力の高さも、人となりも、この軍に彼が来てからある程度は理解出来た。されども何をするか分からない、というのが稟の見立て。
 予想した事をしてくるのは間違いないが、それ以上に何かしら上乗せしたりもしてくる。
 個人で見える世界は、風と稟の二人だけでも違う。しかし同じく軍師である為に、似たような道筋や結果に辿り着く。

「おお、危ない危ない。変態さんの思考を読めてしまったら、風も稟ちゃんも変態さんの仲間入りしてしまう所でした」

 一寸だけ視線を空に向けるも、いつもの如く彼を貶しつつ、風はゆるりと誤魔化した。
 酷い言い草だ、と思いつつ苦笑を零した稟は、またゆっくりとお茶を啜り――

「あ、でも稟ちゃんは既に変態さんな事を忘れてました」
「っ! けほっ」

 風からの不意打ち発言を受けて思わず咽た。
 ジト目で睨みつけながら呼吸を整え、相も変わらず何を考えているのか分からない親友を苦々しげに見つめる。

「……どのあたりが、と問うてみましょうか」
「おいおい、しらばっくれるってのか? 秘密裏に街で艶本を買ってる事、皆知ってるんだぜ?」
「なっ! 何故それを――はっ」
「ははは! ボロ出したな、このむっつりめ!」

 頭の上であっちゃこっちゃに腕を振って喜ぶ宝譿。また、稟のこめかみに青筋が走った。

「これ、宝譿。稟ちゃんはこれからの為に恥を忍んでお勉強の本を買っただけです。今か今かと待ち焦がれた憧れの人との大切な一時に失敗したくないから……だよねー?」

――ああもう!

 ゆるゆると流れるくだらない方面への話題転換。にやりと笑われて、稟は一つの対処法を思いつく。
 弁舌にて打ち負かすのが智者としてのやり方であるが、自分の恥ずかしい秘密を知られているからには劣勢は確定。
 ならば不意を付く力押しもたまには必要だ、と。

「ていっ」
「あうっ」

 風の額に痛くない程度のデコピンを一つ。追加として、これ以上二対一として喋らせないように、頭の上の宝譿をひょいと掴み取った。
 さすれば、今度はコスコスと片手で擦る風がジト目で見つめる番であった。

「力に訴えるのは卑怯だ、との言は聞きません。追撃はよしなに」

 ぴしゃりと言い切り、膝の上に乗せた宝譿にお茶を持たせて、つんとそっぽを向いた。二対一は受け付けないという意思表示と、次の手は譲るの意を込めて。
 むーっと考え込んでいたが、静かに、すすっと身体を寄せた風は何も言わず、だんまりを決め込んだ。怒ってますよ、とも取れるその対応は、稟の心に少しばかりの焦りを齎す。
 どんな顔をしているのか、こちらを見ているのかいないのか、肩が触れ合うくらいの距離を以って、余計に気になってくるのは必然。怒っているわけがないと分かっていながらも……である。
 我慢比べ……そう感じて幾分後、降参、というように稟は風を見た。

「……くー」

 こっくりこっくりと船を漕いで寝ている親友が其処に居る。むにゃむにゃと口を動かし、寝言でも零してしまいそう。
 こめかみにまた青筋を浮かばせた稟の怒りの目覚ましが、朝の陽ざしを背に受けた軍中央に響き渡った。

 そんな彼女は、親友の緩さによってが不安が吹き飛んでいた事に、感謝を心の内で呟いていた。




 †




 官渡に辿り着いた曹操軍は付近の様相に唖然としていた。
 城壁の周辺二十丈余りには幾本も等間隔で列を為して打ち付けられた竹や木。列の端の太い竹には長い笹の葉が旗の如く風に流れていた。兵列を整えていなければ安易な突撃など出来はしないだろう。先の戦で用いられた袁家の移動櫓など、近付けるには数倍の労力を要する。
 ばらけさせて掘られた浅くも無く深くも無い溝は人が隠れるには足りず、敵兵達の脚をもたつかせ、城壁上から矢の雨を降らせれば容易に防衛戦が行えるのは予想に容易い。
 それらが壁の三方向にある。本拠地と繋がる後方だけには据えられていない。万が一逃げる時に逃げ出せなければ最悪の事態となり得るからだ。
 元より全ての兵を官渡の城に居れる事は出来ないのだから、後ろに回り込まれるという考えは放棄していた。大軍を手広く敷く以上は、そうならないように手を打つのが定石である。

 防衛戦を行う腹積もりを全面に押し出しているが、それは既に袁家にも伝わっているだろう。見え見えの餌ではあるが、此処に曹孟徳が居座ればその誘いに乗らざるを得ない。
 互いに戦の連続で物資の不足が目立つからか……否。攻城戦では相手の物資の枯渇を狙うのが常道。わざわざ七面倒くさい攻城戦を選ばずとも、籠られたのなら他に手の打ちようは多々あるはずだ。
 では、敵のいない場所を奪うという空き巣紛いの行いを嫌っているからか……否。袁家がそのような事を嫌うはずも無い。嬉々として本拠地である城を攻めるだろう。
 しかしながらどちらでも無い。
 この官渡でケリを付けなければならない理由は、たった一つ。
 曹孟徳という強大なる為政者を、乱世の敗北者と断定させる為には必須だからである。
 頸の挿げ替えには上に立つ者の力が問われる。覇道を進み行くならば、戦争でねじ伏せてしまえなければ意味が無い。各地にて力添えを謳っている小勢力の主達を丸ごと納得させる為には、主導者を失わせる方法が一番手っ取り早い。
 何より、曹孟徳は帝を手中に収めているのだから、彼女が負けるとは如何なモノか。大陸を巻き込んだ連合を思い起こせば言うに及ばず。
 その点で言えば……劉表の提案は曹操軍側にとっても利の多いモノであった。
 三つの大きな地を任されている為政者が洛陽に集まれば、安易に帝の奪取は望めない。華琳が居るから洛陽を攻める、なんて事は出来るわけも無い。あの戦火は民の記憶に新しいが故に。他勢力の動向と報復、急な連携をも警戒するが故に。
 行ってしまえば絡み合った糸が一斉に引かれ、袁家の名は泥の中に沈み、民も有力者も他の強力な勢力も、全てが敵に回る事になるのだ。
 劉表の策略によってもはや言い訳は効かなくなった。国を盗んだと言われずに、傲慢ながらも声高らかに時代の移り変わりを宣言するには後が無い。
 戦争という命を対価とした外交手段を以って、全ての人々に袁家が天に上る様を見せつけなければならない。

 稟は思考を回す内に金髪灼眼の悪龍を思い出していたが……それよりも恐ろしい存在が、居た。
 砦の状態を見ただけで、背に冷たい悪寒が走った。気味が悪い、得体がしれない、心底から、そう思ってしまった。

「お兄さんと朔夜ちゃんは華琳様の為の戦場を確かに用意しました。でも……」

 風の声も僅かに掠れている。
 戦の道筋は決めてある。『そうなるように戦を動かすのが今回の軍師達の仕事』だから、二人は黒き大徳と賢狼に恐ろしさを感じていた。
 本来は此処までの準備をするつもりなど無かった。風も稟も、官渡では秘密兵器の使用で優位性を示し、思い描いている戦絵図を顕現させようとしていたのだ。
 投石器があれば櫓破壊が望める。敵兵にも多大な恐怖を与えるは言うまでも無い。しかしこの防衛陣の有様は完全な予想外。彼女達でさえ、狙いの全てが読み取れない。

「敵の思考を縛る為、いえ……深読みさせる為の悪戯、ですか。わけの分からないモノは軍師にとって何より恐ろしい」
「単純に考えると移動櫓など進めなければどうという事は無い、なんて言いたげですけどねー」
「こちらの兵器の詳細がバレていないという事を踏まえて、櫓を使わせずに通常の攻城戦に持っていかせる。そこらへんにある竹や木をただ打ちつけただけでそれをしたわけですが……」
「正直、此処までするなら柵にした方がいいと思いますが……あ、柵なら壊す標的にされやすいからでしょうか」
「それも彼に尋ねてみましょう。とりあえずは城に入ってから、という事で」

 会話を打ち切った稟は興味深々であった。コクリと頷いた風も、彼の思惑を聞いてみたいようだった。
 到着の為に軍の先頭に居た二人は城門の前に進み出る春蘭を見やった。威風堂々たるその姿は軍を率いるモノに相応しい。背中が語るとはこの事か。
 城壁の上、ゆらりと黒い影が一つ。前後左右の人の群れを見渡してから、彼は春蘭に目を落とした。

「徐公明よ! 名代の務め、ご苦労であった! 主から命を受けし夏候元譲がこれよりその任を受け持つ! 城門を開けよ!」

 全軍に響き渡る大きな声が、その場の雰囲気を弓弦の如く張りつめさせ、端の一人まで背筋を伸ばさせる。
 対して、すっと目を細めた秋斗は動かず。くくっと喉を鳴らして口を引き裂いた。
 その不敵な笑みは、誰の姿と重なるか。

「……元譲、お前さんの声は良く響くなぁ」

 静寂が行き渡った頃合いを見てのんびりと言う。春蘭は眉根を不思議そうに寄せ、堅苦しい形式も忘れていつも通りに話し出した。

「だからどうした? ほら、早く城門を開けろ。他の場所への振り分けもしなければならんのだぞ?」
「ああ、城門ね。開けてもいいけど……まだ名代は俺だ。曹操殿より戦場を預かりし責、決して軽くは無い。……一兵卒に至るまで、曹操軍たる証を示してみせろ」

 見下し、は……と呆れの吐息を付いて流れた声に、春蘭は苛立ちが全面に浮かぶ。されども、華琳が居ない事で兵達が浮足立っていると分かっているから、何も言えない。
 兵達の大半はゴクリと生唾を呑み込んだ。彼の後ろに黒き麒麟の影を見ていた。
 直ぐに、軍師の二人は目を細める。
 此処で春蘭が素直に従ってしまえば、秋斗の方が立場が上だと認識される事になる。それはしてはならない。
 曹操軍に於いて、黒麒麟の名は最高でも春蘭と同程度に抑える事が最良。たかが客将の身なれど求心力は絶大である為に、間違っても華琳と同等にさせてはならないのだ。
 厭らしい一手だと感じながら顔を蒼褪めさせた。春蘭に駆け引きをさせるのは余りに酷ではないか、と。
 ただ、彼女達は見誤っていた。華琳の武の片腕はもう一つある……それも器用で、合わせる事の上手い腕が。

「ふふ……曹操様が居らぬからといって貴様が我らの主ではあるまいに。貴様の方こそ軽々しく命じるな、無礼が過ぎるぞ、黒麒麟」

 涼やかに流れる声は殺気を以って放たれた。左目を細め、片側の頬を吊り上げて背中の弓を今にも引き抜かんとする秋蘭によって。
 まるで黒麒麟が主であるかのように錯覚させられそうになっていた兵達を瞬時に引き戻していく。
 春蘭は妹の咄嗟の返しに振り向きそうになるがどうにか秋斗を睨み続けていた。

――さすが妙才。よく合わせてくれる。

 秋斗はより一層笑みを深めて、楽しそうに言葉を紡いでいった。

「クク、お前さんらの主になったつもりはねぇよ。客分の身に過ぎた役割を与えて貰ったんだ。その責を果たしたくてな……。
 元譲、此処に率いて来たのは想いを同じくする曹操軍、だろ?」
「当たり前だろう! “私と同じく、華琳様に信頼と期待を向けられて、御元に勝利を捧げる為に戦場へと向かい来た”誇り高き勇者達だ!」

 彼女は素で言った。そのまま、心の赴くままに感情をあらんばかり込めて宣言した。
 当然、戦場に向かう前には心持ちを示すのだから今言っても問題ない……と春蘭は考えていただけだが、これは秋斗の狙い通り。
 彼は部隊一つだけでなく、軍全体に行き渡る状態でそれを言って欲しかった。覇王に頼る心が黒麒麟に縋る心にすり替わる前に。
 心の支えが抜けた場合、まずは他の何かで埋めようとするのが人であり、個に頼っていたのなら個に縋ろうとするのも人。
 秋蘭や春蘭が彼の立ち位置を明確に示してしまえば、兵達の心に覇王の願いを浸透させる空の器が出来上がり、春蘭のバカ正直な忠義の心はその器に対して絶大な効果を発揮する。

「ははっ、そうかそうか、元譲と同じく……“曹操殿自らが出るまでも無いと認められた”勇者達か!」

 からからと笑って唱えれば、皆の心に種が蒔かれる。芽吹かせるには如何すればいい。考えるまでも無く知っている者達が居る。曹操軍の将は春蘭一人だけでは、無い。
 チラと互いに目を合わせて悪戯っぽい笑みを浮かべたのは、二人。

「曹操様に勝利を捧げるのは我らの常だ。主が手を煩わせるまでも無いと信頼を向けられて、誉れを感じないわけが無いだろう?」
「せや! ウチらの主は出来る事しか命じひんやろ! 送り出したって事は、ウチらだけで袁家なんざぶっ倒せるってこっちゃなぁ!」

 蒼弓は重ね合わせ、神速が前を向かせる。
 どよめき等起こるはずの無い規律重視の兵列には、弾む心を表すかのように熱い吐息の塊が一つ二つ。
 小さな少女が二人、コクリと笑顔で頷き合った。主の一番近くで守り侍ってきたのは、他でもない季衣と流琉。彼女達はただ、自分の本心を零せばいい。

「えへへっ! じゃあボク達は華琳様から一人前って認められたって事だよね!」
「華琳様だけじゃなくて、皆も守る為に戦ってきなさいってのもあると思う」

 幼い、嬉しそうな声は兵達の心を逸らせる。
 此処には居ない親衛隊からじわりと広がりつつある想いのカタチが胸に響く。

 なら、俺達はなんだ……?

 その心を高めるのは、末端の兵士達に一番近い……二人。

「そう! 我らが主から勝利を約束されている! 地獄のような練兵を、そうして積み上げて来た力を、曹操様は認めて下さっているのだ!」
「喜べクソ虫共! 与えられたのは過ぎた期待なの! でも報いれないなら、這いつくばって死んでから詫びても足りないの! 沙和を濡れ濡れにさせられるくらいの結果で示せ!」

 キリとした凪の声の後に、可愛い気があるのに汚い沙和の罵声が響けば……場違いに、厳めしいサーイエッサーの声が一部隊から上がる。
 ああもう台無しだ、と秋斗と秋蘭は呆れを見せそうになるが、空気がいい具合に変わった事に驚いた。
 兵達は声を上げたくて仕方ない。歓喜に弾む心を吐き出したくてどうしようも無くなっていた。

「凪も沙和も……誰か忘れていませんかっちゅうねん! 李典隊! 整ぇ列っ!」

 気合が入り過ぎたからか、若干の巻き舌で告げられた命に、ざ……っと城壁の上に兵士達が立ち並んだ。
 事前に官渡に赴いていた真桜の部隊。彼らは既に、秋斗と真桜から心を高められている。

「此処での戦の準備はウチらがやったんやから万端やでぇ! なぁ、お前らっ!」

 応、と統一された声が上がる。
 俺達は仕事を遣り切っているぞ、そう、伝えるように。
 兵達は羨ましそうに城壁の上を見上げた。
 彼らは主の為に出来る事をずっとして来た。自分達は此処に来るだけでも不安に駆られてしまった。あの誇らしげな笑みを見ろ、自分達はあのように笑えるか……と。

 すらり、と背から大剣を抜き放った春蘭は、一度も後ろを振り向かない。只々、秋斗を睨みつけていた。
 不敵な笑みで見下ろす秋斗はただ笑う。

「ははっ! さすがは曹操殿が絶対の信を置く武将達か! その意気や良し! ただ、応える声が無いってのは少しばかり寂しいなぁ、元譲?」

 最後に纏めきるのは、曹操軍に於いて武の象徴である彼女の役目だ。
 意思の光を、命の輝きを、想いの華を……英雄と認められる男に見せつけてやりたい。
 兵士達は、春蘭の声を待っていた。曹操軍に於ける忠義と力の証明である彼女の一声を、待っていた。

「ふん……あの大バカ者に教えてやれ! 我ら曹操軍は華琳様に勝利を捧げる為に此処に来た、とな! 華琳様に届かんばかりに……声を上げよ曹操軍!」

 大剣、宙を裂き、制止の糸がぷつりと斬れる。
 音が弾けた。鼓膜を砕きそうな程の大音量。雄々しく、勇ましい。これから命を燃やす、勇者達の雄叫び。
 幾重にも重なった熱く滾るような声は力に溢れ、城壁の上で見やる秋斗に叩きつけられる。
 一つの意思に統合された想いの強さは心地いい。耳を抜ける熱さが胸に沸き立たせるのは……不思議な事に悔しさであった。
 バレないように手を握る。それでも足りない、足りる訳が無い。
 彼が兵士達の為に出来る事は、こうして焚き付けて扇動するくらいしかないのだから。教えられた過去の自分のように戦場を駆けられたら……と思ってしまうのは詮無きこと。
 溢れそうになる想いをどうにか飼いならして、秋斗はにやりと笑ってみせた。

「さすがは曹操軍! 忘れる事なかれ! お前さん達は覇王に認められ、期待されているぞ! さあ、戦友の到着だ! 城門を開けろ! 夏候元譲に、覇王から預かりし任をお返し致す!」

 漸く開かれた門。潜っていく兵士達の目は自信と意思の炎が燃え灯り、不安など欠片も見当たらなかった。将達の心にも、不安の影さえ見当たらなかった。
 入った途端、春蘭が秋斗の無礼を正す為に一発殴ると追いかけ回せば、兵にも将にも、笑いが起きた。燃え上がらせる心と共に、平穏を過ごす心も、皆は忘れず。
 幾分幾刻、あくせくと指示を出し、それぞれが来る戦の準備を整えに向かい始める。



 そんな中で、軍師の二人は軍議場に向かいながら心を弾ませていた。

「華琳様が居ない事を逆手に取って士気を上げるなんて……よく打ち合わせ無しに出来ましたね、秋斗殿は」
「これで軍としての意識が高まり、連携も潤滑に行くのは間違いないですねー。目的の明確化と意思の統一は末端まで行き届かせれば力となりますから。春蘭ちゃんと秋蘭ちゃんの性格を良く分かってるのですよー。さすがにあの駆け引きはどうかと思いましたが」
「……黒麒麟ならどれだけ――――」

 言えば、じとっと半目が見つめていた。気付いて止まった言葉の先は紡げない。

「お兄さん以外にあんな事は出来ませんよ? 皆と絆を繋ぎ始めた、黒麒麟を利用している嘘つきの大バカ者にしか出来ないのです」

 せめて人を殺す前の今だけは彼を見てあげて。揺らめくエメラルドが伝えるのはそんな想い。

「そう……ですね」

 短く答えた尻切れトンボの言葉は宙に消える。
 気まずくなる前にと話し出すのは、やはり稟。

「この戦で戻ると思いますか?」
「……風はお医者さんじゃないのでなんとも言えませんが、精神的な衝撃を受けて記憶が戻る例はあるそうです。ただ、お兄さんの場合はそのきっかけになりそうなのが人殺しか信頼の裏切りですから状況を整えないとダメでしょうね。月ちゃんの言っていた探し人は内密に捜索の指示を出してありますけど」
「与えられている指示は望んでも華琳様か雛里が着くまで戦場に出すな、ですが……」
「どっちみちお兄さんは官渡以外には行けません。月ちゃんと詠ちゃんを守る為には、此処で待ち続けるしかないのです」
「最終局面でしか有り得ない、そういう事ですか」
「です。お兄さんが耐えられるかも問題かと。その為にはやっぱり――」
「雛里が居ないと不安が残りますね」

 どちらともなくため息を落とした。

「しかし……皮肉過ぎますよ」

 ふと、思いつめたような稟の表情を見て、風は続く言葉を読み取り目を伏せる。

「この戦で重要な地点の一つ、その名が“白馬”だなんて……」

 天意を感じずにはいられない、そう零した稟の声は、今は遠き地で嘗ての彼の為にと動いている少女を想ってか、それとも旧知の友を想ってか、悲しみの色を存分に宿していた。









 曹操軍は官渡に本拠を構え、各々の部隊を割り振って防衛線の準備に取り掛かった。
 一つは白馬。連合終了時から事前に防衛準備を整え始めていた為に、物資の集積は最低限に留める事が出来ていた。
 一つは延津。黄河付近に陣を構えた。此処も事前準備を進めていた為に、真桜が赴いた事も理由の一つではあるが、そこまで手間暇は掛からなかった。
 遊撃隊として複数の部隊を二つの地と官渡の間で動かし、不意打ちで攻めて来られようとも対応できるほど。
 一日、二日……と時が過ぎて行く内に、その報は届く。

 それは彼と彼女達が待ち望んだ、袁家からの宣戦布告であった。
























 ~白銀の少女が気付くモノ~




 夕暮れの空は美しく、蒼と橙が綺麗に入り混じっていた。
 懐かしい……と感じながら見上げていると、隣で同じように空を見ていた彼がため息を零す。

「前にもこうしてあなたと藍橙の空を仰いだ事がありました」

 詠ちゃん達も一緒でした、とは言わない。言わなくても分かってる人だから。

「そっか」

 短く、彼はそれ以上は何も言わずに見上げ続けている。
 最近は人が増えた為に、朝の鍛錬も無くなった。秋蘭さんが重要拠点に向かったから、高度な鍛錬も出来ない。少し寂しいけど、この軍の現状は分かってるからわがままはダメだ。
 こうして二人きりで会う事も少なくなった。私は侍女仕事、彼は兵との交流や道具の作成に勤しんで忙しい。
 前までは毎日少しの時間だけ二人きりで会えていた。慣れてしまっていたんだろう。
 こうして久方ぶりに二人きりになれた事で嬉しい気持ちが胸を染め上げる。反して、浅ましいと自嘲も込み上げる。
 ふるふると、頭を振るって追い遣った。感情を平坦に、二人きりで会う時間で何か少しでも話さなければならない。
 話さないといけない事は、ある。
 ずっと聞いておきたいと思っていた事があった。

「この戦で……あなたが手に入れたいと思っているモノは……」

 唐突に零してみた。
 つらつら、つらつらと感情を込めずに。
 予想では無く確信。きっと彼なら、否、彼と“彼女”ならコレを望む。そう、信じていた。
 彼は笑った。嬉しそうに、哀しそうに。

「クク、ゆえゆえは気付いちまったのか」

 笑みを携えながら、漸く向けてくれた瞳は昏い色に染まっていた。懺悔と思いやり。まるで……昔の彼のよう。
 小さく頷くと、彼は泣きそうに見えた。今にも謝りそう、でも、謝らないのも彼。

「ゆえゆえには、さ。えーりんと霞の事を頼めるか?」

 彼女達を支えてくれと、そう言ってる。彼は私を頼ってくれていた。
 ドクン、と胸が大きく高鳴った。

――それだけで……こんなに嬉しい。

 心に溢れるのは歓喜だった。今の彼の為には何も出来ないと思っていたけど、少しでも負担を減らしてあげられる。

「分かりました。でも、どうなるかは……」
「構わない。曹操殿が願えば、二人は聞かざるを得ない。曹操殿は俺を……戦の終わりでこの為に盛大に使うつもりだろう。その準備を怠る彼女じゃあない。帝の元に行けば、欲しいモノが示せるから」

 私はこの人と“彼女”と同じモノを欲するようになった。
 もう一度、表に立つには必要な事だったから……彼を見て、知る事にした。見れば見る程、知れば知る程、彼への理解が深まる。
 “彼女”は私が彼の事を理解していくその行いを『喰らっている』と言っていた。私は、黒麒麟と彼を知らぬ間に喰らっていたらしい。

「五人だ」

 唐突な発言は何を意味してか、直ぐに分かる。“彼女”と彼が思い描いているカタチだと。

「これからの乱世に必要なモノは五人。忠義の二人、中庸の一人、逆接の二人。それで曹操殿が欲しい軍の支柱は完成される」
「忠臣だけの方が遣り易いですが、敢えてそうするんですね?」
「武官文官に拘らず、組織には反対意見を忍ばせるモノもいないと話にならない。忠義は確かに尊いモノだけど、目を曇らせる事もあるからな。どちらもが止め合えて高め合える方がいいのさ」

 人の成長を願う彼らしい意見。武官に於いても、彼の中では文官とも同じ。全ては繋がっている、そういう事だ。

「……夏候元譲、夏候妙才、張文遠、徐公明、そして……」

 途切れた言葉の先を、私が言わないといけない。私がこの人を手伝うのは、もう既に決めている。きっと……昔の彼でも、望んだだろう。

――姿を見たことが無い人。私と詠ちゃん達にとって、彼と同じく絶望の始まりの人。ねねちゃんを傍に引き入れるには、本当は入れるべきでは無い人。

「袁家最強の武将……張儁乂」

 くしゃり、と頭を撫でられた。
 優しい手つきで髪を撫でつけられると、胸がじわりと暖かくなる。

――気にしなくていいですよ? 私は……誰も憎んでません。皆の事は、私が必ず説得してみせますから。

 言えないままで、わずかな幸せの温もりは離れて行く。

 また、二人で空を見上げた。
 この空は美しい。
 けれども、瞬刻の一時しか見れない空だからこそ、これほどまでに見惚れてしまう。

 まるで今の彼のようだ、と思ってしまったけど、口には出さない。

 日が暮れるまで、その色が溶けて消えてしまうまで、私と彼は二人だけで藍橙の空を眺めていた。

 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

戦準備完了、です。
華琳様が居ない場合、こんな曹操軍です。

いろいろとフラグが乱立中。
次話から官渡が始まります。

100話到達致しました。
此処まで読んで頂いた皆様方に感謝を。
完結まで、どうにかこぎつけますので、
これからも楽しんで読んで頂けたら幸いです。

ではまた 
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