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今宵、星を掴む

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 第2次世界大戦のすべての戦闘が停止したのは、1944年12月24日のことだ。
 戦闘を続けていたソ連軍の侵攻がドイツとポーランドの国境に達したところで、アメリカとイギリスがドイツ国内に進駐軍を送り込んだことがその原因だった。
 この時点では講和条約や降伏は行われておらず、とりあえず各国間で停戦が成立しただけだ。そのため、日本では8月15日が「終戦記念日」とされるが、世界一般では講和条約が結ばれた5月8日が終戦の日とされている。
 各国間で結ばれたのが「停戦」とはいえ、事実上、連合国の勝利で第2次世界大戦は終結した。枢軸陣営主要国たる日本、ドイツ、イタリアのうち、イタリアは1943年のうちに降伏しており、日本とドイツも戦争目的を満たすことができず、過大な軍備の負担に国家財政が破たん寸前だったことを考えれば、感情的な論者以外は否定することができなかった。
 そして、講和会議がドイツ・ポツダム、日本・京都で行われたことは、どちらが勝者であるかを雄弁に物語っていた。
 講和会議とは勝者が敗者の土地で行うものなのだ。
 1945年2月にはじまった京都講和会議は、3カ月に及んだ議論の末に5月8日にまとまった。この日取りはドイツ・ポツダムと同じである。
結果、日本の施政権は主要四島とその周辺の諸島に制限され、台湾・南西諸島・小笠原諸島はアメリカおよびイギリス、南樺太はソ連、満州はアメリカと中華民国の信託統治を受けることなる。マリアナ諸島をはじめとした南洋諸島は、アメリカの信託統治領となった。
賠償問題については、主にイギリス、中華民国や独立準備政府が発足していた朝鮮から多くが求められたが、日本に払えそうなものが少なく、海外領土および権益、海軍艦艇の引き渡しで済まされることとなった。
条文の解釈や賠償請求権などで多くの問題は残しながらも、日本の戦争状態は1945年5月8日に終わり、新しい時代へと向かうことになった。

 出典:則武敦「日本の戦後」『世界史B』山海社 p.123


 (前略)憲法改正により日本皇国と名を変えた日本は、財政破綻の危機にあった。半ば人為的に起されたインフレーションによって借金の数値上での割合は下がっていったが、それでも巨大な借金が財政を圧迫していた。さらにインフレーションは物価の上昇によって国民の生活を脅かし、円の対ドルレートも急激な円安へと向かうこととなる。
 戦前、朝鮮半島と満州からの食糧輸入に頼っていた日本の台所はこの時期、完全に枯渇しており、アメリカからの無償食料供給がなければ、日本国内では餓死者が出ていただろうといわれるほどの窮状であった。
 停戦後、肥大化した軍隊は真っ先に削減の対象となった。その流れはアメリカの統治下におかれた満州、朝鮮半島における巨大な需要に対する、供給を満たすための労働力を欲していた民間企業の求めるものとも合致していた。
 結果、日本皇国陸軍、海軍と名を変えた組織は空軍を加えて軍務省にまとめられる。戦力は陸軍が16個師団体勢(半分は予備役の投入を前提にしたもの)。海軍は空母4隻、戦艦2隻を基幹とした3個艦隊、各種航空隊600機、空軍は戦闘機1000機、爆撃機500機を基幹とするものに改変される。
 その間にも、世界情勢は激しく変動し、2つの巨大な国家がイデオロギーで対立する「冷戦」へと移行していた。後世の歴史家たちは、1944年12月24日、後にクリスマス停戦と呼ばれる独ソ戦の終了を歴史の変わり目としている。
 この時、停戦ラインはポーランドとドイツ国境にあった。ドイツ軍の撤退と共に米英などの軍が入り込み、バルカン半島やチェコ・スロヴァキアに進駐。ソ連軍の浸透はバルト3国、フィンランド、ウクライナ、ベラルーシ、そして東プロイセン地域のみとなる。
 アジア地域では、日本軍の撤退とともに宗主国の軍隊も戻ってきた。しかし、日本軍が残していった武器を装備した原住民との間に独立戦争が勃発し、多くの混乱が生じる。また、中華大陸では国共内戦が再開。決め手に欠けた両者の戦闘は共産党の比較優位で進展する。海岸線へと押されていた国民党軍は、満州と台湾に残された日本資産を反撃の糧にすることを目論むが、アメリカがこれを拒否。代わりに本国で余剰となった大量の武器弾薬を提供し、一時的に戦況は均衡する。結局、1946年に長江を境として停戦が成立する。
 満州・朝鮮に進駐したアメリカ軍は、現地の日本統治機構から徐々に移行しながら、それぞれの土地を第2のアメリカにするべく多くの資本を投下。満州の油田はその油質が重く、軽質油には使いにくいことが判明するも、発電には十分に使えることから、火力発電所の建設が進んだ。
 この開発には、日本の産業に多くの注文がよこされ、戦後の復興の最初のカギとなる。(攻略)

出典:神谷明2011「日本の経済復興と世界情勢」『東アジア政治秩序の形成と戦後史』浦川社


1946年 宮崎県延岡市 沢城重工細島工場

 沢城裕也は一族郎党、社員一同を引き連れて故郷へと帰ってきた。1945年2月に本格化した満州からの復員の流れに従って日本へ帰還した彼らは、その年の冬には新たな土地で仕事を始めていた。
 細島工場では、満州の旧工場と比べてもそん色ない機械がラインに並べられ、満州や朝鮮、台湾でアメリカが欲したトラックの生産が行われている。さらに日本皇国陸軍と名前を変えた軍への武器の供給も細々と再開し、1946年内にはなんとか操業できるだけの資金や資材を手に入れることが出来ていた。
 また、戦後に縮小した航空機業界の動きに合わせて、戦前から付き合いのあった九州航空機と提携し、九州内に地歩を得ることにも成功していた。なによりも、アメリカ・フォード社との伝手ができた事で、仕事に10年は困らない事が確約されたことは大きかった。

 裕也はむしむしする社長室で、取引先のお偉いさんをにこやか、かつ親しげに出迎えた。

 「やあ、スコット。向こうの調子はどうだ?」

 「おうよ、裕也、もう少し日本人の労働者をよこしてくれないか。大陸のやつらは、使い出がないぞ」

 「何言っているんだ、100万人にスコップ持たせりゃ道路の1キロや2キロ、あっという間にできるだろ」

 豪快に笑いながら裕也と握手したスコットは、革の滑らかなクッションの利いたソファにどかりと座った。そして秘書が湯呑で出した緑茶を、怪訝な表情で見つめる。
 
 「もっとトラックとトラクターを送ってもらえたら、もっと仕事は進むんだけどな」

 「勘弁してくれ。安定しない電力供給に、整備途中の道路と港。せめて五ヶ瀬川の水力発電所が完成するまで待ってくれないか?」

 裕也は、最近ようやく、スコットが冗談ついでに仕事の話を進めるのに慣れてきていた。彼は、どこかシニカルな物言いで悪態を交えながら要求を伝えてくる。
注文の遅れは設備面の制限からどうしようもないことだった。
終戦と共にフォード社で余剰となった機械類や、その日本法人が日本政府に差し押さえられていた工場の設備を導入して新天地での操業を開始したのだから、そのあたりはスコットも織り込み済みで、今回の訪問も注文の催促と言う名の茶番劇だった。

「1年半前も言ったが、満州でうちの子会社になったら楽だったんだぞ? 
満州だけで7,000万人の需要があって、ステイツは新しいフロンティアに30億ドルの資本を投下。分かるか? 30億だぞ? この国の国家予算何年分だ」

「ああ、5年分くらいじゃないか」

「それをふいにして、こんな田舎にどうして工場つくったのか」

「それは、もう話しただろう? それに、そこはお前も納得したはずだ」

渋々といった調子で愚痴を止めたスコットは、湯呑から緑茶を飲んでますます渋い顔をした。裕也は秘書を呼んでスコットにコーヒーを持ってこさせた。

「まあさ、ここでお前の会社があるのも、俺が話をつけたおかげだろ。少しくらいは聞いてくれたっていいだろ」

「聞くだけだ、聞くだけだぞ。こっちだって仕事があるんだ」

「うちの機械を使ってか?」

「わが社の機械だ。株式の25%譲渡と取締役の人事権一部譲渡、それから満州でうちが整備した工場の設備と土地の売却で対価は支払っている。それで、新しい仕事って何だい?」

「ん、ああ。お前が提携している、九州飛行機か? そこで航空機の修理とかできそうか」

「お前いつから飛行機屋になった? フォード社が作ってるのは、戦車とトラックと思っていたが」

「ん? そうでもないぞ。うちの会社の機械で爆撃機をつくってたぞ。たしかB-24とかいうやつで、5,000機くらい」

「B-24というとコンベア社か。けれどそれが理由じゃないだろ? 戦争も終わっている。フォード社がこれから寡頭競争に入る航空業界に挑戦する噂は聞いてない」

「あー、うちの会社な経理にロバート・マクナマラつうおっさんをいれたんだよ。そのおっさんが陸軍航空軍に所属してた繋がりで、仕事引っ張ってきたんだよ。極東で、中華民国空軍が使う戦闘機の修理業務」

「その尻拭いか?」

「そんなところだ。あのおっさん、仕事は出来るし、部下ともども頭はいいが、人使いは荒くてな」

裕也はしばし思案した。
皇国陸軍の伝手で、中華民国空軍が使っている戦闘機は、アメリカから払い下げられたP-47「サンダーボルト」と聞いていた。もし修理や改修が行えれば、長く続きそうな中華内戦の需要をキャッチすることができそうだった。
 また、裕也はフォード社が極東需要にかなり肩入れしていることを驚いていた。よほどライバルのGM社との競争が上手くいっていないのだろう。マクナマラといえば、容赦のないコストカットの噂が聞こえていたが、それもライバルとの競争を勝ち抜くためのものなのだろう。
 修理を通して得られるノウハウもばかには出来ない。

 「わかった。まあ、九州飛行機の方とは話してみるよ。だめなら、中島飛行機、今は富士重工か。そっちの伝手を紹介する」

 「すまんな」

 「かまうなよ。もともとフォード社の脛をかじって、ここに工場を立てさせてもらったんだ。そのくらいはやらせてくれ」

 「マクナマラにも感謝か?」

 「余剰機械を融通してもらった上に、下請け仕事ももらってるから頭は上がらんよ」

 「それもそうか」

 スコットがコーヒーを口に含んだ。仕事の話も終わり、社長室の空気も和らぐ。裕也は机からスコットと対面する位置にあるソファへ1枚の紙を持って移動した。
 その設計図は裕也が戦中に線を引いていたロケットの図面だった。なんとなく、スコットには見せておいた方がいい気がしていた裕也は、この機会に見せてしまおうと意気込んで机に図面を広げた。
 スコットはソーサーを机から持ち上げて、何事かと図面を覗き込んだ。それから、目を白黒させて混乱する。

 「おい、これって、Ⅴ2の図面か? 何でこんなもんお前が持ってるんだ」

 今度は裕也が混乱する番だった。

 「Ⅴ2って何だ? こいつは、俺が引いたロケットの図面だぞ」

 「お前、Ⅴ2を知らないのか?」

 「聞いたこともない」

 「ドイツの作っていたロケット兵器だ。射程100キロを1トンの弾頭を乗せて飛ぶらしい。同盟国なら知ってたんじゃないか?」

 「少なくとも俺は初耳だ」

 どうやら海の向こうには、裕也と似たようなことを考えている人間が居たようだ。そして、どうやら先を越されてしまったらしいことまでは理解出来た。

 「で、これがどうしたんだ?」

 「ん、いや。今、噴進弾を開発してた連中の手が空いたから、試作してみようかと思ってるんだ」

 「おお、ついにゴダード博士の志を継ぐのか」

 スコットが目を輝かせた。はじめて会ったときから20年以上たっても、この表情だけは変わらない。

 「あと半世紀はかかるだろうが、何とか宇宙に行ってみたいからな」

 「ハハハ、誰もやらないなら、俺がやると?」

 「その通り」

ひとしきり笑いあって、「見込みがあったら上に出資の願いでも仲介する」と言ってスコットは帰っていった。
 静かになった社長室で、裕也は今しがた聞いた話を思い出した。
 
「ドイツのⅤ2ロケットか……」

先を越された、という思いもあって、がぜんやる気は増している。
何はともあれ、先駆者の到達点を知るべきだと考えた裕也は、陸軍の伝手を辿って情報を集めてみることにした。


 1949年8月某日 東京・市ヶ谷 軍務省

 高嶋和樹少佐の身辺は年頭より始まった混乱の渦中にあった。
 今も部隊移動やそれに伴う車両、資材、食料、武器弾薬その他の書類の山と格闘しているところである。彼が居るのは、東京都新宿市谷の軍務省地下におかれた統合軍令部指令室のデスクだ。
 ひっきりなしに行き交う情報の波と、それに対応する命令の嵐が巻き起こす潮流の中心に、高嶋少佐は立っているのだった。
 1944年のシンガポール港からの派手な逃避行から無事に日本へと帰国した高嶋大尉は、その足で向かった陸軍省で報告と資料の提出を行い、昇進と共に休暇の許可と次の辞令を受け取った。その部署は予算措置上の手続きのために作られた紙の上にだけ存在するもので、戦後の混乱に対応する陸軍省は、彼に新しい仕事を与えるよりも当座の対応を優先したのだった。結果として、高嶋少佐は苦労して持ち帰ってきた資料や機材の扱いから外されたことになる。彼は、持ち帰るまでが任務だったのだ、とあきらめるしかなかった。
 それから5年。組織は、空軍の結成と陸海軍省の解体、軍務省への統合を経て、皇国軍と名前を変えていた。
1945年の京都講和条約の締結により、アメリカを中心とする西側世界に組み込まれることとなった日本は、盟主からの要求をのまざるおえない立場にあった。天皇主権から国民主権への移行、それに伴う普通選挙制の実施、軍縮、財閥の解体再編、小作人労働者への土地分配、そして憲法の改正。国号すら日本皇国と変更された。
書き上げれば大日本帝国という国家の根幹をすべて破壊してしまうようなものばかりである。もちろん、国内の反発は大きく、陸軍の近衛師団を中心とした一派がクーデターを計画していたことが、後の調査で判明するほどだった。
しかし、顧みればこの時に行われた改革が、軍事偏重の二流国家に過ぎなかった大日本帝国を、アジア世界初の先進国へと導いたといえる。国家財政を硬直化させるほどに拡大した軍閥・軍需産業を解体し、新たに組み込まれた英米を中心とする自由貿易体制の中で生きていくには必要なことだった。
後の口さがない左派を自認する政治家たちは、既得権益に縛られた日本社会の中からでは決して実現できず、巨大な外圧によってのみ実現できたのだ、と黒船の例を持ち出して言及した。あるいは、右寄りの政治家は、1944年8月10日、御前会議において聖断を下した天皇陛下のもたらした結果であり、また主権在民を認めたからこそだと述べた。
もっとも、日本人一般からすれば、その日の飯の心配の方が先立ち、社会の変化と国としての日本の立ち位置を考えられるようになるのは、もう少し先のことだった。
なにはともあれ、日本は国際社会の荒波にもまれて、変化の途上にあった。そして、戦後第2の荒波が、今まさに日本と北東アジアを動かそうとしていた。

事の発端は、中国共産党を名乗る長江以北の中国大陸を支配する集団が、突如として南下を開始したことだ。1949年4月10日、200万の軍勢が長江を奇襲的に渡河し、中華民国首都南京を目指して進軍、同年6月末には10キロの距離まで進出することに成功していた。
もちろん、中華民国側の反撃も行われていたが、ソ連から大量の兵器を燃料ごと提供され、さらに東側各国から続々と送られてくる多くの“義勇兵”を擁して電撃戦を行う赤い軍勢は、その努力を排除し進軍を続けていた。
もう少し情勢を俯瞰してみる。
当時、中華民国と中国共産党(以下、彼らの自称するところの中華ソビエト)の正面軍事力は、ほぼ互角か中華民国側の比較優位にあると思われていた。しかし、中華民国が頼ったアメリカが、彼らの新たなフロンティアである満州により多くの努力を払っていたのに対して、中華ソビエトの後援者たるソ連は、欧州正面で第2時大戦中に回収できなかった利益を、アジアで得ようとより多くの支援を行った。
また、中華ソビエト側が人工の多くを占める農民たちに、農地の分配などで支持を得ていたのに対して、中華民国は搾取の対象として支持を失っていた。また、中華大陸特有の官僚腐敗により、アメリカからの支援の何割かが闇へと消えていた。その結果、短期的な中華ソビエトの勢力伸長と、中華民国の退勢をもたらしたといえる。
純戦術的に見れば、大河長江の防衛ラインに薄く広い戦力配置を取る必要があった防衛側の中華民国に対して、攻撃側の中華ソビエト側は戦力の集中を行いやすい環境にあった。その優位を、ドイツ陸軍との死闘を事実上勝利し、当時世界最強の名を誇ったソ連赤軍の指導を受けた中華ソビエトの軍隊は、無数のT-34/85と血を埋め尽くす歩兵、大量の火砲の支援で生かすことにした。彼らは中華大陸で電撃戦を敢行したのだった。
 そうした政治的、軍事的な理由から、8月現在の戦況も中華ソビエト優位に展開し、結果としてアメリカの国連軍結成と日本皇国への参戦要求に繋がるのだった。

 高嶋少佐は積み重ねられた書類の山を1つ、処理することに成功し、遅めの昼食を取ることにした。
 軍務省ビル1階の食堂で鯖味噌定食を頼んだ高嶋少佐は、窓際のテーブルに見知った顔を見つけた。

 「久坂中佐、こちらよろしいでしょうか?」
 
 「少佐か。構わない」

少佐が話しかけたのは、面長の顔に怜悧な視線を張り付けた肩幅の広い男だった。久坂中佐と呼ばれたその男は、カレーライスが載った盆を引き寄せて、高嶋少佐がおけるようにスペースをあけた。

「それは、噂の金曜日カレーでありますか?」

「ああ。船上勤務が長かったせいか、どうしても習慣が抜けなくてね」

2人が雑談に興じながら箸とスプーンを進めていると、高嶋少佐の隣の席へ滑り込むように人影が入り込んだ。

「お二人、失礼するよ」

ハンバーガーにポテト、そしてビンの黒い炭酸飲料と、アメリカナイズされた昼食を盆に載せてやって来たその男は、遠慮することなしに食事を始めた。

「加賀谷中佐、そんなところでアメリカを真似しなくとも」

 「何を言ってるんです、久坂中佐。何事もまずは形からですよ。なあ、少佐?」

「私は日本風で満足しています」

「そうか。ところで、築城基地に陸軍の高射砲中隊を送る話はどうなってるんだ?」

「先ほど書面の通達は終わりました。1両日中に小倉の第132連隊から部隊が派遣されます」

「了解。基地防空隊の整備が進むまでは、色々頼ることになりそうだから、一つよろしく」

高嶋少佐が加賀谷中佐の質問に答えた。食事の手を止めないでいる。上官相手とはいえ、苦労を共有している3人の間では、少々の不遜な態度は黙認されていた。
 久坂中佐が加賀帯中佐にスプーンを向けた。

 「そういえば、空軍で哨戒機部隊の移管が話されているらしいが、本当か?」

 「噂でしょう、噂。こっちはアメリカから払い下げられたB-24の運用でひいひい言ってるのに、また新しい飛行機を抱え込む余裕はありませんよ」
 
 「そうか」

 賀茂川中佐と加賀谷中佐は、それぞれ海軍と空軍から高嶋少佐と同じように統合軍令部に派遣された連絡将校だった。
 普段から共に仕事を行う事が多い三人は、こうして食事どきに集まって、各々の情報を交換していた。陸海空軍の仲を取り持つために、それぞれが情報を欲した結果だった。情報のレベルは部隊移動の調整から、噂まがいのものまで含まれていたが、各軍の内情を把握する場としての意味を見出した三人は、なるべく集まるようにしていた。
 三軍の統合運用を行うために1948年に設置された統合軍令部は、まだその活動の調整段階にあった。そのため、高嶋少佐のような連絡将校が三軍から派遣され、統合軍令部作戦会議から下された決定を基に、調整とすり合わせを行って各軍に作戦の通達が行われていた。
 本来なら作戦会議から直通で、各軍の作戦レベルでの指揮中枢(陸軍参謀本部、海軍軍令部、空軍作戦本部)に伝わる形で指揮系統が整備されるはずだったが、中華大陸での突然の危機を受けて、場当たり的な士官の派遣で統合軍令部の機能は動かされていた。

 「ところで、国連軍に参加する部隊の抽出は――」

 「源田実少将が張り切って三四三空を伴って満州に行くことに――」

 「海軍の大西中将が天城に移って――」

 「西大佐が富士で吠えてました。『俺にパーシングを渡せ』って」

 「そのうち供与されるだろう。アメリカで、新型が完成しているらしいじゃないか」

 最近の話題は総じて皇国軍最初の外征となる国連中華大陸派遣軍のことだった。
 アメリカからの命令に等しい参戦要求に対して、日本政府は部隊の派遣をすでに決定していた。
 八月現在、南京目前まで迫った中華ソビエトの機械化部隊は、すでに市街地への突入を控えていると日米の関係者は考えていた。
 現在、長江南岸に展開している国連軍は、アメリカ・イギリス・フランス・オーストラリア・カナダの部隊を中心に、30万人規模に膨れ上がっている。しかし、膨大という言葉すら不足する中華ソビエトの繰り出す人の海の前に、効果的な反撃を阻まれていた。
 要請を受けた日本政府は、自らが出せる最良の部隊を派遣することにしていた。その内訳は空母2隻・戦艦1隻を基幹とした1個機動艦隊、1個機甲師団を中心に4万人規模の陸軍1個軍団、空軍1個航空艦隊となっていた。派遣規模は当時の日本皇国軍の3割近くに及び、戦後初めて予備役の収集も始められていた。
 当初、中華民国の国民感情や5年前まで戦争状態にあった間柄であることから、陸軍戦力の派遣に日本政府は慎重な姿勢を示していた。しかし、夏に入ってから度重なる南京からの救援要請にアメリカの説得が重なって陸軍戦力の派遣は決定された。
 統合軍令部では8月中旬の派遣を前に大わらわだった。

 「ところで」

 細いジャガイモを揚げたフライを食べながら、加賀谷中佐が話題を変えた。

 「少佐が持って帰ってきた、ドイツのお宝は今どこにあるんだい?」

 久坂中佐もスプーンを置いて、こっちも気になってたんだ、と話に乗った。
 高嶋少佐は、もう担当じゃないのですが、と前置きして話し始めた。

 「シュヴァルベとコメートの現物は、防衛技術研究所に送りました。富士重工や三菱重工、あと川崎の技術者が協力して解析を行って、今は技術実証機の研究に入っているはずです」

 「ほーん。まあ、あと10年は国産機の開発に予算は出せないだろうから、その間は研究かね」

 「結局、どれも日本の技術では造れても、量産できないと聞いたが」

 「はい。単純な機械精度、あるいは冶金技術の遅れが致命的らしいです」

 「そうか……まあ、仕方がないな。1944年の時点で、ベアリングすら事欠くようになっていた我が国なのだから」

 高嶋少佐は頷くだけに留めた。それから、まだ話せることがあったのを思い出す。

 「あと、A4は異質な技術で、どこも手を出すのに躊躇しています」

 「復讐兵器2号だな。噂には聞いていたが、どうも理解しにくい」

 「しかし、アメリカとソ連は、戦後から技術者ごと持ち帰るほど注目しているらしいな」
 
 「噂ですけどね。どこか手を上げてくれる企業があればいいのですが」

 「あそこはダメなのか? 空対空噴進弾を開発していたのが、満州にいたろう?」

 久坂中佐が言葉を受けた。

 「ああ、沢城重工か。そういえば、九州飛行機と提携していたな」

 高嶋少佐は初めて耳にする会社だった。

 ◆

1949年9月10日 宮崎県福島町 日向灘沿岸

 宮崎県の南側、急峻なリアス式海岸の連続する海岸の一角に、沢城重工の藤の花を象った社旗を戴いた鉄筋コンクリート造りの建物が建っていた。
 5階建てのビルの周囲にまったく民家は見えず、木々もまばらだった。海に面しているためか、海岸から強い風が吹き込み、旗を激しくなびかせている。
 海岸段丘を背後においた立地で、集落からも離れたこの場所は、非常に不便だった。しかし、だからこそ裕也はこの場所を選んだのだった。その理由は、海岸の近くで海へ傾けて立っている高さ5mの翼がついた砲弾のようなものが関係していた。

戦後軍縮によって維持費すら事欠くようになっていた軍は、後方支援や兵器の供給の多くをアメリカに頼らなければならなかった。そもそも第2次大戦中の日本軍装備では、まともな戦争にならないと分かっていたこともあり、多くの装備はアメリカ軍からの払下げを使用していた。
M4A1シャーマン中戦車、P-51Hムスタング、B-24リベレーターといった陸空軍の正面装備という目立つところから、果ては歩兵の移動手段までアメリカナイズされていた。海軍にしても、生き残ったのは二式大艇などの日本独自のニーズに合わせて作られた航空機ばかりだった。艦の装備もドック入りするそばから、40口径127mm連装砲やボフォース40mm機関砲、各種電子装備が載せられた。このころの軍は、「命だけが国産」と陰口を叩かれるほどだった。
戦前から続く軍需産業大手は、縮小した市場に合わせて統合と再編が行われ、さらにアメリカの要求した財閥解体のあおりも受けて、まだ混乱の渦中にあった。中島や三菱といった大財閥系の企業も、九州飛行機や沢城重工のような後ろ盾の弱い企業も生き残るすべを見つける必要があった。
沢城重工は航空機部門を九州飛行機に売り渡して事業の整理を図ると共に、アメリカのフォード・モーターズの傘下に組み込まれることで、当座を凌ぐことができた。また、九州飛行機や中島(1946年以降は富士重工)、三菱も、満州や朝鮮半島の開発による需要を頼りに命脈を保っていた。
 この時期、各社は繰り返される修理や改修、廃棄品を使った技術解析などを通して、少しずつアメリカの技術を盗み取ろうとしていた。その成果が表れるには、1960年代まで待つ必要があった。
 
 1949年は中華動乱が勃発し、日本国内でにわかに軍備の整理が始まって、業界の再編が落ち着き始めた時期に当たる。その年、裕也は創業直後から肝いりで育ててきた噴進弾開発部の試作したKR1号ロケットの初打ち上げを見るために、悪路を通って宮崎県の南、福島町まで足を運んだ。
 「沢城重工開発試験場」と銘が掘られたゲートを通り、鉄条網で囲われた12,000㎡の敷地へと入っていく。海岸沿いの土地は、周囲の危険が少ないことや、土地代が安いなどいくつかの点で好ましかった。
 さらに、技術的にはロケットの打ち上げは南に行けば行くほど有利であることは、ツィオルコフスキーの言うところである。また、地球の自転速度を利用するために東へと打ち上げる必要があり、その先が海であれば安全面でも有利だ。
 そういった理由から、裕也は沢城重工の利益の一部を絶えず噴進弾開発部に回し、さらに小規模ながら射場まで確保してしまっていた。もともと、起業した理由の1つに独自のロケット開発を念頭においていた裕也にしてみれば当然のことだったが、他企業からすれば胡散臭い新技術でしかなく、様々な方面で沢城重工の悪名がささやかれるきっかけとなっていた。
 肌寒い季節になり、海からの風は秋めいていた。射場の周辺に植えられたり、自生していたりする木々の中には、葉の色を鮮やかに変えているものも見えた。
 車が到着したのは、海岸から200mほど離れた場所に設けられた展望台だった。海岸方向に開けた視界を持つ高さ10mの鉄筋造りの展望台からは、峻険な岸壁に打ち寄せる波が垣間見えた。

 「あとどのくらいで打ち上げかな?」

 「予定では1時間ほどかと」

 「そうか。スコットの奴もなんとか間に合いそうだな」。

 KR1号は1946年当時、裕也が線を引いていた図面を基に、戦中に生産していた1式噴進弾や3式空対空噴進弾での経験を生かして試作された単段の固体ロケットだった。
 スコットからⅤ2ロケットの噂を聞いてから、できる限りの情報を集めた結果、「実物がないとどうにもならない」という結論に達してから開発されたためか、KR1号はごくごくシンプルな設計となっていた。
 1式噴進弾で開発した直径75mmの固体ロケットモーターを基礎に開発した、一回り大型の直径100mmの固体ロケットモーターを主エンジンとしている。推進剤にはもととなったモデルと同様にダブルベース火薬を使用している。
 高高度観測用のロケットを名目として開発を進めてはいたが、KR1号は飛翔行程の試験を行うため内部には観測用の機器ではなく、速度計や回収のための発信器などが収められている。
 長さ4mのロケットは、到達高度4,000mを目指していた。
 
 「おう、間に合ったか」

 「よく来たな、スコット。あと10分くらいで打ち上げだ」

 「そうか、まあ待たせてもらうぜ」

 東向に傾けて据え付けられたロケットの周りから作業員たちが退いていく。
 彼らは土を盛り上げて作った簡易の掩体壕の裏側に潜り込んで、安全を確保する。 
 カウントダウンは、ゴダード博士の実験をアメリカで見てから雰囲気を保つために取り入れていた。20から数が減じていき、0になった瞬間、甲高い飛翔音と共にロケットが空へと打ち上げられた。
 燃焼時間はそれほど長くはなかった。白煙をたなびかせて飛翔したロケットは、東の方向に向かい、そのコースを少しずつ南へと傾かせていく。
 
 「まっすぐ飛ばないな……」

 「翼配置かノズルの構造が問題か?」

 「燃焼の偏りかもな」

 放物線を描いたロケットは最高到達点に達すると、高度を下げて水平線の向こう側に消えた。
 回収を頼んでいた地元の漁船に乗り込んだ社員から、発信器の信号を捉えたと連絡が入った。次へとつながる実験になったことを確認できた裕也は、ひとまず満足することにした。
 
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