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打球は快音響かせて

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高校2年
  第四十六話 男にしてやるよ

第四十六話

「野球部顧問の浅海です。昨日の全校応援、誠にありがとうございました。中等部から高等部、ここに居る全員による応援は、グランドで戦う我々野球部の大きな力となり、チャンスやピンチの場面、ともすれば足が竦んでしまいそうな時に、その背中を力強く後押ししてくれました。結果は残念なモノになってしまいましたが、また、来年の夏、この三龍高校の名前を全国に轟かせる事ができるように精進し、また皆さんの支えがあるからこそ野球ができる事を忘れず学校生活においても気持ちを引き締め……て……」

州大会準々決勝の翌日、全校朝礼で前に野球部が立ち、浅海が壇上で全校応援の謝辞を述べていた。が、浅海は突然大きく咳き込んだ。
鳩尾が、これまでとは比べ物にならないほど痛んだ。キリキリ、ではなく、ぎゅうと胃袋を絞り上げられるような痛み。体の奥から込み上げてくる何かに、口を押さえるが、しかしその何かは止まらない。

「ぐ……うッ…………」

壇上に突っ伏した浅海。口を押さえた手の間から、どす黒い液体が溢れ出る。

「ちょっ……」
「先生!」

全校朝礼は騒然とし、倒れこんだ浅海に他の教師が駆け寄る。

「…………」

野球部員は、思いもよらない事態に呆然と立ち尽くした。



ーーーーーーーーーーーーーーーー


「堀口先生、浅海先生は……」
「あぁ、胃潰瘍やと。それも結構な。」

数学の授業後、翼に浅海の容体を聞かれた堀口は、顔をしかめながら言った。堀口が行った授業は浅海が担当する古典の授業の代わりだった。

「胃潰瘍って、それヤバいっすか?」
「死んだりはせんやろ〜」
「でも血ィ吐いたんよ〜?」

いつの間にか周りには数人の野球部員。
皆、気になっていた。いや、気にならないはずがない。

「とにかく、しばらくは入院やの。州大会もあったけん、根詰め寄ったんやろな。お前らも体には気ィつけぇよ、緊張切れたら壊しやすいけんな」

堀口は教科書と定規を持って、教室を出て行った。



ーーーーーーーーーーーーーーー



「浅海奈緒さんの病室は……」
「あぁ浅海さん?208号やね」

病院の入院棟ロビーで部屋番を尋ねたのは、制服を着込み、花とお菓子を携えた渡辺だった。
浅海が入院して3日後。野球部の代表として、渡辺が1人、浅海を見舞う事になっていた。

「…………やけん、君はもうちょいな……」
「……分かってるわよ…………だけど……」
(……この部屋?)

渡辺は部屋の前で立ち止まった。中から話し声が聞こえたが、浅海の声だけではなかった。若い男の声。乙黒先生か?
そう思いながら、ドアをノックした。

「はーい。……あっ」
「……こんにちは。三龍高校野球部主将、渡辺功です。浅海先生にいつもお世話になってます。」

ドアを開けて出てきたのは、背の高い、そして結構顔の整った男だった。意外そうな顔をする男に、渡辺は自己紹介する。
表情に出さなかったが、渡辺としては、誰だよ、そんな気持ちだった。
男は渡辺を部屋に通した。

「やぁ。お見舞いに来てくれたのね。あー、通りもん!わざわざ買ってきてくれたんだー!ありがとう。食べられるようになったら頂くわ。」

ベッドから上体を起こして、浅海は渡辺に笑いかけた。渡辺は違和感に気づく。浅海が女言葉を使っている。いつも男っぽい言葉遣いで、それに慣れ切っていたから、ある意味自然なはずの浅海の女言葉がやたらと耳についた。
しかし、顔色もそう悪くないし、少し痩せたようには見えるものの、“元気そう”だった。
……元気だったら入院なんてしてないのだが。

「あ、こちらはね」
「松下真優です。浅海奈緒とは延寿大の同級生で、今は水面銀行で働いてます。今でも仲がええけん、こやって見舞いにも来てます。どうぞよろしく」

ドアを開けた男の名前は松下というらしい。
ニコニコと笑みを絶やさない所から、何と言うか、“良い人”、そう形容する以外ないオーラが漂っていた。延寿大と言えば、城都地方の、この国随一の難関国立大だし、水面銀行がかなり大きな銀行である事も考えると、これは人生かなり上手くいっている人かもしれない。

「渡辺君、君、ネットの高校野球ルポに名前が上がってたで。バッティングセンスが良いってねぇ。凄いねぇ。奈緒からもよく、しっかりしとーし頼りになるって聞くんよ。」
「いえ、州大会は出来過ぎですし……それに大事な所ではダメでしたけ、まだまだっす」

松下はとりあえず、渡辺を褒めた。
こういう事をサラッと言えるから、この独特の良い人オーラが発生するのだろう。
渡辺は表情一つ変えずに返した。世辞に愛想笑いを返すほどの気配りは、まだ覚えていない。

「練習は今、どうなってるの?ちゃんとやってる?」
「はい、とりあえず乙黒さんが仕切ってやってます。もうすぐに11月ですけん、少しずつトレーニング中心にするって。で、残った練習試合は秋大ベンチ外の連中を主に使うって」
「そうね。それが間違いないわね。……乙黒もやっと控えへの配慮を覚えたかしら」

浅海はクスクスと笑う。が、少しむせ返った。
そんな様子にも渡辺はドキッとする。
また血を吐くんじゃないだろうか、そんな心配をしてしまう。

「浅海さん〜胃カメラの準備できました〜」

病室に車椅子を持って看護師が入ってくる。
浅海は渡辺に申し訳なさそうな顔を見せた。

「ごめん、せっかく来てくれたのに悪いけど、私これから検査だから。……ちょっと時間かかるから、戻ってくるの、待たなくて良いよ。チームの事とか、気になる事があったらまたメールして。ごめん、ごめんね」

浅海はベッドからゆっくりと起き上がり、車椅子に乗せられて病室を出て行った。
その背中に会釈した渡辺は、すぐに浅海と別れた物足りなさと、少しの居心地の悪さを覚える。この病室に松下と自分だけが残ってしまった。知り合いの知り合い、これはかなり気まずい。排他的な思春期の子どもが最も苦手とする薄ーい繋がりである。
帰ろう。練習の事とかはメールで報告でもすりゃ良いや。顔見てきただけでも十分だろう。
そう思った時に、松下が声をかけてきた。

「渡辺君、ちょいと話そうや」
「……は、はぁ……」

松下は相変わらずの微笑みを見せつけていた。



ーーーーーーーーーーーーーーーー


「高校生なのにブラック飲むんやな」
「甘いもの、あんまり好きやないんで。ご馳走になります。」

松下と渡辺がやってきたのは、病院内のスタバ。病院という事もあってか、お年寄りが多い。
松下と渡辺の若い2人は、その中ではかなり目立っていた。

「……なぁ、今日の奈緒はどう見えた?」
「えっ……」

突然尋ねられた渡辺は、正直に答える。

「いやぁ……思ったより血色ええなーって……」
「……やっぱそう思ったか」

松下はゴソゴソと、ジーパンのポケットからあるものを取り出した。

「これ何か分かる?」
「……化粧品ですか?」
「そ。ファンデーション。まぁ、普通、入院なんて、まず病室にしか居らんのに律儀に化粧する訳はないわな。」
「……あぁ、顔色良く見せようと」
「そういう事。」

松下はため息をついた。

「奈緒、そういう女なんよ。神経質やし、痩せ我慢してばっかり。今回の胃潰瘍も、実は血を吐いたん2回目やったらしい。1回目は放っておいたとか。ここで休んじゃ居られんって。ちょっとアホよな。」
「…………」
「ま、神経質で気にしぃやけ、子どもらの事、よう見れるんやけどな。話聞いてたら、ホンマに細かい所見てて感心するよ。」

松下がコーヒーを啜るのを、渡辺は複雑な表情で見ていた。自分が思った以上に、浅海は身を削っていた。それも胸にくるが、何より、そんな事を目の前のこの大人が知っていて、自分が知らないというのも複雑だった。自分も、自分達も、浅海と長い時間を過ごしているのに。

「……で、浅海先生がボロボロだったって事を僕に言いたいんですか?」
「ん……」
「もっと違う事を僕に言いたいから、わざわざこげにして、話しよるんじゃないんですか?」

渡辺は少しつっけんどんな言い方をした。
したというより、自然とそうなったのは、松下へのある意味嫉妬からかもしれない。

「あー、うん。何というか、うん。来年な、俺と奈緒一緒になるんよ。大学卒業した時から、28の時に結婚しようって決めとって……」
「…………」

聞いた渡辺の方も、薄々そんな気はしていた。
そして、浅海の“女言葉”の意味がわかった。浅海は、松下の前では“女”なのだ。

「今三龍で正規採用でやっとるけど、結婚したら、その、育児とかの事もあるけん、公立の非常勤とかで先生続ける事になるっち思う」
「……要するに、三龍の先生を辞めるって事ですね」

来年結婚か。という事は、もしかして浅海は今年度までか?それは嫌だ。せっかく甲子園に来年の夏連れて行くと誓ったのに、その時にはもう浅海は居ないなんて、それは嫌だ。浅海が秋に胃に穴を空けながら指揮をとったのは、もしかしてこれが最初で最後の指揮だと分かっていたから……?

ガンッ!
渡辺は自然と、机に手をついて頭を下げていた。

「お願いします!来年の夏までは浅海先生に俺らの監督やらして下さい!このまま、浅海先生に悔しい思いさせちまったままで、終わるのは嫌です!お願いします!お願いします!」
「おいおい……」

唐突に懇願された松下は、頭を下げた渡辺の必死な様子に戸惑いを見せた。

「俺らがこの秋に甲子園まであと一つまで行けたんは、絶対に浅海先生のおかげなんです!俺らにもできる、勝てるんだって、この秋に俺ら分かったんです!分からしてくれたんは浅海先生なんですよ!実力以上の力を引っ張り出してくれたんですよ!俺らがもし来年甲子園行っても、そりゃ浅海先生のおかげなんです!でもそこに先生が居ないと、意味が無いやないですかァ……」

縋るような目つきで見上げてくる渡辺に、松下は困ったような笑みを見せた。

「いやいや、違うけ。俺が言いたいんはなぁ、その……来年の夏までになるから、必ず、あいつを甲子園に連れてってくれって事よ」
「…………」

渡辺がホッとして、一気に顔から力が抜ける。
そんな渡辺の様子を、“大人”の松下は微笑ましく見ていた。

「俺もな、野球しよったんよ。奈緒と出会ったんは、大学の準硬式野球部で……でも準硬やけな。あいつに、そんな大きな夢は見せてやれなんだよ。でもお前らは違う。甲子園があるやろ。浅海は夢見がちな女やけ、あそこに行ったら何が待ってんのか、あそこに行ったお前らがどんなに変わるのか……夢ば描きよると思う。お前らが正夢にしちゃってくれよ。な、頼むよ」
「…………」

今度は、松下が頭を下げた。
年上の大人が頼んでいた。託していた。
渡辺はしっかりと頷く。

「……分かりました。松下さんは、浅海先生を幸せな“女”にしてあげて下さい。その代わり、俺らは、浅海先生を“男”にします」
「男?」

渡辺は言葉遣いの使い分けになぞらえて言ったつもりだったが、松下にはイマイチ伝わってなかったようだ。渡辺はニッと笑って言い直す。

「松下さんに、“甲子園出場監督の花嫁”を抱かせてあげますよ!」

渡辺は勢い良く立ち上がった。
そして丁寧にお辞儀した。

「ありがとうございました。お陰で、俄然やる気が出てきました。」

渡辺はそう言って颯爽と踵を返し、その場を離れていく。

「あっ!ちょっ、コーヒーまだ全然飲んでねぇじゃん!」

慌てる松下の声を背後にしても、それはもう渡辺には聞こえていなかった。渡辺の視線は来年の夏。もう、一直線だった。

 
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