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碁神

作者:Ardito
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碁は心の戦いです。

 空気がピンと張りつめ、自然と背筋が伸びる。
 自室であるにも関わらずアウェイのような雰囲気に、指先が震える。
 その元凶たる相手――美鶴をちらりと見遣れば、盤面を睨むようにして長考中。 眉間に皺が寄っている。 どうやら俺の打ち込みが効いているらしい。 悩め悩め。

(はぁ……)

 美鶴に悟られないように、小さく息を吐く。 奴の手に結構なダメージを受けていることを悟られるわけにはいかない。 勢いづいたらやっかいなタイプだからな。
 今は中盤。 いたるところが臨戦状態な今、重要なのは盤面以上に心理戦だ。 このいつもとは違う場の空気に、美鶴から発せられる気迫に、飲まれたら多分……負ける。

 心と心のぶつかり合いとは良く言ったもので、相手の手に怯み自分の打ち方が出来なくなったら勝負は敗北に限りなく傾く。 そして、心が折れた瞬間が投了。
 俺にとって怖いのは、気づかないうちに思考が硬直し視野が狭くなっていること。 思考の柔軟性を失ったら俺の碁はおしまいだ。

パチパチッ

 美鶴が置いた石に、ノータイムで打ち返す。
 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたため、フフンっと笑ってやったら悔しそうな顔をし、また盤面を睨み始めた。

 かなり良いところに打ってきたんだけど、美鶴が長考してる間俺だって長考してるわけで。 打たれたら一番嫌なところの対策を練るくらいは当然していた。
 攻撃力では負けても読み合いで美鶴に負けたことは無い。 長考は不利になるだけだぞ?

パチッ!

 美鶴もそれが分かったようで、それほど時間を待たずに打ってきた。 挑戦的な目つきを余裕ありげな表情で受ける。 いや、全然余裕ないけどね? 俺の表情で、自分の打ち込みが全然効いていないんじゃないかと勝手に焦ってる美鶴にのっておくことにする。

パチ

 美鶴は心理戦など全く考えていないようだが、こいつの碁は相手の心を削る碁だ。 こいつに限らず攻撃的な打ち手はみんなそうかもしれない。
 ネット碁越しに『うわ、怖ぇー』なんて言っていた過激すぎる攻め。 これをリアルでやられるのがこんなにも心に来るものだと思わなかった。
 こいつの一手一手が投了を促しているようにすら思えて、指先の震えを抑えるのが辛い。

 たぶん、美鶴は心が強いのだろう。 俺がどんな打ち込みをしても長考するだけで怯むような様子は無い。 こいつの頭にはどう攻めてどう勝利を掴み取るか、そのことしか無いんだろう。
 自分の勝利を疑わない美鶴の一挙一動全てが相手への心理的ダメージになりえる。 心理戦なんて考えなくても無意識にこなしてるわけだ。

 ――……正直、舐めてたな……。

 正座していた足を胡坐に組み替える。 いい加減痺れた。

 あ、舐めてたってのは美鶴のことをじゃないぞ。 美鶴がこだわっていた、直接向かい合って打つということに対してだ。
 ……ネット碁とリアルで打つのとで、こんなにも差があると思わなかった。 心理戦が重要になるなんて思いもよらなかったし、心と心の戦いなんて、分かった気になってただけで全く意味が分かってなかった。

パチッ

 全てが新鮮で、まるで初めて碁を打ったかのようだ。
 ――この怖いくらい張りつめた空気。 プロ同士の対局では普通なのであろうこの空気の中で、戦い、高め合い、至上の一手を模索する――それが、プロ棋士というわけか。

パチ

 碁の新たな一面の、魅力の強さに恐怖感が湧く。 これ以上踏み込んだら、もう戻ってこれないような、そんな恐怖感が。 今の生活を、日常を壊してしまう程にのめり込み兼ねない魅力が、怖い。
 しかし、それ以上に碁の深みをまた一つ知れたことに対する喜びが強い。 この喜びが恐怖を勝らない者にはこれ以上碁の深淵へ足を踏み入れることは出来ないだろう。

 ああ、だからか。

 ――やっと、美鶴が俺をプロ棋士にしたがる意味が分かった。 その魅力も、分かった。
 でも――

パチッ

 あ、こいつ切りやがったな。 次で連結させようと思ってたのに……だけど良いのか? お前、人を攻める事ばかり考えてて守ることを考えて無いぞ……っと。

パチ

 お、顔が固まってる。 対局始まった途端無表情になって焦ったけど、慣れてくると結構表情豊かだよな。 案外、今までが無理して笑ってたのかもしれない。 で、今が素か。
 まだあまり親しく無い相手と接する時って、好印象持って貰おうと結構気ぃ遣うんだよな。 分かるよ。 俺もいつもより料理気合いれたし。
 俺たちの場合、付き合い自体は長いけどリアルで会うのは殆どは初めてに近いから色々複雑だ。

 ……はい、長考入りましたね。 ごちそうさまです。 俺もこの切られたところどうするか、一応考えはあったけど粗が無いか詰めておこう。

 ――俺と美鶴は間違いなくライバルだ。 それも最高に相性の良い。 お互いがお互いに無い所を持っていて、対局後には必ず何かを学べる。 それ以前の自分とはほんの少し違った自分になれる。 そうやってお互いを高め合える、最高のライバルと言っても過言ではないだろう。 たとえ片方の勝率が100%だとしてもな!

 ……だから、美鶴が俺をプロにしたい気持ちも分かる。 俺だって立場が逆なら何とかして美鶴をプロにしようとしただろう。
 だけど――プロ棋士になるか考える度に、脳内に俺を慕う子どもたちの笑顔がどんどん浮かび上がってくるんだ。 出会いと別れの繰り返しな職場だけど、それだけ多くの出会いがある職場でもあり、そこに魅力を感じている。 囲碁部も作ったし、目標もある。 仕事のノウハウも分かるようになって、苦労もあるけどそれ以上に毎日が楽しいんだ。

 ――それらを全て諦めてまで、碁の道に身を委ねる覚悟が俺にあるのだろうか?
 碁は好きだ。 何にも代えがたい、大切な物だ。 知れば知る程そのどこまでも続く深淵に囚われそうになる。 その度に、無上の幸せを感じる。

 そう、俺は碁を愛している。
 ……だけど、子ども達のことも、やっぱり好きなんだ。

 囲碁はプロにならなくてもできないことは無い。 プロ棋士の生きる世界で生きることはできなくても、美鶴のような打ち手とだってこうして打つことができる。
 でも教師はそういうわけにはいかない。 この資格を取るのにだって苦労したんだ。 多額のお金も親から借りて、やっと大学を卒業し今の職につくことができた。 それらを全て無にするのか。
 囲碁は打ててもプロ棋士の世界のことなんて何も分からないし、その道の常識だって無い。 本はたくさん読んだから棋士の名前とかなら結構詳しいけど、それだけだ。

 碁と今の職、生活だったら、子ども達だったら、どっちが大切かなんてわかり切ってるだろ? そう、当然――……俺は、俺は――

「ここまで……だな。 ……負けました」
「え?」
「……二度言わせる気か?」
「あ、いやっ、悪い。 ……ありがとうございました」

 ぶすっとした表情から、美鶴が投了したことを察し、慌てて頭を下げた。

「お前が投了するなんて珍しいな」
「そうでも無い。 どうあがいても届きそうに無い時は投了してる」
「ああそう……」

 投了しどきにも投了しないのは勝てる可能性を見出していたわけか……。

「で、どうだった?」
「何が?」
「分かっているだろう? 初対局の感想だ」
「初対局って、お前とは何度も打ってきたじゃんか」

 確かに初対局のような新鮮さを味わったものの、心を見透かしたような言葉にのるのが癪でついひねくれたようなことを言うと、美鶴は呆れたような顔になった。

「意外と椎名は子どもっぽいことを言うな――……いや、それとも本当に……俺の力不足か……」
「いや、冗談冗談! 確かに味わったよ、初対局並の感動っていうか、目から鱗みたいな奴を!」

 勝手に落ち込み始めたため慌てて話せば、美鶴は満足気ににやりと笑った。 まさか、はめられた……!? くっ、対局じゃ心理戦苦手なくせに! 笑ってないでその技術を対局に生かせ!

「なら良い。 こうして近い距離で向かい合い碁を打つというのも良いものだろう。 真に生きた碁というものはネット碁ではなかなか味わえないものだ」
「ああ……お前が俺をプロ棋士に誘う理由もなんとなく分かったよ。 魅力も、さ」
「……っ! では――」
「でも、ならない」

 勢いよく身を乗り出す美鶴から目を逸らし、自分に言い聞かせるように言い切る。 俺は、今の生活が大事だ。 子ども達が好きだ。 今の生活に、仕事に何の不満も無い。 それ以上を望むなんて贅沢だ。 だから――ちゃんの目を見て言わないと……!

「なぜ――」
「何故も何も、今の仕事がやっぱり一番、ってことさ。 確かにリアルで打つのは楽しかったよ。 ネット碁の魅力が霞むくらいには。 とは言え、お前とはこうして打てるし……そうだ、今度碁会所って所にも行ってみようかな。 行ったことなかったから。 でもまあ、それだけだな。 プロ棋士になる程じゃあ無い」
「……プロ棋士の魅力はそんなものでは無いぞ」
「……関係ないな」
「だったら――」

 不意に美鶴の腕が伸び、顎をとられ強制的に上を向かされた。 途端に美鶴の鋭い眼光に射抜かれ息が詰まる。

「少しはこっちを見て話したらどうだ? 椎名――」
「――っ」

 パンッと美鶴の腕を振り払う。

 反射的に下を向き、少ししてから再び顔を上げて美鶴へ視線を向けた。

「さ、この話はもうおしまい。 それより検討やろうぜ検討。 俺、あまり検討できる相手いなくてさ。 お前との対局の後の検討が結構楽しみなんだよな」

 にっこりと微笑み言うと、明らかに美鶴がたじろいだ。 暑さからか頬を赤く染め、逡巡した後、渋々とではあるが頷く。

「分かった。 だが諦めたわけでは無いからな」
「約束忘れたか? リアル付き合いする条件、『プロになれとしつこく言わないこと』!」
「ぐぅ……!」

 内心では検討を楽しむ気分になれなかったが、表面上は楽しげに笑って見せ早速検討を始める。 まずは直接の敗因となった美鶴の一手から。 自分の敗因だから美鶴も真剣にならざるを得ない。

 ――俺、心理戦得意かも。 
 

 
後書き
励まして下さった多くの皆さんのおかげでまた続きを書き始めることができました。
感謝の気持ちをどう言葉で表現すれば良いのか分からない位感謝しています。
今後もゆっくりな更新が続くと思いますが、読んで頂ければ嬉しいです。
本当にありがとうございましたっ! 
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