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嘆き

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第五章


第五章

「これだけの徳を持っていながら」
 宿に与えられた部屋の中で一人呻くように呟いていたのだった。
「どうして。法善様は」
 鬼になったのか。それが哀しいのだった。だがそれに浸っている暇はなかった。真夜中になると彼はそっと部屋を出て壁から外に出た。音も立てずに壁を乗り越えることなぞ彼にとっては造作もないことであった。
 寺の外に出て向かう場所は墓地だった。彼がいるその場所だった。既におおよその場所は察していた。それでそこに行くともう彼がいた。
「誰じゃ」
「法善殿か」
 十兵衛は名乗るよりも前に彼に対して問うた。見れば夜の墓地の中に一人の僧侶がいた。質素だが立派な僧衣を着ている。しかしその顔は蒼白であり目は血走っていて顔の相はおどろおどろしいものであった。まさに鬼の顔になってしまったのであった。
「どうなのだ、それは」
「如何にも」
 彼の方でもそれを認めるのだった。その血走った目で答えてきたのだ。
「拙僧が法善だ」
「左様でござるか。拙者は柳生十兵衛」
 今度は十兵衛が名乗る番だった。そして彼は名乗った。
「御存知であろうか」
「柳生家の嫡子であるな」
「如何にも」
 静かに法善に答えたのだった。礼儀はわきまえていた。
「御存知であったか」
「今天下第一の剣の使い手と聞いているが」
「拙者よりも上の者なぞ幾らでもおられるがな」
「上には上がいるもの」
 法善の今の言葉は不思議に達観したものだった。その達観は十兵衛にも伝わる。
「何事においても」
「如何にも。そしてそれは」
「仏の道についても同じことよ」 
 血走った目と荒れた法衣からは考えられない程の達観だった。これは十兵衛にとっても意外なことだった。しかしその感情は消して法善と応じているのだった。
「仏の道は遠い、果てしなく遠い」
「悟りを開いてもでござるかな」
「悟りか」
 その血走った目が遠いものを見ていた。妄執はまだあるがそれでもそこには不思議な悟ったものもあるのだった。二つのものが混ざり合っていた。
「悟りに達する者もおらぬがな」
「そこまでもでござるか」
「しかし」
 法善の言葉が変わった。その目もまた血走ったものに全て覆われた。
「それはできたのだ」
「できたのでござるか」
「法宝ならな」
 言葉に嘆きが宿っていた。はっきりと。
「それはできたのだ。しかし死んだ」
「死んだと」
 知っていた。だがそれはあえて隠すのだった。ここでも。
「そうじゃ。拙僧が最も愛していた弟子」
「それが法宝殿と」
「立派じゃった」
 声に愛情と悲しみがあった。
「あのままじゃと悟りを開けた。必ずな」
「必ず」
「しかし死んでしまったのじゃ」
 またこのことを言うのであった。声の悲しみがさらに深くなる。
「惜しい。惜しいのじゃ」
「惜しいのでござるか」
「わかるか?十兵衛殿」
 十兵衛に対して問うてきた。
「この悲しみが。法宝をなくした悲しみが」
「わかるつもりでござるが」
「どうして死んだのじゃ」
 赤い目から涙を流していた。しかもそれは血の涙であった。それをとめどめもなく流し続けているのだった。まさに妄執に捉われたになり果てていた。
「どうして。ここで」
「ですが法善殿」
 ここで十兵衛はあえて冷静に法善に声をかけてきた。
「それもまた運命だと」
「運命じゃと」
「左様」
 静かに法善に対して延べ続ける。
「ですから。それは忘れられて」
「わかっておらんのじゃ」
 法善はすぐにそれを否定したのだった。竹の様に細くなってしまった首を横に振って。
「御主には拙僧のこの無念さが」
「法善殿」
 十兵衛は厳かな言葉を出してきた。
「貴方は立派な僧であります」
「拙僧はそれは」
「断ち切られよ」
 また法善に対して述べた。
「是非共な」
「是非共じゃと」
「そうです。それもまた僧の道」
 彼は言う。
「ですからここは」
「できるものか」
 十兵衛を睨み据えての言葉になっていた。
「御主に何がわかる!?」
 そしてまた言ってきた。
「御主に。拙僧のこの悲しみが」
「わかり申さん」
 これについては言い切った。
「それは認めるでござる」
「では去るのじゃ」
 赤い目で語った。
「拙僧の前からな」
「わかり申さんがそれでもでござる」
 十兵衛の目もまた光った。その左目が。
 
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