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嘆き

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第四章


第四章

「わしから言うことは何もない」
「左様で」
「私もじゃ」
 また家光の明るい声が聞こえてきた。見れば顔もである。
「吉報を待っておるぞ」
「御安心を。すぐに吉報を届けにこちらに参上します故」
「あいわかった。では伊豆よ」
「はっ」
 これまで同席していながら何も言葉を出すことはなかった信綱が応える。実はこれまでは但馬に話を任せていたのである。親子ということもあり。
「それでよいな」
「私としてはこれで」
 反対しなかった。提案者として当然のことであった。
「宜しいかと」
「うむ。では但馬は」
「拙者もでござる」
 やはりここでも表情を消しての返答であった。あえてそれは出さないのだった。
「それで宜しいかと」
「では決まりだな」
「はい」
 但馬が頷いたことで話は全て整ったのだった。十兵衛はこのことを旅の間回想していたのだった。そのことを思い一人笑いさえもする。
「父上も相変わらずよのう」
 己の父のことを思い笑うのだった。その精悍な顔に似合わぬ程の屈託のない少年めいた笑みさえ浮かぶ。
「拙者が何をしでかすかわからぬと思っておられる。まあその通りだがな」
 実際彼は柳生一族において異端児とされている。剣の腕は一族の中でも比類なきものとされ幕府きっての剣の腕を誇る父さえ凌いでいるとまで言われている。だが破天荒で型にはまらないところのある性格の為一族では嫡男でありながら異端とされているのだ。そんな男であった。
 その彼が信濃に入った。目指す場所は最早決まっていた。まずは法善がいた寺である。今では彼の弟子達が寺を守っていた。
 寺の中は奇麗に掃除され大きいながら実に清潔でかつ質素なものであった。法善の徳を示すかのような見事な寺であると言えた。
 その寺に入る。門をくぐるともうそこには質素ながら清潔な身なりをしている姿勢のいい僧侶がいた。彼は穏やかに十兵衛のところに来た。
「若し」
「はい」
「旅のお侍の方でしょうか」
「如何にも」
 身分を明かすことなく僧に答えるのだった。静かに彼に対して応えるがやはり頭は垂れない。これは家光に対していたのと同じであった。
「ふらりとここに辿り着きましてな」
「ここまでですか」
「左様。それにしても」
 ここで少し辺りを見回す芝居をした。信濃らしく見渡す限り周りは山ばかりであった。丁度山に囲まれて田や家々があるといった様子である。
「ここはよい場所ですな」
「ええ、それは確かに」
 僧侶はにこやかに笑って十兵衛の言葉に応えてみせた。
「拙僧達もここが非常に好きです」
「左様ですか。そういえば」
「そういえば?」
 ここでふと話を出してみせる十兵衛だった。
「ここに一人見事な僧正様がおられると聞いておりますが」
「僧正様ですか」
「左様」
 ここで僧侶の顔が微妙に曇ったのを見た。しかしそれは決して顔には出さず応えるのだった。十兵衛はあえて芝居をしているのだ。
「確かこの辺りに」
「今はおられません」
 僧侶は顔を曇らせたまま十兵衛に述べた。十兵衛はその言葉を顔には出さず静かに聞いている。彼からおおよその話を聞きだすつもりだったのだ。
「申し訳ありませんが」
「申し訳ありませんとは」
「法善様のことですね」
 これは十兵衛の予想通りだった。彼は僧侶から法善のことを言うことを予想していたのである。これは剣豪としての読みであった。
「それは」
「ああ、確かそうでござった」
 芝居を続けながら応えるのだった。
「法善様でした、確か」
「ならばその通りです。おられません」
 また十兵衛に対して答える僧侶であった。顔はさらに曇ってしまっている。
「今は。お侍様には申し訳ありませぬが」
「おられぬとはまた」
「それはその」
「いや、それならばよいのです」
 これ以上は聞こうとしなかった。それで充分だったからだ。話を聞くともうそれで。彼は全てを察したのだった。剣を持つ者故の勘が為させるものだった。
「それで」
「そうですか」
「ではこれで失敬」
 あえて立ち去ろうという素振りを見せた。
「お世話になりもうした」
「いえ、お待ち下さい」
 だがここで僧侶は彼を引き止めるのだった。
「お侍様、宿はありますか」
「草枕という見事な宿が」
 笑って僧侶に応えるのだった。僧侶はそれを聞いてまた顔を曇らせる。
「ですから心配無用でござる」
「いえ、それはなりません」
 僧侶はここで必死に十兵衛を止めてきた。彼はその彼を見て内心を隠して驚いた素振りを見せるのだった。
「なりませんとは一体」
「この辺りは今大層危のうございます」
「危ないとは」
「実はですね」
 彼は切羽詰った顔で十兵衛に告げるのだった。
「今この辺りには」
「この辺りには」
「・・・・・・あっ、いえ」
 僧侶は言いかけた言葉を必死に口の中で抑えた。十兵衛はこれに関しても心の中でそうなると読んでいたのだった。無論僧侶はそれに気付いてはいない。
「実は狼が出まして」
「狼なら問題はござらぬ」
 十兵衛は顔を崩して笑って狼のことを笑い飛ばした。
「狼は後からついて来るだけです。そんなもの怖くとも何ともありませぬ」
「熊が」
「熊もまた同じこと」
 彼は幕府の密命を受けて各国を回っている。その中で多くの狼や熊と遭ってもきている。しかし一度として危険を感じたことはない。そもそも日本においては狼も熊も小型なうえ大人しい性質であり人にとって特に有害な存在ではないのである。
「全く怖くありませぬ」
「いえ、それでもです」
 僧侶は十兵衛が全く相手にしないのに対して余計に必死になって彼を止めにかかってきた。
「何が出るかわかりませぬ故」
「ここで一晩ですか」
「そうです」
 その必死な顔で頷くのだった。
「粗末ですが食事もあります。ですから」
「宜しいのですな」
「はい」
 是非共といった感じの返答であった。
「ここにお泊まり下さい。宜しいですね」
「わかりました。それでは」
「ただし」
 ここで彼は十兵衛に対して緊張で強張った顔で告げるのだった。
「一つ御願いがあります」
「御願いとは」
「決して外には出ないで下さい」
 その強張った顔で彼に願っていた。
「それだけは御願いします」
「外にですか」
「とにかくそれだけは御願いします」
 念押しさえする。十兵衛はその理由がわかっていた。しかしやはりここでもそれを表に出すことはなく知らない顔で応えるばかりであった。
「宜しいですね」
「わかり申した。それでは」
「ではこちらへ」
 中を指し示して彼を案内しだした。
「一晩。ごゆるりと」
「かたじけのうございます」
 こうして彼は寺で一晩の宿を取ることになった。食事は寺らしく精進ものであり実に質素であった。当然酒はない。だが十兵衛はその質素さに寺の、そして法善の徳を見て心を打たれるのだった。それと共に哀しいものさえ感じてはいたのだが。
 
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