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無名の戦士達の死闘

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第十章


第十章

 だが山口は踏ん張った。島谷を抑え九回も抑えた。こうしてこの試合は近鉄が勝利を収めた。
「監督、まずは一勝ですね」
 コーチの一人が西本に笑顔で言った。
「ああ」
 しかし西本はそれに対し口を引き締めたままである。
「今日は勝ったけれどな」
 彼はそう言いながら阪急のベンチを見ていた。
「だけれどあの時もそうやったんや」
 彼は昭和五〇年のことを思い出していた。その時はあの男に勝てなかった。
 西本は一人の男を見ていた。その男はそれには気付かず無言でベンチの奥に消えていった。
 次の試合、勝負は一対一で五回裏近鉄の攻撃の時に勝負が動いた。
 近鉄は阪急の先発白石静生を攻めていた。一点を取りツーアウトながらランナー二、三塁である。ここでバッターボックスには昨年の藤井寺で大橋のファインプレーを出させたあの有田である。
 彼は何ろいっても勝負強い。こういった場面では打つ男である。観客席は期待にどよめいた。
 それを誰よりも感じ取ったのは阪急ベンチであった。梶本はサッとベンチを出た。そして審判に告げる。
「ピッチャー交代」
 ここで観客達も両軍のベンチも沈黙した。
「ピッチャー、山口」
 球場が歓声に包まれた。マウンドに背番号一四が姿を現わした。
 山口高志、阪急の柱とも言える恐るべき速球投手であった。
 その速球は学生時代より知られていた。キューバとの試合でその剛速球を見たキューバ人達は彼を日本人の代名詞のように呼んだ。
 彼の入団は最早事件であった。七四年ドラフトにおいてはどの球団が彼を獲得するかが焦点であった。
 彼との交渉権を得たのは近鉄であった。だが近鉄、西本は彼との交渉を見送った。
 何故か、これについては色々と言われている。それまで近鉄はドラフト一位で獲得した選手が今一つ伸び悩んでいるところがあったのだ。そしてもう一つは彼がセリーグ希望だったので西本が嫌ったという話である。
 どちらが正しいのか今だによくわからない。ただ一つ言えることはこの選択は近鉄にとって失敗であったということだ。
 五〇年のシリーズ、近鉄は山口の前に沈んだ。彼は二勝を挙げ阪急を優勝に導いたのである。そして阪急の黄金時代は彼と共にあると言っても過言ではなかった。
 日本シリーズでも彼は活躍した。五〇年のシリーズでは山本浩二を力で捻じ伏せた。
 五一年のシリーズ、今まで江夏や村山、そして金田といった伝説的な速球投手達を見てきた後楽園の観客を沈黙させたのである。
 まず山口がマウンドにのぼった。そしてその身体全体を使ったフォームで投げる。
 見えない。ボールが見えないのだ。そしてミットにドスーーン、という重い音が響く。
「・・・・・・・・・」
 それを見た巨人ナインは沈黙した。当時監督をしていた長嶋も王も呆然とした。他の選手達も言うまでもなかった。悪太郎と呼ばれ全盛期は速球派で鳴らした堀内でさえ真っ青となった。
 観客達も沈黙した。そしてやがてザワザワ、という人の声が聞こえてきた。
「何だ今のは・・・・・・」
 かって江夏や村山といった恐ろしいまでの剛速球を武器に巨人に立ち向かってきた投手達を見てきた年老いた巨人ファンが思わず呟いた。彼の自慢の一つはあの沢村栄治をその目で見たことだ。
「あんな球投げる奴を今まで見たことがない」
 彼も呆然としていた。山口の球はそれ程までに速かったのだ。
 打てない。最早それは消える魔球であった。ボールがミットに収まった後でバットを振る。それ程までに凄かったのだ。七八年のシリーズの時には彼は怪我の為にいなかった。だが彼がいたならばヤクルトの日本一はなかっただろうと言われている。
「今まで見たなかで一番速い」
 多くの者が口を揃えてそう言った。その中には西本もいた。長い野球生活で多くの投手を見てきた彼ですらそう言ったのだ。
 近鉄が彼に苦しめられたのは五〇年だけではなかった。今まで山口を打つことが出来なかったのだ。
「あいつの高めの速球には絶対に手を出すな」
 西本は選手達に対して言った。どんな投手に対しても逃げることを嫌う彼をしてそう言わしめたのだ。それ程までに彼の剛速球は打てなかった。
 その彼がマウンドに来たのである。阪急が最強の切り札を出してきたのだ。
「梶本め、勝負にきおったわ」
 西本は山口と梶本を見て言った。
 
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