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第六章


第六章

「御前がここまでチームを引っ張ってくれたからな」
「だからここまで来れた。それでいいわ」
「すいません」
 ルーキーの杉浦はあらためて彼等にすいませんと言った。だが今度のすいませんはニュアンスが違っていた。それははっきりと皆に伝わった。
「ただしや」
 山本はここでにこりと笑った。そうして杉浦にまた告げた。
「来年はもっとええのを見せてもらうぜ」
「わかりました」
 杉浦はこくりと頷いた。そうしてマウンドを去る。南海が敗れた瞬間だった。
 三原は杉浦の降板を一塁側から黙って見ていた。彼が完全にグラウンドから姿を消してようやくまた口を開いた。
「これで南海のカードはなくなった」
「完全にですか」
「だがうちのカードは残っている」
 そこに言葉を導いていった。
「こちらのはな。おい」
 稲尾に顔を向けて声をかけた。
「五回からだ。いいな」
「わかりました」
 稲尾はその言葉にこくりと頷いた。そうしてゆっくりと立ち上がりブルペンに向かうのだった。西鉄は切り札を切る用意をしはじめていた。勝負が決まった後で。
「確かに勝負は決まった」
 三原は稲尾を見送ってからまた言った。
「しかし。南海はまだ完全には死んでいない」
「完全に止めをさす為に」
「稲尾を置いておいた」
 三原の慧眼だった。彼はよく最初に二線級のピッチャーを先発させてここぞという時にエースを投入したりしている。それは切り札を切るという博打の感覚に似ている。実際に三原は大学卒業後暫くは株で生計を立てていたのだ。勝負師としての勘は誰にも引けは取らない男だった。
「これでわかったな」
「監督」
 セカンドの仰木彬がそれを聞いて三原に声をかけてきた。
「何だ?」
「それが勝負なんですね」
 そう三原に問う。
「それが」
「そうだ」
 三原は表情を変えることなく仰木に答えた。
「覚えておけ。切り札はその切り方が大事だ」
「わかりました。それじゃあ」
 仰木は立ち上がった。ネクストバターサークルに向かう。
「何時かわしもカード切ります」
「切ってみろ」
 仰木を送り出しながら言う。
「御前の切り方でな」
「はい」
 後に近鉄、オリックスで魔術を見せる男だった。彼の采配は三原のそれを彷彿とさせるとよく言われていた。その源流はここにあったのであろうか。
 予定通り稲尾は五回から登板した。決死の覚悟で向かう南海打線を抑えて見事勝利をものにした。それで勝敗は決した。
 西鉄はそのシーズン優勝し日本シリーズでは稲尾があの四連投を見せて日本一に輝いた。あまりにも有名な巌流島対決の最終幕であった。山本も杉浦も南海ナインもそれを大阪で見ていたのだった。余所者として。
「西鉄の日本一や」
「そうか」
 南海ナインは大阪球場のロッカーでラジオを聴いていた。そこで戦いの成り行きを聴いていたのだった。西鉄の日本一を聴いて彼等はまずは表情を変えなかった。
「稲尾やな」
「結局はそうやな」
 そこには山本もいた。彼もその言葉に頷く。
「あの男がいたから優勝できた」
「はい」
「その通りですわ」
「御前等、稲尾は手強いやろ」
 山本はふとナインに対して問うてきた。
「それもかなり。どや」
「手強いです」
 岡本が素直に答えてきた。
「それもかなり」
「中々打てませんわ」
 大沢啓二も言った。南海の中では異彩を放つ男である。その鋭い目はその筋の人間を思わせる程だ。だがそれと共に優しさと人間としての器も感じさせる目であった。
「けれど。ですな」
「わかるか」
 山本は大沢のその言葉に応えた。
「こっちにも稲尾はおるわ」
「そうでんな」
「ちゃんと」
「スギ」
 山本はロッカーの一隻で静かに座っている杉浦に声をかけた。
「来年は。見せてもらうで」
「はい」
 杉浦は静かにその言葉に応えた。
「任せて下さい」
「ああ。西鉄には稲尾がおってうちにはスギがおる」
 こうまで言う。
「そのスギで。来年こそは」
「やりましょうや、監督」
「来年こそは」
 ナインもまた口々に言った。そうして彼等は今年の悔しさを来年にぶつけることを決めたのであった。翌年の南海の日本一、杉浦の伝説の四連投四連勝の前にはこうした決意のドラマがあったのである。
 もう遠い昔の話だ。この時戦った戦士達は誰も現役に残ってはいない。山本、後の鶴岡一人も三原も杉浦も仰木も泉下の人となってしまった。平和台球場も大阪球場も時の彼方に消えてしまい西鉄ライオンズも南海ホークスもその場を離れ親会社を変えてしまった。しかしこの時戦った戦士達の心と記憶は残っている。人々の心に永遠に。それだけは消えることが永遠にない。


盃   完


                  2007・9・20
 
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