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第五章


第五章

 だが彼は。それでもこう言うしかなかった。
「スギに任せる」
 それしかなかった。今頼れるのは杉浦しかいなかったのだ。
「ええな」
「けれど今のスギは」
「あいつしかおらんのや」
 完全に杉浦を信頼しているだけではなかった。今西鉄の流線型打線を抑えられるのは南海では杉浦しかいない、それが山本には痛い程よくわかっていたのだ。だからこそ今野村の考えを退けるしかなかったのだ。そうするしかなかったのだ。
「任せる」
「そうですか」
「ここで打たれてもな」
 マウンドの杉浦を見ながら言う。バッターボックスには大下がいる。
「心中してもええ。あいつとなら」
「盃ですか」
「そや」
 山本の言葉がこれまで以上に強くなった。
「あの盃は。ただ飲んだだけちゃうぞ」
「死にに行く為に」
「スギと心中する。それが不服か?」
「いえ」
 コーチは山本の言葉に首を横に振った。杉浦はただエースとしてだけいるのではないのだ。その穏やかで素直な性格は誰にでも好かれた。その彼と心中するのなら。今の南海ナインでそれを不満に思う者がいる筈がなかった。
「喜んで」
 彼は笑って答えた。
「スギが打たれるんだったら諦めがつきますわ」
「そやな。あいつなら」
 山本もようやく笑った。だが勝負を諦めたわけではなかった。杉浦の投球を最後まで見守る、そう固く決意したのである。そのうえでの笑みであった。
 野村もそんな山本を見た。続いて杉浦を。杉浦の身体から疲弊がはっきりわかる。残像になってそれははっきり見えていた。野村にはこの後の彼が見えた。しかしそれでも。野村もまた杉浦に全てを託すことに決めたのだった。
「仕方あらへんな」
 心の中で呟いて笑った。
「スギやったらな」
 彼の目が死んでいないことも見ていた。そんな杉浦で敗れても仕方がない。彼もまた男だ。だからこそここは腹を括ったのである。
 大下も内野安打だった。これでランナーは二人だ。西鉄は絶好のチャンスを作り上げた。そうしてバッターボックスに立つのは。
「四番サード中西」
「来たわ」
 野村は中西の名がアナウンスされるのを聞いてまた呟いた。それからタイムを取ってマウンドの杉浦の方に向かうのだった。
 杉浦に対して言う。簡潔に。
「力一杯投げるんや」
「力一杯か」
「ああ、今の御前の渾身の力でな」
 杉浦の目を見て言うのだった。
「それだけでええ。後はわしは何も言わん」
「済まんな」
 杉浦は自分に対してこう言ってくれた野村に対して素直に感謝の意を述べた。
「じゃあそうさせてもらうわ」
「何かあっても御前を誰も批判せん」
 それは野村が保障した。
「ここまで投げた御前をな」
「そうか」
「そや。だから力一杯投げたらええ」
「わかった。じゃあ投げるわ」
 強い光を放つ目がその黒縁眼鏡の奥から見えた。
「このシーズンで一番ええ球をな」
「頼むで」
 ここまで言ってキャッチャーボックスに戻った。そうして試合再会となった。
 南海ナインは覚悟を決めていた。同時に中西もまた燃えていた。
 彼は今まで絶不調だった。十二打席ノーヒットという有様だった。その状態の彼が絶好のチャンスにバッターボックスにいる。駄目ではないかと思う者がいるのも当然だった。
 だがこの時の中西は違っていた。絶対の自信がそこにはあった。
「来い」
 バッターボックスにおいて心の仲で呟いた。
「どんなボールが来ても打ってやる」
 その威圧感に満ちた構えを取った。それはまるで巨大な獅子がバッターボックスにいるようであった。
 一球目はボールだった。中西はそれは見送った。
 二球目。野村はシュートのサインを出した。
 シュートは杉浦の武器の一つだった。沈むその独特のシュートで多くのバッターを打ち取ってきた。今回もそれを期待したのだ。
「ゲッツーに取れたらええ」
 野村は中西を詰まらせてそれで終わらせるつもりだったのだ。今はワンアウトだ。まさに理想の形である。
「それでこの回は終わりや」
 そう思いサインを出した。杉浦もそれに頷いた。
 絵にもなるような美しいフォームからボールが放たれた。そのボールは確かに杉浦の渾身のボールだった。
 しかし今の杉浦は燃え尽きていた。その彼が投げるボールだ。普段のボールではない。コントロールは甘く真ん中に入ってしまった。
「まずい!」
「もらった!」
 野村と中西は同時に全く違うことを脳裏に思った。
「打たれる!」
「打てる!」
 両者の考えの結果は同じだった。だがそこに見るものは全く違っていた。南海は地獄へ、西鉄は天国へと行く。そうした運命の一打であった。
 弾丸の様な打球が放たれた。中西独特の恐ろしい速さで何処までも飛んでいく打球であった。彼の打球はしょーとの頭上を飛び越えてそのままスタンドに突き刺さったこともある。今のそれはそのショートの頭上を飛び越えたのと同じものであった。
 レフトスタンドの最上段に突き刺さった。看板がひしゃげボールが跳ね返る。何と一五〇メートルを越える特大アーチだった。南海を倒した一打だった。
「決まったな」
「終わったな」
 そのアーチを見て三原と山本はそれぞれの口で述べた。
「これでうちの勝利は決まった」
「うちの負けや。これでな」
 山本はマウンドにゆっくりと向かった。そうしてそこに立つ杉浦に対して言うのだった。
「交代やな」
「すいません」
「ええ」
 謝る杉浦に対しての言葉だった。
「御前で打たれたんや。悔いはあらへんわ」
「そうや」
 そこにいたナイン達も杉浦に対して言った。
 
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