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碁神

作者:Ardito
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料理は結構楽しいです。

こげ茶のフローリング。 
壁紙は渋い抹茶色。 手触りが土塀みたいで気に入っている。
壁には百合の花を模した小さな絵画が掛けられ、部屋の隅には今一番売れているらしい大きなテレビが照明を反射して輝いている。
テレビが置かれた壁の反対側がキッチン。 料理しながらテレビが見られて便利だ。
そして、部屋の中央にはこげ茶の小さなちゃぶ台。 その四方には、少し暗めな赤・緑・青・橙色の座布団が一枚ずつ置かれている。

これが俺の城! のリビングだ。
この他にもう一室、俺の個人的な部屋があって、ネット碁はいつもそっちで打ってる。
ボロアパートだけど、2LDKだから一人暮らしには十分の部屋数と設備が揃っていて地震で倒壊しそうだってこと以外何の不満も無い。

それでも引越し当初はあらゆる所が古びていて、今の状態まで持ってくるのにそりゃあもう苦労した。
全ての小物から色合い、家具の配置まで細かく拘った自慢の部屋だ。
山口先生なんか、センスが良いと絶賛してくれて、俺の部屋を参考に自分の家の内装まで全部入れ替えてしまった。
ちょっと驚いたけど、そこまで気に入って貰えると悪い気はしない。

「それじゃあ、俺料理作ってきますから、適当に寛いでいてくださいね。 テレビもつけて良いので」
「はい……」
「わかりました」

美鶴と山口先生に声をかけてキッチンへ入る。
ん、何か美鶴の元気が無いな……。
さっきまであんなに機嫌よさそうだったのに。

山口先生の提案を勝手に了承してしまったせいだろうか。
元々二人での予定だったし、色々積もる話がしたかったのかもしれない。
でも山口先生はご飯食べてすぐ帰るんだから、そんな落ち込むこと無いと思うんだけどなぁ。

まぁ腹が減って力が出ないだけかもしれないし、とにかく二人は初対面なわけだから、ちゃちゃっと作って戻ることにしよう。
下ごしらえは昨日のうちに終わらせてあるしな。

エプロンをつけて鼻歌まじりに料理を始めた俺は、その後ろで重く寒々しい空気が流れいていることに気づかなかった。

○ ● ○

香坂美鶴は椎名が背を見せると同時に笑顔を消し、心の中で重いため息をついた。
目の前にいる山口とか言う男も顔は笑っているが目が笑っていない。
美鶴が椎名にスキンシップをするたびに顔が引きつっていたこの男、一体椎名にどんな感情を抱いていることやら。

そう考えてふと美鶴は自嘲の笑みを浮かべた。
椎名への執着心なら自分も大概だということに思い当たったのだ。

椎名と初めて打ったのは忘れもしない小5の夏休み初日の夕方だ。

父の弟子達の噂話で、ネット碁に凄まじく強い子どもがいると聞き、興味が湧いたのだ。
曰く、『美鶴君並に強い』 『美鶴君でも勝てるか分からない』。

そんな馬鹿な、と当時の美鶴は嗤った。
物心が付く前から碁石を握っていた自分。 同年代どころか、プロですら自分に勝てない者がいるくらいだ。
一時期求めて止まなかった好敵手(ライバル)のこともとっくに諦めた。
自分より強い棋士はたくさんいるが、同年代には絶対にいない。
それが同年代のライバルを求めた美鶴の結論だった。

そもそも、美鶴と同じくらい強い子どもがいたとしたら、ネットだけでなく現実の方でも評判になるはずだった。 独学で到達できる領域では無いのだから、必ずプロの師匠がいるはず。
だから、そんな子どもがいるなどありえないのだ。

しかし、その子どものユーザー自体は確かに存在しているらしく、それならば実際に打ちコテンパンに負かしてやろうと思って、親しくしていた父の一番弟子である南條にPCを借りた。
初めてのネット碁であったが使い方はそう難しく無く、ネット碁というのもなかなか面白いかもしれない、なんてことを考えながら例の子どもを探し、見つけた。
散々聞かされたユーザーネームだったため、すぐに分かった。
さっさと終わらせてしまおうと、美鶴は特に気負うことも無く対局申し込みボタンを押し、そして――

――負けた。

プロが子どもの振りをしている、という風には考えなかった。
確かにその打ち方には子ども特有の甘さがあったのだ。 父の指導で自分には殆ど見られなくなったその甘さのお陰で、勝負は半目差、ほぼ互角という形で終わったが、どう足掻いても半目の差が覆せなかった。

読みの深さ、あらゆる状況に対応できる重厚な守り、正確な目算による緻密な攻め。
そして、その流れるような一手の美しさ。 初春の大河を思わせる、穏やかに見えて激しいその一手一手に美鶴は魅せられ、飲まれた。

その子どもがSi-Na、椎名だ。

その日から美鶴は毎日のように再戦を求め、椎名は快く応じた。
椎名もまた美鶴を他のユーザーより特別扱いしていたからだ。
その事が嬉しくて堪らず、美鶴は椎名の期待を裏切らぬようより熱心に練習に励むようになった。
子ども特有の甘さは年齢と共に消えていくだろう。
そうなったら美鶴は椎名に敵わなくなり、その他大勢の打ち手に成り下がる。
それだけは嫌だった。

椎名と共にプロになりたかったが、椎名にその気がなかったので待たずにプロ試験を受験し、椎名には経験できないあらゆる経験を積んだ。
美鶴は椎名に勝つために血の滲むような努力をしたのだ。
しかし、勝てない。
実力が引き離されることは無かったものの、どうしてもあと一歩が足りない。
美鶴にとって椎名は憧れであり、唯一の好敵手であり、強大な壁であった。

いつしか美鶴はタイトルホルダーになっていた。
友人はいなかったが、家族も父の弟子達も祝福してくれた。
美鶴も嬉しかったが、タイトルホルダーになったところで結局椎名に勝てなければ意味は無かった。

Si-Naに会いたい。

そう思うようになったのはいつの頃からだったろうか。
初めて打ったときから会ってみたいとは思っていたかもしれない。
その思いは年々強くなっていった。
ネット越しの対局では分からないことがたくさんある。
直接向かい合って打ちたかった。

何度プロになることを勧めても椎名は首を縦に振らず、リアルの情報も断固として漏らさない。
椎名は美鶴に会う気が無かった。
それが、『お前なんかに興味無い』と言われているようで悔しかった。

『プロの世界で椎名と共に碁の高みを目指したい』

最初はただそれだけの願いだったが、過剰なまでに拒絶され続けることで思いは歪み執着となっていった。

――俺の唯一のライバル、そしてSi-Naにとっても俺は唯一のライバルだろう。 Si-Naの他に何も望まない。 Si-Naさえ居れば他には何も要らない。
だから――

――美鶴はSi-Naを探し始めた。

おそらく埼玉県在住で学校の教師をしているだろうということは分かっていた。 苦労して囲碁部を創部したことも言葉の端はしから掴んでいた。
子どもが好きだと言っていたことから、おそらくは小学校、大きくても精々中学校までだろうと目星をつけ、囲碁部のある小中学校を指導ボランティアと称して虱潰しに訪問していった。

実際に学校を訪問したことで、学校教師の良さが余計分からなくなった。
陰で鉄仮面の様だと揶揄される程表情に乏しい美鶴である。
そんな美鶴が、礼儀のなっていない煩いだけの子どもに笑顔を振りまくのははっきりいって苦行であった。
しかし、全ては椎名に会うためだと、忙しいスケジュールを調整し休みも満足に取らずボランティアを続けた。

『よう、姫さんは見つかったか?』

一年以上探して見つからず、疲労で身体が限界に達してきたある日、そんな言葉を掛けてきたのは南條だった。
椎名との初対局の時にPCを貸してくれた彼は美鶴の事情を知っており、『Si-Naはお姫様じゃないですよ』と言葉を濁す美鶴に笑いながら肩を叩いて一つのアドバイスをくれた。

『押して駄目ならたまには引いてみろ』

何時までも自分を子ども扱いする南條が美鶴は少し苦手になっていたが、Si-Naの事に関しては形振り構っていられない。
そのアドバイスに従い、Si-Naに謝罪すると、驚くほどSi-Naの態度は軟化し、その後でさり気なくリアルのことを聞いてみると、ポロポロと情報が出てくる。
南條には借りができたが、まだ訪問していない学校で椎名の漏らした条件に合う所は片手で数えられる程の数しか無く、椎名を見つけるのも時間の問題となった。

そして、ついに見つけたのだ。

『失礼します』

やや緊張したような声と共に入ってきた人を見た瞬間、心臓が高鳴った。
着物が似合いそうな、純和風の綺麗な人だった。
中性的というわけでは無く、確かに男だと分かる容姿なのだが、『美人』という言葉がとてもしっくりくる。
男にしては少し長いサラサラとした黒髪が、白く、しかし不健康さを感じさせない肌に良く映える。
眉が八の字に垂れているためか、幸薄そうな守ってあげたくなるような印象を覚えて、慌てて打ち消した。
男相手に何を考えているのかと自分を叱責し、美鶴は立ち上がって、おそらくは囲碁部顧問であろうその人を迎えた。

その人が自分を『椎名』と名乗った時の美鶴の受けた衝撃は言わずもがなである。
やっと、見つけた――いやしかし、偶然の一致の可能性も――期待して違ったら精神的打撃が大きくなる、確定するまでは期待すまい。
そんなことを考えて期待する心を抑えようとしたが上手くいかず、何となくぎくしゃくしてしまう。

反対に椎名はそんな美鶴の様子に緊張が解れ、いつのまにか最初の幸薄そうな雰囲気が無くなって、代わりに誠実そうな穏やかな物腰の先生といった表情を見せていた。
美鶴が、きっと良い先生なのだろうと思ったその時。

椎名の会心の笑みが炸裂した。
美鶴はその笑顔に打算があること等知らない。

美鶴は純粋に、散る寸前の桜の花を思わせる儚く可憐な笑みだと思いその美しさに見惚れ、いつの間にかこの人がSi-Naであれば良いと願っていた。
美鶴はわりと詩人であった。

共通点を探そうと椎名を質問攻めにした美鶴は、やがて椎名とSi-Naが同一人物であると確信する。
美鶴がMituruと同一人物だと気づかれた時には強く警戒されたが、偶然だと言うと簡単に納得され、リアルで付き合っていくことも了承された。

あれほど頑なにリアルで会うことを拒否していたにも関わらず、住所や携帯のアドレスを簡単に教えてくれた椎名に大きなギャップを感じたが、美鶴にとっては好都合だ。

――見つけたからには、もう逃がしはしない。

そして今日は、初めて椎名の家にお邪魔する記念となる日だったのだ。
椎名の手作り料理を食べて、誰にも邪魔されることなく対局し、文字ではなく言葉で直接検討しあえるのだ。

心を弾ませて今日という日を迎えた。
しかし椎名は不在で、やっと来たと思えば具合を悪そうにして知らない男に寄り添われている。
椎名に身体を密着させて寄り添うその男に何故か不快感を覚え、体調を気遣うと同時に男から椎名を引き離した。

男は山口と言うらしく、そういえば椎名の中学で会ったことを思い出した。
美鶴は、わざとらしくスキンシップを見せ付けたり鎌かけをしたりした結果、どうもこの男はホモなんじゃないかという考えに至り、この後椎名と二人になったらさり気なく注意を促そうと思ったが、何故かこの山口が一緒に昼食を食べたいなどとふざけたことを言い始めた。

断固断ろうとした美鶴であったが、椎名が嬉々として了承してしまったため、冒頭に至る。

テレビに集中している振りをして、チラリと山口を見遣ると、山口は笑顔を貼り付けたまま美鶴をガン見していた。
明らかに危険な雰囲気である。

最高の一日になるはずが、何故こんなことに……美鶴はもう一度心の中で深いため息を付き、山口と椎名を引き離すことを誓って料理の完成を待つのであった。 
 

 
後書き
実はまだ無自覚な美鶴さんでした。 
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