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第六章


第六章

「もう大丈夫です」
「大丈夫ですね」
「元々早期に見つかったものですし」
 だから軽いものであったと。言葉にはこうした意味も含まれていた。
「もういけます。予定通り六月には復帰できますよ」
「そうですか、六月ですね」
「もう少し発見が遅れていたらあれでした」
「あれとは」
「今シーズンは絶望的だったでしょう」
 深刻な顔になって赤藤に告げたのだった。
「もう少し遅ければ」
「そうですか。もう少しでですか」
「本当に運がよかったです。本当にあと少しでした」
「運がよかった」
 今の医者の言葉には微妙な顔になる。しかし医者はさらに言葉を続けていく。診察室の中で向かい合って座る二人の間に緊張が走る。レントゲン写真が数枚あるがどれも右腕のものであった。他ならぬ赤藤の右腕のものであるのはもう言うまでもなかった。
「そうですか。運がよかったですか」
「ええ。六月に復帰できますから」
 このことをまた赤藤に告げるのだった。
「本当に運がよかったです」
「じゃあ今からリハビリをしてそれから」
「ゆっくりと調整して下さい。大切なのは焦らないことです」
「焦らず、じっくりとですね」
「そこを御願いします」
 重ね重ねといった感じで赤藤に言葉をかけていく。
「ここが最大の正念場ですからね」
「そうですね。下手に焦って投げても」
「今度こそ大変なことになります」
 述べる言葉が強いものになっていた。
「ですから。御願いしますね」
「わかってます。やはりランニングを中心としてこれからも」
「はい。ですが」
「ですが。何ですか?」
「本当に走るのがお好きなのですね」
 医者が今度言ったのはこのことだった。赤藤はとにかく何かあれば走る。このことは球界でもかなり有名でこのことを指摘したのである。
「ピッチャーは走ってこそですか」
「そうです。それもありますが」
 そしてここで彼は。ふと言ってきた。
「別の理由が最近できました」
「別の?」
「約束です」
 明るい笑顔での言葉だった。マウンドで勝利の時に見せる笑顔と同じだった。
「約束しましたから」
「約束!?」
「こちらの話です」
 いぶかしむ医者に対して今度はこう述べた。
「こちらの。ですから御気になさらずに」
「そうですか。まあとにかく」
「慎重に調整をですね」
「はい、それだけは本当に御願いします」
「わかりました。それでは」
 それに頷きようやく右腕の調整にも入っていく。といってもまだ投げない。彼は焦る気持ちを抑えて必死に、かつ慎重に調整を進めていた。そうして遂に。彼は決めた。
 あの川辺にいた。そこにグローブとボールを用意している。川のすぐ側の芝生のところに立ち。今グローブを左手に嵌めていた。
 その彼の上で自転車が止まる音がした。そこにいたのは。
「暫く振りだね」
「ああ、そうだな」
 赤藤はその上に顔を向けて笑みと共に言葉を返した。そこにいたのはやはり未樹だった。
「最近見なかったがどうしていたんだ?」
「別のところを走っていたんだよ」
「別のところをか」
「学校でね」
 こう赤藤に語ってきた。
「走っていたんだよ」
「そういえばあんた学校じゃ陸上部だったか」
「これでも長距離のホープなんだよ」
 少し誇らしげに笑っての言葉だった。
「意外かい?」
「いや、別に」
 自分の側に降りてきた未樹に対して述べる。
「それはな。身体見ればわかるさ」
「身体つきでわかるんだね」
「陸上選手には陸上選手の筋肉があるからな」
 赤藤は言う。
「野球選手にも野球選手のな」
「やっぱりわかるんだね」
「わかるさ。だからあんたは走ってるんだな」
「その通りさ。あんたが投げるのと同じでね」
 やはりクールな表情は変わらない。だが声はくすりと笑っていた。
「私だって走るんだよ」
「そうか」
「もっともあんたはいつも私と同じ位走ってるみたいだけれどね」
「ピッチャーだからな」
「いや、それでもだよ」
 赤藤に対して言葉を言い加える。
「相当だよ、あんたの走る距離はね」
「そうだろうな。本当によく言われるな」
「自覚しているんだね。それで」
「本題か」
「今から投げるんだよね」
 グローブとボールを見つつ赤藤に対して問うた。
「久し振りに」
「ああ、そのつもりだ」
 未樹に対して答える。
「だから持って来たんだよ」
「そうよね、やっぱり」
「じゃあ聞くけれど何だ?」
 赤藤の言葉が微笑んでいた。
「ボールは何の為にあるんだ?」
「勿論投げる為だよ」
「そうだな。それでグローブは」
「ボールを受ける為さ」
 言葉は決まっていた。それ以外の何でもない。野球のことをあまり知らなくてもこの答えは決まっていた。それ以外にはないものであった。
「他にないじゃないか」
「じゃあわかるよな。俺がこの二つを持って来たのは」
「投げるんだね」
「とりあえずな。キャッチボール程度しかできなくても」
 それでも投げるというのだった。赤藤の言葉は本気だった。
「投げてみるさ。久し振りにな」
「お医者さんからはいって言われたんだ」
「そうじゃなきゃ投げないさ」
 不敵に笑っての言葉だった。
 
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