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銀河英雄伝説<軍務省中心>短編集

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夕映えの中で

 
前書き
本日(7月26日)はオーベルシュタイン(とラインハルト)の命日。というわけで、追悼の意味を込めて。ちょっとセンチメンタルなオーベルシュタインです。 

 
 新帝国暦3年の7月。皇帝(カイザー)ラインハルトの病状が日増しに悪化している中、元帥、上級大将らを中心とした会議と、閣僚たちによる閣議が頻繁に行われていた。公然と口に出す者はないが、ラインハルトの死を見据えての必要最低限の対策であった。そのいずれにも出席せねばならない軍務尚書パウル・フォン・オーベルシュタインは、定時過ぎにようやく終えた閣議から戻ると、執務室で出迎えたアントン・フェルナーの敬礼にも応じずにコンピュータ端末へと向かった。

 左手で眉間をギュッと押しながらモニタへ目を落とすオーベルシュタインは、さして動かぬ表情からも疲労の色が伺えた。この執務室で迎えた夜明けは、今朝で4回目である。フェルナーは若さにも体力にも自信があったが、上官については年齢も40歳に達し、元々それほど頑健そうでもない。身体でも壊さねば良いのだが…。
「閣下、お疲れでしょう。今日はもうお帰りになった方がよろしいのでは」
フェルナーの余計な差し出口に顔を上げたオーベルシュタインは、息を吐いて首をぐるりと回すと、ああ、と生返事をした。分かり切った反応に、フェルナーもため息をつく。正直なところ彼には、閣議や会議ならともかく、それ以外の用件で上官が根を詰めていることに疑問を感じていた。優秀で明晰な頭脳を持つ上官であるから、皇帝の死後の予測や対策など、既に幾通りもシミュレーションしているに違いなく、今になって慌てる理由など存在しないであろう。唯一、時を惜しんで手がけることと言えば……
「地球教ですか」
思い当たったその言葉をフェルナーが口にすると、オーベルシュタインは再度顔を上げて小煩い部下を睨み付けた。
「否定なさらないところを見ると、当たりですね」
心持ち真剣な表情で上官の顔を見返すが、その上官は視線を僅かに動かしただけで、沈黙を保っていた。その威圧的な沈黙こそ肯定を意味していることを、フェルナーは十分に承知していた。
「閣下、潜伏先の捜索は小官と実践部隊にお任せ下さい。頼りないでしょうが、閣下はもう少し部下に仕事を振り分けて楽をなさるべきです」
トップが寝る間を惜しんで働けば、部下たちも休みづらくなる。そのあたりも考えてほしいものだと言外に匂わせながら、フェルナーは半ば呆れた表情で苦言を呈した。
「そうではない」
部下の言葉が切れるのを待って、オーベルシュタインは表情を変えぬまま、低い声で反論した。
「そうではないのだ、フェルナー准将」
オーベルシュタインはペンを置いて背中を伸ばすと、組んだ両手を額に当てた。重たい頭部が下を向き、フェルナーからはその表情を見ることができなくなった。
「……では、今、閣下が懸念されていることは何でしょうか。小官のごとき非才の身にも理解できるよう、ご説明願えませんか」
オーベルシュタインは表情を隠したまま視線だけをフェルナーに向けて、何事かを考えているようだったが、やがて意を決したように顔を上げると、改めて背筋を伸ばし、手早くいくつかの書類を抽斗から取り出した。威厳のある突き刺すような瞳で、怪訝そうな顔の部下を見返す。
「これは私が管理する機密書類の目録だ。中には卿も知らぬ調査事項や計画も含まれている。この目録は私にとっては不要なものだ……分かるな?」
フェルナーはほんの半瞬考えて、すぐにしたたかな笑みを浮かべた。
「閣下の頭には全て入っている、ということでしょう。つまりこれは、閣下ご自身のために作成されたものではなく、他の人間に……私に見せるために作られたのだと解釈してよろしいでしょうか」
物分かりの良い部下の返答に、オーベルシュタインは静かに肯いた。
昼の長い7月であるが、窓からは夕日が差し込んできていた。フェルナーは眩しい逆光を感じながらも、まるで上官が夕映えの中に佇んでいるかのような錯覚に陥り、その姿が夕闇に溶けてしまいそうな不吉な印象を覚えた。
「地球教の残党をおびき寄せ、一網打尽にするのだ」
オーベルシュタインは目の前に提示した目録の中の、「地球教壊滅計画」という記載を指差しながら、ぼそりと呟くように言った。彼の語った計画は、すなわち死の床にある皇帝の名で狂信者を呼び集め、暗殺という軽挙に出ようとするところを、待ちかまえて捕えるというものであった。
「無論、陛下の御身に危険が及ぶことはない」
淡々と言い放つ上官に、フェルナーはますます不気味な気配を感じた。
「と言いますと?」
オーベルシュタインは僅かに瞼を閉じてから、再びフェルナーの翡翠の両目へ視線をやった。
「陛下のご病室に関して、偽の情報を流す。明かりが灯り人影があれば、追い詰められた彼らは疑うまい」
そう言い終えると、ついと目を逸らした。その仕草が常の上官のそれとかけ離れており、フェルナーはつきまとう不穏な予感の的中を知った。
「その人影に、閣下自らがなるとおっしゃるのですね」
オーベルシュタインは答えずに鍵のかかる最上段の抽斗(ひきだし)を開けると、一本の使い込まれた万年筆を取り出した。それは彼が日常的に使用している、金のペン先に黄金獅子が刻まれたものであった。
「元帥の任官にあたって下賜されたものだ。卿がその実力で同じものを手にするまで、これを使うと良い」
いつもと変わらず平淡に、明日の予定でも確認しているかのような口調で言ってのける上官に、フェルナーはやり場のない怒りを覚えて声を荒げた。
「閣下は死ぬ気ですか!?そんなものを託されて、私が喜ぶとでもお思いなのですか?」
執務机をドンと叩いて抗議の声を上げるが、フェルナーを見据える2つの義眼は、冷たく光るままだった。
「断言します。帝国の脅威を排除して、皇帝を守って死んだとしても、閣下の真意を理解する者など一人もいませんよ。それどころか、皇帝を囮にした卑劣漢と、その死後まで冷笑され続けるでしょう。それでいいのですか?閣下は……」
フェルナーは少しの間呼吸を整えると、やがてゆっくりと念を押すように口を開いた。
「閣下は、死の瞬間までお一人で良いというのですか。誰にも理解されぬままで良いとおっしゃるのですか」
少しも感情を表さない2つの義眼を見つめながら、フェルナーは翡翠の両目をいっぱいに開けていた。誰が理解せずとも、自分だけは、否、せめて側近だけは、この不器用な上官を理解したいと思う。しかしその義眼は、彼の思いさえ拒絶するかのように冷ややかで……。
「ははは……」
唐突に、聞いたことのない笑声が上がった。それは決して大きくなかったが、心底可笑しそうで弾んだ声だった。オーベルシュタインが口元をほころばせて、低い声で笑っているのだ。
「……はは……よもや、卿がそのようなことを口にするとはな……はははは……」
そう言いながら、大真面目なフェルナーの顔を見やって笑う。こらえきれないといった様子で、オーベルシュタインはひとしきり笑い続けた。
「人が心配しているのに、笑うなんて失敬ですよ、閣下!」
半ば拗ねたようにフェルナーは憮然として言ったが、上官の珍しい姿を見るのは嬉しくもあり、しかしどこかで、先ほどから感じている不気味で不可解な感覚を拭い切れずにいた。
「……ああ、すまなかった。あまりにも、普段の卿からは想像できぬ発言だったのでな」
オーベルシュタインはすーっとひとつ深呼吸をすると、いつもの人間味を感じさせない顔に戻って、
「手に馴染む使い勝手の良い物だった。卿が新たにこれを下賜された時には、墓前にでも置いてくれ」
そう言って黄金獅子の万年筆を部下へ手渡した。
右手の中で鈍く輝く万年筆を、フェルナーはしばらく見つめて動かなかった。



 決して華美とは言えないが、上品で造り込まれた小テーブルに、ウィスキーの瓶とグラスだけが置かれていた。執事に持って来させた逸品を、オーベルシュタインは書斎で一人、その体へ流し込んでいる。グラスは結露して、無数の雫を滴らせていた。実用本位の広くはない部屋の片隅には、骨董品のオーディオセットが置かれており、そこからは今、古い歌曲が流れていた。
風呂上がりの身体からはほのかにシャンプーの香りが立ちのぼり、足元には主の供をして心地よい湯を堪能した老犬が、すやすやと寝入っていた。
「誰にも、理解されぬ、か……」
フェルナーの言葉が、思わず笑い飛ばしてしまった言葉が、奇妙に胸の中に残っていた。理解などされなくとも良いと思っていた。もとより、理解を求めようなどと考えてはいなかった。これまでの人生で、誰かに理解されたことなど、ありはしないのだから。

 Wir sind durch Not und Freude
 (私たちは苦しみと喜びの中を)
 gegangen Hand in Hand;
 (手を携えて歩んできた)
 Vom Wandern ruhen wir
 (今 さすらいをやめて)
 nun ueberm stillen Land.
 (静かな土地に憩う)

物悲しげな歌曲が、女流オペラ歌手の声で流れる。それは切ないようでいて、何かから解放されたかのような、静寂と救いのある歌だった。
オーベルシュタインはグラスの中のウィスキーを全てその胃に流し込むと、再びなみなみと注ぎ直して、今度は一口ひとくち、その舌の上で転がすようにして味わった。

無性に寂しかった。
孤独で良いと思っていたはずが、いつの間にか彼は孤独ではなかった。
執事や老犬や部下たちが、彼の傍らで、彼を孤独から引きずり上げていた。
そして皇帝が……。
それがまた、彼は自らの意思で孤独に戻ろうとしている。
その事実に気付かされたから、どうしようもなく寂しくなった。
しかし今更、彼は己の生き方を、そして死に方を変えることはできなかった。

安心したように無防備な顔で眠る愛犬を、起こさぬようにそっと撫でて、オーベルシュタインは瞼を閉じた。
流れる歌曲は、すでにクライマックスを迎えようとしていた。聴き慣れたその節を、グラスを右手に握ったまま、低く口ずさむ。

 O weiter, stiller Friede!
 (おお はるかな 静かな平和よ!)
 So tief im Abendrot.
 (こんなにも深く夕映えに包まれて)
 Wie sind wir wandermuede
 (私たちはさすらいに疲れた)
 Ist dies etwa der Tod?
 (これが 死というものなのだろうか?)

「……私たちは さすらいに疲れた……これが 死というものなのだろう……か」
震える薄い唇がその詩を紡ぐと、閉じた瞳からつうっと一筋、透明な滴が頬を伝う。
「これが 死というものなのだろうか……」
真剣に自分を諭した部下の顔が、瞼の裏で未だ彼を睨んでいた。執事の柔和な笑みが、愛犬の穏やかな寝顔が、曲の終わりの静かな和音とともに、浮かんでは消える。
はるかな静かな平和の中に、彼らの姿はないのだ。
オーベルシュタインは、もうぬるくなったウィスキーを呷ると、唇を噛んで息を殺した。殺し切れなかった嗚咽が、しばらくの間、老犬の耳を震わせていた。


※引用 リヒャルト・シュトラウス 4つの最後の歌より「夕映えの中で」

(Ende)
 
 

 
後書き
悲しいことですが、やっつけ仕事の感が否めないクオリティになってしまいました。最後まで誰にも真意を理解されずに死んでいった彼の心中は、いかなるものだったのでしょうね。
ご読了ありがとうございました。 
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