予言なんてクソクラエ
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第三章 悟道会
(一)
東西線東陽町駅で降りるのは久々だった。大学時代、友人の下宿を訪れた時以来で、恐らく10年ぶりだろう。石井は地下鉄の階段を上りきり、様変わりした街の佇まいを眺めた。駅前にあった自転車屋の二階が友人の下宿だったが、そこにでんと建つビルに飲み込まれたらしく、跡形もなくなっている。
歩いて5分、磯田の指定した喫茶店が見えてきた。禁煙席ばかりで、普段は決して入らない店だが、今日は致し方ない。二階を見上げると、窓際のカウンター席から覗き込むようにしている磯田と目が合った。
石井が隣の席につくと、磯田が口を開いた。
「ご苦労様です。」
と言ったきり向いのビルをぼんやり眺めている。石井も何気なくそのビルを見詰めた。かなり大きなビルだが社名やビル名らしきものは見当たらない。中層の3フロアのみ明りが漏れているが、窓は遮光カーテンでも使っているのか光はぼんやりしている。
「あのビル、何だか知っていますか。」
沈黙を破って磯田が聞いた。
「いえ。」
「行徳のホテルで殺された政治家秘書の親分は知っての通り自民党の安東勝彦。その安藤を影で操っているのが宗教法人悟道会。悟道会はご存知ですよね。」
「ええ、でも詳しくは知りません。出家するといって家を出た子供を、親達が返すように教団と交渉する様子をテレビで見ましたが、知っているといえばその程度です。」
「まあ、詳しくご存知なくとも当然と言えば当然ですが、私はその教祖とは面識がありましてね。……23年前、カトマンズで出会ったんです。」
「カ、カトマンズ?」
磯田の語るところによると、悟道会代表、杉田啓次郎はカトマンズで乞食同然の暮らしをしていたという。放浪中の磯田は彼に泣きつかれ少々の金を与えたが、それが仇となった。ずるずると引き込まれ、最終的に二人して乞食同然の生活に入った。
半年後、磯田はホテルの下働きの職を得て飛行機代を稼いで帰国したが、杉田がその後どうなったかは知るよしもなかった。しかし、数年前、磯田はその顔を週刊誌で発見して愕然とした。「時の人」という特集記事だったという。
「一緒に暮らした半年間に何かあったんですか?」
「・・・・・・」
磯田のいつものだんまりが始まった。都合が悪くなるとまるで聞こえていなかったように口を閉ざす。しかも、その不自然な沈黙を気にする様子は無い。その沈黙がどれほど続いただろう。磯田の表情が変わった。
「出てきた。」
と言うと、バッグから望遠レンズ付きのカメラと双眼鏡を出し、双眼鏡を膝に挟んだ。
「あんたは、これ。」
カメラを構えたまま膝を石井の方に回した。これで見ろということらしい。可笑しな渡し方だが、これが磯田流なのか。手を伸ばし双眼鏡を掴もうとした時、隣にグラマラスな女が座った。思わずその胸に見惚れて、誤って磯田の下半身に触れた。
「いやん。」
磯田の気味の悪い声が耳に残った。
(二)
一時間後、磯田が食ってかかる。
「嘘言っているんでしょう。」
石井が言い返す。
「いいや、嘘なんかじゃない。あれは僕が見た女とは全く別人ですよ。」
ここは石井のマンションの一室である。二人はあれから何度も繰り返した問答をまた繰り返している。磯田は石井の答えに満足せず、とうとう高田馬場まで付いてきた。遅くなって帰れないというので仕方なく、泊まらせることにしたのだ。
しかし、石井の酒に濁った瞼には、正に保科香子の顔が焼きついていた。ビルから50年配の恰幅のよい上背のある男とともにベンツに乗り込む姿が目に浮かぶ。あれはまさしくホテルから出てきた女そのものだった。磯田の言うとおりだが、嘘をつき通すしかない。
「磯田さん、私はこう見えても元刑事ですよ。見間違うはずはありません。ありえないことです。」
「分かりました。でも、僕は写真を撮りました。これを千葉県警に送ります。それはいいですね。」
「勿論、送ってもかまいませんよ。でも、千葉県警から呼び出しがあっても、僕は別人だと証言せざるを得ない。」
磯田に睨まれたまま、睨み返すまま時が過ぎた。溜息をつくと石井が言った。
「もう、1時を過ぎてます。もう、寝ませんか。」
呂律の回らない舌を転がして、磯田が言う。
「このまま寝られますか。やっと、杉田の化けの皮を剥がせるネタを掴んだというのに、あんたの都合で、何で俺が寝なければならないんだ。えー、冗談じゃねえ。」
「僕」から「俺」になった。かなり酔っている。常に、つんとすました受け答えで、これまで自分のことを「俺」と言ったことはない。また下半身を触ってやろうかと思ったが、気味が悪いのでやめた。
「一体全体、二人の間に何があったんですか?二人は、半年の間、乞食同然の暮らしをしていた。半年ですよ、半年。その間、貴方は相当な憎しみを杉田に抱いた。そうでしょう、今の貴方は、杉田憎しに凝り固まっている。何かあったからでしょう?」
またしても、だんまりが始まった。石井にとって磯田の追及をかわすには、そのだんまりの元を突付くしかなかった。
沈黙は相当長かった。少しの間眠っていたらしく、遠くで磯田の絞り出すような声を聞いた。
「奴は俺の人生を狂わせた。」
寝惚け眼で、額にうっすらと汗を滲ませた磯田の顔を眺めた。
「どんな風に狂わせたんです。」
「人には言えない微妙な問題だ。」
またしても沈黙だ。石井は瞼を閉じてソファに体を横たえた。ふと叔父の言った言葉が甦った。
「奴は痔持ちらしい。手術する前は漏れるんでオシメしてたって話だ。」
薄ぼんやりした意識の片隅に、粗末な小屋の中、磯田が大男に寝込みを襲われ「いやん」という声を漏らし必死で抵抗している姿が浮かんだ。ほんの一瞬だ。
まどろんだと思った矢先、強い衝撃が顎を襲った。驚いて目を開けると、磯田が覆いかぶさるようにして、石井の衿首をひっつかんだ。
「貴様、今、笑ったろう。笑ってただろう。何を笑ったんだ。」
目に涙を浮かべている。顎の痛みがむらむらと怒りを呼び覚ます。思い切り下からパンチを繰り出した。磯田が仰け反ってソファから落ちた。磯田はすばやく体制を整え、構えた。石井も立ち上がり半身になった。
勝負はあっさりついた。蹴りを入れてきた磯田の足を、体を引くと共に両手で掴み、本来はそのまま前蹴りで金的を蹴る技だが、痔にあたるのを慮って軸足を払うだけに留めたのだ。磯田は横転して床に頭を叩きつけ、気絶した。
あわてて救急車を呼んだが、救急車が到着する前に、磯田は目を覚まし、振り切るように一人タクシーで帰っていった。翌朝出勤すると、磯田はすでに来ており、冷たい戦争の幕が切って下ろされていた。青痣を作った二人がむっつりと向かい合ったのだ。
(三)
あれから10日ほどたったが、千葉県警から再度の呼び出しはない。どうやら、磯田は写真を送ってはいないらしく、ほっと胸を撫で下ろしていた。磯田とは、あれ以来互いに口もきいていない。用事はメールで済ませている。
事務所内は緊迫した雰囲気につつまれ、龍二がやたらと溜息をつき、佐々木はその雰囲気を和らげようと大声で笑ったりするのだが、その後の沈黙が際立ってしまい、かえって重苦しさが増した。パソコンにメール受信のメッセージが現れる。磯田からだ。
メッセージはこうだ。「保科香子は毎朝10時、センチュリーハイアットの1Fラウンジでコーヒーを飲みながら新聞を読む。尚、住所・電話番号は以下の通り。」目を上げると、磯田はそ知らぬ素振りでパソコンを叩いている。石井はやおら立ち上がり
「今日は帰ります。」
と言って席を立った。二通目のメッセージなど読んでたまるかと思ったのだ。龍二が慌てて言う。
「おい、真治。飯でも付き合わんか。ちょっと話したいことがあるんだが……。」
「所長、今度にしてもらえませんか。ちょっとよんどころない会合がありまして。それから例のレポートは写真付きでメールしておきました。」
「そ、そうか。」
話とは磯田とのことだろう。龍二に何と言われようと、磯田と仲直りなどしたくはなかった。磯田は石井が保科と会うことを望んでいる。どうせ盗聴器を仕掛けるか、後をつけるかして二人の様子を窺うつもりなのだ。磯田のしらっとした顔にそう書いてある。
外にでると、携帯をとりだし三枝に電話を入れた。相手はすぐに出た。
「真治さん、大変よ。また予言が当たったわ。たった今、ニュースが世界に配信され始めているわ。」
「例のイランの大地震という予言か?今日だったのか?」
「そうよ、そんなことも忘れていたの。今、インターネットで検索しているけど、死者の数が次々と跳ね上がってゆくわ。あの予言の通り、3万人に近付いていくのよ。まだ1万5千人以上としか報じられていないけど、今後も増える可能性があるって言っているわ。」
三枝の声は僅かに震えを帯びている。石井は押し黙った。なんと答えていいのか思いを巡らせた。
予言が的中したのは今回で3度目になる。一回目はさほどではなかったが、2回目は衝撃的だった。フィリピ航空の旅客機が墜落し、239名の命が失われたのだが、その中に日本人観光客57人が含まれていたこと、そして日時もぴったりと言い当てていたのだ。
「まあ、落ち着けよ。たった3回だ。3回の予言が当たったからといって、奴が言っている世界を揺るがすような大災害が起こるという保障はない。」
言葉を発してから「保障」という言葉のまずさを思ったが後の祭りだ。
「それを言うなら、絶対に起こらないという保障もないと言うべきよ。私、あの人に会ってみる。会って確かめてみるわ。」
「おい、何を言っているんだ。あのストーカー野郎と会うっていうのか。どうかしてるぜ。」
「あの人は私を救いたいと言っているのよ。その厚意を無視することなんて出来ないわ。」
「かってにしろ。俺を捨ててストーカー野郎に尾っぽを振ろうってわけだ。」
「違うわ、その予言を確かめたいのよ。どうしても確かめずにはおれないわ。」
石井は頭を冷やすために、携帯を耳から離し、深呼吸した。この一月の磯田との冷戦でストレスを溜め込んでいたようだ。「俺を捨てて」などと女々しい言葉を吐いた自分を恥じた。怒りを静め、三枝に話しかけた。
「今日、会いたい。話がしたいんだ。」
三枝は黙り込み、それが思いのほか長く続いた。
「今日、彼と会う約束をしたの。さっき電話を入れたわ。やはり送り主は彼だった。」
石井は携帯切った。
(四)
その日、高田馬場のガード沿いにあるバーで、石井は酔いつぶれた。嫉妬と焦燥が強い薬を要求していた。今この時にも、三枝はあのストーカー野郎とどこかで会っている。悔しさが込み上げてくる。
酒で混濁した頭に、ふと、保科の顔が浮かんだ。懐かしさがこみ上げてくる。会いたいと思った。そう思ったとたん、グラスをカウンターに叩きつけ、背筋を伸ばした。マスターは酔いどれがいきなりしゃきっとした姿をみて目を丸くしている。
「マスター、ジョッキに水をくれ。」
それを渡されると一気に喉に流し込み店を出た。しばらく歩くとむかむかとしたものが腹の底から込み上げて、「うわっおー」という咆哮とともに、水、アルコールそして胃液の混ざった液体を吐き出した。ぜいぜい息をしながら手の甲で唇を拭い呟いた。
「あいつと再会するしかない。再会して自首を勧めよう。黙って見逃すのはやはり卑怯だ。俺の心のマドンナよ、どうか潔白でいてくれ。」
そう祈りながら、ふと、三枝節子の恐怖に歪んだ顔を思い出した。フィリピン航空の犠牲者の中に日本人57人が含まれていたと報じる新聞をテーブルに置いて、「そんな大規模な災害など在り得ない」と言う石井に食ってかかった。
「もう、そんなこと言っていられないわ。どう考えたって、これは偶然なんかじゃない。三通目の手紙に書いてあったイラン大地震が起きて、三万人以上の犠牲者が出たら、あの人の言う世界的規模の大災害もきっと起こるのよ。」
しかし何故、自分ばかりこんな特殊な事態に直面しなければならないのか。池袋署で経験した挫折も、尋常な体験ではなかった。精神の均衡を保つにはアルコールの助けを必要とした。体がぼろぼろになるまで飲み続けた。
今回も、自分が興味を抱いてきた「予言能力」によって理不尽な局面に立たされ、またしてもアルコールに逃げようとした。しかし、今回、幸いにも保科香子の問題があった。会おうと決心した途端、現実に立ち向かう意欲が沸いた。これはこれでよい。
しかし、正に尋常な予言ではないのだ。大地が1メートルも隆起し、そして落とされる。それが何度も繰り返されると言う。その衝撃に耐えうる建造物などあろうはずがない。恐怖が背筋を這い登り、体がぶるっと震えた。
即死であれば楽なものだ。死は一瞬だ。刑事時代、そんな場面を何度も目撃した。そして石井自身が体験した死の境地。その時、死を意識した瞬間に訪れた悦楽に途惑った。そう、死は悦楽を伴うのだ。
しかし、その後、生きられると心の何処かで感じた瞬間、苦しみが押し寄せてきた。まるで生そのものが苦であるかのように、苦しみは忍耐力の限界を超え、何度ものた打ち回った。並みの苦しさではない。二度とご免だと思う。
人は死の恐怖を克服出来ない。その苦痛を想像するからだ。出来れば一瞬の死を迎えたいと誰もが思う。その壁さえ越えられれば、『母なる海』が待ち受けている。人間の魂の故郷へ戻るのだ。石井はその「母なる海」の存在を確信していた。豊臣秀吉は死に臨んで辞世の句を読んだ。
つゆとおち つゆときえにし わがいのち
おおさかのことは ゆめのまたゆめ
秀吉は鋭い感性でこの世の真理をずばり表現している。そして或る作家はこう書いた。「人生は波の飛沫の一滴。一瞬の旅を終え、再び母なる海に帰る」と。これを読んだ時、つくづくと感じ入ったものだが、最近、さらに美しい隠喩に出会った。
五木寛之の「大河の一滴」にそれは書かれていた。
木の葉から露と落ちた一滴が大地に滲み、その大地から水が湧きだし谷間のせせらぎへ流れ落ちる。そのせせらぎがやがては大河へと連なり、『母なる海』へ注ぎこむ。五木寛之は言う。
『人の死を「海への帰還」という物語として描く。そして、さらに「空への帰還」を想像し、再び「地上への帰還」と空想する。私たちはそれぞれの一生という水滴の旅を終えて、やがては海に帰る。母なる海に抱かれてすべての他の水滴と溶けあい、やがて光と熱に包まれて蒸発し、空にのぼってゆく。そしてふたたび地上へ。』
美しいと思った。これほどみごとに生命の営みを表現した隠喩はない。しかし、『母なる海』とは何であろうか?単なる隠喩?いや、そうではない。まさにその『母なる海』が存在するのだ。
石井はその答えを持っている。無限の広がりをもった海の正体を知っている。死後の世界も、予言の秘密も、それが分かれば納得がいく。それを思い、少し救われる気持ちにななって、石井は歩み始めた。
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