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亡命編 銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)

作者:azuraiiru
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第二十九話 第二百十四条

宇宙暦 794年 10月20日  宇宙艦隊総旗艦 アイアース ミハマ・サアヤ


「小官は自由惑星同盟軍規定、第二百十四条に基づき、ロボス元帥閣下を総司令官職より解任することを進言します」
ヴァレンシュタイン大佐の声が艦橋に流れました。静かな声です、ですが私の耳にはこれ以上無いくらいに大きく響きました。

艦橋は静まり返っています。ヤン大佐もワイドボーン大佐も蒼白になっています。グリーンヒル参謀長は大きな音を立てて唾を飲み込みました。艦橋に居る人間すべてがその音を聞いたでしょう。よく見ると参謀長の身体が小刻みに震えているのが見えました。

自由惑星同盟軍規定、第二百十四条……。細かな文言は忘れましたが戦闘中、或いはそれに準ずる非常事態(宇宙嵐、乱気流等の自然災害に巻き込まれた時を含む)において指揮官が精神的、肉体的な要因で指揮を執れない、或いは指揮を執るには不適格だと判断された場合(指揮官が指揮を執ることで味方に重大な損害を与えかねない場合だそうです)、その指揮下に有る部下が指揮官を解任する権利を有するといった内容の条文です。

一種の緊急避難と言って良いでしょう。この規定を運用できるのは次席指揮官、或いは幕僚長の地位にある人間だけです。そして決断した者が新たな指揮官としてその任を引き継ぎます。この場で言えばグリーンヒル参謀長です。参謀長が緊張するのも無理は有りません。

「第二百十四条だと? 馬鹿か貴様は。参謀長、こんな馬鹿の言う事など真に受けるな。それとも貴官は軍法会議を望むのか? これまでの全てを無にするのか?」
「……」

ロボス元帥がヴァレンシュタイン大佐を嘲笑いながら参謀長に問いかけました。グリーンヒル参謀長の顔がますます強張ります。そして艦橋に居る人間は皆押し黙って参謀長を見ていました。

第二百十四条が適用された場合、後日その判断の是非を巡って軍法会議が開かれることになります。第二百十四条は緊急避難なのですからその判断の妥当性が軍法会議で問われるのです。軍の命令系統は上意下達、それを揺るがす様な事は避けなければなりません。そうでなければ第二百十四条は悪用されかねないのです。

解任に正当な理由が有ると判断されれば問題はありません。しかし正当な理由が無いと判断された場合は抗命罪が適用されます。今は戦闘中ですから抗命罪の中でも一番重い敵前抗命罪、さらに徒党を組んだとして党与抗命罪が適用されるでしょう。最悪の場合死罪もあり得ます。ロボス元帥の言う全てを無にするのかという言葉は誇張ではないのです。

グリーンヒル参謀長だけでは有りません。ヴァレンシュタイン大佐も第二百十四条の適用を勧めたとして罪に問われます。グリーンヒル参謀長が第二百十四条を行使しなくてもです。

この第二百十四条が適用されるのは主として陸戦隊が多いと聞いています。凄惨な白兵戦を展開している中で指揮官が錯乱し判断力を失う……。特に実戦経験の少ない新米指揮官に良く起こるそうです。

もっとも宇宙空間での戦闘では白兵戦そのものがあまり有りませんから第二百十四条が適用された事など殆どありません。まして宇宙艦隊で総司令官の解任が進言される等前代未聞です。グリーンヒル参謀長が決断できないのも仕方ないのかもしれません。

ロボス元帥が大きな笑い声を上げました。その眼には勝ち誇ったような色が有ります。ヤン大佐が溜息を吐くのが聞こえました。私も同じ思いです。第二百十四条は部下が上官の愚行を防ぐ最後の手段なのです。

それが無になった……。ヴァレンシュタイン大佐は戦闘中に第二百十四条を上官に進めた。軍を無意味に混乱させたとして罪に問われるでしょう。反逆者と呼ばれることになります。

私はヴァレンシュタイン大佐の顔を見ることが出来ませんでした。大佐は反逆者と呼ばれる危険を冒してまで将兵を危機から救おうとしました。同盟の人じゃない、亡命者なのに同盟の将兵を救おうとしている。それなのにその全てが無に帰そうとしている……。

悩んだでしょう、苦しんだと思います。何故自分がそんな危険を冒さなければならないのかと……。それでも大佐は目の前の危機を見過ごすことが出来なかった……。大佐の言葉を思い出しました。”犠牲が出ると分かっていながら自分の利益のために見殺しにする……。寒気がしましたよ”

私は馬鹿です、どうしようもない愚か者です。大佐が帝国の内情に詳しいからと言ってそれを訝しんだり畏れたりしました。一体それが何なのでしょう、ワイドボーン大佐が言うように多少知識が豊富だというだけです。それなのに……。

大佐の心は誰よりも暖かく誠実なのに、そこから目を逸らしていました。ロボス元帥やフォーク中佐のように自分の出世や野心のために人の命を踏みにじる人間こそが化け物です。大佐は、大佐は、間違いなく人間です。目の前で危険にさらされる人を見過ごせない普通の人間です。

「参謀長、攻撃の続行だ!」
高らかに命じるロボス元帥を憎みました。第二百十四条を行使しないグリーンヒル参謀長を憎みました。それほどまでに自分の地位が大事なのか、人として恥ずかしくないのかと……。

私も第二百十四条の行使を進言しようと思いました。意味は無いかもしれません、でももしかすると他にも私と同じように参謀長に進言してくれる人が居るかもしれません。そうなれば参謀長も受け入れてくれるかもしれないと思ったのです。

例え居なくても大佐に同盟人は恥知らずばかりだとは思われたくは有りません。少しでも大佐の前で顔を上げて立ちたい……。そう思った時です、グリーンヒル参謀長がゆっくりとした口調でロボス元帥の命令を拒否しました。

「……残念ですが、それは出来ません」
「なんだと、貴様……」
ロボス元帥が信じられないと言った表情でグリーンヒル参謀長を見ています。そして参謀長はロボス元帥を沈痛な表情で見ていました。

「自由惑星同盟軍規定、第二百十四条に基づき、ロボス元帥閣下の総司令官職を解任します」
「……馬鹿な……、気でも狂ったか! グリーンヒル!」

ロボス元帥が怒声を上げました。元帥の顔には先程までの勝ち誇った色は有りません。そして参謀長が苦渋に満ちた声を出しました。
「正気です。もっと早く決断すべきだったと後悔しています」

思わず私は胸の前で両手を合わせていました。とりあえず大佐は罪人になることを免れました。軍法会議は残っていますが、少なくとも大佐の想いを参謀長は受け入れてくれたのです。

「馬鹿な……、何を言っている。冗談だろう、グリーンヒル」
「冗談ではありません。もっと早く決断すべきだったと言っているのです!」
何かを断ち切る様な声でした。そして大きく息を吸い込み艦橋の参謀達を見ました。

「この件については貴官達の判断は必要としない。私の判断で行う、指示に従ってくれ」
参謀達が黙って頷きました。その様子をロボス元帥が唖然として見ています。

第二百十四条を行使する場合、次席指揮官が独断で判断して行使する場合と周囲の過半数の賛同を得てから行使する場合が有ります。元々は戦闘中では過半数を求めているような余裕が無いことから定められた規定でした。

ですが今では違う意味があります。独断で行う、つまり周囲には累を及ぼさないという意味です。参謀長の言葉で、この後軍法会議が行われても査問の対象となるのは解任されたロボス元帥、解任を決断したグリーンヒル参謀長、そして第二百十四条の行使を勧めたヴァレンシュタイン大佐の三人だけとなりました。

グリーンヒル参謀長が保安主任を呼びました。そしてロボス元帥を自室に連れて行くように命じました。
「分かっているのか、グリーンヒル! お前は終わりだぞ、今なら間に合う、考え直せ!」

艦橋から連れ出される直前のロボス元帥の言葉です。身を捩りながら悲鳴のような叫びでした……。終わりなのはロボス元帥です。部下から第二百十四条を突きつけられるような人間に軍での将来は有りません……。

艦橋は静まり返っていました。
「済まんな、ヴァレンシュタイン大佐。私がもう少し早く決断していれば貴官を巻き込まずに済んだ……」
「……いえ、お気になさらずに」

グリーンヒル参謀長とヴァレンシュタイン大佐が話しています。参謀長は沈痛な表情をしていましたが、無表情に返事をする大佐に微かに苦笑を漏らしました。

「閣下! 帝国軍が強襲揚陸艦に向かっています!」
静まり返った艦橋にオペレータが警告を発しました。瞬時に艦橋は緊張に包まれました。皆が戦術コンピュータとスクリーンを交互に見ています。

「ミサイル艇だけでは防げない、艦隊を動かして混戦に持ち込もう」
「それしかないね」
ワイドボーン大佐とヤン大佐が話し合っています。多くの参謀がその言葉に頷きました。私も同感です、混戦状態なら敵の進撃を止めることが出来ます。それに敵は要塞主砲(トール・ハンマー)を打てません。安全に味方の撤収を進めることが出来るのです。

「駄目です、揚陸艦を廃棄させてください。それとミサイル艇の撤収を」
「何を言っているんだ、ヴァレンシュタイン」
大佐、どうしたんです、一体。艦を廃棄だなんておかしいです。皆が訝しげに見る中、ヴァレンシュタイン大佐は頑迷に揚陸艦の廃棄を主張しました。

「揚陸艦を廃棄させ、ミサイル艇を撤収させろと言っているんです。強襲揚陸艦の乗組員はイゼルローン要塞に退避させてください」
「……」
「訳は後で話します、早く!」

大佐の強い口調にグリーンヒル参謀長がミサイル艇の退避、強襲揚陸艦の廃棄と乗組員のイゼルローン要塞への退避を命じました。そしてヴァレンシュタイン大佐へ視線を向けました。

「何故かね大佐?」
「ここで混戦状態を作り出せばミュッケンベルガー元帥は味方殺しをする恐れがあります」
「!」

味方殺し、その言葉に皆がギョッとしたような表情になりました。
「馬鹿な、こちらは撤退しようとしているんだぞ、味方殺しをする必要がどこにある?」

ワイドボーン大佐が幾分震え気味の声で問いかけます。そしてヴァレンシュタイン大佐が明らかに冷笑と分かる笑みを浮かべました。そんな顔をするから大佐は怖がられるんです。

「勝っているのはオフレッサーですよ、ワイドボーン大佐。ミュッケンベルガーは要塞に陸戦隊を送り込まれるという失態を犯しました。自分が勝っているなどとは思っていないでしょう。もしかすると辞職さえ考えているかもしれない」
「……」

「こんな時に混戦状態を作り出したらどうなります? ミュッケンベルガーは同盟軍が帝国軍の動きを封じ、新たな攻撃をかけてくると判断するでしょう。これ以上の失態は許されない、要塞を守らなければならない。追い込まれたミュッケンベルガーが何を考えるか……」
ヴァレンシュタイン大佐の言葉に艦橋の彼方此方で呻き声が聞こえました。

「しかし、だからと言って味方殺しを……」
参謀の一人が弱々しい声で抗議しましたがヴァレンシュタイン大佐が睨みつけて黙らせました。

「ロボス元帥はどうでした? 彼は味方を磨り潰すことさえ躊躇わなかった。ミュッケンベルガーの立場はロボス元帥より悪いんです。彼が味方殺しを躊躇う理由は有りません。彼にはどんな犠牲を払おうと要塞を守るしか道は無いんです」
「……」

大佐の言うとおりです。追い込まれた人間がどれだけ危険かは私達自身が今経験したばかりの事です。そしてその後始末のために私達は苦労している……。皆その事を思ったのでしょう、何人かの参謀がやりきれないような表情で誰もいない指揮官席を見ました。

しばらく沈黙が落ちた後、ヴァレンシュタイン大佐が何かを振り払うかのように首を一度横に振りました。そして考えをまとめるような口調で話し始めます。皆が黙ってそれを聞きました。

「要塞内にはまだ二万隻は有るはずです。味方殺しをした後にその二万隻を出撃させる、そして強襲揚陸艦を、ミサイル艇を攻撃する……。味方にそれを防ぐことが出来ますか?」
「……」

皆、何も言いません。黙って視線を逸らすだけです。到底出来る事ではないと思ったのでしょう。その様子を見てヴァレンシュタイン大佐が言葉を続けました。

「もう一度混戦状態を作りだせますか? 味方殺しを目の前で見てその上で混戦状態に持ち込めと言っても味方は二の足を踏むでしょう。なすすべもなく強襲揚陸艦とミサイル艇は撃破される」
「……」

「ヴァレンシュタイン大佐の言うとおりだ。ミュッケンベルガー元帥は追い込まれている。味方殺しをするかもしれない。混戦状態は作り出せない……」
ヤン大佐が顔を顰めて溜息を吐きました。その声に促されるかのように何人かが頷いています。

「要塞内の味方を撤収させる方法は? 何か考えが有るかね?」
グリーンヒル参謀長が問いかけました。
「……百隻程度の小艦隊で目立たないように接岸し収容するしかありません。一度ではむりでしょう、最低でも二度は行う必要が有ります」

彼方此方から溜息が聞こえました。百隻程度の艦隊では敵の攻撃を受ければ一たまりもありません。しかも混戦状態に出来ない以上、味方は牽制程度の攻撃しかできないのです。

敵が収容用の艦隊を攻撃しようとした時は要塞に近づき敵を牽制する。しかし不用意に要塞に近づけば要塞主砲(トール・ハンマー)の一撃を受けます。同盟軍は厳しい状況に追い込まれました。

ヴァレンシュタイン大佐の言葉にヤン大佐が続けました。
「味方の主力艦隊はミュッケンベルガー元帥の注意を、敵艦隊の注意を引く必要が有るな、結構難しい戦術行動を強いられそうだ……。ミサイル艇を他の場所で使用してミュッケンベルガー元帥の注意を逸らすか……」

「簡単じゃないぞ、ヤン」
「だがやらなければならない。そうだろう、ワイドボーン」
ワイドボーン大佐が溜息を吐き、ヤン大佐は頭を掻いています。

「敵艦隊が強襲揚陸艦を攻撃します」
オペレータの声に皆がスクリーンを見ました。スクリーンには敵の攻撃を受け爆発する強襲揚陸艦の姿が映っています。その様子を見ながらヴァレンシュタイン大佐がグリーンヒル参謀長に意見を述べました。

「味方の収容を行う艦隊を至急用意してください。小官が作戦の指揮を執ります……」


 
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