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トンデケ

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第三話 覚醒

 両親が激しく言い争う声に
 隣の部屋で寝ていた百香が目を覚ました。
 激しい怒号に怯えながら幼い彼女は布団をかぶり、
 両手で耳を塞いで必死に耐えていた。
 
 だが、その夜の喧嘩は尋常ではなかった。

「やめて!! 痛いっ…、やめてよ!!」 
 
 母の声がひときわ大きくなった。父が暴力をふるっているのか・・・。
 しばらく激しいドタバタが続いていたが、「ぎゃー!!」と母がわめいた
 のを最後に、はたと声が止んだ。

 終わった? 百香は恐る恐る布団をはがし、襖の隙間から隣の部屋を覗い
 た。まず目に入ったのは、仁王立ちする父の姿、足元に目を落とすと、
 母が倒れてぐったりしている。肩で息をしながら、鬼の形相で見下ろして
 いた父の目が、ギッといきなりこっちを向いた。百香は慌てて襖から顔を
 離し、急いで布団まで這っていった。
 どっどっどっど、足音がして、すーっと襖が開く。
 逆光に包まれた黒い顔が、いつもの優しい声で言った。

「百香、お前も一緒に行こう。」

「どこへいくの?」

「パパとママと、天国へ行くんだよ。」

「てんごく?」

 父は、右手を高く振り上げた。百香はきょとんとした目で父を見上げる。
 その時、玄関でけたたましくチャイムが鳴り、ドアを叩く音がした。
 ピンポン ピンポン どんどんどん!! どんどんどん!!

「加藤さん! 加藤さん! どうしました! 開けてください!」
 
 途端に、父は体を震わせて、泣きそうな顔になった。唇を噛み締め、振り
 上げていた腕を徐々に下ろし、がくっと両膝をついた。

「ぐっうっうぅ…」

 嗚咽が漏れ、涙とよだれでぐしゃぐしゃになった父の顔。

「どうしたのパパ、いたい いたい?」

 そう言って、血の着いた顔を小さな手でさすった。

「ごめん、百香・・ ごめんな・・・」
 
 泣きながら父は百香の頭を撫でた。
 再び右手がゆっくりと頭の高さまで上がる、と次の瞬間、振り下ろした拳
 を自らの腹にぶつける。すると着ていたシャツから血がじゅわっと溢れ出
 し、布団がみるみる真っ赤に染まる。
 父は突っ伏したまま、うんうん唸っている。
 百香もさすがに怖くなって、しくしくと泣き出した。

「パパ~ パパ~ 」
 
 大人でも耐えられないような地獄絵図の中で、百香の頭がぼんやりしてき
 た。玄関から響く音だろうか、耳の奥で、うわん、うわん、うわん、うわ
 ん、とノイズのように鳴り響いている。鼓膜にツンとした閉塞感と痛みを
 感じ、百香は思わず両手で耳を塞いだ。すると、ノイズの中に聞き慣れた
 声がしてきた。

「・・・ケ、・・ンデケ、トンデケ」
 
 母の声だ。繰り返して止まない母の声。
 やがて、その声に合わせるように、百香も「トンデケ、トンデケ」と、
 か細い声で唱え始めた。
 それがだんだんはっきり聞こえる音量にまでなると、最後に一声
「トンデケ!!」と叫び、百香はバタッと倒れた。
 次に目が覚めたのは、病院のベッドの上だった。祖母と叔母が心配そうな
 顔でこっちを見つめている。

「ああよかった、目が覚めた。もーちゃん、あんた…」

 極まっておいおい泣き出した祖母の顔を、百香は今でもうっすらと覚えて
 いる。退院後間もなく、百香は祖母の家に引き取られ、苗字も変わって、
 事件からは極力隔絶された環境で育った。百香自身、まだ幼かったため、
 当時の記憶はほとんど残っていなかったが、時折フラッシュバックを起こ
 すのか、図工の時間に黒や赤を多用した不気味な絵を描いて、周囲の大人
 たちを沈痛な思いにさせた。
 だが後に、心無いマスコミによって、彼女はあの日の凄惨な光景をはっき
 りと思い出すことになる。 

 
 
 小学校5年生の夏休み。百香が宿題をしながら家で留守番をしていると、
 一本の電話が鳴った。

「はい、圷です。」

「わたくし、月刊フェノミナンの武井と申しますが、百香さん・・ですか?」

「はい、そうですけど・・・」

「よかった、ご本人が出てくれて。お元気そうですね。
 私ね、さっきお宅の玄関のポストに、あなた宛の封筒を投函したんですよ。
 それ、今すぐ取ってきて、読んでもらっていいですか。で、読んだ感想を
 聞かしてほしいんですよ。あ、それとね、家の人には、わたしの事、言わ
 なくていいですよ。後で、わたしの方からご連絡を入れるので。
 じゃ、よろしく。」

 男は一方的に話し終えると、電話を切った。
 首をかしげながら玄関に行ってみると、ドアのポストに二つ折りにした大
 きめの封筒が挟まっていた。封を開けると、中には数枚の用紙と三つ折り
 にした便箋が入っていた。
 手紙を広げると冒頭に「百香さんへ」とある。そこには、角張った手書き
 の文字が整然と並んでいた。

『はじめまして百香さん。私は雑誌の記者をしている武井といいます。
 とつぜんのお手紙ですみません。
 あなたのご両親が亡くなって、もうすぐ七年。
 あなたも、もう五年生ですか、立派に成長されましたね。
 私はずっとあなたのことを気にかけながら、見守ってきました。
 おそらく、ご両親が亡くなった日のことを、あなたはほとんど覚えていな
 いでしょうね。親せきの方からも、くわしい話しは聞いていないと思いま
 す。でも、事件のことを知れば、あなたもきっと関心を持つはずです。
 あまりにも謎の多い事件でしたから。
 ショックを受けるかもしれませんが、当時の新聞記事と資料を同封します
 ので、勇気を出して読んでみてください。そして、少しでも思い出したこ
 とがあったら、私に教えてほしいのです。それと、できれば一度会って、
 二人だけでお話がしたいです。では、またご連絡します。武井』
 
 同封されていたのは、拡大コピーされた新聞や雑誌の切り抜きで、ご丁寧
 にも難読漢字には手書きのルビまで振ってある。

『理研の加藤康介氏が急死、無理心中か
 理研の研究員、加藤康介さん(三五)と妻で主婦のまり子さん(三二)
 の遺体が埼玉県和光市内の小学校のプールで発見された。
 二日早朝、男女の遺体がプールに浮かんでいると、学校職員から通報が
 あった。朝霞署は無理心中とみて調べている。
 朝霞署によると、プールサイドに落ちていた血のついた包丁から加藤さん
 の指紋が検出され、妻の胸を刺したあと、自らも腹部を刺して無理心中を
 図ったものとみている。
 前日の1日、夜十時頃にも、加藤さんの家から悲鳴がすると通報があり、
 かけつけた警官が管理人と共に合鍵でマンション五階の部屋へ入ると、
 部屋中に多量の血痕が見つかった。
 しかし夫妻の姿はなく、行方を探していた。
 ただ、夫妻が部屋から外に出た形跡は見つかっておらず、瀕死の状態で
 二人がどのようにしてプールまで移動したのかは不明だ。
 また、同じ部屋の寝室で5歳の長女が意識不明で発見されたが、怪我はな
 く、命に別条はないという。
 加藤さんは理研で再生医療に役立つ新たな細胞形成メカニズムを発見。
 専門誌に論文を発表し、一躍注目を集めたが、その後データの不正がいく
 つも見つかり、2日前の釈明会見では責任追及の矢面に立たされていた。
 朝霞署では、当夜の移動経路などを詳しく調べている。』
 
 別紙には、家と小学校に印がついたスケール入りの地図、そして、「!」
 マークや「?」マークが乱舞する雑誌の記事が並んでいた。

『理研の加藤氏が無理心中! ワープか? はたまた、どこでもドア??
痕跡なき夫婦の足どりの謎!!』

『空中浮遊?? 瞬間移動?? 謎の心中事件を大杉教授が検証する!!』
 
 等々、血だらけで瀕死の夫婦が痕跡も残さず、どうやって三百メートルも
 離れた遺体発見現場まで移動できたのか、その不可解な謎を解くため、
 超常現象や様々な論文を例にあげ、おもしろ半分に推理したり、どこかの
 大学教授がそれに真っ向から反論したりと、オカルト雑誌の恰好のネタに
 されていた。
 百香には難しい言葉が多くて内容がわかりづらかったが、父が母を刺し殺
 し、自分も腹を刺して死んだこと、両親の遺体が家の中ではなく三百メー
 トルも離れた学校のプールで見つかった、ということだけはなんとか読み
 取れた。そして遠い記憶の断片を繋ぎあわせながら、脳裏に次々とスライ
 ドさせる。その作業はまるで、治りかけの切り傷の上からカミソリでなぞ
 るようなものだった。
 そして…あの声が甦る。母の声だ。 

「・・・ケ、・・ンデケ、トンデケ」



「百香、なにしてんの?」

 叔母の声にはっとして振り向く。

「それ何?」

 百香の手から用紙を取り上げると、叔母の顔がみるみる険しくなり、
 テーブルに広がる残りの用紙をかき集めだした。

「誰!? こんな物よこしたのは… 誰よ!!」

 あまりの剣幕に百香は目をパチクリさせ、叔母の腕を避けるように肩をす
 ぼめた。叔母は手紙と用紙に素早く目を通すと、それを乱暴に丸めてフラ
 イパンに乗せ、ガスコンロの火で燃やし始めた。引火した火はたちまち、
 換気扇フードの高さまで上がり、黒い煙が天井の火災報知機を鳴らした。
 垂れさがった紐を引き、警報音を止めると、叔母はフライパンの火をシン
 クの水道でさっと消す。しばらくその場に立ちすくんでいたが、

「電話が鳴っても絶対出ちゃダメよ!」

 そう言い放ち、叔母は自室へしばらくこもっていたが、
 怒りが治まらなかったのか、再び居間に戻ってくると
 どこかへ電話をかけ、激しい口調で相手を罵り始めた。
 しかしこの日、事件当夜の記憶が一本の映像として、
 百香の脳裏に鮮明に焼き付けられたのは確かだった。

 新学期が始まる9月1日は両親の命日でもある。百香は学校から帰ると、
 祖母に連れられ、母の墓参りに行くのが通例であった。
 電車とバスを乗り継ぎ、ようやく霊園に着くと、更にそこから園内の循環
 バスに乗って丘の頂上まで上る。区画の敷地にはずらりと似たような洋型
 墓石が並び、祖母はよく迷子になる。その日も、「あれ、どこだっけ」
 と、うろうろしていたので、「こっちこっち」と百香が手を引く。
 丸みのあるモダンなデザインの墓石には「やすらぎ」の文字、その脇に戒
 名や俗名、没年月日が彫られた黒御影の墓誌が立っている。

「今年はママの七回忌だねぇ… もうそんなに経つかねぇ…」

 祖母が母の名前を指で撫でながら、しみじみ言った。
 両親の墓が別々なのを、百香はそれまで特に何とも思ってこなかったが、
 先日の一件で初めてそのことに思いが向くようになった。
 祖母と二人で焼けるように熱くなった墓石を、濡らしたスポンジや布で
 磨く。二週間前、お盆でお参りに来たとき、隙間に生えた雑草を残さず
 抜いたはずだったが、しぶとい芽がもう伸び始めていた。それを見てふと、
 百香は母の断末魔の声を思い出した。

「どうしたの、もーちゃん。手が止まってるよ。」
 
 祖母の声で我に返ると、

「おばあちゃん…」

 百香がしがみつくように祖母の胸に顔をうずめた。
 声も立てずに泣く孫を抱きしめると、祖母は優しく百香の背中をさすった。

「そうかそうか。思い出したんだね、ママのこと。」
 
 そう言うと涙をぬぐった。

 

 参拝を済ませ、冷房の効いた霊園の待合室に入ると、汗がすーっと引く。
 バスの時間まで、まだ三十分ある。祖母がトイレに立つと、百香はその間
 に祖母の手提げ袋からお弁当箱と小皿を取り出し、テーブルに置いた。
 お供え用に祖母がこしらえた、いなり寿司と海苔巻き。

「あ、お茶がいるか。」

 流し台で、給茶機のお茶を入れていると、隣にぴたっとくっつくようにし
 て男が立った。

「百香さん? こんにちは、武井です。
 いやぁ、暑い中、お墓参りご苦労さまでしたね。
 この間は突然、電話で無理なお願いをして、悪かったですね。」
 
 黒いワークキャップを被ったメガネの男が、軽く会釈した。

「で、お渡しした、記事なんですけど…」

「・・・」

「どうでした? 書いてある内容は、理解できましたか?」 

「・・・」

「事件の夜、百香さんが見たこと、聞いたこと、なんでもいいです。
 思い出したこと、おじさんに、教えてくれるかな?」
 
 百香は首を小さく横に振り、押し黙ったまま俯いた。

「もーちゃん、なにしてんの? お茶入れて、はやくいらっしゃいよ。」
 
 祖母の声に救われ、百香は茶を盆に乗せると逃げるようにテーブルへ
 戻った。
 流し台を背に、祖母の隣に座る。

「お腹空いたろ、さ、お食べ。」

 百香は無言でいなり寿司を丸ごと口へ押し込むと、むせながら茶で無理や
 り流し込んだ。

「あらあら、はしたない。そんなあわてないの。」
 
 祖母がハンカチで百香の口を拭いて笑った。
 百香がそっと振り向くと、流し台では喪服姿のおばさんたちが、大声で雑
 談しながら茶碗を洗っている。だがそこに武井の姿はなかった。斜め向か
 いのガラス戸越しに駐車場が見える。どこかの車内からこっちを見張って
 いるのかもしれない。

「おばあちゃん…」

「うん? なあに。」

「ママは・・・」
 
 言いかけて俯いた百香の横顔を祖母が覗き込む。

「うん? どうしたの?」

「ママは… パパに殺されたの?」

「なに言い出すのよ、あんた…」

「ママはパパに殺されたから、二人は一緒のお墓じゃないんだよね?」

「百香・・。そうかい。いつか話さなきゃいけなくなると思ってたけど。
 家へ帰ったら、ママとパパのこと、きちんとあんたに話してあげるよ。
 思い出すと、おばあちゃんも辛いんだけどね。
 お前はもう、しっかりした、賢いおねえちゃんなんだし、話していい頃か
 もしれない。」
 祖母は薄い笑みを浮かべ、百香の肩をそっと抱いた。 

 
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