| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

絵に込められたもの

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
次ページ > 目次
 

5部分:第五章


第五章

「穏やかに過ごしていますよ」
「そうですか。それは何よりです」
「安らかな顔でした」
 そう語る杉原さんの顔もまた非常に穏やかなものだった。その穏やかな顔で微笑んで僕に語ってくれていたのである。それを見て僕もまた穏やかな顔になっているのがわかった。
「怨みなぞ何処にもない顔でしたよ」
「絵もそうでしたね」
 僕は今度は絵について言及した。ここであらためてコーヒーカップを右手に持った。コーヒーはもう冷めていたがそれでも香りはかぐわしいものだった。
「最後まで。美しい絵で」
「その時、その絵だけでした」
 杉原さんはまた僕に語ってくれた。
「あの様なことになったのは」
「人は時として怨みに心を支配されますね」
 僕はその杉原さんにこう述べた。
「様々な事情により」
「ええ」
「ですがそれを消し去った時は本来の己に戻ることができます」
「確かに。彼もそうでしたし」
「あの人は恨みを絵に込められました」
 今ではそのことがはっきりとわかった。だからあの絵になったのだとも。
「そして怨みを果たされ」
「怨みを終えたというのですね」
「僕はそう考えます。それでよかったと思います」
「家族の無念を晴らしてですか」
「女の罪はおぞましいものです」
 人を殺したというそのことがだ。それをおぞましいと言わずして何と言うのかとさえ思った。
「何時かは報いを受けるものでしたし」
「それは私も同じ考えです」
「あの方は御家族の無念も御自身の怨みも晴らされた」
 僕は今度はこう延べさせてもらった。
「それでよかったのですよ」
「あの絵はだからこそ価値があるのですね」
「はい。そう思います」
 僕はあらためて杉原さんに対して頷いてみせた。
「だからこそです」
「そう言って頂いて何よりです」
 今度の杉原さんの言葉は少し妙に聞こえた。
「何よりとは?」
「私はあの絵をずっと疎ましいと思っていました」
「怨みの絵だからですか」
「はい。怨みを込めた絵だと思っていました」
 聞いていてそれも無理のないことだと内心思った。確かにあの絵は怨みにより生み出された絵であるからだ。これは否定できない。
「ですがそれが晴らされたというのなら」
「それでいいのですか」
「今ここで貴方とお話してようやくそういう考えに至りました」
 微笑みはさらにいいものになっていた。悟りきったような、清々しいものに。
「有り難うございます。これからあの絵を普通の気持ちで見ることができます」
「そうですか」
「さて。それではですね」
 杉原さんは僕に声をかけてきた。
「コーヒーのおかわりはどうですか」
「おかわりですか」
「貴方も私も飲み終えていますし」
「おや」
 言われてカップを見る。見れば確かにもうカップにコーヒーはなかった。何時の間にか全部飲んでしまっていた。残っているのはカップに僅かにあるコーヒーの残り模様と微かな残り香。それだけであった。
「もう一杯如何でしょうか」
「宜しいのですね」
「ここではコーヒーは無料です」
 気前のいいことを言ってくれた。
「ですから。遠慮なさらずに」
「そうですか。宜しいのですね」
「是非」
 こうも言われて勧めてくれたのだった。
「お飲み下さい。またウィンナーでしょうか」
「宜しければ」
 本当にウィンナーは好きだ。二杯もいただけるとは恐悦至極な程であった。
「御願いします」
「はい、それでは」
「それでですね」
 今度は僕が話を変えてきた。今まさに立ち上がろうとしていた杉原さんに対して。杉原さんも動きを止めて僕に応じてくれたのだった。
「もう一つ御願いがあるのですが」
「何でしょうか」
「田山さんの絵です」
 僕が言ったのはこのことだった。
「宜しければもっと見て宜しいでしょうか」
「ええ、勿論ですよ」
 その穏やかな笑みで僕に答えてくれた。
「是非共。それが私の仕事ですから」
「そうですか。それでは御言葉に甘えまして」
「さらに申し上げるなら」
 今度は杉原さんの言葉の番だった。
「お買い頂ければ何よりです」
「残念、そこまで僕は裕福ではないので」
「お安くしますよ」
「いや、それでもです」
「まあそう仰らずに」
 最後はにこやかに話が終わった。思えばまことに不思議な話だ。しかし田山さんは絵により怨みを晴らした。そのことだけは決して忘れることができなかった。何時までも何時までも。


絵に込められたもの   完


                   2008・8・11
 
次ページ > 目次
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧