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死者の誘い

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5部分:第五章


第五章

「だったら」
「本格的なポーランド料理を食べたいんだよ」
 そう言い訳をする。かなり必死だ。今も男が彼を見てゾッとする笑みを浮かべているからだ。その顔を見ていると逃げずにはいられなかった。いると命が奪われると。そう思わざるを得ないからだ。
「ほら、茸の。この近くにある?」
「ええ、あるけれど」
 そんな彼の様子に妙に感じずにはいられなかったが答える。
「じゃあそこに行くの?」
「いいかな、奢るからさ」
「だったらいいわ」
 それを聞いて気をなおしたようである。ジュリアスはそれを見てしめたと思った。
「じゃあさ」
「わかったわ」
 エミリアも現金なもので自分が支払わないと思えばいいのだ。これもジュリアスの読みだった。
「そこに行きましょう」
「うん」
「そのかわり覚悟してよね」
 にこりとした笑みをジュリアスに向けて言う。
「そこのレストラン、安くはないから」
「ああいいさ」
 命に比べれば料理なぞ安いものだ。彼は今心からそう思っていた。
「では今から」
「ええ」
 こうして彼はトスカから立ち去った。店を出る時に一瞬だけだが男の顔が見えた。それは如何にも残念そうで今にも舌打ちせんばかりであった。まるで罠から逃げられたかの様に。
 そしてレストランで時間を潰した後でトスカに向かうと。そこはもう大変なことになっていた。
 何と火事であった。店が燃え上がっている。
「何、これ」
「ああ、さっき店の中で爆発が起こったらしいよ」
 常連客の一人だろうか。中年の男がエミリアに応えた。やり取りから見るに彼女とこの客は顔見知りらしい。それからも彼が常連ではないかと思える。
「爆発って・・・・・・テロじゃないわよね」
「ロンドンじゃあるまいし。単なるガス爆発さ」
 ロンドンならIRAの過激派かイスラム原理主義者のテロがある。だがここはワルシャワは。そういった心配はあまりない。今この街は少なくともパリやロンドンよりは平和である。だが事故はつきものだ。
「ガス爆発って」
「お店の人は何とか無事みたいだけれどね」
「マスターも?」
「ああ何とか。けれどな」
「けれど?」
「客が一人亡くなったらしいぜ」
「そうなの」
「ああ、若い男がな」
「若い男!?」
 それを聞いたジュリアスの顔が急に曇った。
「ちょっと待ってくれないか」
「!?」
 中年の男は彼に声をかけられて怪訝な顔を見せた。
「その若い男って」
「あのさ、エミリア」
 男は彼に応えずにエミリアに声をかけた。それがどうしてか今のジュリアスには気付かない。彼はそれ程焦っていたのだ。
「この人だけど」
「ええ、イタリア人よ」
 エミリアは男に応える。
「ポーランド語も話せるけれど」
 だが今は焦るあまりイタリア語で問い掛けていたのである。だから男にはわからなかったのだ。
「そうか。じゃあちょっと彼に言ってくれないか」
「わかったわ。ねえジュリアス」
「んっ!?」
 エミリアに声をかけられそちらに顔を向け直す。
「ちょっと落ち着いて。それでポーランド語でね」
「おっとそうか、失礼」
 言われてやっと気付く。
「お伺いしますがその男性というのは」
「ええ、ブロンドに青い目の若い男ですよ」
「ブロンドで青い目の」
 間違いなかった。運転席に、そして店にもいたあの男だ。地下鉄の駅で寒気を与えたあの男でもある。
「彼がですか」
「はい、亡くなったそうです」
「そうだったのですか、ご愁傷様です」
「まあ事故ですからね」
 男はどうしてジュリアスがそれを聞いてきたのか深く考えない。ただこうして同情するだけである。
「仕方ありませんよ」
「そうですね」
 話しているうちにわかった。どうしてあの男が彼を見て不気味に笑っていたのか。それは誘いだったのだ。あの世への道連れとして。彼を招いていたのだ。
(危なかったな)
 心の中で安堵する。
(若しあのタクシーに乗っていたら、そして店の中に入っていたら)
 彼もまた死んでいた。間違いなく。
「ねえジュリアス」
 エミリアが安堵しているところに声をかけてくる。
「何だい?」
「お店、こうなっちゃったけど」
「どうするの?」
「そうだね」
 安堵した顔をそのままで彼女に応える。
「別のお店にする?」
「そうね」
 エミリアもそれに応えた。
「じゃあ他のお店紹介するわね」
「是非共」
 もうにこりとした顔になっていた。背筋にはまだ寒いものを感じてはいても。とりあえず助かったことは確認していたのである。それでそうした顔になっていたのだ。
「それじゃあ」
「うん」
 二人はトスカを離れようとする。だがエミリアはそこで気付いた。
「何か嬉しそうね」
 ジュリアスの表情を見て言う。
「お店が焼けたのに」
「あっ、いや」
 だがそれは誤魔化す。
「これはね」
「何かあったの?」
「君と一緒にいるからだよ」
 実にイタリア男らしい言葉で誤魔化すことにした。笑みもイタリア男の笑みを作った。
「馬鹿言って」
 エミリアはその言葉を聞いて苦笑いを返した。
「ずっと一緒にいるじゃない」
「今の君と一緒にいるからさ」
 ジュリアスは笑ったまままた言った。
「今までの君と今の君。どちらもいいから」
「そんなこと言っても何もないわよ」
 そうは言いながらも悪い気がしないのは隠している。
「ポーランド女は安くないから」
「笑顔は無料だよね」
「またそんなこと言って」
 そんな軽いやり取りもまた命あってのものなのだ。ジュリアスは言葉で遊びながら心の中ではそう感じていた。だがそれは口には出さない。出せない。
(もう二度とこんな思いは御免だな) 
 焼けて黒く変色しきったトスカの店の方を振り返って思う。何はともあれ死者の誘いからは逃れた。だがそれは一生忘れられない恐ろしい記憶となるであろうことを実感した。それを胸に収めてエミリアと共に遊びに向かうのであった。朗らかな仮面のまま。


死者の誘い   完


                  2006・9・10
 
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