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死者の誘い

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4部分:第四章


第四章

 外に出た。やはりワルシャワの街は奇麗である。
「それで何処なんだい?」 
 ジュリアスは外に出ると早速エミリアに尋ねた。いつもの顔に戻っている。
「そこよ」
 エミリアはそれに応えて前を指差した。するとそこに何か昔ながらの外観のバーがあった。
「そこか」
「ええ」
 エミリアは答える。そのバーの名前はトスカといった。
「トスカ、か」
 ジョリアスはそのバーの名前を呟いた。プッチーニのオペラのヒロインだ。最後は謀略にかかり銃殺された恋人の後を追う形でサン=タンジェロ城の屋上からティベレ川へと身を投げる。美貌の歌姫という役どころである。初演以来多くの名歌手に演じられてきた役であり第二幕のアリア『歌に生き、愛に生き』は名曲として知られている。
「気に入ってもらえた?」
「中々洒落た名前だね」
 イタリア人のジュリアスにとってはいい名前であった。
「ポーランド人も歌が好きだからね」
「それに踊りもだね」
「そうよ」
 これは本当のことであった。ポーランドでは民族舞踊が有名なのである。小柄な金髪の美人が民族衣装を着て踊る姿は定評がある。
「けれどここのお店では飲むのがメインよ」
「歌はないの?」
「オペラのアリアのバックナンバーは揃ってるわよ」
「それはいいね」
「そちらの歌手もね。かなりあるわよ」
 エミリアは笑って紹介をする。
「五〇年代の名歌手がかなり多いわね」
 イタリアオペラの黄金時代である。マリア=カラスやレナータ=テバルディといったプリマドンナにマリオ=デル=モナコ、フランコ=コレッリ、ジュゼッペ=ディ=ステーファノといったテノール、エーリオット=バスティアニーニ、チェーザレ=シエピ、ジュリエッタ=シミオナート等の名バリトン、バス、メゾソプラノと逸材が揃っていた。彼等がそれぞれローマで、ミラノで、ナポリで歌っていた時代である。
「どうかしら」
「僕は三大テノール派なんだけれどね、オペラの方は」
 ジュリアスはそれに笑って返した。
「じゃあ駄目かしら」
「いや、テバルディとコレッリがあるのなら」
 構わないと言った。
「入らせてもらいたいよ。じゃあ行こうか」
「ええ。それじゃあ」
 その古風な店の前に向かう。扉は樫でできていて趣が深い。それを開けると何かワルシャワの歴史の音が聴こえるように感じられた。
 店の中は少し暗くて扉と同じ樫のテーブルと椅子が並べられていた。カウンターもそうである。
 カウンターの後ろのボトルの列がこの店がバーであることを教えていた。その奥ではチョッキを着た洒落たバーテンがすラスを磨いていた。
「いい店だな」
 イタリア語で呟いた。それからエミリアに顔を向ける。
「中々いいね」
 今度はポーランド語だった。意図してか言葉は同じでも言語は違っていた。
「特にトスカって名前が」
「そうでしょ」
 エミリアは自分が紹介した店が気に入ってもらえて機嫌をよくしている。
「いいのは雰囲気だけじゃないわよ」
「そうみたいだね。この曲だって・・・・・・んっ!?」
 彼はその曲にハッとした。それはトスカからの曲だった。
 歌っているのはジュゼッペ=ディ=ステーファノか。甘い独特の歌い方だ。
 問題はその歌っている曲だ。それは『星は光りぬ』だった。
 トスカ第三幕で歌われる曲だ。銃殺になることが決まったヒロイントスカの恋人マリオ=カヴァラドゥッシ。彼がこの世に別れを告げるのを悲しむ曲なのだ。死を意識した曲なのだ。
 そう、死だ。そしてトスカもまた死ぬ。彼はそのことに気付いた。
(死・・・・・・!?)
 顔を青くして店の中を見回す。するとカウンターに座っている一人の男に気付いた。
(あれは・・・・・・!)
 その顔を見てギョッとする。あの運転手がそこにいたのだ。漂わせているのは地下鉄での気配だった。今それがつながったのである。
 彼はこちらに顔を見ていた。ジュリアスを見て笑っていた。あのゾッとするような薄気味の悪い、誘う笑みで。グラスを片手に彼を見ていた。その手にあるのはワインだ。血の様に赤いワインだった。
「な・・・・・・」
「どうしたの?」
 ジュリアスの様子が急に変わったのを見てエミリアは怪訝な顔をしていた。
「急に顔を青くさせて」
「いや、あのさ」
 その青い顔を何とか取り繕って彼女に応える。
「どうやらまだ早いみたいだよ」
「そうかしら」
「イタリアではね」
 そう作り話をする。
「まだ飲むような時間じゃなかったよ、御免」
「じゃあここには入らないってこと?」
「いや、後でさ」
 彼は言う。
「後で来ようよ。それより今は」
「どうするの?」
「レストランにでも行かないかい?」
「結局食べるのじゃない」
 同じじゃないのかと言う。

 
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