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怖いもの

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5部分:第五章


第五章

 次の日。仕事場に傷だらけの熊がやってきた。昨日花札をやっていた男達がそんな彼を見て言葉をかけてきた。
「よお」
「ああ」
 まずは挨拶からだ。それから話に入る。朝日が眩しいがそれ以上にそれが傷に滲みる。
「どうやらあれから散々だったらしいな」
「まあな」
 熊は苦笑いをしてそれに応えた。見れば顔にも身体にも傷がある。
「どうやらあれはな」
「かみさんだったか」
「そうさ。それでだよ」
 彼は言う。
「昨日本当にえらいことになった。ほれ、見てくれよ」
 その顔の引っ掻き傷を指差して見せてきた。
「こんな有り様だよ」
「おいおい、猫のみたいだな」
「そうだろ。他にもあるぜ」
「ああ、確かに」
「ここにもあるな」
 左手には噛んだ跡がある。痣になっていてそれが実に生々しい。
「他にもな。あるんだよ」
「見せられない場所にもか」
「ああ、髷だってボロボロになったしな」
 彼は言う。目の周りにも丸い痣があり唇も腫れてる。本当に酷い有様の顔であった。
「朝髷だけはなおしてきたがな」
「そりゃまた」
「えらい災難だったな」
「まあな。いや、酷かったぜ」
 熊は半ば呆然とした声でそう述べた。
「昨日は特にな」
「特にかよ」
「ああ」
 熊は答える。
「結構いつもやられてんだな、奥さんに」
「そうさ」
 仲間にそう返す。
「俺も女房にだけはな」
「勝てないか」
「勝てるとかそういうもんじゃねえ」
 そこまで言う。
「ありゃ鬼だ。冗談抜きで本当の鬼だ」
「そうか。鬼か」
「そうだ。だから昨日の夜あんなのが出たんだろうな」
 それは生霊であったのだ。霊になるのは何も死んだ人間だけではない。生きている人間も怨み募りが深まれば怨霊となったりするのだ。それが生霊である。
「いや、冗談抜きでな。流石の俺も」
 そしてここで言った。
「怖かったぜ」
「おっ」
「熊さん、言ったな」
 彼等は熊の今の言葉を聞いてニヤリと笑った。
「ん!?何がだ?」
 だが熊は彼らの顔を見てもキョトンとするだけである。自分が今何を言ったのか今一つわかってはいないようである。
「だからさ、怖いって」
「今言ったじゃないか」
「あっ」
 それを言われて自分でもやっと気付く。
「そうだな、そういえば」
「そうさ」
「そうか、熊さんでも怖いものがあったんだな」
 仲間達はそれを確かめることができて嬉しそうであった。怖いものなしの熊でも怖いものがある、しかもそれが極めて身近な存在だとわかって何かほっとした嬉しさを感じたのである。
「そうだな」
 熊も自分でそれを認めた。
「俺でも怖いものがあるんだな」
「そうだよ」
「まあ本当に怖いみたいだな」
「ああ、怖い」
 それをまた認める。
「女房だけはな」
「そうだよな」
「俺もおっかあは怖いな」
 見れば皆そうであった。女房が怖いという人間は昔も今も極めて多いのである。あの漢の高祖劉邦もまた恐妻家であった。もっとも彼の場合はかなりの酒好きの女好きという人物であるからそれだけ妻に後ろめたいところがあったのだが。ここに恐妻家の秘密がある。自分が好き勝手しているから女房に頭が上がらないのである。
「誰だってそうだよ」
 仲間のうちの一人が言った。
「あれ以上怖いものはねえ」
「そうか」
「そうさ。なあ熊さん」
「何だ?」
 何か面白そうに笑う仲間の一人に顔を向けた。そして声に応えた。
「どうだい、怖いものがあったじゃねえか」
「おっ」
 それを言われてやっと気付いた。
「ああ、そうか」
「そうだよ。怖いものがあったな」
「ああ、そうだな」
「何だ、熊さんにも怖いものがあるじゃねえか」
 他の仲間達もそれを言われてやっと気付いた。
「そうだよ、かみさんが怖いものだったんだ」
「成程、そういうことか」
「本当だな」
 熊は自分でもそれを認めた。そして納得したように頷いた。
「俺にも怖いことがあった」
「全くだ」
「じゃあさ。結局」
「ああ」
 熊は仲間達に応えて言う。
「怖いものがない奴なんていないな」
「そういうことだな」
 あれだけやられた次の日だというのに気分がやけに清々しかった。そんな不思議な朝のことであった。熊はあちこち傷がある顔で大きな口を開けて笑っていた。まるで憑き物が落ちたかのように朗らかに。


怖いもの   完


                  2006・12・1
 
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