| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

大正牡丹灯篭

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

2部分:第二章


第二章

「中西さんがですか」
「それは私の仕事ですよ。お忘れなく」
「はあ」
「そういうことだ。たまには羽根を休めるといい」
 社長はあえて優しい声を彼にかけるのだった。
「わかったな。それで」
「わかりました。それでは」
「うむ。ではこれでな」
「また明日会社で」
 こうして二人は藤次郎を一人にしてその場から消えた。一人になった藤次郎は暫くの間出店の菓子を食ったり酒を買って飲んだりして楽しんだ。だが暫く祭りの中を歩いているうちにふと一人の女と擦れ違ったのであった。
 この時の流行の桃色の振袖に紅い袴、それに西洋風の黒い靴を履いている。髪は黒く奇麗なもので後ろに長く垂らしている。小柄であり白く細い顔には切れ長の美しい目と少し大きめの赤い唇がある。藤次郎は彼女を見てすぐに振り向くのであった。
「今の人は」
 振り向いたその時には女はもう先へ行っていた。負い掛けようと思ったがそれができる藤次郎ではなかった。この時は振り向いただけで終わった。
 その日はずっとその女のことを考えていた。次の日もである。仕事をしながら擦れ違った女のことを考えていた。仕事が終わると社長と中西がまた声をかけてきた。
「今日もいいか」
「祭りですか」
「そうだ」
 社長はにこりと笑って答える。祭りは今日もあるのだ。
「また途中から一人で。どうだ」
「祭りに」
 その女のことが頭にある。答えはもう決まっていた。
「わかりました」
「そうか。ならそれで行こう」
「はい」
 こうして藤次郎はまら途中から一人でいることになった。一人になるとすぐにその場を見回した。見回す理由はもうはっきりとしていた。
「いるか!?」
 あの美女を探していたのだ。いるかどうかすらわかっていないが彼はいささか冷静さを失っていた。これも彼にとっては滅多にないことであった。
 見つかるという保証なぞ全くない。彼はそのことすら頭に入れてはいなかった。だがすぐに。その彼女を目の前に見たのであった。
 昨日と同じ姿でそこにいた。見ればその手に燈篭を持っている。古風な燈篭であるが今の彼女の袴姿と妙に合っていた。それが不思議な程幻想的であった。
 藤次郎は彼女の姿を見ただけで完全に目を奪われた。そのままの姿で呆然としていた。だがやがて。無意識のうちに彼女に声をかけていたのであった。
「あの」
「はい」
 美女の方でも彼に応えてきた。
「何でしょうか」
「貴女のお名前を御聞きしたいのですが」
 彼は自分では気付いていなかったがそれまでの彼にはない程の大胆な動きを見せていた。それで彼女に声をかけていたのである。
「宜しいでしょうか」
「私の名前ですか」
「宜しければです」
 こう断るのは彼の謙虚さ故であった。
「貴女が宜しければ」
「わかりました」
 美女はそれに応えて穏やかに笑った。その笑みは気品と色気を併せ持つ、実に不思議でありかつ美しい笑みであった。
「それでは」
「何と仰るのですか?」
「田村麗華と申します」
 美女はその笑みのまま名乗った。
「麗華さんですか」
「はい。それが私の名前です」
 彼女は言う。
「父が。漢籍に強くてそうした名前を好んで」
「そうなのですか」
 この時代にはない名前である。だから藤次郎はその名を聞いて少し不思議に思ったのだがこれで合点がいった。次は彼の番であった。
「それでですね」
「ええ」
 またその美女麗華に対して言う。
「私の名前ですが」
「木村様ですね」
「えっ!?」
 向こうから自分の名前を言われて思わず声をあげる。
「今何と」
「木村藤次郎様ですね。御存知です」
「そうだったのですか」
 藤次郎は麗華が自分のことを知っていたのを知って目をしばたかせた。これは思いも寄らないことであった。
「以前よりお慕いしておりました」
 そのうえ彼女からこう言ってきたのであった。
「昨日も気付いていましたが。女の私から声をかけるのははばかられますので」
「左様でしたか。それにしても」
 前から自分を見ているということにまだ驚きを隠せないでいたのだ。その顔のままで彼女に対して述べる。
「私のことを御存知だったとは」
「はい。それでですが」
 またしても彼女の方から言葉を述べてきた。
「今お時間はおありでしょうか」
「ええ」
 藤次郎は彼女の言葉に頷いた。
「一人になりましたので」
「そうですか。それではですね」
 麗華はそれを聞いてほっとした顔になった。そのうえでまた彼に言うのである。
「私の屋敷に。おいで下さいませんか」
「貴女のお屋敷にですか」
「そうです。無理にとは申し上げませんが」
 だがこの言葉は。藤次郎にとってはあがらえないものであった。彼女はそれがわかっているのかいないのか妖しさと気品が同時にある笑みを彼に向けていた。その笑みを見るだけでもう彼はその申し出を拒むことができなくなってしまったのだった。
 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧