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黒魔術師松本沙耶香 毒婦篇

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19部分:第十九章


第十九章

「それでもね。相手は手強いわ」
「油断はできぬか」
「油断できるような相手なんて。面白くとも何ともないわ」
 沙耶香にとっては戦いもまた楽しみなのだ。だから手強い相手ならばそうである程よい。それを声にも存分に含ませているのである。
「私にとってはね」
「やれやれ、何でも楽しむのじゃな」
 老婆はそんな沙耶香に対して諦めにも似た言葉をかける。首を横に振りながら。
「厄介な女じゃ、全く以って」
「今夜も時間があればね」
「何じゃ、また女か」
「ええ。いい相手が見つかればだけれど」
 含み笑いと共に言葉を返す。
「そうでなければ。残念だけれど」
「それもよしというのじゃな」
「見つからなければそれはそれで楽しむことがあるのよ」
 一つのことにこだわる沙耶香ではない。ここではあくまで飄々としていた。しかしその中においても沙耶香はやはり沙耶香であった。
「何でもね。この街にはそうした楽しみも多いし」
「東京よりもか」
「比べられるものではないけれどね」
 そう前置きしてまた言葉を返す。
「どちらがいいとは。東京には東京のよさがあるわ」
「ニューヨークでも随分と楽しんだそうじゃな」
「まあね。あの街も好きよ」
 沙耶香にとっては退廃や陰は愛するべきものである。それも繁栄や光の裏側にある退廃や陰がだ。互いが共にあるからこそお互いが映える。沙耶香はそのとりわけ映える退廃や陰を愛しているのだ。そうしてその中に身を浸すことを好んでいるのである。
「退廃が根強い街はね。楽しめるわ」
「左様か。ではこの街には来るべくして来たのじゃな」
「ただ。蟹には満足したわ」
 食事のことだ。既に上海蟹は堪能している。それについて述べたのである。
「だから今度はね。別のものを食べたいわ」
「迂闊に出ては危ないぞ」
 一応はそう忠告する。ただし聞き入れるとは最初から思ってはいない。
「もうユニコーンの角は残っておらん筈じゃな」
「さっきも言ったわね。その用意はしてあるわ」
「わかった。では好きにするがいい」
 そこまで言われては老婆も言葉がない。だからここは沙耶香を行かせるのであった。
「主の望むままにな」
「悪いわね。それじゃあ」
 沙耶香はここまで老婆に話すと店を後にした。踵を返してそのまま外に出る。
 そうして外に出ると上海の雑多な一面が露わになった店が並ぶ通りに出る。その雑多な雰囲気を味わいながら街を歩く。一人で闇の中へと消えるのであった。
 闇の中へ消えた沙耶香が足を踏み入れたのは夜享楽街であった。そこのイギリス風のバーで一人カクテルを楽しむのであった。
「そういえばね」
「はい?」
 カウンターにいるマスターに声をかける。彼は中国人である。だが服装はあえてイギリス風にしてる。こうした中国のものと異国のものが混ざり合っているのもまた上海であった。沙耶香はその上海の空気もここで楽しんでいるのであった。
「ここはイギリスの租界地だったわね」
「ええ、その通りです」
 マスターはカクテルを作りながら沙耶香に応えた。
「イギリス人が残していったものの一つです、ここは」
「遺産と言うべきかしら」
「さて、それはどうでしょうね」
 いささかシニカルな笑いと思わせぶりな口調であった。
「イギリス人がそんなものを親切に置いていくかといえば」
「まあそれはないわね」
 それは沙耶香も否定するのだった。
「毒を置いておくことはあっても。それもこっそりと」
「彼等はここから逃げ去りましたから」
 マスターの言葉を借りればそうであった。
「私達はそこに入ったわけです。彼等は随分と我々に色々としてくれましたしね」
「阿片ね」
「それだけではありません。彼等はそんなに人がよくはない」
 どうやらこのマスターはイギリス嫌いであるようだ。沙耶香は彼と話をしていてそれがわかった。その話を聞きながら今は中国のワインで作られたカクテルを楽しんでいるのだ。ワインにレモンジュースやシロップを入れたクラーレット=パンチである。甘いカクテルだ。
「奪うものは奪い好きなだけ謀略を仕掛け」
「そうしてふんぞり返る。それね」
「そうした連中です。まあ人間は誰もがそうでしょうが」
 イギリスへの悪口が何時しか人間観になる。
「実際のところは」
「そうしないと生きていられない場合があるのも確かね」
 沙耶香もそれを否定しない。そのクラーレット=パンチを右手に持って口の中に注ぎ込みながら応えるだけであった。その甘みを楽しみながらまたマスターの話を聞く。
「そういうことです。それを言ってしまえばイギリス人のしたことも許せないまでも人間がしたことだということになってしまいます」
「そうなるわね。ただ」
 ここで沙耶香は言う。
「私はロンドンに行ったことがあるけれど」
「如何でした?霧の都は」
「お酒や女の子はともかく食べ物はまだ駄目ね」
 そうマスターに話す。
「ホテルのものはともかく街の普通のレストランだと。ニューヨークはそれなりに楽しめるものがあったけれどロンドンは褒められなかったわ」
「イギリス人の舌は相変わらずのようですね」
 マスターの笑みが今度は楽しげなものになった。
「どうにもこうにも」
「ここにもイギリス人が来るわよね」
「はい」
 沙耶香の言葉に答える。
「仕事でよく」
「どうかしら、彼等の味覚は」
「お客様も実に人が悪いようで」
 これだけでマスターの返事は充分であった。
「あえて言うわけもないかと」
「そう、やっぱりね」
「ただ。私達が作ればイギリスの料理も美味しくなります」 
 また随分と酷い侮蔑の言葉である。実際にイギリスの料理は他の国の人間が作れば食べられるものになると言われている。あれだけの繁栄でも彼等は料理というものの造詣にはあまり関心がなかったようなのだ。王室でもグルメというのはあまり聞かない国である。
「見事なまでに」
「ステーキもかしら」
「イギリス人の焼いたステーキなぞ」
 マスターはまた苦笑いを浮かべて述べてきた。
「とても食べられたものではありません」
「そうね。あのステーキはね」
 沙耶香はその言葉にも笑みを浮かべてみせるのであった。
「残念だけれど美味しいというのには抵抗があるわ」
「そうです。実はここでイギリス人のステーキを御馳走になったのですよ」
「それはまた奇遇ね」
「悪い意味で。その結果が」
「最悪だったのね」
「肉は黒焦げでソースは滅茶苦茶な作りでした」
 マスターはイギリス人が焼いたそのステーキをこう酷評するのであった。
「もう何もかもが」
「そうなのよね。ロンドンでは結局外で満足したのは一つしかなかったわ」
「満足したものがあったのですか!?」
「いえ、一つじゃなかったわ」
 だがすぐにそれはいい意味で否定してみせてきた。
「二つね」
「二つもあったのですか」
「さっき言ったお酒と女の子よ」
 妖美に笑って述べてみせてきた。
「その二つね」
「お客さんはそっちの人なんですね」
 マスターは沙耶香の嗜好について言及してきた。つまり彼女がレズビアンであると言いたいのである。
「そうではないでしょうか」
「残念だけれど違うわ」
 しかしそれはすぐに否定する。またしても否定であった。
 
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